木曽義仲には巴御前、葵御前という二人の女武者が同行したというが、
史実かどうか、かなり疑わしい罠。
木曽義仲は倶利伽羅峠で大勝した他は勝ったり負けたりの五分。
甲斐源氏、摂津源氏、美濃源氏、などの混成部隊で、これといった指揮系統もなく、
統制もなく、ただむやみに戦って暴れ回った、ということで良いのか。
逆に言えば、鎌倉勢には指揮系統があったということ。
頼朝に司令官としての才能があったということ。
そして、それはおそらくは、義朝、義家、頼信から受け継いだものだろうと思われる。
数十万の軍勢を、日本全土にわたって、
鎌倉に居ながらにして指揮できた。
よくよく考えると、西暦1180年当時にそれをできたというのはすごいこと。
家康ですら、関ヶ原の戦い・大阪の陣はみずから現地で指揮をした。
頼朝は、鎌倉を出てすらいない。
恐るべき事ではないか。
そして、
頼朝のプロトタイプである義家はすごい。
かつ、清盛の遺産を完全に引き継いだという意味でも頼朝はすごい。
そう考えていけば、義経の戦功というのは、大したことはない。
ハンニバルやナポレオンと比べられるほどの戦術家でもなかっただろうと思われる。
頼朝は意識したかしないかわからんが、「軍団」という機能集団の必要性を、
おそらく初めて日本で意識したのではないか。
いや、天皇家は律令制を輸入することで、先駆けて軍団を作ってみせたのかもしれんが、
それを源氏という、家の子郎党という、血縁と地縁で再構成したというところが頼朝はすごい。
いや、おそらくは、八幡太郎義家がその素地を作ったのだろう。
いやしかし、ただ平家物語を読んでいるだけだと、金もかからないし、時間もつぶせるし。
フィード読むのを半分減らすだけでだいぶまともな読書生活が送れる罠。