しちすつの濁音のこと

司馬遼太郎が「歴史を紀行する」に

> 坂本竜馬は生涯、どの土地のたれに会ったときでもまる出しの土佐弁で押し通したという。
おかしければ本居宣長の「玉勝間」を読め、というところであろう。
そこでは土佐人の発音の正確さについてほめて書かれているのである。

とあるのだが、これは玉勝間に

> 土佐の国の言には、「し」と「ち」と、「す」と「つ」の濁り声、おのづからよく分かれて、まがふことなし。
さればわづかにいろはもじを書くほどの童といへども、この仮字をば、書き誤ることなしと、かの国人かたれり

とある。
別に褒めているというほどではなく、土佐人から伝え聞いたという程度のことだろう。
まして「土佐弁こそ日本語」などと主張しているわけではない。
もし古典文法を比較的正確に残しているものを「日本語」と言うのであれば、
九州弁などには下二段活用が完全に残っている。
高校で古文の教師が下二段活用を教えながら、自分たちの普段話している方言がまさに下二段活用であることにまるで気が付いてない。
まあそれが高校教育の限界というものだろうが。

たとえば、九州弁で「おじいさんが死なした」と言う。「死ぬ」の未然形「死な」に尊敬の助動詞「す」の連用形「し」がついて、
過去の助動詞「た」がついて「死なした」となっているのだが、
こういうことを古文の時間に教えてくれる教師がどれほどいるだろうか。

たとえば、「ら」抜き言葉というのがある。
「行かれる」「来られる」を「行ける」「来れる」という。
しかし九州弁では
「行かる」「来らる」と言う。
古文のラ変活用そのままである。

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