作家事務所

作家とかアーティストという人たちは、一人で制作もマネージメントもプロデュースもやる人(やりたがる人)のことのようだ。
そうでない人たちは別のカテゴリー、たとえば教員とか日曜絵描きとか変なおじさんとか、普通のデザイン事務所の人とか広告代理店の人とか、プロダクションの人とか経営者とか社長さんに分類されてしまう。
何が言いたいかというと、作家の人たちが大勢集まって作家事務所のようなもんを作ればよさそうに思えるが、それでは普通の会社になってしまうので、そんなことは彼らはやりたがらないのではないか、いつもニュートラルな位置に居たがるのが作家なのではないかという気がする。
だとすれば収益とか生産性とか効率などというものを追求したり、学会立ち上げたり、交流の場を作ろうとか、そんなよけいなお節介を焼いてもしょうがないということにならんか。

作家事務所というのは中世的に言えばギルドのこと、ギルドがさらに高度に自治組織化されたものが大学。
大学の原点は作家事務所だろう。
近代になると大学は国策によって保護され、プロイセンだと「国民大学」は学費がタダだったりした。
国力増大にあまりにも科学が有効なもんだから、科学者が優遇されまくった。

アメリカだとやや事情は違い、戦争のどさくさで国家というパトロンと癒着した一部の(私立)大学 (MITとか) が突出して巨大化していった。
教員は軍事予算によって養われたりした。

しかしいまどき Volks Schule とか国民大学などというものは時代遅れで、科学者は冷や飯食わされる時代で、商業化したり民営化していって、勢い専門学校やらカルチャースクールとなんら変わらんところまで来た。

科学者や芸術家の待遇或いは社会的地位は近世というよりは中世に戻りつつある。
個人個人で活動しているとあまりにも身分が不安定なので、自治組織を作りましょう、後継者の教育もやりましょう、副業として研究成果を社会に還元しましょう、資金調達のためにはカルチャースクールや下請けまがいのこともやりましょう、というのが本来の大学の姿で、現代でも大して逸脱してないのでないか。
そこのところを押さえておかないと、大学ってなんだということがまったくわからなくなる。
本来、国や地方自治体によって教員資格を完全にコントロールするのが小中高までの教育、自主的に組織作りも教育もするのが大学。
もし大学をなんだかんだで解体しようとしたり縛ろうとしても、研究者や作家の組合とか自治組織というものが大学以外のところに自然に生まれるだろう。
それがすなわち大学とか学会というものなのであろう。

商業主義に走ってもいかず、かといって孤立孤高の道に進むべきでもなく、自分たちの居場所を確保するために何が必要かということを考えれば、自然と募集や就職や立地など決まってくるのでないか。
そんな5年10年先のことばかり考えたり、まして来年どうしようとか今年はどうだとか考えても仕方ない。

人斬り与太

「現代やくざ 人斬り与太」「人斬り与太 狂犬三兄弟」見る。
ふと気になり調べてみると深作欣二監督作品としては「仁義なき戦い」より古い。
なるほどなーと。
主人公沖田勇こと菅原文太は1945年8月15日生という設定。
1965~1972年くらいが舞台か。

やくざ映画

他人よりも不満が多い性格な気がする。
組織の構造やバスの路線、その他もろもろに、ああすれば良いのにといつもぶつぶつ言ってる気がする。
不利益を蒙ることに敏感なことと不利益をよけいに蒙ることとは違うのだが、多少の不利益を蒙っても気づかずにいる方が幸せになれるような気もする。

