上田秋成の「つづらぶみ」を読んでいるが、
秋成の歌は相当うまい。
おそらく公平に見て、近世の歌人で一番うまいのが秋成、その次が良寛、景樹、
または蘆庵というところだろう。
この四名は一流と言って良いと思う。
「つづらぶみ」の冒頭だけ見ても、
> 都べはちまたのやなぎ園の梅かへり見多き春になりけり
都あたりは、町中の柳や庭園の梅など、見かえりすることが多い春になったという、
なにか浮世絵の美人画でも見るような、いかにも江戸時代らしい歌。
> 我が宿の梅の花咲けり宮人のかざしもとむと使ひ来むかも
これはまあたぶん「勅なればいともかしこし」辺りをイメージしているか。
> 折らばやと立ち寄る梅に鴬のゆるさぬ声をおどろかすかな
ひょうきんな感じがなかなか良い。
この辺りは景樹に通じるところがある。
> 大和魂と言ふことをしきりに言ふよ。どこの国でも、その国の魂が、国の臭気なり。
おのれが像の上に書きしとぞ「敷島のやまと心の道とへば朝日にてらすやまざくら花」とはいかにいかに。
おのが像の上には尊大の親玉なり。そこで「しき島のやまと心のなんのかのうろんな事を又さくら花」と答へた。
とは小林秀雄も指摘しているところだが、秋成は宣長とはかなり相性が悪かったようだ。
「敷島のやまと心の道とへば」とはかなり悪意ある誤読ではあるが、
漢籍にも親しみ、読本も書き、歌もうまかった秋成にしてみれば、
宣長のこのような歌がもてはやされるのが我慢できなかったのだろう。
宣長という人は、狂歌めいたふざけた歌は一切詠まない人だった。
心底まじめな人だったのだろう。
かたや秋成は、まともな歌も詠めば狂歌も詠むし、怨霊や妖怪物語も書く。
自由自在な、文芸人、というイメージ。
さぞ、相性は悪かろう。
その点、
景樹や蘆庵らとは心理的な障壁はない。仲も良かったようだ。
いずれも京都の文人、町人という雰囲気がある。
狂歌などは京都や江戸などの町中の文人サロンではやるものだから、
そこから一歩はずれていた宣長には影響が及ばなかったのかもしれない。
意固地な田舎者、というイメージも浮かんでくる。
秋成の代表作「雨月物語」はまだ読んだことないが、
これも死後に彼の作であることが知れたらしいし、
歌はなかなか認められず、無名のまま戯作など書いて暮らし、
不遇な生涯だったのだろうなと思う。