橘曙覧

水島直文・橋本政宣編注「橘曙覧全歌集」を読む。
わりとおもしろい。
冒頭に載っている歌:

> あるじはと人もし問はば軒の松あらしといひて吹きかへしてよ

「嵐」と「あらじ」をかけている。愉快な歌。

朝ぎよめのついでに

> かきよせて拾ふもうれし世の中の塵はまじらぬ庭の松の葉

道元の[山居](/?p=1511)の影響を感じるよね。
同じ福井の山の中だし。

閑居雪

> なかなかにふり捨てられてうれしきは柴の網戸をあけがたの雪

これも、「戸を開け」ると「明け方」をかけている。おもしろいなあ。

> あばらなるやどはやどにてすみわたる月は我にもさもにたるかな

「あばら」というのは歌にはあまり使われない言葉なのではないか。
全体にくだけた口語調に見える。

述懐

> なかなかに思へばやすき身なりけり世に拾はれぬみねの落ち栗

いいなあ。この屈折した感じが。

契沖

小林秀雄「本居宣長」(新潮文庫上・下)を相変わらず読んでいるのだが、
これは昭和40年から51年まで「新潮」に連載されたものをそのまま単行本にしたものらしい。
下巻の巻末にさらに補足と、江藤淳との対談というか江藤淳がインタビューする形の記事が載っている。
昭和52年、江藤淳当時44才。
江藤淳が一方的にどんどん語っているのが面白い、というか笑える。

まあだから目次もないし、話の脈絡がない。
11年半も書き続けたわけだからそういうことになる。

契沖について書いている箇所があって、
契沖もまた宣長に似て

> 二人は少年時代から、生涯の終わりに至るまで、中絶することなく、「面白からぬ」歌を詠み続けた点でも良く似ている。

> 契沖ほどの大歌学者にして、この凡庸の歌があるか、と世人は首をひねっている。

と書いているので、小林秀雄もまた、宣長の歌というのは数ばかり多くて面白からぬ凡庸の歌だと思っているわけだ。

> 二人の詠歌は、自在に所感を述べて、苦吟の跡を全くとどめぬところ、まさしく「性なり、癖なり」の風体であるが、
詠歌は、決して風流や消閑の具ではなかったので、「見るところ」あって努めたものでなければ、
あれほど多量の歌が詠めた筈はない。

だいたい同感で、
歌を詠むのが日常生活における習慣というか癖になっており、
わかりやすく言えば親父が親父ギャグを連発するのと同じようにして歌を次々に詠んだということで、
風流な花鳥風月やら或いは何か高尚な詩文をひねろうとして作ったのではない、
そのときそのときの所感を自在に歌に詠んだ、ということだろう。
ある意味では即興詩人、慈円の言う速詠に近いものなのかもしれん。

小林秀雄の文章は読点が多い。

> 歌のよしあしなぞ言って何になろうか

などと言っているところもある。
宣長自身が

> もとより深く心いれてものしたるにはあらず、
みなただ思ひつづけられしままなる中には、
いたくそぞろき、たはぶれたるやうなること、
はたをりをりまじれるを、
をしへ子ども、めづらし、おかし、けうありと思ひて、
ゆめかかるさまを、まねばむとな思ひかけそ、
あなものぐるほし、
これはただ、いねがての、心のちりのつもりつつ、なれるまくらの、やまと言の葉の、霜の下に朽ち残りたるのみぞよ

などと言っているのがまたおかしい。

本居宣長

[本居宣長の結婚離婚結婚](http://mahagi0309.web.infoseek.co.jp/photo/oono06406.html)
など読むと宣長の知られざる一面を見る思いがする。
大野晋氏が発見したことで小林秀雄も知らなかっただろう。
だとしても、宣長の恋の歌を読んでもそんな気配はほとんど感じられないのが不思議、
というか宣長らしい。