かつて情報の流通ということが不便だった頃は、どこか不慣れなところに旅行したときは現地のしきたり通り、唯々諾々とされるがままに接待されれば良く、またそれよりも効率よい接待というものはなかっただろう。
しかし東京のような都会ではたとえ都会暮らしといえど個人が知り得る情報は限られていて、相対的に歓楽の物量は大きい。
となるとホスト側があれこれお膳立てするよりはゲスト側が自分でこうしたいと申し出て、ホストはその手助けをする程度にとどめた方がずっとゲスト側の満足度は高いだろう。
このように都会と田舎では主客の役割分担というものが根本的に異なっている。
まして田舎といえど自分が生まれ育った土地であれば、自分で好き勝手動き回った方がおもしろおかしいに決まっているのだが、田舎者はどうもよけいなことを押しつけようとする。
その理由がまた「ゲストの満足度を最大化する」ためではなく、「ゲストを迎えるホストが地域社会からどれだけ立派に接待したか評価される」ためにあるのだからあきれかえる。
このようにプロトコルが確立して本質を忘れてしまい、さらにそのプロトコルを実情に合わせて修正していくのが不可能なのが地方社会の特徴と言えるかもしれん。

それはそうと国内線の液晶プロジェクターが貧相なのにはあきれる。
こういう「飛行機一式」みたいな買い方をするから、その一部の性能がどんどん進んでもプロジェクターだけが暗くぼやけてずれていたりする。
ていうかプラズマディスプレイくらい買えよと。
ていうか機材変更した場合の電気系統の安全性のテストなどに膨大な費用と時間がかかるのかもしれん(笑)。
ナショジオとか見てると娯楽機器を追加したせいで電線発火して墜落したこともあるようだしな。
立派な会議室を作っておいて暗幕も無ければプロジェクターも古いまま。
ハタから見ていていらいらする。
とかよけいなことばかり腹を立てていては長生きできないかもしれんな。

こういうのが小回りが利く予算で管理されていればさっさと取り替えるのだがのー。
毎年数千万円くらい。
数千万円といっても構成員が十人として頭割りすりゃ数百万円だしな。
なんとかコントロール可能な金額だよ。
きっと何億とか何十億という予算規模では簡単に身動きとれんのだろうな。

田舎に帰っていつも思うことだが、田舎には非常に豊富な映像資産があるのに土産物屋で売られているのはまんじゅうばかりで、 DVDなどの映像媒体がまるでない。
田舎の風物をDVDにまとめて2000円くらいの値で置いておけば飛ぶように売れると思うのだが。
思うに、情報産業とか映像産業というのは都会に集中しているから、目の前にいくら良い素材があってもそれを収録し編集し流通にのせるということができないのだな。
地方テレビ局もそのくらいの才覚があってもよさそうだが。
プロデューサーとかディレクターとか若い野心あるものは皆東京に出てしまい、現地はせいぜい出張所の事務処理程度なのかも。
コンテンツ制作ってやっぱ人材に依存する労働集約産業なのだよね。
しかし誰かが売り出して儲かり始めると、どこも真似し始めて利益はでないのかもしれんがなー。

人間の脳の活動というのはフローなわけで、
毎日大量に処理すると言ってもいちいち覚えておれない。
それをストックするのが日記なので、
自分で書いた昔の日記を読んでびっくりすることが多いのだが、
後で読んでびっくりするために日記を書いているようなもんで、
それがなければ日記の楽しみはあまりない気がするな。
頭の中からあふれ出すもんをもったいないと思って保存する本能のようなもんかもしれんな。
てか、何のため誰のため日記書いているかわからん人多い。
あなたそれ読み返しておもしろいのかと問いたい気もするが人それぞれなのでどうでもいいか。

実家に帰っていろいろ調べたら爺さんが大量の書き物を残していて(もちろん手書き)、
その他家の権利関係の書類など全部調べ上げ整理し電子化するのに一ヶ月はかかろうということがわかった。
爺さんもモノを書くのが好きだったわけだが、
たいていはたわいないものだが、教員だったのと居合いや剣道をやってたので、
それが昭和一ケタくらいからずっとあるので多少おもしろい。
人に読まれたくて書き残したのだろうから遠慮無く読ませてもらうことにする。

