十年一日のごとき授業

筒井康隆の小説のモデルになった某大学文学部の教授会は、事実しゃべりたい人だけが延々としゃべり続け、途中退席して喫茶店で休憩してもよく、戻るとまだ同じ話が続いているらしい。

e-Learningの授業を未だに手書きOHPシートでやっているという某教授によれば、授業をやっている時が公務の中で一番楽な時間なんだそうで、なぜかといえば授業中だけは電話もかかってこず、学生に向かって自分がこれまでずっとやってきたことを語る場だからだそうだ。
何十年も大学教員をやっているとそんな境地に達するのだろうか。

放送大学は編集も取り直しも一切やらず本番撮りっぱなしなんだそうだ。
講師が収録までに十分に練習しておくということなのであろう。
落語の寄席と同じで学生が聴講する実際の授業を収録しないとライブ感がなくておもしろくないという。放送大学の授業は講演会を15回やるのと同じ程度に周到に準備されているように見える。

落語のネタを15本しかもってなかった名人の話があるけれども、また十年一日のごとき授業という言い方もあるが、授業というものは同じ内容でも毎回毎年違うというのも真実なのであって、同じ授業も回を重ねれば次第に密度が増し話芸としての完成度も高まり、学生への教育効果も高まるのかもしれん。
そうやって年月を経て練り上げられた授業というものは、独り講師から学生への一斉授業というにとどまらず、むしろ講師と学生との合作というべきものであって、まさしく古典落語のような名人芸へと昇華するのかもしれん。
そこまで練られた授業であればこそライブ収録する価値もあろうと思う。

実際には単に十年一日同じことを繰り返す授業の方が多いのだろうが。

牛乳

牛乳が最近安くてミネラルウォーターより安いくらいで問題になっているが、要するに作りっぱなしで流通や広報をやらないと搾取されまくるというわけだよな。
エンジニアも同じで営業や経営を他人任せにして現場の仕事ばかりやると搾取されまくる。
搾取されっぱなしでまともな評価もされないと腹立つからそのうちろくな仕事しなくなる。

だがそれでも豆乳よりは牛乳が安い。
もし価格が逆転しようもんなら日本酪農業は壊滅するに違いない。
で豆乳よりもわずかに安くなるように牛乳の価格が下がっているのではないかと邪推。
ていうか豆乳こそもっと安く作れるように思うがなんかあるのか。

激安台所洗剤買ったら泡立ち悪い。
安物買いの銭失い。

モーニングついに300円台突入。

メディアに踊らされるということ。

カドの八百屋がなぜすいかを売らず、大根を売るかと腹を立てているようなものだ。
なぜスイカでなく大根かと言えば、たまたま大根を売った方が儲かるからだ。
メディアも同じで、あおれば煽るだけ儲かるなら煽るし。
煽って逆効果ならやらないだけのこと。
失礼なたとえで悪いが八百屋もメディアも同じこと。
よけいにもうけてよけいに給料もらいたいだけのこと。
メディア批判など何の意味もない。
そういう報道を見たい読みたい大衆が諸悪の根源なわけだが、大衆というものは常に責任を免除されている。
そこが民主主義の最大の問題。
大衆の影であるメディアもまた100%免責されてるからたちがわるい。
メディアなぞ無力だ。
メディアの側にしても、世の中踊らしているつもりで何一つ自分の思い通りにできないのだから。

子供の科学教室基金

子供の科学教室基金に募金したからといって子供の科学離れが防げるわけじゃないと思うんだよね。
なんか根本的に、金の使い道を間違ってる気がする。

昔のやり方は昔は有効だったかもしれんが、それが行き詰まって破綻した現在、昔のやり方が良かったというそのまんまの話をされても困る罠。
破綻の原因を洗い出して、これからはどういうやり方に変えていかなきゃいけないのかとか、そういう問題じゃないの。
世の中みんなが貧しかったころ白亜の殿堂建てて大学教育したと。
研究や教育に重点的に投資したと。
そのやり方が奏功したのは1980年代までなんだよね。
今それと同じやり方もしくはその延長線上のやり方やったって駄目でしょうよ。
子供が科学離れするから科学の授業や学外活動を増やそうとか、ドイツに比べて博士が少ないからもっと増やしてって、そういう啓蒙主義的公共事業的やり方が破綻してるんだよな。
博士を増やしたかったら博士が自然と増えるような制度を考えるべきで、予算をぶんどってきて撒いたからといって博士は増えないし、増えても食えなかったり、自力で食える人材も集まらないし育たないんでしょうよ。