小林秀雄の宣長論は、他の著述(実朝とか)と同じだが、面白いことも書いてあるが、
どうでも良いようなこともだらだらたくさん書いてあり、章立てのタイトルもなく、
ひとことで言えば読みにくいのだが、書いてあることが難解かというとそうでもなく、
ときどきすごく鋭いことが書いてある。

本居宣長はまず10代に歌詠みとしての文芸活動から始め、次第に歌学や国学などもやり始めたのであり、
歌は死ぬまで詠んだ。
小林秀雄が指摘するまでもなく宣長のすべての著作研究活動の根幹に宣長自身の歌詠みがあったのは間違いない。
また歌もさほどまずくない。
本居宣長の歌をまずいと言ってしまうとかなりたくさんの人が歌人としての資格を失ってしまうと思う。
だから、本居宣長を歌人と言っても良いと思うのだが、ほとんどすべての人は、
頭っから歌人としての宣長を否定している。
その最大の理由は、賀茂真淵以来、子規・茂吉に連なる万葉調礼讃主義者たちによって徹底的に否定されてきたからだろう。

ある人は言う。
創作活動と研究活動が不可分であるとする宣長の主張はアナクロであり、
それらがほぼ完全に分離している近代的立場からすればおかしいと。
確かにすべての人が和歌を詠むべきだという宣長の主張はやや行き過ぎてはいるが、
しかし、ここで宣長の言い分を否定しようとするのは、
習作程度の歌も詠まず歌論をうんぬんしようとする今日の学者たちに都合の良い考え方であり、
要するに学者たちは宣長を歌人ではなく純粋な学者としてとらえたいのだろう。

小林秀雄は「歌人・宣長」を完全に否定しようとはしないかなり珍しい論者の一人だと思う。
かなり同情的にかつ宣長の歌人としての活動を詳細に紹介している。

宣長は、万葉集研究者の賀茂真淵の弟子となったが、相変わらず新古今風の歌ばかり詠むので、
賀茂真淵を激怒させてほとんど破門されるまでになっている。
また宣長は頓阿の「草庵集」の注釈書を書いたがこれもまた真淵に詰問されている。
頓阿というのはだいたい定家の百年くらい後に出た人で、
私も平家物語に出てくる文覚上人を調べていて、
頓阿が「井蛙抄」という歌論書の中で西行と文覚の関係について書いていたのを読んだことがあるのだが、
要するに井蛙抄というのは定家の本歌取りの方法などを解説したりという、ごく新古今的な本で、
草庵集に出てくる本人の歌というのもだいたいそんな具合のものだっただろう。
ちなみに[wikipediaの井蛙抄](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E8%9B%99%E6%8A%84)は私が起筆したのである。

ここで小林秀雄の指摘は実に鋭い:

> 言うまでもなく、宣長は、頓阿を大歌人だと考えていたわけではない。「中興の祖」として、さわがれてはいるが、
「新古今のころにくらぶれば、同日の談にあらず、おとれる事はるか也」。

> 歌道の「おとろえたる中にて、すぐれたる」頓阿の歌は、おとろえたる現歌壇にとって、
一番手近な、有効な詠歌の手本になる筈だ。

なるほど。ここで小林秀雄は、新古今時代に劣る頓阿の、さらに劣る程度の歌人として、
宣長を暗にとらえていることがわかる。

実際、明治の歌人たちは時代も風俗も違う万葉時代の歌を復活させようとして大失敗している。
斎藤茂吉などがその典型だ。
まさに

> 今の人は、口には、いにしへいにしへと、たけだけしくよばはりながら、古への定まりをえわきまへざるゆゑに、
古へは定まれることはなかりしものと思ふ也

である。

> 詠歌の手本として、「新古今」は危険であるし、「万葉」は「世ものぼりて、末の世の人の耳に遠くして、心に感ずること少なし」、
「上古の歌のさまを見、言葉のよっておこるところを考へなどする、歌学のためには良きものにて、詠み歌のためにはさのみ用なし」