昔のやくざ映画でDVD版で出たものを見ようと思っているのだが、
それで「股旅」「昭和残侠伝」「仁義なき戦い」など見た。

一口にちゃんばらと言ってもいろいろあるので、
普段よく見かけるのは地上波民放の毎週放映されるような、
つまり暴れん坊将軍とか水戸黄門的な、リアリティをわざと欠落させて、
ほんとは人殺しの場面なんだができるだけ人畜無害にし、派手で見栄え良くしたもの(単なる手抜き?)。
ゲームで言えばDQやFFの戦闘描写に近いだろう。
ほんとは殺し合いの場面なのだからもっと細かな描写が可能であり、
服だけ切れたり、皮まで切れたり、筋肉まで切れたり、
骨まで届いたり、骨も切ったり折ったり砕いたりとか、
腹を刺したり太股を裂いたりとか、
いきなり胸を突いて致命傷だとか。
傷の具合や部位によって血の流れ方とか飛び散り方とか量とか違ってくるわけですし。
「昭和残侠伝」でなるほどと思ったのは、
一人に致命傷を負わせるため深く刺したり、
あるいは組み合いでもがいていると動きが止まってしまい、
敵がわらわらとたかってきて結局はやられてしまうとか、
ふすまの裏に隠れていて斬り合っているところを後ろから刺すとか。
あるいは屋外で槍持って待ち伏せして障子越しに中を刺すとか。
やくざの喧嘩にしろ侍の討ち入りにしろこういうフォーメーションというのは、
刀が主な武器だったころは当然常識としてあったことに違いない。
ここまでくるとゲームで言えば counter-strike とかそのへんのレベルだと思う。
そういう殺陣のリアリティをおもしろがって見る人というのは、
もしかするといまどきあまり居ないのか。
「昭和残侠伝」のストーリーはきわめてシンプルで、
あーこういう刹那的で狂犬みたいな人間いるよなーというのみ。
もしかするとシナリオがよくできているとあっさりと感じるものかもしれんし。
シナリオがへたくそだと逆にあれこれ盛りだくさんに思えるがよく考えると無理があったり破綻していたりする。

「股旅」だとさらにやくざ映画の様式美というものを否定し、
できるだけ事実に近い、
ある意味ドキュメンタリーのようなものを残そうとしたのかもしれん。
こんだけ文明のにおいのしないロケ地を日本で探すのはもう無理なのかもしれん。

こういう人の生き死にというか殺し合いのディテイルを追求するのは、
世間ではあまり容認されてない。
CGもいろんなことが発達してきたが、
死に方や傷つき方はわざとリアリティを落としているところがある
(その正反対だと思っている人の方が多いようだが。
残酷だと感じることとリアルかということは違う)。
未だに日本刀で生身の人間を切ったときどのように切れるかとか、
弾が当たったときどのように血が流れ肉が裂けるかという描写は未熟なままで、
それはやはり商業映像の世界でそのような需要がないからかもしれない
(日本ならマグロの、トルコなら羊の解体ショーがみれるかもしれんが、
屠殺映像というのはなにしろ牛だろうが鯨だろうが出回らない)。
なにしろあの Postal2 でさえ(というか Postal2 だからというべきか)、
現実感がわざと希薄なように表現されている。
ただ今時CGの分野では珍しいほど手つかずのまま残されているので、
まー10年くらいのうちにはきっと誰かがやってしまうのだろうが、
それで世の中から倫理的にまずいとか攻撃されたり、
マッドサイエンティスト扱いされては割に合わないかもな。

芸術学部だとわざとアングラな映像を講義で学生に見せたりして、
あるいはわざと延々とノイズを聞かせたりあるいはノイズ的映像を見せたりして、
そういうのが一種の通過儀礼として確立しているように思われる。
思うにかつてレオナルドダビンチは、
彼は画家だったわけだが、
必要に迫られて解剖もやったのだが、
つか当時の画家というかテクニカルイラストレータにとって解剖は必要な素養であり、
レオナルドはそれを他人よりよけいに推し進めたのだが、
これは現代のCG制作事情でもまったく同じなんで、
CGを志す者もある程度までは、
刀で体を突いたり切ったりするとどのように血が流れるかということを知っておく必要があろう。

