新葉和歌集・砧の音

都人らには、田舎の砧を打つ音が珍しかったらしい。

> 都には風のつてにもまれなりし砧の音を枕にぞ聞く (宗良親王)

> 里人の袖に重ねておく霜の寒きにつけて打つ衣かな (前内大臣隆)

> 聞き侘びぬ葉月長月ながき夜の月の夜さむに衣うつ声 (後醍醐天皇)

> おしなべて夜寒に秋やなりぬらむ里をもわかず打つ衣かな (泰成親王)

> 聞きなるる契りもつらし衣うつ民のふせ屋に軒をならべて (尊良親王)

> 寝覚めして夜寒を侘ぶる人もあらば聞けとやしづが衣打つらむ (京極贈左大臣) 

参考:

> から衣うつ声きけば月きよみまだねぬ人を空にしるかな (紀貫之)

> 里は荒れて月やあらぬと恨みてもたれ浅茅生に衣打つらむ (九条良経)

> み吉野の山の秋風さ夜ふけてふるさと寒く衣うつなり (飛鳥井雅経)

新勅撰和歌集・岩波文庫版

戦後の版だけあって校訂・解題ともに至れりつくせり。

歌は、なんとも退屈で眠くなる。

藤原定家一人で選定していて、勅撰を指示した後堀河上皇も完成前に死去しており、
いったいぜんたいどういう目的でどういう基準で選んだのか。
ていうか、「新勅撰」という名前がまるでやる気を感じない。
定家の晩年の趣味を反映しているというが、単にやる気がなかっただけなんじゃないのか。

新古今と新勅撰の間には承久の乱があったわけで、
新古今は狭いながらも活発なコミュニティに属するさまざまなタイプの歌人らが、
好き勝手に歌いたいうたを歌っている。
しかし、新勅撰はまるでお通夜のようだ。

解題に言う、「必ずしも無気力蕪雑な集として、一概に軽視すべきでないように思われる」と。
つまり、一般にはやはり新勅撰は「無気力蕪雑な集」だと思われていたわけだ。

> あきこそあれ人はたづねぬ松の戸をいくへもとぢよつたのもみぢば 式子内親王

やはりかなり屈折した歌。
どこかスナックのママが言ってもおかしくないセリフ。
飽き(秋とかける)てしまったのだろう。人は尋ねてこない。松(待つとかける)の戸を何重にも閉じてくれ、蔦のもみじ葉よ。
という歌。
引きこもりの歌。
やはりこの人はあまり人付き合いはうまくなかったのではないか。
定家の趣味とはやはりかなり離れているように思うが。

> 夢のうちもうつろふ花に風吹きてしづ心なき春のうたた寝 式子内親王(続古今)

やはりこの人は寝ている。
一人で寝ているイメージしかわいてこない。

追記: 読んでるとじわじわ面白くなってくる。

治天2

いろいろ検索してみたが、平家物語には出てこない。
吾妻鏡にも出てこない。
玉葉はデジタルデータが(一部しか)ないので検索できない。

源平盛衰記には何ヶ所か出てくる。

> (後白河)法皇は百王七十七代の帝、鳥羽院第三の御子雅仁親王とぞ申しし。治天僅に三年也。忽に御位をすべらせまし/\ける。

これはつまり後白河天皇の治世(在位)がわずか三年だったという意味であり、上皇とか法皇の意味はない。
また以仁王から頼朝への令旨に

> 未至即位、而清盛入道、以一旦冥怪、令治天下、誇非分権威、

などとあるがこれはつまり以仁王が未だ即位してないうちに清盛が勝手に政治を行った、と読める、たぶん当たってると思うがよくわからん。

> 我与皇恩、以東北武勢、何不治天下哉、

これは以仁王の皇恩と関東・北陸の武力を合わせればどうして天下を治めないことがあろうか、と読める。
治承四年の冬、坂東に何者かの落書ありとて、

> 此叛逆絶古今、前代未聞之処、若称院宣、若号令旨、恣下行之、何王之治天、何院之宣旨哉、皆是自由之漏宣也、

院宣と称し、または令旨と号し、誰の治世と言い、どの院の宣旨なのか、これみな自由勝手に宣旨を出している、と読める。
他にも枚挙にいとまないが、どれもただ単に「治世」「天下を治める」という意味に使ってあるだけで、
院政とかいわゆる「治天の君」という意味に使われているのではない。

