ハリーポッター

知り合いの子供がハリーポッターを読んでいたので読ませてもらうと確かにおもしろい。
明らかにかいけつゾロリよりはおもしろい。

どこがおもしろいかと聞いてみると「全部」だという。登場人物では誰が一番好きかなどという具体的な質問をしてみても「全員」だなどという。これでは書評にならない。まあ子供というのはそういう全体把握から入るのだろう。分析的なアプローチというのは大人がやることであり、逆に、子供の頃から分析しかできなければろくな大人になれぬということだな。

で書評だけど、よく考えるとこれは難しい仕事だ。主人公のハリーポッターが布団の中で隠れて読書をしたり勉強したりする。学校も宿題もない夏休みが嫌いだ、とか。課題や宿題が大好きだとか。このへんが笑える。おそらく作者の子供の頃の実体験、実感なのだろう。こういうのは早熟な文学少女にはありがちである。そこがおもしろい。童話形式のファンタジーに埋め込まれた、作者の屈折した心理の告白的なもの。男の子というのはこういうふうにはあまりならないと思うが、それを男子のハリーに投影しているのがまたおもしろい。

しかしいまだにエウメネスだけが売れているのだが、あのヒストリエという漫画の主人公がなんでエウメネスなのかということを、誰もが不思議に思って調べようとして私の小説を買うのだろう。だが、エウメネスについてはほとんど何も知られていない。私の小説に出てくるエウメネスも史実は1割くらいであとは私の灰色の脳みそが生み出した産物である。ただ、アレクサンドロス大王東征記を全部読むくらいなら、さらっとおもしろおかしく読めてよいのではないかと思っている。アッリアノスの時代にはすでにアレクサンドロスの話は伝説になりつつあった。だから小説にするのはそんなに苦労はない。というより、あまり自由度がない。いや、逆に自由度が高いともいえる。

これに対して十字軍の時代まで来るとディテイルが多すぎる。英語版のウィキペディア読んでいたらきりがない。そのディテイルを取捨選択して読んでおもしろい物語にする作業はかなりきつい。ものすごい時間がかかる。ふつうは歳月というものがその作業をあらかた終えていてくれるからだ。そしてたいていは誰かがおもしろい逸話をいくつか創作してくれている。そういう人だけが世の中では物語の主人公として認識されている。

一次資料と状況証拠だけあたっていると話はちっともおもしろくなってこない。今まで埋もれていた人を発掘してきて、主人公に仕立てる作業。どこかでいかさまをしなきゃ、主人公にはなってくれぬ。そういうものだ。ハリーポッターがおもしろいのは(私がおもしろいと感じるのは)、単なる創作物語なのではなく、そこに文学少女の性癖が投影されているからだ。不思議の国のアリスがおもしろいのも作者の少女愛好癖が投影されているからだろう。その理屈で言えば作者である私の性癖を何かの形で投影しなくては物語は物語としておもしろくならない、ということになってしまう。まあ、たぶんそれでいいんだろうと思う。

もちろん、単なる創作話としても、自分で豊富な一次資料にあたり、自分で話を捏造したほうが、他人に捏造されるよりは、きっと良いものができるはずだ。

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