野田総理を惜しむ

今回の選挙は正直これまでで一番棄権したかった。
前回民主党が勝ったのと同じ乗りで今度は自民党が勝つ、というのがわかりきっていたからだし、個人的に私はずっと自民党に入れてきたが、私は野田首相が好きだったから、今回に限ってできれば民主党を支持したかったからだ。

野田さんが好きだという人も少なからずいるようだが、選挙にはまったく影響しなかったようだ。

野田総理も結局は民主党の敗戦処理をまかされるだけの人に終わったわけだが、
まあ良い負け方をしたという意味ではまた目の出るときもあるのだろう。
能力のある人を使い捨てにして欲しくない。

選挙というものは欠陥システムだし、日本の民意は馬鹿だと再認識した。
今まで抱いていたかすかな幻想さえすべて消え失せた。

付言すると、日本にはドイツのネオナチに相当するような極右というものはいない。
いたとしても政治的にはまったく無力だ。
今回程度の右翼的な動きが現れるのはまったく自然だし、
今までいなかった方がおかしい。
よその国では当たり前な、国旗を掲げて集会というのが皆無だったのだから、いままでは。
バランスを取るという意味ではいたほうがいいくらい。

だが、そういう動きを見ると脊髄反射的に大正デモクラシーがとか、
大政翼賛がなどと言う人がいるのだが、
大正デモクラシーをどのくらいわかっててそんなことを言ってるのだろうか、
どの程度の分析を下地にしているのだろうかと疑う。

こんなに政権がぐらぐら交替して首相が一年程度で辞めていく政治が良い政治なわけがない。幕末維新の頻繁な改元みたいなもの。もっと安定した状態に収束していく仕組み作りが必要なのではないか。それにはまず遠回りなようだが、民意形成プロセスのどこに欠陥があるかを分析するところからやらないといけないのではないか。さもなくば国民が選挙を信用しなくなって性急な手段に走る危険性がある。

アメリカでも政権交代すれば政策が根本からがらりと変わる。
しかしその周期は八年以下ではない。
日本では四年かもっと短い。
その短い四年間の中で毎年首相が交替する。異常だ。
もしこれが電子回路なら誤作動か誤設計しかありえない。
変わること自体は悪くないとして、
日本が二大政党政を目指すと極めて短い周期で振動する、ということがわかったのではないか。
もすこしなんとかしてほしい。

エウメネス

太宰治賞に「エウメネス」という小説を応募した。割と短編。
「新井白石」以来何を書いてよいかわからず、募集〆切がどんどん近づくので、
以前書いた「セルジューク戦記」というやつの中でエウドキアという東ローマの女帝が小説を書くという設定だったので、
彼女がアレクサンドロス大王と王妃ロクサナについて書いたらこんな小説になるのではないかというのが、
最初の構想だったのだが、
結局、アレクサンドロスの側近エウメネスの主観視点でアレクサンドロスを間近に観察する、
といういつものパターン(?)に落ち着いた。
たぶんエウドキアはこんな小説は書かないと思う。
アレクサンドロス目線で小説書いても面白くないと思うのよね。
歴史書みたいな書き方も嫌いじゃないが小説っぽくならないしね。

結局、「新井白石」と「エウメネス」は同工異曲、主人公とヒロインの立ち位置もだいたい同じ、
なんか同じだなと言われそうだが、
同工異曲を恐れていては書けないよ、旧作の再利用はある程度仕方ない。

「新井白石」も「大塩平八郎」もまあ、細かく見ていくと、
小説に書いたような人じゃなかった可能性が高い。
脚色とか思い入れというものはあるんですよ。
「セルジューク戦記」のオマルハイヤームは、もともと伝記の少ない人だから、
キャラ的にはだいぶ自由に作ってある。

まあ、おんなじように、「川越素描」の主人公が山崎菜摘というのだが、彼女も小説家志望で、
彼女がもし小説を書いたらというので、
「アルプスの少女デーテ」とか「スース」とか「超ヒモ理論」を書いたのとだいたい同じ。
作者が女性だったらとか、中世ヨーロッパの人だったらとかいう想定で、
そういう作者になりきって書くのは少し面白い。

しまいにはロクサナの妹アマストリナ(実在)とか、
アマストリナの侍女アパマ(侍女だったかはともかくとして実在)とか、
ロクサナとアマストリナの父ヴァクシュヴァダルヴァ(オクシュアルテス、実在)とか出てきて、
いつものように複雑な人間関係に。
ヴァクシュヴァダルヴァとダーラヤヴァーシュ(ダレイオス)三世とアルタクシャタ(アルタクセルクセス)五世が兄弟というのも、おそらくは史実。
その他もろもろ適当に補完した。

