こうして考えて行くと、清盛が強行した福原遷都は保元・平治の乱のような市街戦を避けるために、
御所をきちんとした城塞都市にする必要に迫られたからではないかと思う。
かといっていまさら平安京を要塞化するのは非現実的。
だから遷都する。
保元・平治の乱が直接の理由なのではないか。
いちいちあんな戦はしていられない。
だいたい外戚の藤原氏の私邸を御所として利用してあちこちに御所だの内裏だのが点在しているなんて、
行政都市として破綻してるだろ。
清盛はきっと合理主義者だったから、
行政と軍事と貿易に特化したコンパクトで機能的な首都を建設したかったに違いない。
フルスクラッチで(笑)。
頼朝が守りに堅固な鎌倉を拠点としようとしたように。
福原は一ノ谷の合戦で平氏が布陣したところだから、もともと要害の地だったに違いない。
都とするのにもっと開けたところはあったろう。
もし執権北条氏の時代の鎌倉のように福原が要塞化されていれば、
源氏の攻撃にも耐えたに違いない。
やはり福原遷都を諦めたのが平氏敗因の最大のものだと思う。
他にも寺社の強訴や、僧侶の政治的影響力の排除という意味もあっただろう。
また福原の方が日宋貿易に便利という意味もあっただろう。
福原京は半年で放棄されてしまい、清盛もあっけなく死んでしまったので、
清盛がどのような機能を福原に持たせようとしたのかはわからんが、
だいたいそんなところではないか。
当時の公家日記など読めばある程度わかるのかどうか。
もし福原遷都が完了していて、清盛がもう少し長生きしていて、
いきなり討伐軍を派遣するのでなしに、
まずは木曽源氏や甲斐源氏あたりを懐柔し、関東を孤立させていれば、
平氏にも十分勝ち目はあった。
平維盛のような軍事的に無能な人間を総大将として延々東海道を進軍させればそりゃ負ける罠。
そうでなしに、まずは木曽・甲斐、或いは奥州藤原氏あたりに宣旨を出して、
関東の平氏恩顧の武士らとともに、謀反人の頼朝を討伐させれば良かった。
そうすれば東国の直接支配は無理でも源氏や奥州藤原氏などが互いにこぜりあい、
西国に手を出すひまもなく、
一方で平氏は近江や尾張、伊勢辺りに防衛戦を築いて、日宋貿易と西国と皇室を完全支配する。
中世的解決策としてはそれでよかったはずだ。
のちに、とうとう木曾義仲が攻めてきたというので宗盛主導で都落ちし一ノ谷に立て籠もることになった。
が、平氏は桓武天皇から出ていて平安京を作ったのは桓武天皇で、
以来平氏は一度も都を捨てたことがないのだから京都でがんばるべきだ、という意見もあったそうな。
どっちもどっちだな。
一ノ谷は城塞として完成してなかったはずで、一ノ谷に移ったからと言って守れる保証は何もないのだから。
しかし京都にも城のようなものはない。
チェックメイトとしか言いようがない。
清盛全盛の時代に一ノ谷が完成していればな。
義経による鵯越の奇襲が成功した(史実であるとすればだが)のは、
福原が軍事都市として、或いは城として未完成だったからというだけのことではなかろうか。