有者

万葉集を検索してみると「有者」はときに「あれば」、ときに「あらば」と訓まれている。
「不有者」は「あらずは」と訓まれている。
万葉仮名を見るだけではどちらとも解釈可能だということだろう。

> 紫草能 尓保敝類妹乎 尓苦久有者 人嬬故尓 吾戀目八方

でまあ、これは普通

> 紫の匂へる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも

となるが、

> 紫の匂へる妹を憎くあれば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも

と訓むこともできる。
これは大海人皇子(天武天皇)が額田王の歌

> 茜指す紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る

に答えて詠んだ歌ということになっているのだが、
額田王という人が謎すぎる。
天武天皇の第一皇女は十市皇女(大友皇子の妻)だが母親は定かでない。
額田王だという説もあるが、
額田王が天武天皇の后だったという記録はないらしい。
天智天皇の夫人という説もあるが、やはり正式な記録はないらしい。

ということは、額田王は天武天皇の赤の他人だった可能性の方が高い。
額田王という皇族がいてその娘だったのだろうか。
「憎くあれば」と訓むなら、

> あなたはたしかに紫草のように美しい。だが私はあなたを憎んでいる。その上人妻でもある。どうして私があなたに恋することがあろうか。

という意味になる。
「人妻だから憎い」と解釈もできるかもしれん。
「人妻ゆゑに、紫の匂へる妹を憎くあれば、われ恋ひめやも」とすればもっとわかりやすい。
だが「憎くあらば」だと、

> 私がもしあなたを憎んでいるとすれば、私があなたに恋などするでしょうか、人妻だというのに → 憎んでいないので人妻であろうと恋しています

と解釈することもできる。
あるいは、「紫の匂へる妹を、人妻ゆゑに憎くあらば、われ恋ひめやも」と解釈するか。
いやかなりひねくれている。

どうも前者の方が素直な解釈に思えるが。

確実に言えることは額田王は柿本人麻呂と同じくらいよくわからん歌人だ、ということだ。
もしかすると伝説上の人に過ぎないかもしれん。

日本橋と大名行列

以前江戸の街道に書いたことの繰り返しになるが、1600年関ヶ原、1601年から「五街道」整備、1603年に日本橋が架かり、1604年から日本橋を五街道の起点にした、などとあるが、その根拠はいったいなんなのか。

日本橋よりも神田橋の方が先に架かっていて、門も見付もある。中山道と奥州街道の起点はこの神田橋門(神田口門)であり、東海道は虎の門、甲州街道は半蔵門を起点とすると考えたほうがずっと自然ですっきりする。また、日光街道が徳川家にとって重要になったのは家康が葬られて家光が東照宮を祖先崇拝してからだと思われるし、1604年ころから日光街道を奥州街道と区別し五街道と呼んでいたとは信じられない。また甲州街道が五街道に入るほどに重要だろうか。完成したのも他の街道より百年ほど遅い。甲府街道が重視されたのは、吉宗以後幕府直轄領になってからではないのか。

道中奉行というものがあったそうだが、たぶん日本橋は道中奉行の支配ではなく、町奉行支配であろう(と思うが橋奉行とかいたかも知れんね)。神田橋に至っては江戸城の一部だから奉行とかそういうものはなかっただろう(普請奉行か?「江戸城代」という役職は家康が入府する以前のもの)。日本橋を宿場と考えることにも疑問があるが、商人らは日本橋や小伝馬町、馬喰町などの繁華街に投宿しただろうから、商人や町人にとって日本橋は宿場町のようなものだったとはいえる。日本橋付近に武家屋敷がなかったわけでもなかろうが、このあたりを大名行列が頻繁に往来したとは考えにくい。

安藤広重『東海道五十三次』日本橋には、日本橋を大名行列が通る朝の情景が描かれている、というのだが、これがいわゆる大名行列かどうかも疑問だ。大名行列だとして、どこの大名がどこからどこへ行こうとしているのだろうか。大名が日本橋を通る必然性がない。ただの公務中の旗本かもしれない。

