御曹司

義経を御曹司というのはともかくとして、
頼朝を御曹司というのには何か違和感を感じないか。

つまり、頼朝が御曹司と呼ばれた可能性があるのは平治の乱までであり、
しかも頼朝が誰かに御曹司と呼ばれた記録はほとんど残ってないのではないか。

一方で平家物語では
義経は「九郎御曹司」と呼ばれ、
範頼は「蒲の御曹司」と呼ばれていた。

保元物語や平治物語では
為朝のことを「八郎御曹司」または「筑紫の御曹司」と言い、
義平のことを「鎌倉の御曹司」と言っている。
ところが頼朝は「兵衛佐殿」と呼ばれている。

なので、「御曹司」は「源氏の若武者」という程度の意味に使われているのであり、
しかも大勢いる。
大勢いるからこそ頭に地名やら生まれた順番やらが着く。
だから、後世の使い方はともかくとして、当時の源氏の世界では、
「何々の御曹司」と言うようにして、「源氏の御子息の中で何々」は、
という意味に使っているのである。
頼朝も御曹司と呼ばれた可能性は極めて高いのだが、後に源氏の頭領となっているので、
軍記物語中ではわざと「御曹司」とは呼ばず「兵衛佐殿」などと書いているのではなかろうか。

なるほど。
源平盛衰記では、頼朝に人質に出した義仲の11才の子のことを御曹司と呼んでいる。

なるほど。
頼朝は義朝の正室との間では長男で、
11才から官職を授かって、
平治の乱の時に13才で右兵衛権佐になったのだな。
だから兵衛佐殿と呼ばれたわけだ。
最初から官職で呼ばれていたと考えてもおかしくはない。
なので、頼朝が御曹司と呼ばれたとすると11才くらいまでということになりはしないか。
官職を持っていれば御曹司とは呼ばれないのではなかろうか。
義平、為朝、義経、範頼らは確かに頼朝と違って当時官職がない。
ないから御曹司なのではないか。
さらに言えば、
もともと無官であった義経らが勝手に後白河法皇から官職をもらうと頼朝の立場が危うくなるわけで、
それであんなに頼朝は怒ったのかもしれん罠。
範頼が源氏を名乗ったのにも怒ったしな。
11才から官職をもらって宮中に出入りしていればそりゃまあ他の源氏に比べれば貴公子然とはするだろうな。
むしろ平氏に近い。
源氏の中では一番メンタリティが平氏に近い人だったのかもしれん。

だとすれば、「貴公子」という意味で「御曹司」と言うのもまた誤用だということになる。
「嫡男」という意味では決してない。
どちらかと言えば、その他大勢の無官の若者というような語感ではなかろうか。
平氏の公達が「御曹司」と呼ばれていないのも同じ理由ではないか。
平氏ならだれでも官職くらいはもらっていただろうから。

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