伯父の娘

岩波文庫版『完訳千一夜物語』には「妻」のことを「伯父の娘」と書いていて、アラビア語における婉曲表現だというのだが、
ちと困惑している。もし書くなら「義父の娘」ではなかろうか。
「義父」を「伯父」とも書くというのだが。はて。

クレタ島

クレタはギリシャ語音ではクリーティコとなるので、wordでクレタをクリーティコに置換したら、
「良く来てくれた」まで置換されて「良く来てクリーティコ」になってしまい、思わずワロタ。

アルダ

アルダの父ソロスは[Baldwin I of Jerusalem](http://en.wikipedia.org/wiki/Baldwin_I_of_Jerusalem#Count_of_Edessa)によれば、

> When Thoros was assassinated in March of 1098

とあって、1098年に死んでおり、アルダとボードワンが結婚した1100年にはすでに死んでいることになる。
しかし、[Thoros of Marash](http://en.wikipedia.org/wiki/Thoros_of_Marash)や
[Arda of Armenia](http://en.wikipedia.org/wiki/Arda_of_Armenia)などを読むと、
ボードワンがアルダと離婚した1105年より後も生きていて、マラシュがエデッサに滅ぼされた後はコンスタンティノープルに居て、
アルダは修道院からコンスタンティノープルの父のもとへと逃げたことになっている。
なんじゃそりゃ。

[ボードゥアン1世 (エルサレム王)](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%89%E3%82%A5%E3%82%A2%E3%83%B31%E4%B8%96_%28%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%82%B5%E3%83%AC%E3%83%A0%E7%8E%8B%29)や
[エデッサ伯国](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%87%E3%83%83%E3%82%B5%E4%BC%AF%E5%9B%BD)
を読むと、これではボードワンがエデッサ伯ソロスの娘と結婚してソロスの養子になってエデッサ伯を継いだように思える。
いやそのようにしか読めない。
しかし実際にはソロスの領地はマラシュであり、マラシュはエデッサに滅ぼされて、ソロスはそのとき死んだか、
コンスタンティノープルに逃げたことになる。
つまり英語版に従えば、ボードワンは、養子となったからエデッサ伯になったわけではない、ということではないか。

マシュハド

現在、テヘランに次いでイランで人口が多い町はマシュハドといって、NHK のシルクロードものにはメシャドという名前で出てくる。
或いはマシャドとも。
英語表記では Mashhad。
マシュハドから西へ行けばニーシャープールを経てテヘラン。
東へ行くとアフガニスタンの首都カブール。さらに東へいくとハイバル峠を越えて、
インダス川上流のパンジャーブ地方のイスラマバード。
マシュハド北東にはマル、つまりシルクロードに古来から知られるメルヴがあり、ここから先はブハラやサマルカンドなどを経て天山北路または天山南路に入る。
要するにマシュハドは交通の要衝なのだが、
九世紀末までは単なる小村であって、すぐ近くのトゥースの方が栄えていたはずだ。
というか、近代になって呼び名がトゥースからマシュハドに変わったと考えた方があたっている。
トゥースにはアレクサンドロス大王も訪れていて、ギリシャ人にはススィアと呼ばれている。
またアッパース朝カリフのハールーン・アル・ラシッドはこの地で死んでいる。

マシュハドがビーナルード山脈の北麓にあるのに対して、ニーシャープールは南麓に位置する。
要するに、ニーシャープールと同様にかなり古くから栄えた町だということだろう。

エウドキア

[エウドキア](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%A6%E3%83%89%E3%82%AD%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%AA%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B5)
は1021年生まれで、
[ロマノス](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%9E%E3%83%8E%E3%82%B94%E4%B8%96%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AA%E3%82%B2%E3%83%8D%E3%82%B9)
と再婚して、1070年に息子
[ニケフォロス](http://en.wikipedia.org/wiki/Nikephoros_Diogenes)を生んだというのだが、
すべてが事実だとすれば、49才の高齢出産ということになる。
しかももう一人、レオと言う息子も生んでいるという。
ちと信じがたい。
ロマノスの連れ子、もしくは愛人の子だったと考えるのが自然ではなかろうか。
ロマノスが1072年に死んだ後、
二人の子供は修道院に入れられたが、のちの皇帝
[アレクシオス](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%82%AA%E3%82%B91%E4%B8%96%E3%82%B3%E3%83%A0%E3%83%8D%E3%83%8E%E3%82%B9)
に引き取られて、
将軍となってクレタ島を守備したという。
ふーむ。
へえええ。
実在したのかなあ。

あと、他にもあまりにも子供の多すぎる騎士の妻というのが居て、
おそらく他の女性に生ませた私生児も混ざっているのではないかと思う。
十年間で八人はちと多すぎるだろう。

wikipedia を読んでいるとそんな記事がごろごろあるのだが、誰も不思議に思わないのか。

アジア史概説 2

宮崎市定の『アジア史概説』を読み直したのだが、
「パルチアはペルシャと同語の異音で」などという記述があって、私はまんまとそれを信じていたのだが、
パルティアの語源は Parthava であり、現在のトゥルクメニスタンの首都アシュガバード辺りである。
ペルシャの語源は Parsi であって、現在のイランの Fars 州のことである。

思うに、ペルシャとイランを同一視するのはまずい。ペルシャとは歴史的には現在のファールス州を故地とする国家を言うべきであり、
アケメネス朝やサーサーン朝などをさす(近世のサファヴィー朝やガージャール朝、パフラヴィー朝などについての解釈はひとまずおく)。
パルティアはホラサーン州で興ったイラン人の国。もう少し絞り込めば、おそらくはソグド人ないしバクトリア人の国であろう。
イラン人とはパシュトゥーン人やソグド人、パンジャーブに進入したアーリア人、
さらにはクシャーナやバクトリア、大月氏を含めて言うべき言葉だと思う。
ペルシャとイランとパルティアはそれぞれ意味が違う。
違うんだってば。

かのアジア学の創始者にして権威である宮崎市定ですらこの三者を混同していたのであるから、現代日本人に区別が付かないのはまあ仕方ない。