宣長に『安波礼弁』というものがあるが、これは宣長が京都から松坂に帰ってすぐに寄稿されたものだという。
だから、「或人、予に問て曰く」と冒頭にあるのは、
松坂に帰ってから誰かに聞かれたというよりは、帰郷直前くらいに、
同輩らと議論していてそのように問答があった、と解釈すべきだろうと思う。
その頃のことを、落ち着いてノートにまとめてみたくなったのだ。
『排蘆小船』の方も同じような成立に違いない。
『安波礼弁』を宣長全集で見ると非常に短くて欄外の書き込みなどがあって、
『排蘆小船』よりも未完成なメモ書き程度に見える。
著述という意識は少なかっただろう。
しかし、宣長のいわゆる「もののあはれ」論の嚆矢にあたるものであり、極めて重要だ。
上の書き出しに続いて、
俊成卿の歌に
恋せずは 人は心も無らまし 物のあはれも 是よりぞしる
と申す此のアハレと云は、如何なる義に侍るやらん、
とある。この歌は『長秋詠藻』という俊成の私家集にだけ採られているもので、
自薦の歌であるから、俊成のお気に入りではあったが、しかし、勅撰集に採るにははばかられる何かの理由があったのかもしれない。
何しろ彼は『千載集』の選者だったのだから、入れようと思えば入れられたはず。
『長秋詠藻』は『千載集』とほぼ並行して編纂された。
上の俊成の歌に、西行の
心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫たつ沢の 秋の夕暮
は非常に似ている。
西行と俊成は同時代の人だから、どちらかがどちらかに影響を与えたのはほぼ間違いないと思う。
それがどちらからどちらだったのか。
西行の歌には「こころ」「あはれ」を歌ったものが多い。
いくらでもごろごろとある。
一方、俊成の方は、私はあまり知らないのだけど、
どうも西行から俊成が影響を受けたのではないかという気がしてならない。
他にもよく似た歌がある。
俊成の
いくとせの 春に 心を尽くし来ぬ あはれと思へ み吉野の花
に対して西行の
あはれ我が 多くの春の 花を見て 染めおく心 誰に伝へむ
など。どちらも『新古今』に採られた歌だ。
西行の歌は自分で勝手に詠んだ歌だろろう。
しかし、俊成の方は本歌取りとみてもおかしくない歌ではないか。
俊成が西行をどう思っていたかはよくわからない。
嫌っていたという人もいるようだが、『千載集』にあれだけ西行の歌を採っているのだから、
少なくともその才能は認めていたのだろう。
話は戻って宣長はなぜ『安波礼弁』で俊成の歌に注目したのか。
この歌は非常にマイナーな歌のはずだ。
勅撰集にも採られてないし。
あまり言及されることのない歌だ。
なるほど良くできた歌で、平安王朝風で、いかにも宣長好みの歌ではあるのだが。
宣長は似たような西行の歌も目にしたはずだが、あまりふれてない。
伊勢物語や源氏物語などへ関心が移っている。
思うに、最終的に宣長の関心が源氏物語へ移っていったのは、源氏物語が長編で難読なためだろう、
彼が学者だったからだろうと思う。
古事記にしてもそうだ。
彼は学者として、取り組みがいのあるものに惹かれるが、
それが特に好きなわけではない。
より簡単な命題にはあまり時間をとらないだけだと思う。
宣長が「こひせずば」に出会ったのは『題林愚抄』などの類題集で和歌を学んだからだろうと思う。
現代の普通の人ならば古今集や万葉集、あとは千載集や新古今あたり、
もっと言えば小倉百人一首程度を適当につまみ食いするが、
江戸時代で和歌を勉強するというのは歌道、題詠を学ぶということだった。
したがってあんちょことしての類題集は極めて役に立ったはずだ。
題林愚抄の成立は室町中期というから、勅撰集が途絶えるよりも早い。
だいたいなんでも完全に題で分類するようになったのは、たぶん類題集が一般化してからである。
だって、類題集がなければ題詠もできるはずがない。
鶏と卵の関係。
題詠というものが一般化するよりちょっと前にできた類題集という意味で、注目に値する。
室町時代に入り勅撰集が大量生産というか粗製乱造されるようになる。
武士たちも手っ取り早く教科書が欲しい。
もしかすると武士に頼まれて公家のゴーストライターがまとめたものかもしれん。
『題林愚抄』という名前にそんなものを感じる。
で、宣長は、ばりばりの江戸時代の歌人で、二条派の伝統の上にいたから、勉強に類題集を読む。
そうすると、おそらく、「あはれ」とか「こころ」とかに分類されていたところに俊成の歌を発見したのだろう。
そうでもなければ宣長が、少なくとも初学者の宣長が、あんなマイナーな歌に出会うはずがないと思う。
類題集は、そうやって和歌を横断的に、分析的に学ぶのに適したもので、
宣長のような学究派の人間は重宝したに違いない。
宣長は、新しい歌ができるだけまざってない『題林愚抄』などで勉強しろと弟子に言っている。
そりゃそうだ。古今集や新古今なんかいくら読んでも題詠のやり方なんかはわからない。
良い歌だなあ、それで終わりで、自分で歌など詠めるようにはならない、普通の人間ならば。
宣長という人はどうしても源氏物語や古事記の研究で注目されがちであり、歌の方は大したことなかったからだと思うが、
歌論がはなはだしく軽視される傾向にある。
しかし宣長の学問の根本は若き日から老年まで和歌であり、しかも単なる歌詠みではなくて、
題詠に基づく室町時代に成立した歌道を嗜むという意味での歌人だった。
それを認識した上でないと宣長の書いていることが理解できないことが多い。
現代人は歌を自分で詠まないから、どうしてもそこのところが理解できずに読み飛ばしてしまう。
宣長の著述は膨大だから、自分の関心のあるところだけ読む。
すると自分の関心のままに宣長を解釈することが可能になるから、
宣長という人が人それぞれに全然別の人格のように言われてしまうのだ。
ちなみに私の場合は、今から思えば明治天皇御製集が類題集の代わりを果たしたのだろう。
わかりやすいし、文法にはまったく間違いがないし(当たり前だが)、
しかも時代が近い。
感性が近い。
詠まれる題材も年代が比較的新しい。
あれを暗記するくらいに読んでいれば、一年か二年くらいで自然と自分で歌が詠めるようになる。
古今集なんか読んでいてもたぶん無駄だっただろう。
まして百人一首を暗記しても何の役にもたたない。
似たような、普通の歌がたくさんならんでいるものを何度も学ばねば。
それは語学と同じだ。
蘆庵も古今集を学べとか、古今集は凡人が直接読むには難しいから近世の手引書を読めとかアドバイスしている。
今の人が和歌を読めないのは、そうした江戸時代の資産を読まず、方法論を学ばないからだろう。
明治以降の短歌ばかり見ていては結局何がなんだかわからぬはずだ。
書道や華道や茶道と同じで、ある一定の指導を受ければ現代人でもポコポコ詠めるはずだが、
しかし現代カルチャーセンターの短歌はもはやどうしようもないほどに伝統から遠ざかってしまった。
あるいは、伝統のよからぬところだけが残留した、というべきか。
類題集の中で、宣長は西行や為兼の歌も見たであろう。
しかし、彼らの歌は他の歌から浮きだして異様に思えたはずだ。
少なくとも題詠の参考にまるでならない。
規格外の歌だ。
だから宣長は嫌ったのではないか。
類題集で歌を学んだからなのではないか。