愚管抄に出てくるのは二ヶ所のみ。

> 黄帝求仏道避位如脱云々。
國王ノ治天下ノ年ヲ取コトハ。受禅ノ年ヲ弃テ次年ヨリ取ナリ。踰年法ナリ。

中国古代の話。

> 雄略ナド王孫モツヅカズ。又子孫ヲモトメナドシテ。ソノノチ仏法ワタリナドシテ。
國王バカリハ治天下相応シガタクテ。
聖徳太子東宮ニハ立ナガラ。推古天皇女帝ニテ卅六年ヲサメヲハシマシテ。

推古天皇の時代には天皇だけでは天下を治められないので聖徳太子が摂政したという話。

やはり院政とかいわゆる「治天の君」という意味に使われているのではない。
まだ確実ではないが、
承久の乱以前の、後白河法皇の時代までは、
「治天」は単に「治世」「在位」という一般的な意味に、また、
「治天下」は単に天下を治める、特に天皇に即位する、在位している、
という一般的な意味に使われている。
幼帝に代わって天下を治める(つまり事実上の家督相続者、院政)というある特定の用例はない。
「治天下」を武士政権の「傀儡」という意味に使った例は太平記にはある(承久の乱以後の、後鳥羽上皇の時代)。
しかし、必ずしも「院政」を意味しない。
単に武家にとって天皇よりは上皇が傀儡になりやすかった、或いは他に適当な人がいなかったということだろう。
なので、「治天の君」を「武家がその都合によって天皇に擁立しようとする幼少の皇族の父または母」と言った方がわかりやすいのではないか。
上皇でないケースすらあるわけだし、またその方がずっと緊急避難的かつ実際的である。
子供が天皇になってしまえば、その父親は太上天皇を追号されて、
律令的には天皇と同等な法的効力を持つ
。つまり、院宣を出すことができる。
子供が幼すぎて統治能力がなくともその父親を通して正当な「律令政治」を行うことができる、というわけだ。
ともかく天皇の子でも孫でもまだ幼児でも良いから連れてきて、即位させて、
その親を「治天」と称して、院宣を出させる
ことで権力を正当化できる。
実にえげつない。

もっとも典型的な用法としては、
後堀河天皇に対する後高倉院・守貞親王(承久の乱の戦後処理として、北条義時が)と、
後光厳天皇に対する広義門院・西園寺寧子(北朝再建のため、足利義詮が)
の二例であろう。
この頃には天皇でも皇后でもないのに、天皇の父母であるがゆえに「~院」とか「~門院」という人たちが居る。
紛らわしい。
皇后や門院は皇族とは限らないが、院は親王か元天皇である。

広義門院の場合は単なる皇太后なので律令的にはどうなんだろうか。
しかし、以仁王など親王が令旨を出しただけで天下が乱れることもあったわけだし、
どうでもよいのかもしれない。
ま、ともかく、太上天皇が天皇とほぼ同格の権限を持つことを利用して、
後白河法皇までは天皇家(皇族)がそのシステムを外戚(具体的には藤原氏)の干渉を排除するために利用しようとしたのだが、
後には武家にとって都合の良い政治システムに変容してしまった、ということだろう。
そもそも天皇と上皇と最高権力が二つあって、
それぞれ軍事力を動員する正統性(律令政治的には宣旨を出す権限)を持っていれば当然保元の乱のような軍事衝突が起こる。
当然の帰結。世界史的必然。

信長が自ら治天の君になろうとした、などという言い方に至っては、もう何がなんだかわけわからん。

北条氏も足利氏もそうとうな権威と権力を持っていたが、天皇家に取って代わることはしなかった。
ものすごく姑息な手段を使っても王朝を存続させた。
もし完全に天皇家と独立した政権を立てようとしたら、皇族と称する人たちが全国で令旨を乱発して、
「皇軍」が全国に群がり起こって収拾つかなくなる。
敵側に大義名分を与えることを避けたのだろう。
また、律令制に相当する法律体系を自前で用意しないといけない。
それもまた当時としては非現実的だったのかもしれない。

治天

どうも「治天」という用語は太平記辺りに由来するらしい。

> 巻 第五 大塔宮熊野落事: 「宮誠に嬉しげに打ち笑はせ給ひて、「則祐が忠は孟施舎が義を守り、平賀が智は陳丞相が謀を得、義光が勇は北宮黝が勢ひを凌げり。此の三傑を以て、我盍ぞ治天下や。」と被仰けるぞ忝き。」

これは、大塔宮護良親王が、赤松則祐、平賀三郎、村上義光の三傑を得て天下を治めるという話。

> 巻 第六 正成天王寺の未来記披見の事:「是れ天の時を与へ、仏神擁護の眸を被回かと覚え候。誠やらん伝へ承れば、上宮太子の当初、百王治天の安危を勘へて、日本一州の未来記を書き置かせ給ひて候なる。」