となる。
まったく実用に即した考え方だ。
万人が歌を詠むべきだと主張しつつ、一方で歌学と詠歌をきちんと分けてとらえているわけだ。
ふつう、歌を論じる人は、いきなり新古今を論じたり、万葉集を論じたり、
或いは小倉百人一首を論じたりするわけだが、
しかし当時と今は風俗が違うから、それを参考に歌を詠もうとしてもたちまち詰まってしまう。
誰も、紀貫之の歌は知っていても紀貫之の歌は詠めない。当たり前のことだが。
実際に歌を詠もうとするとそれとまったく別の方法論が必要となるが、
学者たちはしかしそこから先に進もうとはしない。
或いは理屈だけでむちゃくちゃな歌を詠んで恥をかくはめになる。

歌を詠む手本となるのはいきなり万葉や古今や新古今なのではなくて、自分からたかだか百年程度前の歌人が詠んだ歌がちょうど良い具合なのだ。
ただし明治の歌人たちが無理矢理詠んだ万葉調の歌などはまったく参考にはならないし、
幕末の志士たちの歌も、あまり筋がよろしいとは言い難い。
明治や江戸時代の比較的良質な、連綿とした和歌の伝統に則りつつ、近世の風俗も取り入れたような歌人の歌が自分が実際に歌を詠むときに役に立つ。
となると明治天皇、孝明天皇、吉田松陰、本居宣長らの歌がそういう目的にもっとも適していると言えないか。
そういうことを、読み解く意図を持って読めばちゃんと書いている小林秀雄はやはりすごい。

