「選挙は独裁よりも良い」という命題には、多少疑問の余地はあるものの、まあそれはそうなんだろうということにしておいてもよいが、「投票率は高ければ高いほど良い」に至ってはまったく何も立証されていないのに、そう信じ込んでいる人が多いのは非常に疑問だ。なぜ投票率が上がれば今まで選挙に行かなかった人たちが、自分が支持する人や政党に入れてくれるはずだと思えるのだろうか。
選挙に行かない人の心理は選挙に行く人には理解しようがないのであって、選挙に行く人、投票率が上がれば良いなと思っている人の心理も、そうでない人には理解できないのじゃないか。
戦後日本の選挙は一人一票でこれが主権在民、民主主義というものだと説明されてきた。税金を多く払おうが全然払ってなかろうが国民は一人一人投票する権利があるとされてきた。しかしながら今まで政党というものは、企業の政治献金で支えられてきたから、実は一人一人の主権が政治に反映されてきたというよりは、大企業が政治家を選んできただけだ。
では企業献金というものが裏金呼ばわりされて否定されたとして、しかしながら選挙に金がかかるのは変わりないのだから、結局金を持っているやつが候補者を立ててメディアを操作して自分が好きな候補を勝たせているだけではないか。最近では動画コンテンツで多少受けが良く、クラファンで金を集められるやつが選挙に当選しているだけではないか。
単なる主権在金、金主主義と呼ぶべきではないか。
なるほど確かに政治的にまともな発言をしている人もいないではないように見えるけれどもそれらの人に票が集まっているようには思えない。
政治献金というものがあったおかげで日本では日本という国をしょってたつ大企業が事実上の主権者となって国を運営し指導してきた。それはそれで、悪いところもあっただろうが良いところもあったに違いない。愚民が直接ああだこうだ政治に口出しするよりはずっとましだったに違いない。日本は誰がなんといおうと工業立国だ。電子立国だ。企業が国家経営を舵取りしたからこそ日本はここまで繁栄した。紛れもない事実だ。そのことによって日本国民がこれまでどれほど恩恵を受けてきたことか。これを善政と言わずしてなんといおうか。
しかし企業献金を殺し、パーティー券を殺し、企業主権、企業独裁の時代はとうとう終わりに近づいたようだ。これからどうするのか。一般市民に政治なんてできるのか。
「選挙の正統性」というものに疑義を挟むつもりは今のところ私にはない。少なくとも日本国民は普通選挙という制度を承認しているし、選挙で決まったことだから仕方ないと諦めがついている。みんなが諦めのつかないやり方で為政者を決めるよりは諦めが付くやり方で決めたほうが良いに決まっている。別の言い方をすれば、選挙よりもすんなりと万人が諦めが付く方法がほかにあるのであればそっちのやり方で政治家を選んだ方が良いに決まっている。諦めが付かない人が多ければ暴力沙汰になり暴動になり内線になり戦争になる。それは嫌だからみんなしぶしぶ諦めが一番つきやすいやり方を模索した結果、西洋から輸入した選挙という制度を今は使っているのだ。もし人々が選挙という制度を疑いだして諦めが悪くなってしまえばおおごとである。選挙結果に誰も納得しなければいわゆる民主主義なんてものが機能するわけがない。だからみんなが「選挙に行きましょう」とか「投票率を上げましょう」と言っている間はなんとか平和なわけだから、そうみんなが思い込んでいるほうが安全なわけだ。選挙制度なんて結局おおぜいのひとが現状正しいと信じている虚構に過ぎない。便利な虚構であれば信じておいたほうが無難なだけだ。科学では「信じる」ことはタブーで「疑う」ことが正しい。しかし政治ではみんなが信じていることが正しいことであって、論理的に科学的に間違っていようが虚構であろうがかまわない、ということになる。それは、みんなが信じているという状態が維持されている間だけ正しい。アメリカに押しつけられた「日本国憲法」というものも便利な虚構なわけだ。