さらに、大山街道、中原街道の方が、東海道より利便性が高いように思われる。現在でもそうだし、江戸時代より前でもそうだった。江戸時代だけ東海道の地位が高かったのも、よくわからん話だ。この三つの街道は、少なくとも庶民レベルでは対等だったのではないか。

南朝断絶

読史余論に

> 後小松譲位の日、義持前盟に背きて称光院を立て参らせしかば南帝憤を含み諸国に兵を挙ぐ。此の時、義持南軍と相和するに此の次の御位には南帝の太子を立て参らすべしと約せしかば兵解けぬ。

後小松天皇が譲位したのは自分の子供に帝位を継がせ、院政を敷くためだっただろう。
1412年。
南朝最後の天皇後亀山には皇子恒教があったが、1410年に吉野に逃げている。
恒教は1422年に死ぬまで抵抗を続けている。

> 其の後十六年にて称光院崩じ給ひ御位を継がるべき御子もなく後小松の上皇にも又御子なし。

称光天皇の崩御は1428年。
後小松院1433年まで生きており、将軍足利義教は後小松院の意向を確認して後花園天皇を即位させる。

> 此の時に於ては義教宜しく南帝の太子を立て申すべき事にあらずや。然らば義満義持の盟約も違はず、南朝の旧臣の憤も散じ、且は兼務以来八十余年が程に戦死せし南朝義士の忠魂冤魄をも慰しつべし。豈忠厚の至にあらざらんや。其れに腹悪しく南帝の統を絶棄参らせし事こそうたてけれ。

うーむ。
後亀山院崩御は1424年。
後亀山院もその皇子も1428年当時すでに死んでおり、
その他の南朝の皇子、つまり、後村上天皇の子孫も、いるんだかいないんだかわからない状態だっただろうと思う。
後小松院もこの時点で死去していたとしても、
では南朝の子孫を即位させましょうということになったかどうか。
で、おそらく南朝の子孫はいただろうが僧籍に入っていたり若かったり有力な後見者がいなかったりで、
事実上不可能だったのではないか。
後花園天皇に皇子(後の後花園天皇)が生まれたのは1442年、
義教が暗殺されたあとのことで、しかも皇子はそれ以外に生まれなかった。
伏見宮家があったから皇統が絶えるという心配はなかったのかもしれんが、
南朝北朝とか言ってる場合ではなかったのではなかろうか。

南朝の子孫は、地方に散らばったり、抵抗したりしなくて、京都辺りで着々と子孫を残しさえすれば、
北朝の子孫が勝手に絶えて、いずれ南朝に皇統が戻ることが十分にありえたのだな。

新井白石が案外南朝に同情的なのには正直驚いた。
現代人にはこういう感覚は欠如していると思う。

後三条天皇

後三条天皇の御製を探しているのだが、なかなか無い。
『新古今集』

> みこの宮と申しける時、太宰大弐[実政](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%9F%E6%94%BF)学士にて侍りける、甲斐守にて下り侍りけるに、餞たまはすとて
> 後三条院御歌
> 思ひ出でて おなじ空とは 月を見よ ほどは雲居に 巡りあふまで

しかし、これは『拾遺集』の歌にあまりに似ている。

> 橘の忠幹が、人のむすめにしのびて物言ひ侍りける頃、遠き所にまかり侍るとて、この女のもとに言ひつかはしける
> 忘るなよ 程は雲ゐに なりぬと も空行く月の めぐり逢ふまで

『伊勢物語』第十一段にも、同様の歌が見える。

> むかし、男、東へ行きけるに、友だちどもに道よりいひおこせける
> 忘るなよ ほどは雲居に なりぬとも 空ゆく月の 巡りあふまで

『読史余論』では、『古事談』に出てくる話として、やはり後三条天皇の御製として

> 忘れずは おなじ空とは 月を見よ ほどは雲井に 巡りあふまで

とある。
思うに、初出は伊勢物語であろう。
意味も一番素直でわかりやすい。
後三条天皇御製はひねってあってやや意味が通りにくい。

『玉葉集』

> 御前に菊をおほく植えさせ給へりけるを、弁乳母申しけるをたまはせざりければ、
> ほしとのみ 見てややみなむ 雲のうへに さきつらなれる 白菊の花
> と申して侍りければ、後三条院
> 色々に うつろふ菊を 雲の上の ほしとはいはで 人のいふらむ

