人はとかく独りで生きて、自分の考えでしゃべり、自分で考えているように思うがそれは錯覚に過ぎない。人の思考の99%までは人が属している社会によって規定されている。人はいちいち何をしゃべろうかと考えながらしゃべっているのではない。たいてい無意識のうちに今日は良い天気ですねなどと言っている。そう言われたらとりあえずええ良い天気ですねとか何か返さなきゃいけない。今日は本当に良い天気なのだろうかと考え込んでしまうのはいけない。聞いてくるほうも別に天気のことなんて本気で心配しているわけじゃない。話のとっかかりにしているに過ぎない。そんなふうにしゃべる言葉も何かの台詞のオウム返しであって人は社会というクラウドシステムの中の一部を構成しているにすぎない。
もし人がそれぞれ独立しているのであれば、人は教育を受けることも、言葉を習うことも、文字の読み書き、数の計算を学ぶ必要もない。そんな天然自然のありのままの人間など人間として生きていくことはできない。人は何にしろ自分がこれまでに獲得してきた知識や経験があるから人間であり得るのだ。人に対してこうしたら人はこう返してきたという蓄積で人はできている。
私たちはだから遠い、何万年も昔の、文字もなく書籍もなかった縄文時代の記憶を受け継いでいるのである。それは遙か遠くから続けられてきた助走であって、今も人類は助走を続けている。人間社会というものが単に個人の集合というのでなくクラウドなのであるとすれば、未来社会がクラウドを指向するのも当然と言えるし、その構成員にこれからAIが加わっていくのも当然だと思える。してみるとAIというものは人間社会に取って代わるものというよりはその拡張と言える。言語が、そして文字や書籍が人間社会を拡張したように。
どんなに社会に影響を与えていないように見える人でもクラウドの一構成員である以上彼の行動は何らかの形で記憶されるのである。個人が社会に埋没しているのではない。近世になって個人が社会の歯車になってしまったのでもない。もともと個人とはそうしたもの、社会を構成する部品に過ぎない。もし自分が社会の部品ではない、独立した一個の人格だと思うならそれは一種の錯覚だ。そう思いそう行動するように作られた部品であるということだ。