孝経

講談社学術文庫は比較的最近出たものが多い。
文庫本化とか復刊ものも多いようだが、見分けがつかない。
著者はおおむね定年後の大学教員で書き下ろしのようにも思えるが、
中には素人の蘊蓄としか思えないような、頭にさっぱりはいってこないものもあるようだが、
良いものも多い。

加地伸行「孝経」を読む。
これは、儒教を仏教と対比させて宗教の一種として解説してくれていて、
たいへんおもしろくわかりやすい。
仏教に限らずインドに発生した宗教は、
いやインド社会というものが、カースト制度からしてそうだが、
そもそも聖と俗をきっぱりと分け隔てするのが好きだ。
聖者になるためには、髪の毛をそり落とすなど尋常な人たちとは違った異形にならねばならない。
働いて食べてはならず、乞食にならねばならない。
家を捨てて、妻や子を持ってはならない。
などなど。
そうやって未来永劫続く輪廻から解脱して救済される。
これがインド的発想。

一方東アジアでは、未来永劫続く生命の生殖の連鎖の中の一部であることを自覚することによって精神的に救われる。
これが「孝」の本質であり、
その考えを敷衍していけば、親孝行や祖先崇拝となり、
さらにそれを政治に応用すれば「忠」となる。
親孝行や祖先崇拝や封建思想というのはようするに枝葉末節であって、
「孝」とは宗教であって魂の救済が第一義だという。

生命の連鎖から抜けだそうとするのがインドであり、
連鎖の中に埋没しようとするのが東アジアであるとする。
人はみなDNAの連鎖の途中にある。
子孫が栄えるならば死んでも死なない。
だから死をおそれる必要はない。
ということを初めて文章化し体系化したのが儒教であり、「孝経」だとする。
だから、「身体髪膚これを父母に受く。敢えて毀傷せざるは孝の始めなり」
とはつまり親からもらった肉体をまず大切にせよとなる。
身体に傷一つないこと、異民族のような身なりをしないことなどが重要視されるのは、これが宗教であり、孝の本質だからだ。
髪を切って丸坊主にしたり、出家したり、妻子を捨てたりということは従って最も忌避すべきこととなる。

また、東アジアでは政治が宗教を支配し、キリスト教やイスラムでは宗教が政治を支配しているので、
「信教の自由」とは同じ言葉でまったく逆の意味を持つと指摘している。
つまり、東アジアでは宗教を政治の影響から解放ことを意味するが、
西洋では特定の宗教の影響が政治に及ばないようにすることを意味する。

朱子は、仏教などの影響の下で観念論と大義名分論を持ち込んで、古い東アジア的「孝」を相対的に矮小化した。

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