これは、楠木正成が天皇百代治世の聖徳太子の未来記を天王寺で読むという話。

> 巻 第九 足利殿、篠村に着御、則ち国人馳せ参る事:「此の君御治天の後天下遂ひに不穏、剰さへ百寮忽ちに外都の塵に交はりぬれば、是れ偏へに帝徳の天に背きぬる故なり。と、罪一人に帰して主上殊に歎被思召ければ、」

ここで、「此の宮」「帝徳」「主上」とは隠岐の島に流された後醍醐天皇の代わりに北条高時によって立てられた今上天皇(光厳天皇)のことであり、北条氏らとともに六波羅に立て籠もっており、仮に六波羅が落ちたら関東に下向し鎌倉に都を立ててうんぬんなどということを画策していた。

> 巻 第十二 千種殿並に文観僧正奢侈の事、付たり解脱上人の事:「後鳥羽の院遠国へ被流給はゞ、義時司天下成敗治天を計ひ申さんに、必ず広瀬院第二の宮を可奉即位。」

後鳥羽院が隠岐の島に流されたので、北条義時が天下成敗を司り、治天を計らうのでうんぬん。

> 巻 第十五 園城寺戒壇の事: 主上不思議の御夢想ありけり。無動寺の慶命僧正、一紙の消息を進て云、「「自胎内之昔、至治天之今、忝くも雖奉祈請宝祚長久、三井寺の戒壇院若し被宣下者、可失本懐云云。」」

ここで「主上」「治天」と言っているのは建武の新政中であるので後醍醐天皇のことだろう。

> 巻 第十八 比叡山開闢の事:「ほのかに聞く、比叡山草創の事、時は延暦の末の年に当れり、君は桓武の治天に始まれり。」

単に桓武天皇の治世にと言っているに過ぎない。

> 巻 第四十 中殿御会の事:「惣じて此の君御治天の間、万づ継絶、興廃御坐す叡慮也しかば、諸事の御遊に於いて、不尽云ふ事不御座。」

ここで「此の君」「治天」とは話の流れから言えば光厳天皇(崩御時には光厳院禅定法皇)のことと思われる。

以上、太平記に出てくる「治天」とはすべて(天皇もしくは上皇の)「治世」と読めばすべてすなおに通じる。
「治天下」であれば「天下を治める」とこれまたすなおに読めばよい。
それは特殊な解釈ではなく古代天皇からの普遍的な解釈。
ただし問題は「巻 第十二」の部分である。
承久の乱から南北朝にかけて、いわゆる天皇の家督を誰が相続するのか、神器は誰が持つのか、
宣旨は誰が出すのか、などといったことが混乱の極みに達していたことから、
たとえば承久の乱のときに「後鳥羽院を遠国に配流し、北条義時が天下の成敗を司り、治天を計らい申し上げますので、必ず広瀬院第二の宮(後堀河天皇)を奉じて即位すべきなり」などということになったのであろう。

つまり治天うんぬんという言い回しは(おそらく)太平記初出であり、
天皇家の皇位継承や家督相続に北条氏が介入するようになってから言われ始めたことではないか。
史学関連の資料を見てはいないので推測に過ぎないが、
仮に治天の語源が上記にあって、当時としては明確に用語として確立しておらず、後世の学者が太平記を典拠として使い始めたとすると、
「治天を計らい申し上げる」と言っている主体は天皇や上皇ではなく、
それを画策している北条氏や足利氏だと言うことであり、
「治天」とは実効権力者の「傀儡」と言っているに等しく
時と場合と都合によっては皇族でない者が「治天」に指名されることもある。
天皇や上皇が自分で「今から私が治天です」などと自称したのではないのだろうと思う。

幼主を擁立して上皇が実質的に政治を執り行ったこと(あるいは外戚に頼らず直系親族間で皇位継承の主導権を保ったこと)を「院政」と言うとして、
「治天」とは、皇族もしくは皇族の外戚を傀儡として武士政権が恣意的に権力を行使することを言うのではなかろうか。
その境界はやはり承久の乱だろう。

勅撰和歌集その2

新古今和歌集をざっと読んでみて思ったのだが、
勅撰和歌集を編纂するには、
まず勅撰を言い出す天皇か上皇、
和歌を愛好する近しい皇族数名、
その中の一人か二人は非常に優れた歌人、
後は勅撰・編纂作業を任せうる数名の公家、
これらの条件が揃わないと成立しない。