「もやしもん」第一巻

研究者というものをよく調べて活写しているわけだが(しかし、白衣を着て細菌を研究してるというのは野口英世のステレオタイプそのままで結構迷惑)、

世界の研究は日進月歩だ。一秒論文を出すのが他人よりも遅れれば数十年の研究も灰燼に帰する。

というのはまー真実なわけで。
以前にも書いたかもしれないが、アインシュタインが特殊相対性理論を発表したとき、世界中にはアインシュタイン予備軍が何十人といただろう。
もしアインシュタインが半年論文の発表を遅らせていればおそらく別の誰かが「アインシュタイン」になったに違いない。
ゲーデルの不確定定理もまた同じ。
ガウスやガロアの時代からそう。
世の中切磋琢磨しているので、社会が漸次発展し新しい理論が生まれる機運が満ちてくると、後は時間との勝負で、誰が先に思いついて発表するかと言う問題に過ぎない。
要はタイミングであって、誰が誰よりよけい頭が良いとか天才だとかという問題ではない。
時代(or社会)が天才を作るのであって天才が時代(or社会)を作るのではない。
個人とか個性を否定するつもりもないが、かと言って個人崇拝はほとんど間違いなく間違いだ。
個人の役割というのはつまり個人的成功報酬を求め時間を争う結果が社会変化を加速させるということだろう。

人間の発想というものは大差ない。
人間の着想は社会情勢や環境によって100%決まる。
それ以外のものが人間の脳から出てくることはない。
それより重要なことは誰が先にやるかということであり、どのくらい早いかということはあまり関係ない。
ただ単に他人より早ければよくそれ以上のことは必要ない。

それはそうと、「一秒論文を出すのが遅れれば」という焦りは今まさに研究テーマに取り組んでいて、ギアを3速から4速に入れた辺りの人だろう。
研究には緩急流行り廃りがある。
ある意味数十年という単位の研究は存在しない。
数十年という積み上げはあるかもしれんが。
研究ネタは数年単位で徐々にシフトしていくし、新しいネタほど速さが要求される。

というのは一般論なんだが、では新しい研究をやるにはどうするかといえば、社会の機運というか運気を眺めつつ、社会が向かいそうな方向性を予見し掴むというところか(笑)。
しかし社会の方向性なんて所詮は誰にもわからん。
偶然としか言えないのでないか。
確率を増すくらいのことはできようが。

外濠線

小僧の神様など読むと「神田から京橋まで外濠に乗って15分だよ」などというフレーズが目にとまり、外濠線というのを調べてみると:

東京電気鉄道(外濠線) 明治37(1904)年12月8日~明治38(1905)年10月11日 土橋-呉服橋―神田橋-駿河台下-御茶ノ水-飯田橋-四谷見附-虎ノ門-土橋

とあるが、このままでは粗すぎてよくわからんな。ともかく山手線の数倍小さな環状の路面電車があったわけだ。逆の言い方をすれば今や山手線の数倍でかい環状線が開発されてもおかしくない。ああ大江戸線とかではなくて。

十年一日のごとき授業

筒井康隆の小説のモデルになった某大学文学部の教授会は、事実しゃべりたい人だけが延々としゃべり続け、途中退席して喫茶店で休憩してもよく、戻るとまだ同じ話が続いているらしい。

e-Learningの授業を未だに手書きOHPシートでやっているという某教授によれば、授業をやっている時が公務の中で一番楽な時間なんだそうで、なぜかといえば授業中だけは電話もかかってこず、学生に向かって自分がこれまでずっとやってきたことを語る場だからだそうだ。
何十年も大学教員をやっているとそんな境地に達するのだろうか。

放送大学は編集も取り直しも一切やらず本番撮りっぱなしなんだそうだ。
講師が収録までに十分に練習しておくということなのであろう。
落語の寄席と同じで学生が聴講する実際の授業を収録しないとライブ感がなくておもしろくないという。放送大学の授業は講演会を15回やるのと同じ程度に周到に準備されているように見える。

