前田愛『成島柳北』には、
> 甲子太郎は、柳北の本名で彼が誕生した天保八年(一八三七)二月十六日の干支が、甲子であったことから命名されたという。
と書かれているのだが、これは紛らわしい記述だ。
1837年は大塩平八郎の乱があった年だが、この年の干支は丁酉。
柳北の生きていた時代で、甲子は1864年、元治元年に当たる。
たとえば伊東甲子太郎は、上洛の年が1864年だったので、それを記念して甲子太郎と名乗ったとされる。
『濹上隠士伝』冒頭
> 濹上の隠士、その名を惟弘といひ、字を保民と呼ぶ。幼名は甲子麻呂、長じて甲子太郎と改む。天保丁酉の年二月甲子に生れし故なり。
「天保丁酉の年」は天保八年という意味。
「二月甲子」の「甲子」は、干支紀日法というもので、60日を周期とした日にちの表記法によるものと思われる。
和暦で1937年2月の甲子は確かに16日で、西暦に換算すると3月22日になる。
ふむ。やっと納得が行った。
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