新古今で言うと後鳥羽上皇の歌はこれみな自薦と言ってよく、
式子内親王は身内(おば)である。
俊成、定家、西行など最近の流行歌を合わせ、
あとは古歌で適当に埋めればできてしまう。

新勅撰も新葉も似たようにしてできた感じである。
特に新葉はもう身内だけでさくっと作った感じ。
新古今以降はもう天皇・上皇を中心にして完全に閉じたコミュニティの作品でしょ。
そのコミュニティすら維持できなくなったのかな。

応仁の乱より後はもうこの必要最小限のメンバーも集まらなくなったのだろう。
コアメンバーとしては10人くらいで作ろうと思えば作れるはずだが。

後白河院御製

> 惜しめども散り果てぬれば桜花いまはこずゑを眺むばかりぞ

これはひどい。
後白河天皇は歌が下手だったそうだが、なんちゅうか、即物的過ぎる。
[今様](/?p=1017)が好きだったのね。

> 花は散りその色となく眺めればむなしき空にはるさめぞふる (式子内親王)

ほら。全然違うじゃんっ。
後白河天皇はひねりがまったくないのよ。
式子内親王は、三ひねりくらいある。
実の父娘なのにね(笑)。
わざと並べて採録するなんて選者も意地が悪いな。
ていうか後鳥羽上皇のせいだよな。
後鳥羽上皇がにやにや笑っているのが思い浮かぶよ。

> 露の命消えなましかばかくばかり降る白雪を眺めましやは

病が重篤になり降る雪ばかり眺めている、という歌。

式子内親王

> かへりこぬむかしを今とおもひ寝の夢の枕に匂ふ橘 (新古今 夏)

> たが垣根そこともしらぬ梅が香の夜半の枕になれにけるかな (新勅撰 春)

なんだかなあ。
夜寝ているとどこかから梅だか橘だかの匂いがしてきて、目が覚めたりするわけだよな。

> 窓ちかき竹の葉すさぶ風の音にいとどみじかきうたたねの夢 (新古今 夏)

これも同じ。匂いと音の違いはあるが、やはり寝ていて夢に昔を思い出しているというような歌。
面白いなあ。
ものすごく映像的な上に、匂いも音もある。五感のすべてを使っている。

誰を思い出しているかしらんが、
弟の以仁王だとして、1180年に死んでいるので、10年か20年以上前のことを思い出して詠んでいたのではないか、
と思われる。
ええっと。
以仁王は2才下の弟。
式子が31のときに死んでいる。
高倉天皇は10才下の弟。
やはり式子が32才の時に死んでいる。
弟たちが源平合戦に直接間接に巻き込まれてどんどん死んでいき、自分だけ生き残る。
父親の後白河法皇は43才のときに死んでいる(新古今選定よりも12年前)。
母親の藤原成子は28才のときに死んでいる。
本人は53才で死んでいる(新古今選定よりも3年前)。

20才まで賀茂神社の斎院。夫も子もいない。
藤原俊成に歌を習う。32才からは俊成の子の定家に習う。
定家、時に19才。
ふーむ。
やはり、30才過ぎてから本格的に歌を詠みだしたんじゃないかな。

> 見るままに冬は来にけり鴨のゐる入江のみぎはうす氷りつつ (新古今 冬)

鴨が居る入り江が水際からみるみる薄氷が張っていく。
鴨の居場所がなくなっていくはらはらした感じと、今まさに冬が到来したという季節感、臨場感。
まさに和歌のアニメーションだよな。

新古今舐めてたわ。

> 桐の葉もふみ分けがたくなりにけり必ず人を待つとならねど (新古今 秋)

我が家の庭に桐の葉が積もり積もって誰か訪ねて来てもどこをどう踏み分けて良いかわからないくらいになってしまった。
でも必ずしも誰かを待っているわけじゃないのよね。

なんか、ユーモアがきいてるよな。
もしかして喪女?
ていうか明らかに定家とは違う作風なんでは。

> 忘れめやあふひを草にひき結びかりねの野辺の露のあけぼの (新古今 夏)

いいねえ。青春だねえこれは。

返歌(京都上賀茂に十ヶ月ほど住み侍りし頃を思ひ出だして詠める)。

> 忘れめや賀茂の社の御薗橋渡り初めにし春雨の頃

治天の君

いろんなところに、とくにWikipediaで、「治天の君」という言葉が使われているのだが、出典がわからない。「市沢哲「鎌倉後期公家社会の構造と『治天の君』」(『日本史研究』三一四 一九八八年」辺りが初出か。

治天。
なんか引っかかる言葉だ。
治天下大王(あめのしたしろしめすすめらみこと)に由来するのではないか。
治天下大王を治天と略したということか。
治天下大王とは天皇そのもののことであり、院政を行った上皇の意味はない。
だから引っかかるのだ。