ペルシャ語の「ヴァ」はギリシャ語では「オ」となるようだ。
ヴァクシュヴァダルヴァはだからオクシュオタルオとなり、オクシュアトレスとなり、
オクシュアルテスともなった、のではなかろうか。
なので、オクシュアルテスとオクシュアトレスでは微妙にオクシュアトレスの方が原語に近いか。

ダーラヤヴァーシュはダーラヤオースとなりダレイオスとなりダリウスとなったのだろうと思う。

アパマはスピタメネーの娘ということになっており、スピタメネーは妻に殺害されたことになっているが、
そこんとこだけ都合上史実(伝承?)をいじった。

あと、ガンダーラに出てくる町の名や人の名、アマストリナなどのペルシャ女性の名前が、
ギリシャ語臭くて嫌だったので適当に変えた。
調べてて思ったが西洋人はほんとアレクサンドロス大王とか好きよね。
日本人と比べると知識量がまったく違うと思う。
当時の世界観ではアメリカやオーストラリア、南極大陸だけでなく、
シナもインドシナもシベリアもなかったのよね。
アフリカもナイル川より南は存在してない。
彼らはヨーロッパの大きさだけはだいたい把握してて、
ペルシャとかアラビアもだいたい把握してた。
で、アジアの外に、ヨーロッパと同じ大きさくらいのスキュタイとインドとアフリカがくっついたものが世界だと思ってたわけで、今日知られている世界より十分の一くらい小さかったのではなかろうか。

[エラトステネスの世界地図](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Mappa_di_Eratostene.jpg)
を見るとスキュティアというのが非常に貧弱で、アフリカも貧弱で、
ヨーロッパより狭い。
インドは少しでかい、ってくらいの認識はあったようだ。
しかも北極海とカスピ海がつながっている。
だから、アレクサンドロス大王は、
北インドからガンジス川をくだって北回りでカスピ海にすぐにもたどり着けるのだと思っていたらしいのだ。

オクシュアルテス

この
[Oxyathres](http://en.wikipedia.org/wiki/Oxyathres_of_Persia)
(Vaxšuvarda)
と、
[Oxyartes](http://en.wikipedia.org/wiki/Oxyartes)
(Vaxšuvadarva)
は同一人物なんじゃないかと思うのだが、どうよ。
日本語版の
[オクシュアルテス](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%B9)
によれば娘にロクサナとアマストリネがいたことになっている。
英語版 Oxyartes にはアマストリネの記述がないのだが、
Oxyathres には [Amastris](http://en.wikipedia.org/wiki/Amastris)
(または Amastrine)という娘がいたことになっている。

まあ、混同されても全然おかしくないレベル。
ていうか同一人物だと考えるとすっきりする。
ダレイオス三世、ベッソス(アルタクセルクセス五世)、オクシュアルテスは、
もともと王族ではあるがバクトリア太守の家系の兄弟なのであり、
ダレイオス三世はアルタクセルクセス四世の血筋が絶えたので、
ペルシャ王となった、
その後アレクサンドロスに敗れて故郷のバクトリアに逃げようとしたが、
弟のベッソスに裏切られた。
さらにその弟のオクシュアルテスがベッソスをとらえてアレクサンドロスのもとに送ったのではなかろうか。

ビックカメラのカレンダー

ビックカメラのカレンダーは便利だが言いたいこともたくさんある。
六曜と九星はいらん。何の役にも立たない迷信に過ぎない。
明治政府が禁令を出したにもかかわらず、ブライダル産業と葬儀屋と田舎者が使い続けている。
月の和名の由来も単なる俗説であり、読むたびいらいらする。
書くなら干支を書いてほしい。これは古代から連綿と続く六十日周期の期日法であって、
たとえば平安時代の公家の日記や鎌倉時代の吾妻鏡、近世では永井家風の日記などを読むとき非常に役に立つ。
google calendar にも採用してもらいたいくらいだ。

販売状況

セルジューク戦記がまた kobo 経由で売れていた。
販売状況を確認できるまで少しタイムラグがあるようである。
まだ3部しか売れてないから印税は150円。

なぜセルジューク戦記だけが売れるのか、
現代ものや和物より世界史ものを書いたほうが売れるのか、
よくわからん。

閲覧数ではアルプスの少女デーテがだんとつ、
川越素描が意外に健闘していて、
セルジューク戦記は三番目。

新井白石を書いてから、大分間があいてしまった。
なかなか書けない。