宋の改革

安史の乱が755年、
王仙芝・黄巣の乱が874年、
907年唐滅亡。
53年間の五胡十六国時代を経て、
960年には趙匡胤による宋王朝の成立。

唐が貴族主義的血縁的であったのに対して、宋は士大夫による中央集権的な、皇帝と官僚組織によって統治される国家だった。

一方で日本は1068年に後三条天皇即位。
おそらく貴族主義の唐が滅んで官僚主義の宋になり、
世界最強の帝国となったのを見て、
日本もまた藤原氏が滅んでいよいよ天皇中心の中央集権的官僚主義の時代になるのに違いない、
と思ったに違いない。
或いは貴族の首長であるところの天皇家が、藤原氏らとともに衰えて、
大乱の後に武士の王朝に交代するかもしれない、と危惧もしたかもしれない。

後三条天皇による上からの改革は白河天皇・鳥羽天皇の時代には
(院政によって一見天皇家の勢力が極大に達したに見えつつ)著しく後退し、
ますます貴族や武士や寺社の力が伸張した。
後白河天皇と崇徳上皇が帝位を争った保元の乱では、もはや大混乱となる。
公家も武家も天皇家も自分が営む荘園に寄生することによって生きながらえている。
国家の体をなしていない。
これはまさに唐の末期から五胡十六国に類似する。すなわち一種の無政府状態・国を豪族が割拠する状態であり、
当然それら貴族や豪族の間で覇権が争われることとなり、趙匡胤という一人の勝者に収束した、というわけだ。

後白河法皇による長すぎる院生時代には、
悪左府こと藤原頼長、信西(藤原通憲)、西光(藤原師光)といったリフォーマーたちが続出した。
しかし彼らは常に武士勢力によって粛清され、
結局日本は長い長い封建時代へ突入する。
中央集権的な政府ができるのには明治時代を待たねばならなかった。

頼長、信西、西光らは宋の政治を真似て、時代に逆らったまったく無駄な努力をした。
実にかわいそうな人たちだ。
もし王朝の交代があったら日本にも中央集権国家が生まれたかもしれない。
しかし天皇家も公家も残りそれとは別に武家というものが生まれた。
その三者が共存することによって生じた内部応力が中央集権的合理的政体の誕生を妨げた。
そして地方分権的な社会が七百年も続いたというわけだ。
保元の乱から承久の乱まで続く武士への権力委譲の時代、
南北朝、
戦国時代となんども戦乱の世が再現したのに、一度も中央集権国家に至らなかったのは、
やはりそのなんというかアモルファスな安定状態に収束してしまうからではなかろうか。

案外ヨーロッパで封建社会が長く続いたのも同じ理由かもしれない。
神聖ローマ皇帝とローマ法王と地方領主の三すくみ状態によって中央集権的な国家が生まれてくるのが阻害されたのかもしれん。
今のヨーロッパを見てもよくわからんが、かつてのヨーロッパは百以上の諸国の集合体だったのである。
なぜこんなにとっちらかっていたのだろうか。
同じことは日本にも言える。

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