天皇家の家督相続者を治天下、治天、政務などと呼んだというが、いったい誰が呼んでいたのか。
それは歴史的な呼称なのか、それとも近代になって史学的な専門用語として誰かが造語したのか、どっちなのか。
上皇が治天の君である場合、現役の天皇は在位の君とよばれる、というが、
「在位の君」と言う言い方はいつからあったのか。
誰が使っていたのか。

新古今和歌集・岩波文庫復刻版

これまた戦前の版。
後鳥羽上皇の意志によって編纂された勅撰和歌集。
後鳥羽上皇は本文中にただ「太上天皇」としか書かれてない。
注記もない。佐佐木信綱による解題を読めば後鳥羽上皇存命中にできたことはわかるので、
太上天皇が上皇を意味することを知っていれば、
後鳥羽上皇を差すのであろうということはわからんでもないが、
いかにもわかりにくい。
「上皇」とは「太上天皇」を略したものか。
当時としては上皇とは言わず、正式名称は太上天皇で、通称は院だったかと。
法皇という言い方も、してなかったようだ。

新井白石の読史余論には院政のことを「政出上皇」と書いているから、
少なくとも新井白石の時代には「上皇」という言い方はあった。
しかも、漢文用語だろう。

なるほど、上皇が何人もいるときは、一番最初になった人を「一院」または「一の院」「本院」、
一番後を「新院」、その間の人を「中院」または「中の院」と言っていたわけだな。
まあ、四人以上上皇がいることはなかったようだ。

新古今というのは、幽玄とか唯美とか公家階級のなぐさみものみたいなイメージで、
好きではなかったが、
後鳥羽上皇の激動の人生を知るにつけて、なんかもっと違うふうに読めてくるから不思議なもんだ。
なんか、こう非常に屈折した心理を感じるよね、後鳥羽上皇の歌を読んでいると。
式子内親王もそう。
抵抗なくすっと入ってきて、なんか心のどこかにひっかかってとれない感じよな。

高校教育というか、大学受験というか、この辺のところがまったく伝わって来なかったよな。
ていうか日本史を学ばないと結局新古今はわからんよな。
万葉集や古今集はその点、そのままさくっとわかる部分もあるかと。

新葉和歌集・岩波文庫復刻版

岩波文庫の新葉和歌集も買ってくる。
だいたい源氏物語とか平家物語などはいつでも買えるが、
こういうやつは復刻されて数年で絶版となるので、
今のうちに買っておかないと先々苦労することになる。
値段も七百円程度と特に懐も痛まない。

もちろん地方自治体の図書館など、いくところにいけば、日本文学全集とかそんなものの中に新葉和歌集も収録されているだろう。
しかし重い。携帯に不便。
日頃持ち歩いて愛読するにはやはり紙媒体の文庫本は重宝する。

岩佐正氏、解題に曰く、神皇正統記は文の新葉和歌集であり、新葉和歌集は歌の神皇正統記である、と。
まさにその通りだ。
新葉和歌集は戦前にはそれなりの評価がされていたのだろうが、戦後例によって軍国主義的だとして、無視されたのだろうと思う。
そもそも軍国主義的な(準)勅撰和歌集というのが、ちとすごすぎる。

ところが、カバーに書かれた解説が言うには「二条家の流れをくむ歌人、宗良親王撰の準勅撰和歌集」とか「四季や恋など伝統に従った技巧的な詠歌が多い」
とか、まったくピント外れなことを言っている。
大丈夫か岩波書店。
いったいどういうつもりで、この戦前の本を2008年になって復刻したのか、理解に苦しむ。

いったいに、皇族や貴族らが宮廷でのんべんだらりと詠んだ歌はたいていつまらないが、
配流されたり骨肉が誅殺されたり、逆境にあるときにはなかなかすばらしい歌を詠む。
すてきすぎます。

たとえば、式子内親王にしても、ただの宮廷歌人で藤原定家の弟子だというだけなら大したことはなかったろうが、
あの以仁王の同母の姉弟の関係にある。
その境遇があのようなすさまじい歌を詠ませたのであろう。
いやあ、すごすぎます。

昭和天皇の歌は、わかりやすすぎて困る。
それも、昭和五十年以降は特にくずれすぎ、軽すぎ。もはや五七調でも七五調でもなく、現代語をそのまま使っている。
外そうかと思ったが、わかりやすいのは和歌の初心者には入りやすいだろうし、
悠久の御製の歴史の流れを知るには、あっても良いかと思った。