後鳥羽院

あいかわらず丸谷才一「後鳥羽院」

> 駒なめてうちいでの浜をみわたせば朝日にさわぐしがの浦波

1200年、後鳥羽上皇が20才のときに詠んだ歌。
承久の乱は1221年、それから21年も後のことだ。
丸谷才一は、この歌を、彼らしく「物騒な趣」だとか「いっそ思い切って右翼的と呼ぶほうが正しいような」
などと表現している。
確かにそう見れば見れなくもないが、そういう読み方をするのは、
戦後民主主義の世界観にどっぷりと浸かった、
「いっそ思い切って左翼的と呼ぶほうが正しいような」丸谷才一くらいだろうと思う。
非常に役に立つ嗅覚であるのは間違いないのだが。

源平の兵乱のただ中に即位した後鳥羽天皇は、
それまでしばらく現れなかった、文武両道ということを多少とも意識した天皇であったことは間違いなく、
若い頃には武士のまねごとのようなこともしてみたのだろう。
たぶん、当時の気分としてはただそれだけのことだと思う。
そう、今で言えば暴走族が早朝相模湾沿いの国道一号線を走っているかのような。

承久の乱の直前に詠まれた歌だとしたらまたいろいろな解釈もできるだろうが。
後白河法皇死去が1192年(後鳥羽天皇12才)、自ら退位して上皇になったのが1198年(18才)、
頼朝の死去は1199年(19才)、朝廷も幕府もいろいろごたごたしてただろうが、
若くはつらつとした時期だったのに違いない。

1189年、頼朝が上洛したとき、後鳥羽天皇は在位中であり、頼朝は天皇に拝謁している。
後鳥羽天皇はまだわずかに9才の時だが、もはや分別は付いている頃で、その印象は強烈だったに違いない。

宮廷文学が喪失したあと、「玉葉」「風雅」などの、実質的には存在しない、
バーチャルな宮廷というものに逃避したような連中も確かにいただろう。
正徹はそうだったのだろう。
しかしそのようなバーチャル宮廷文化を「受け継ぐ天才」など居るはずもない。
そこで江戸時代に目を転じたときに、丸谷才一の目に映ったのは「芭蕉」や「蜀山人」といった、
町人文化の「天才」たちだけであり、
秋成、良寛、景樹、蘆庵といった歌人たちの業績はまるで見えてないのだろう。
江戸時代における宮廷文化とは「一粒の麦」であって
「もし死なずば一粒にてあらむ。死なば多くの実を結ぶべし」
というように、万葉時代には広く大衆のものであった歌の文化は、
後鳥羽院時代を頂点として一時期宮廷の中に凝縮され、
宮廷サロンが喪失したのちには、再び武士のサロンや町人のサロンなどの広い多様な形態に拡散して行ったのであり、
もはやバーチャル宮廷など必要としなくなった、と考えるのが一番素直ではないか。

[蜀山人](http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kyouka100i.html)
が天才かどうか知らないが、あのような下品なげてものを優れていると感じる感覚には、
正直ついていけない。

別に江戸時代について勉強したいわけではなかったのにどうしてもそうなってしまうのは、
江戸時代の文芸や学問というものが、いろんな意味でさけて通れないからなのだろう。
「大正天皇御集 おほみやびうた」の解説で岡野弘彦氏が言うには、
武士はいついかなるときに腹を切ることになるかもしれないので、
はずかしくない辞世の歌を詠むためだけに、ただそれだけのために、普段から一生懸命和歌を学んでいたのだと。
思うに、歌人の風習に、辞世の歌を詠むということはそもそもなかったはずだ。
宣長は遺言状の中に歌を詠んだがこれも別に辞世の歌というつもりはなかったと思う。
その由来は、wikipedia にあるように「禅僧が死に際して偈を絶筆として残す風俗」だったはずで、
さらに状況証拠で言えば、辞世の歌を多く詠んだのは、江戸中期以降の狂歌師たちだ。
歌舞伎となった忠臣蔵の大石内蔵助や浅野内匠頭長矩が切腹するときに辞世の歌を詠んだことになっている。
たぶん創作だろうけど。
それで武士や狂歌師らに広まっていったのだが、
実際に武士が切腹する場面などそうそうないので、狂歌師の狂歌が目立つということなのだろう。

だから、武士の心得として和歌を学んだというは、あっているかもしれないが全然違うかもしれない。
たとえば田安宗武がそういうつもりで和歌を学んだとはとても思えない。
切腹自体が江戸時代に様式化されたものであり、太平記の時代には切腹は単なる自決方法の一つにしか過ぎなかった。
切腹、忠臣蔵、辞世の歌、桜、大和魂などというのは、
歌舞伎を媒介として江戸中期以降に作られたイメージではないか。

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