「侏儒の言葉」に
作家所生の言葉
「振っている」「高等遊民」「露悪家」「月並み」等の言葉の文壇に行われるようになったのは夏目先生から始まっている。こう言う作家所生の言葉は夏目先生以後にもない訣ではない。久米正雄君所生の「微苦笑」「強気弱気」などはその最たるものであろう。なお又「等、等、等」と書いたりするのも宇野浩二君所生のものである。我我は常に意識して帽子を脱いでいるものではない。のみならず時には意識的には敵とし、怪物とし、犬となすものにもいつか帽子を脱いでいるものである。或作家を罵る文章の中にもその作家の作った言葉の出るのは必ずしも偶然ではないかも知れない。
なる文章があってまるで「高等遊民」という言葉は夏目漱石が造語したかのように書かれているのだが、漱石の作品で「高等遊民」が出てくるのは明治45年に書いた「彼岸過迄」だけであり、「高等遊民」なる語は読売新聞に明治36年にすでに出ているという。また「彼岸過迄」に出てくる高等遊民とは松本という人物だが、これは明らかに漱石自身がモデルではない(ディテイルはともかく全体としては)。「こころ」に出てくる「先生」は明らかに高等遊民として描かれているが、夏目漱石も芥川龍之介も執筆活動に追われて忙しく、資産家で働かなくても良い、というような身分ではなかった。
「余裕って君。――僕は昨日雨が降るから天気の好い日に来てくれって、あなたを断わったでしょう。その訳は今云う必要もないが、何しろそんなわがままな断わり方が世間にあると思いますか。田口だったらそう云う断り方はけっしてできない。田口が好んで人に会うのはなぜだと云って御覧。田口は世の中に求めるところのある人だからです。つまり僕のような高等遊民でないからです。いくら他の感情を害したって、困りゃしないという余裕がないからです」
「実は田口さんからは何にも伺がわずに参ったのですが、今御使いになった高等遊民という言葉は本当の意味で御用いなのですか」
「文字通りの意味で僕は遊民ですよ。なぜ」
松本は大きな火鉢の縁へ両肱を掛けて、その一方の先にある拳骨を顎の支えにしながら敬太郎を見た。敬太郎は初対面の客を客と感じていないらしいこの松本の様子に、なるほど高等遊民の本色があるらしくも思った。彼は煙草道楽と見えて、今日は大きな丸い雁首のついた木製の西洋パイプを口から離さずに、時々思い出したような濃い煙を、まだ火の消えていない証拠として、狼煙のごとくぱっぱっと揚げた。その煙が彼の顔の傍でいつの間にか消えて行く具合が、どこにも締りを設ける必要を認めていないらしい彼の眼鼻と相待って、今まで経験した事のない一種静かな心持を敬太郎に与えた。彼は少し薄くなりかかった髪を、頭の真中から左右へ分けているので、平たい頭がなおの事尋常に落ちついて見えた。彼はまた普通世間の人が着ないような茶色の無地の羽織を着て、同じ色の上足袋を白の上に重ねていた。その色がすぐ坊主の法衣を聯想させるところがまた変に特別な男らしく敬太郎の眼に映った。自分で高等遊民だと名乗るものに会ったのはこれが始めてではあるが、松本の風采なり態度なりが、いかにもそう云う階級の代表者らしい感じを、少し不意を打たれた気味の敬太郎に投げ込んだのは事実であった。
「失礼ながら御家族は大勢でいらっしゃいますか」
敬太郎は自から高等遊民と称する人に対して、どういう訳かまずこういう問がかけて見たかった。すると松本は「ええ子供がたくさんいます」と答えて、敬太郎の忘れかかっていたパイプからぱっと煙を出した。
「奥さんは……」
「妻は無論います。なぜですか」
敬太郎は取り返しのつかない愚な問を出して、始末に行かなくなったのを後悔した。相手がそれほど感情を害した様子を見せないにしろ、不思議そうに自分の顔を眺めて、解決を予期している以上は、何とか云わなければすまない場合になった。
「あなたのような方が、普通の人間と同じように、家庭的に暮して行く事ができるかと思ってちょっと伺ったまでです」
「僕が家庭的に……。なぜ。高等遊民だからですか」
「そう云う訳でも無いんですが、何だかそんな心持がしたからちょっと伺がったのです」
「高等遊民は田口などよりも家庭的なものですよ」
「遊民」という言葉ならば「それから」にも出てくる。