顕季

たづね来ぬ先にも散らで山桜見るをりにしも雪と降るらむ

山高みをのへに咲ける桜花散りなば雲の晴るるとや見む

しぐれつつかつ散る山のもみぢばはいかに吹く夜の嵐なるらむ

やまびこの答へざりせばほととぎす他に鳴く音をいかで聞かまし

さりともと思ふばかりや我が恋ひの命をかくるたのみなるらむ

秋風になびくすすきと知りながらいくたびそこに立ち止まるらむ

秋の夜は人待つとしもなけれども荻の葉風におどろかれつつ

ちとせまで君が摘むべき菊なれば露もあたには置かじとぞ思ふ

風はやみなびく稲葉の葉の上にいかでおくらむ秋の夜の露

霧晴れぬ小野の萩原咲きにけりゆきかふ人の袖にほふまで

散りかかる細谷川に山桜たづぬる人のしるべなりけり

試みにさてもや春はうれしきと花なき年にあふよしもがな

青柳の糸吹き乱る春風もいかに苦しきものとかは知る

雪のうちにつぼみにけりな梅の花散る明け方になりやしぬらむ

としまよりとわたる船のともやかたやかたつれなきいもが心か

心あらばこよひの月をからくにの人もながめてあらざらめやは

(1-100)

歌論の源流

藤原清輔は藤原俊成より10歳年上であり、
清輔には歌論書『奥義抄』があり、
俊成には『古来風体抄』がある。
清輔は治承元年に死んでいるから、源平の争乱直前までしか知らなかった。
『古来風体抄』が『奥義抄』の影響を受けてなったのは間違いなかろう。
俊成は90歳まで生きており、晩年新古今集勅撰の院宣が下っているのだが、彼は後鳥羽院に自分よりも息子の定家を選者に推薦したのだろうと思われる。

定家や後鳥羽院の歌論が断片的、羅列的で、簡素明快なのに対して、
清輔や俊成の歌論の方が長大で体系的なのは不自然だと思う。
おそらくは、紀貫之の仮名序のような、ごく感覚的な文章や、
いくつかの歌に注釈を付けたようなものの集成があって、
それらは確かにもともと俊成や清輔が書いたのだろうが、
それを核として、多くが後の世に付け足された、と考える方が自然だと思う。
ただ、俊成はそうとうもうろくしていただろうから、老人の繰り言というかな、自分でくだらないことをくどくどと書いた可能性もあるわな。
ちゃんと調べてみないと。

天皇が和歌に深く関与したのは白河院が初めであり、
次には崇徳院が、その次には後鳥羽院が和歌を発展させた。
この時期に歌論が生まれ、さらに歌学へと体系化される下地ができた、と考えられる。
その生成過程は非常に興味深い。

和歌

ふと思えば、一年以上和歌を詠んでない。
いや、『新井白石』の中に出てくる歌は詠んだんだけど。

> ひとりもるしづが千代田の岡におふるまつてふ心君につげばや

千代田の岡というのは明治天皇が好んだフレーズなんだよな、実は。
他にも孝明天皇の和歌を採り入れた箇所もある。
たぶん言わなきゃ誰も気付かないだろうど。

心不全で入院する直前に詠んだ歌なんだよな、[これ](/?p=8071)。
今みると恐ろしい。

訓導の詠歌

祖父は昭和二十年当時、国民学校の訓導、つまり今で言う小学校の教諭だった。
四月四日、訓導にも動員令が下ったと、
祖父は「応招前記」という日記に書いている。
面白いのは毎日のように和歌を詠んでいることで、
祖父が和歌を詠むとは初めて知った。その歌の存在すら知らなかった
(もしかするとまったく忘れてしまっただけで実は祖父から和歌の影響を受けた可能性もなくはないのだが)。

