同朋町

江戸の地図を見ているとあちこちに「同朋町」というものがある。少し調べてみると、これが「同朋衆」の住む町であったことがわかる。「同朋衆」というのは、だいたい室町時代から出てきたもので、世阿弥や千利休のような僧侶であって、表坊主、奥坊主、などの呼び名もあって、将軍家のため芸能などに携わるものたちを言ったらしい。だが、『柳橋新誌』の頃の柳原同朋町は、芸者母娘の巣窟になっていた、とある。もともとは芸人(おもに男)のすみかであったところが、時代の移り変わりで、芸者(おもに女)のすみかになった、ということなのだろうか。なんか興味深い。

で、ほかにも興味深いのは、柳橋の芸者母娘の娘というのは、通常お金で買われた養子であり、つまり芸者として奉公する契約を結んでいるのはこの同居している母娘どうしだということだ。母というのももとはと言えば、娘と同じような身分の芸者だったわけだ。吉原だと、妓楼の亭主が芸者と契約して奉公させる。一方、柳橋では、芸者母娘というのは、ごく普通の親子と、表向きは何も違わないということであり、実際実の親子である場合も十に一つくらいはあったのだという。

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