「三十になつて遊民として、のらくらしてゐるのは、如何にも不体裁だな」
代助は決してのらくらして居るとは思はない。たゞ職業の為に汚されない内容の多い時間を有する、上等人種と自分を考へてゐる丈である。
高等遊民のサンプルは漱石の身近にもいて漱石は十分に観察したはずだ。もちろん「こころ」の「先生」には漱石自身のパーソナリティもまた投影されているに違いないけれども漱石自身は高等遊民とは全然違ったはずだ。
「坑夫」の主人公も遊民のたぐいだったと考えて間違いあるまい。漱石がなぜそうした遊民らを主人公にしたがるかということだが、仕事というものは人物の属性として非常に比重の大きいものだから、漱石は職業という属性を含めてものを書くということが面倒くさかったのだろう。漱石が敬愛していたのは荻生徂徠のようないわゆる江戸時代の遊民であって、彼らは「白雲」のように浮世離れした存在であったから、漱石がそうした人々を書きたがったのは当然とも言える。漱石自身そうした生き方をしたかったかと言えばおそらくそうなのだろう。「白雲」とは具体的には「高等遊民」なのだろう。くどいが彼自身はそうした資産に恵まれた人ではなかった。
「月並み」もまたこれは漱石が作った言葉ではなく、もともと月ごとに行う歌会や句会、漢詩や連歌の会合のことを月並みと言ったのだ(頓阿「将軍家に月並みの歌会はじめられて」うんぬん)。それをおそらく正岡子規がことさらに使い、漱石も子規の影響を受けて作品に用いたのに過ぎまい。「月並みの絵」「月並みの御屏風」などの表現は枕草子や源氏物語にすでにある。ちょっと調べればわかりそうなことではある。漱石によって世の中に広く知られるようになった、の意味に言っているだけなのかもしれないが。
ちょっと長いが「坑夫」を引用しておく。
実を云うと自分は相当の地位を有ったものの子である。込み入った事情があって、耐え切れずに生家を飛び出したようなものの、あながち親に対する不平や面当ばかりの無分別じゃない。何となく世間が厭になった結果として、わが生家まで面白くなくなったと思ったら、もう親の顔も親類の顔も我慢にも見ていられなくなっていた。これは大変だと気がついて、根気に心を取り直そうとしたが、遅かった。踏み答えて見ようと百方に焦慮れば焦慮るほど厭になる。揚句の果は踏張の栓が一度にどっと抜けて、堪忍の陣立が総崩れとなった。その晩にとうとう生家を飛び出してしまったのである。
事の起りを調べて見ると、中心には一人の少女がいる。そうしてその少女の傍にまた一人の少女がいる。この二人の少女の周囲に親がある。親類がある。世間が万遍なく取り捲いている。ところが第一の少女が自分に対して丸くなったり、四角になったりする。すると何かの因縁で自分も丸くなったり四角になったりしなくっちゃならなくなる。しかし自分はそう丸くなったり四角になったりしては、第二の少女に対して済まない約束をもって生れて来た人間である。自分は年の若い割には自分の立場をよく弁別えていた。が済まないと思えば思うほど丸くなったり四角になったりする。しまいには形態ばかりじゃない組織まで変るようになって来た。それを第二の少女が恨めしそうに見ている。親も親類も見ている。世間も見ている。自分は自分の心が伸びたり縮んだり、曲ったりくねったりするところを、どうかして隠そうと力めたが、何しろ第一の少女の方で少しもやめてくれないで、むやみに伸びて見せたり、縮んで見せたりするもんだから、隠し終せる段じゃない。親にも親類にも目つかってしまった。怪しからんと云う事になった。怪しかるとは自分でも思っていなかったが、だんだん聞き糾して見ると、怪しからん意味がだいぶ違ってる。そこでいろいろ弁解して見たがなかなか聞いてくれない。親の癖に自分の云う事をちっとも信用しないのが第一不都合だと思うと同時に、第一の少女の傍にいたら、この先どうなるか分らない、ことに因ると実際弁解の出来ないような怪しからん事が出来するかも知れないと考え出した。がどうしても離れる事が出来ない。しかも第二の少女に対しては気の毒である、済まん事になったと云う念が日々烈しくなる。――こんな具合で三方四方から、両立しない感情が攻め寄せて来て、五色の糸のこんがらかったように、こっちを引くと、あっちの筋が詰る、あっちをゆるめるとこっちが釣れると云う按排で、乱れた頭はどうあっても解けない。