本居宣長続き

> 春の野の岡辺の道のつつじ花手折りて行かなたびのなぐさに

> 里しあらば宿借らましをあしびきの山路まどひて行き暮れにけり

> あまざかるひなのあら野のあら草を枕にまきて旅寝す我は

> あしびきの山松が根に旅寝してあらし吹く夜は家をしぞ思ふ

> 草枕たびと思へど浪の音のとよむ浜べはいねがてぬかも

> ぬばたまの夜は明けぬらし磯の海人のあご整ふる呼び声聞こゆ

「あご」は「網子」(あみこ)。網を引く人。「大宮のうちまで聞こゆ網引(あび)きすと網子ととのふる海人の呼び声」(万葉集238)。

> 我が旅は日長くなりぬあらたまの月日よみつつ妹待たまくに

> 草枕たびの日長み家の妹が縫ひて着せたるきぬ垢つきぬ

> うちなびく草香の山をけふこえて難波の海を見さけつるかも

> 波の上にうき寝我がする明石潟浦吹く風の寒きこの夜を

> 豊国の夕山雪の日長くは家なる妹が待ちやかねまし

> 春の雨の晴れてといはば散りぬべしけふ見に行かな山の桜は

> 近からば吉野の山の桜花きのふもけふも行きて見ましを

> いかならむ吉野の山もこの頃や桜の花の盛りなるらむ

> 朝日かげにほへる山の桜花千代とことはに見ども飽かめや

> 思ふどちいざ見に行かな春山に咲ける桜の花の盛りを

> 立ち出でてふりさけ見ればあしびきの山は桜の花盛りなり

> みやびをの春のかざしと桜花野にも山にも咲きにけるかな

> あらたまの春立ちしよりいつしかと待ちし桜の花咲きにけり

> 山づとに見せむと思ひて桜花道の長手を手折り持ち来ぬ

> おのづから人ぞ訪ひ来る山里も春は桜の花見がてらに

迷い、悟りと言ふことをことごとしく人の言ふに

> 悟るべき事も無き世を悟らむと思ふ心ぞ迷ひなりける

わろす。

述懐

> いたづらに年ぞ六十になりにけるなすべきわざは未だならずて

> 思ひ出づる三十の春も三十とせのかすみ隔たる花のおもかげ

山家水

> 世の中の憂きこと聞かぬ住まひかなただ山水の音ばかりして

> 明け暮れに汲むとはすれど谷水になほすみ果てぬ我が心かな

山家松

> 軒の松むかしの友と言ふばかり我が山住みの年も経にけり

山家

> 厭ひてもものの寂しき夕暮れは憂き世恋しき山の奥かな

> ある時はありのすさびの世の憂さもまたしのばるる山の奥かな

ふみよめば

本居宣長は本が好きという話。

> 書読めば大和もろこし昔今よろづのことを知るぞうれしき

> 書読めば詳しくぞ知る天の下行かぬ国々四方の海山

> 書読めば見ぬもろこしの国までも心のうちのものになりつつ

> 書読めば昔の人はなかりけりみな今もある我が友にして

> 書読めば千里のよそのことまでもただここにして目に見るごとし

> 書読めば花も紅葉も月雪もいつとも分かず見るここちして

> 書読めば心にもののかなはぬも憂き世のさがと思ひ晴るけつ

> 書読めば絶えて寂しきことぞなき人も問ひ来ず酒も飲まねど

ふーむ。

> 酒飲みて歌ひ舞ひつつ遊ぶより書読むこそは世に楽しけれ

ふーむ。

> 書読までなににつれづれなぐさまむ春雨の頃秋の長き夜

> 暑けれど書読むほどは忘られて夏も扇は取らむともせず

ふーむ。

> 埋み火のもとに夜々起きゐつつ寒さ忘れて見る書ぞ良き

ふーむ。

> 跡絶えて深く降り積む冬の日も書見る道は雪もさはらず

おっしゃる通り。

> なづむなよ書見る道に朝霜の解けぬ所はさても過ぎ行け

> 書見るにけはしき道は避きて行けまたき心の馬疲らすな

> 面白き山川見つつ行けばかも書見る道は苦しくもあらず

> もろもろの書見る道は夜昼と千里行けども足も疲れず

> 寝るうちも道行くほども書読まで過ぐるぞ惜しきあたらいとまを

ずいぶんせっかちだな。

> 菅の根の長き春日も短きぞ書読む人の憂ひなりける

> 面白き書読むときは寝ることももの食ふこともげに忘れけり

> 玉の緒の長くもがなや世の中にありとある書を読み尽くすまで

ふーん。

歌人本居宣長

歳暮

> かくばかり住み良き山の奥にだに年は止まらで暮れてゆくらむ

> 隠れ家はいつも心の静かにて年の暮れとも思はれぬかな

> 世のわざに心騒がぬ隠れ家は年の暮れとていとなみもなし

> ふりまさる老いのしるしかこぞよりも今年は惜しき年の暮れかな

> いたづらに月よ花よと明け暮れて暮れ行く年のほどもはかなし

> よそに聞く年のおはりのいとなみに人もとひ来ぬ宿のさびしさ

> いたづらに雪をもめでし年の暮れこれぞ積もらば老いとなるべき

今年三十五歳也

> 年暮れて過ぎし半ばのほどなさを思へば近き七十の春

35才の年の暮れに70才は近いなどと言うのはどうしたことか。

山家雪

> 人待ちし心も消えて山里は道もなきほどつもるしら雪

> 都にもけふは積もらむ山里は軒端をかけて埋む白雪

> 問はるべき道絶えはてし白雪に春のみをまつ山の下庵

しみじみとした良い歌ではないか。
比べるのは気の毒だが勝海舟よりは数倍良い。
式子内親王の歌だと言っても間違う人はいるだろう。
宣長の歌を批判する人に試してみたいものだ。

> 四十あまり五ツの年もはや暮れてけふはむつきとなりにけるかも

これは(笑)。
しかし46才(数えで)の本居宣長の新年が目に浮かぶようだ。
その翌年の新年:

> あらたまる心の春ののどけさよふりし頭の雪もけぬべし

白髪を気にしているようだ。

> いほりしてもる田の稲も色づきぬ今いくかあらば刈らむとすらむ

なかなか良い。
明治天皇の歌にも似るが、やはりどこかひと味違う。

年の暮れに詠める:

> 何くれと春のいそぎにまぎれては惜しむ間もなく年ぞ暮れゆく

> ちりぢりに夕暮れ帰る市人のわかれをけふは年のわかれ路

秋夕

> 賑はへる里のけぶりもなかなかによそめはさびし秋の夕暮れ

寄塵述懐

> 思ひたつことはたゆまじちりひぢも積もれば山のかひもある世に

漁火連浪

> 海人の住む里近しとはしらなみの夜さへ見ゆる漁り火のかげ

さくら

> さくらなきこまもろこしの国人は春とて何に心やるらむ

> 世の中はやよひながらに年を経ていつもさくらの盛りともがな

> いかばかり憂き世なりとも桜花咲きて散らずばものは思はじ

> ひたすらにたれ憂きものと歎くらむ春は桜の花も見る世を

> うぐひすのこゑ聞きそむるあしたより待たるるものはさくらなりけり

> 山里の人のたよりもはつ花を待つに待たるるきさらぎのころ

> 待ち侘びて咲かぬ日頃を恨むかないつとは花の契らざりしを

> 春風よ心にまかす花ならば咲かぬ桜もはや誘はなむ

> 桜花たづねて深く入る山のかひありげなる雲の色かな

これは良い。

> 咲かぬ間の思ひ寝に見しならひにはこれも夢かとたどる初花

> 散ることもまづやとかつは歎くかなときがうれしき初桜花

> 帰らばや高嶺の桜飽かねどもふもとの花も暮れ果てぬ間に

これも良い。

> 夜もなほ夢路にだにと見しけふの花染め衣かへしてぞ寝る

> なかなかに月も無き夜は桜ばな定かにぞ見る思ひ寝の夢

月が無い夜は花を夢に定かに見る、という意味。

> 吹くも憂し吹かねば月の霞む夜を思ひわづらふ花の春風

> 照りもせぬ春の月夜の山桜花のおぼろぞしくものもなき

> 咲き続くさくらの中に花ならぬ松めづらしきみよし野の山

> いくへともしら雲ふかき吉野山おくある花も咲きやしぬらむ

> たぐひなき花とはかねて聞きしかどさらに驚くみ吉野の山

どんだけすごいのかと。

> 見わたせば花よりほかの色も無し桜に埋むみ吉野の山

> いづれかを花とは分けてながめましなべて桜のみ吉野の山

> 暮れぬともなほ分け見ばや山桜月夜よし野の花の盛りは

> ほどもなし花散るまでは吉野山捨てぬ憂き世も捨ててこそ見め

> 咲く花に絶えてあらしの吹かぬ間ぞ春の心はのどけかりける

> 散るこそは盛りなりけれ山ざくら空吹く風も花になりつつ

> 墨筆も紙も昔のそれならで変はらむ友は硯なりけり

そりゃそうだわな。

中野重治

> おまえは歌うな

> おまえは赤ままの花やとんぼの羽根を歌うな

> 風のささやきや女の髪の毛の匂いを歌うな

> すべてのひよわなもの

> すべてのうそうそとしたもの

> すべてのものうげなものを撥き去れ

> すべての風情を擯斥せよ

> もつぱら正直のところを

> 腹の足しになるところを

> 胸さきを突きあげてくるぎりぎりのところを歌え

> たたかれることによつて弾ねかえる歌を

> 恥辱の底から勇気を汲みくる歌を

> それらの歌々を

> 咽喉をふくらまして厳しい韻律に歌いあげよ

> それらの歌々を

> 行く行く人びとの胸廓にたたきこめ

知ってる。
詠んだことあるよこの詩。
悪い詩じゃないよ。
まあ良いんだよそういう、プロレタリア文学というものがあって、
マルクス主義者で共産党な詩人がいるのは。
しかし、中野重治に本居宣長を批判させてそれを解題に載せるというのはかなり悪意を感じないか。
公平な態度とは言えない。

宣長の辞世の歌

山室の山の上に墓どころを定めて、かねてしるしを立ておくとて
山むろに 千とせの春の 宿しめて 風に知られぬ 春をこそ見め
今よりは はかなき身とは 嘆かじよ 千代のすみかを 求め得つれば