> きのふまで人ごととのみ思ひしに今日より我もいくさ人なり

悪くない。
明治四十五年生まれなので、当時三十三歳のはずだ。

> 戦局の日々に苦しくなればとて大和心にゆるぎあらめや

> 菜の花の散るをも待たで征く人を送りて次は我かとぞ思ふ

> 粥すすりすめらみくにを護る者我一人にはあらざるものを

> 沖縄の決戦夢に見しものをおのが勤めはかはらざりけり

> 動員の学徒となりて征ける子よまめに務めよ我が国のため

> 今をおきて立ち上がるべき時はなしすめらみくにのますらをの子ら

> メリケンを討たむばかりに剣とる今日この頃ぞうれしかりける

> 我一人正しと思ふ心こそ正しからざる心なりけれ

> 皇国の興廃かける一戦の間近に迫る夏の朝かな

> いかづちのとどろく中に田植ゑする乙女の心強くもあらなむ

> みそとせも生きながらへし身にしあれば散りゆく今日に何不足ある

おそらく当時みんなこんなふうに和歌を詠んだんだろうなあ。
そして戦後、反動でまったく詠まなくなったのだ。

こういう歌を詠んでしまうと、なかなか普通の歌は詠めないものだ。

投票所混雑

投票所が混んでたというのは私も感じた。
ある種の熱気も感じたが、投票率が案外低くて驚いた。
思うに、混むのは、投票方法が複雑になるとか、あるいは、投票するとき長く考えるためだろう。
これまではとくに考えずに機械的に投票する傾向があったのではないか。
今回はみんな投票間際に悩んだ。
そのため行列ができてしまったのでは。

そんな悪い傾向ではない。

投票率が戦後最低とかで騒ぐのもおかしい。
59.32%は確かに低いが、
小選挙区比例代表になってから、59%台はすでに二回ある。
投票率が低いのは、おそらく小選挙区制だからではないか。
つまり、小選挙区だと、誰が勝つか投票する前から明らかなことが多い。
だから投票所にいかずに済ます、とか。
あと、やはり、マスコミの予測報道が相当正確になってきたせいもあると思う。

今回も、行かなくても誰が当選するか自明だったせいと、
誰にも投票したくない棄権が多かったからだろう。

無効票も多かったというのもやはり同じ理由だろう。

投票率が上がれば、とくに若者が投票に行けば世の中は変わる、とか、
主張するやつが多いのだが、
そういうやつは、多分、投票率が高ければ民主党が勝つとか公明党に不利だとか思ってる連中だろう。
あるいは、若者の政治離れ、みたいに、若者に責任を負わせたがるやつら。

もっとちゃんと分析して、
システムとして投票率があがるようにしろよ。
「若者よ、投票へいこう」なんてただの精神論にしか思えない。

それから、戦後まもなくと現在では有権者数が三倍近く違う。
ものすごく増えているのだ。
つまり、有権者に占める高齢者が増えている。
有権者に定年退職はないのだ。
そうするとどうしても若者は年寄りに頭を押さえつけられている感じになる。
自分たちが何やっても無駄だみたいになる。
ますます若者が選挙にいかなくなる。
若者が選挙にいかないよりもそちらの方がより深刻な問題だろう。

業界標準業務システム

自分ではやろうとは思わないが、
kvmサーバ構築して、ドメインとって、wordpress導入して、
適当にテーマいじってあげるだけで十分に商売になる時代だ罠。
ていうか、それってまさにサイト構築の業務なんだわな。
自分でやらんでも知識さえあれば、営業や開発はスタッフにやらせて、あるいは外注して、
自分はマネージメントとか。
ありえん話ではない。

社会的に必要とされているということと、それを自分の仕事にしたいこととは微妙に違う。

アプリ開発が儲かるとか開発コストが劇的に安くなったとか、
なるほどそれは素晴らしくよいことだがじゃあそれを仕事にしたいかといわれれば。

wordpress も movable type とせりあってたころがおもしろかった。
業界標準となってみると逆に興味を失う。
なんなんだろう。