いろいろに工夫を積んで自分に愛想の尽きるほどひねくって見たが、とうてい思うように纏まらないと云う一点張に落ちて来た時に――やっと気がついた。つまり自分が苦しんでるんだから、自分で苦みを留めるよりほかに道はない訳だ。今までは自分で苦しみながら、自分以外の人を動かして、どうにか自分に都合のいいような解決があるだろうと、ひたすらに外のみを当にしていた。つまり往来で人と行き合った時、こっちは突ッ立ったまま、向うが泥濘へ避けてくれる工面ばかりしていたのだ。こっちが動かない今のままのこっちで、それで相手の方だけを思う通りに動かそうと云う出来ない相談を持ち懸けていたのだ。自分が鏡の前に立ちながら、鏡に写る自分の影を気にしたって、どうなるもんじゃない。世間の掟という鏡が容易に動かせないとすると、自分の方で鏡の前を立ち去るのが何よりの上分別である。
そこで自分はこの入り組んだ関係の中から、自分だけをふいと煙にしてしまおうと決心した。しかし本当に煙にするには自殺するよりほかに致し方がない。そこでたびたび自殺をしかけて見た。ところが仕掛けるたんびにどきんとしてやめてしまった。自殺はいくら稽古をしても上手にならないものだと云う事をようやく悟った。自殺が急に出来なければ自滅するのが好かろうとなった。しかし自分は前に云う通り相当の身分のある親を持って朝夕に事を欠かぬ身分であるから生家にいては自滅しようがない。どうしても逃亡が必要である。
逃亡をしてもこの関係を忘れる事は出来まいとも考えた。また忘れる事が出来るだろうとも考えた。要するに、して見なければ分らないと考えた。たとい煩悶が逃亡につき纏って来るにしてもそれは自分の事である。あとに残った人は自分の逃亡のために助かるに違いないと考えた。のみならず逃亡をしたって、いつまでも逃亡ちている訳じゃない。急に自滅がしにくいから、まずその一着として逃亡ちて見るんである。だから逃亡ちて見てもやっぱり過去に追われて苦しいようなら、その時徐に自滅の計を廻らしても遅くはない。それでも駄目ときまればその時こそきっと自殺して見せる。――こう書くと自分はいかにも下らない人間になってしまうが、事実を露骨に云うとこれだけの事に過ぎないんだから仕方がない。またこう書けばこそ下らなくなるが、その当時のぼんやりした意気込を、ぼんやりした意気込のままに叙したなら、これでも小説の主人公になる資格は十分あるんだろうと考える。
それでなくっても実際その当時の、二人の少女の有様やら、日ごとに変る局面の転換やら、自分の心配やら、煩悶やら、親の意見や親類の忠告やら、何やらかやらを、そっくりそのまま書き立てたら、だいぶん面白い続きものができるんだが、そんな筆もなし時もないから、まあやめにして、せっかくの坑夫事件だけを話す事にする。
とにかくこう云う訳で自分はいよいよとなって出奔したんだから、固より生きながら葬られる覚悟でもあり、また自ら葬ってしまう了簡でもあったが、さすがに親の名前や過去の歴史はいくら棄鉢になっても長蔵さんには話したくなかった。長蔵さんばかりじゃない、すべての人間に話したくなかった。
「彼岸過迄」に出てくる須永と千代子の話に似てやしないだろうか。そして「こころ」に出る「先生」ともどこかしら似ている。共通のモデルがいる、と考えても良いのではなかろうか。遊民譚の元ネタは「坑夫」にすでにあった、「坑夫」のときに書き残したネタを、後からいろいろ手直しして作品に仕立てていったのではなかったか。
「彼岸過迄」は確かに漱石が意図して、短編を組み合わせて長編に仕立てた、という組み立てのものであろう。「吾輩は猫である」は明らかにそうではない。一話完結の短編を書くつもりが、次々に続編を書かされたために結果的に長編になったに過ぎず、また漱石も小説を書くことになれてなかったから、全体としての統一はほぼ無い。猫が主人公というのでかろうじて一つにまとまっているという体裁だ。「彼岸過迄」を書くにあたり「吾輩は猫である」は一つのヒントにはなったのだろうけれども、「彼岸過迄」は朝日新聞の専属作家となって、十分に休養を取り構想を練ってから書いたものであって、素人がいきなり書いた「吾輩は猫である」とは全然違う。