宣長は遺言で葬式のやり方をことこまかに指示し、かつ自分の墓所も自分で決めた。 そのときに詠んだ歌で、自分の墓で千とせの春の花を眺めていたい、 みたいな、何か無邪気な歌であり、特に学問とか思想が込められたものではない。

黄泉の国 思へばなどか 憂しとても あたらこの世を 厭ひ捨つべき

死後の世界はとても気持ちの悪いものだから、 もったいなくて簡単にこの世を嫌って逃れることはできない、という意味。

死ねばみな 黄泉に行くとは 知らずして ほとけの国を ねがふおろかさ

「死ねば」でなく「死なば」でないかと思うのだが・・・。 宣長は古事記に書かれたように人はみな死ねばけがれた、暗い黄泉の国に行くと信じていた。 極楽浄土に往生するという仏教の教えを信じてはおらず、そういうものを願うのは愚かだと考えていた。

聖人は しこのしこ人 いつはりて 良き人さびす しこのしこ人

聖人というのは嘘をついて良い人をけなす醜い人だ、と言っている。 「さびす」はやや訳しにくい。

聖人と 人は言へども 聖人の たぐひならめ や孔子はよき人

孔子は聖人と言われているが聖人のたぐいではなく、良い人だ、と言っている。 つまり、儒教や仏教などで言われている聖人は嘘つきで良い人を悪く言う醜い人たちばかりだが、孔子だけは良いと言っている。

坂本は文字がありません。

巖本善治編勝部真長校注「新訂海舟座談」を読む。 江藤淳の「氷川清話」以上のことは書かれているようにも思えないが、附録で、 高木三郎という人が坂本龍馬について

坂本は大きな男で、背中にあざがあって、毛が生えてね。

坂本は、柔術を知らないものですから、

坂本は、文字がありません。

などと言っている。 龍馬は文字の読み書きができなかったらしい。 手紙を書いたとしても代筆だったのだろう。 あの有名な、姉に宛てて書いた手紙も代筆なのだろう。 武士で柔術を知らないというのも当時としては珍しかったのだろう。 剣術は千葉道場で北辰一刀流の目録をもらったというが、五六年もいれば誰でももらえるようなものではないか。 印象としては、行動力はあるが無学文盲の大男、といったところだろう。 勝海舟、西郷隆盛、その他長州や薩摩の志士たちにはだいたい最低限の教養はあったが、龍馬にはなかった。

ともかく、文字を知らないというのではまず和歌は詠めまい。 柿本人麻呂も文字は知らなかったかもしれないが、 それとこれではわけが違う。 仮に詠めても有名な歌のつぎはぎくらいしかできなかっただろう。 読み書きができなきゃそろばんもできなかっただろう。 政治家くらいにはなれたかもしれんが、
商売ができる人間ではなかったのではないか。

龍馬は『新葉和歌集』を欲しがったというが、なんのためだったのだろう。

wikipedia に

平井収二郎 「元より龍馬は人物なれども、書物を読まぬ故、時として間違ひし事もござ候へば」

とあるのも同じか。

勝海舟の歌:

天駆ける翼持たねばにはつ鳥あはれ落ち穂を争ひにけり

なんとも言えない歌だな。

勝海舟が危篤になったときに高崎正風(歌会所長、明治天皇の歌の師)が詠んだ歌:

眠られぬ夜寒の床に響きけり氷川のもりの雪折れのこゑ

玉の緒の絶えぬうちにと駆けつけてかひもなくなく帰る悔しさ

移りゆく世をうれたみて語らひしこゑなほ耳の底に残れり

身は苔の下にありともたましひは天駆けりてや世を守るらむ

「うれたむ」は「憂ひ」+「痛し」が動詞化したもののようだ。
まあ普通。実に平凡。というか明治天皇の御製に良く似ていてびっくり。
明治天皇の歌をより情緒的にしたような感じ。