落語のネタを15本しかもってなかった名人の話があるけれども、また十年一日のごとき授業という言い方もあるが、授業というものは同じ内容でも毎回毎年違うというのも真実なのであって、同じ授業も回を重ねれば次第に密度が増し話芸としての完成度も高まり、学生への教育効果も高まるのかもしれん。
そうやって年月を経て練り上げられた授業というものは、独り講師から学生への一斉授業というにとどまらず、むしろ講師と学生との合作というべきものであって、まさしく古典落語のような名人芸へと昇華するのかもしれん。
そこまで練られた授業であればこそライブ収録する価値もあろうと思う。

実際には単に十年一日同じことを繰り返す授業の方が多いのだろうが。

牛乳

牛乳が最近安くてミネラルウォーターより安いくらいで問題になっているが、要するに作りっぱなしで流通や広報をやらないと搾取されまくるというわけだよな。
エンジニアも同じで営業や経営を他人任せにして現場の仕事ばかりやると搾取されまくる。
搾取されっぱなしでまともな評価もされないと腹立つからそのうちろくな仕事しなくなる。

だがそれでも豆乳よりは牛乳が安い。
もし価格が逆転しようもんなら日本酪農業は壊滅するに違いない。
で豆乳よりもわずかに安くなるように牛乳の価格が下がっているのではないかと邪推。
ていうか豆乳こそもっと安く作れるように思うがなんかあるのか。

激安台所洗剤買ったら泡立ち悪い。
安物買いの銭失い。

モーニングついに300円台突入。

メディアに踊らされるということ。

カドの八百屋がなぜすいかを売らず、大根を売るかと腹を立てているようなものだ。
なぜスイカでなく大根かと言えば、たまたま大根を売った方が儲かるからだ。
メディアも同じで、あおれば煽るだけ儲かるなら煽るし。
煽って逆効果ならやらないだけのこと。
失礼なたとえで悪いが八百屋もメディアも同じこと。
よけいにもうけてよけいに給料もらいたいだけのこと。
メディア批判など何の意味もない。
そういう報道を見たい読みたい大衆が諸悪の根源なわけだが、大衆というものは常に責任を免除されている。
そこが民主主義の最大の問題。
大衆の影であるメディアもまた100%免責されてるからたちがわるい。
メディアなぞ無力だ。
メディアの側にしても、世の中踊らしているつもりで何一つ自分の思い通りにできないのだから。

子供の科学教室基金

子供の科学教室基金に募金したからといって子供の科学離れが防げるわけじゃないと思うんだよね。
なんか根本的に、金の使い道を間違ってる気がする。

昔のやり方は昔は有効だったかもしれんが、それが行き詰まって破綻した現在、昔のやり方が良かったというそのまんまの話をされても困る罠。
破綻の原因を洗い出して、これからはどういうやり方に変えていかなきゃいけないのかとか、そういう問題じゃないの。
世の中みんなが貧しかったころ白亜の殿堂建てて大学教育したと。
研究や教育に重点的に投資したと。
そのやり方が奏功したのは1980年代までなんだよね。
今それと同じやり方もしくはその延長線上のやり方やったって駄目でしょうよ。
子供が科学離れするから科学の授業や学外活動を増やそうとか、ドイツに比べて博士が少ないからもっと増やしてって、そういう啓蒙主義的公共事業的やり方が破綻してるんだよな。
博士を増やしたかったら博士が自然と増えるような制度を考えるべきで、予算をぶんどってきて撒いたからといって博士は増えないし、増えても食えなかったり、自力で食える人材も集まらないし育たないんでしょうよ。

link free

今更らネタかもしれんが、 “link-free page” というのは “page without links” という意味かもしれんよね。
書くとすれば “free-link page” かな。
しかしこれでは無料でリンクを張れるページって感じ。
あるいは「このページにリンクを張る場合、そのリンク先のページも必ず自由にリンクを張れるようにしなくてはいけません」、みたいな(笑)。

mixi はいきなり他人だらけのオフ会に足を踏み込んだような間合いの近さが気まずい。
特に「足あと」というので誰が来たか、誰のところに行ったかばれるのがナー。
リアルな知り合いともあまり積極的に「マイミクシィ」とかやりたくないのだが。
まー、間合いのとり方とか慣れてくると違和感なくなるのかな。