link free

今更らネタかもしれんが、 “link-free page” というのは “page without links” という意味かもしれんよね。
書くとすれば “free-link page” かな。
しかしこれでは無料でリンクを張れるページって感じ。
あるいは「このページにリンクを張る場合、そのリンク先のページも必ず自由にリンクを張れるようにしなくてはいけません」、みたいな(笑)。

mixi はいきなり他人だらけのオフ会に足を踏み込んだような間合いの近さが気まずい。
特に「足あと」というので誰が来たか、誰のところに行ったかばれるのがナー。
リアルな知り合いともあまり積極的に「マイミクシィ」とかやりたくないのだが。
まー、間合いのとり方とか慣れてくると違和感なくなるのかな。

天才は偶像

天才は後世の人が祭り上げたもので偶像崇拝個人崇拝の一種。
昔は聖人とか教祖様とか。
弘法大師も聖徳太子も日本仏教徒が布教に都合の良いように作り上げた偶像。
聖徳太子に至っては存在すらあやしい。
空海はもちろん優れた人物だっただろうが普通の人間。
レオナルド・ダ・ヴィンチも19世紀が捏造した偶像。
同世代の人間が死に絶えると同時に歴史も人物評価もどんどん後世の人間に都合の良いように変わっていく。
明治維新や大東亜戦争も同じ。

最近は情報過多になってごまかしもだいぶきかなくなった。
こういう世の中ではいくら誰かが意図的に祭り上げても天才というものは生まれにくい。
ものすごく有能で優秀な人でも天才まではいきにくい。
情報が誤っていたり欠落したところにこそ天才は生み出される。
坂本龍馬も似たようなもの。

良い研究良い作品はたとえ同時代では理解されなくても、
長い年月をかけて淘汰されて歴史に残るんだと昔は考えていたが、
そういう例もあるがそうでない例もたくさんある。
一握りの天才ではなく無数の無名な有能な人物たちによって今が成り立っているのだと思えば、
少しは気が楽だ。

アーティスト

エンジニアはアートが天然自然に存在するように思いがちで、「数学はアートだ」とか「宇宙はアートだ」とか「自然はアートだ」とか「科学はアートだ」とかいいたがる。しかしアートはアーティストが作り出すものであり、アーティストはおそらく人類の歴史でもそうとう古くからいる人種だが、エンジニアは近代以降に現れたきわめて人工的な職種で、エンジニアが夢想するアートというものもまた人工的なものであって、これに対してアーティストがアートと呼んでいるものはきわめて人間臭いものじゃないかと思う。

アーティストは今でも個人経営か家内制手工業の形態をとる。デザイン事務所もたいていこぢんまりとしている。アーティストはパトロンという人たち抜きでは存在できず、むしろ逆に、アートの本質はパトロン制度そのものではないかという気もする。アーティストは自らの意志で存在するのでなく、国家や企業に縛られない個人のアーティストというものをパトロンが必要とするから、存在し得る。アートとは何かという問いは非常に難しいが、制作費を稼ぎ図録に載せ美術館に収蔵してもらい後世に作品を遺すという才能、もしくはそういう目利きをするキュレーターという才能であれば、かなり正確に定義可能だろう。

エンジニアは近代以来国家や企業に雇用されることによって、アーティストから分離して生まれた。エンジニアは賃金労働者であって近代では組合や労働法などによって守られているから、職務規定に縛られてはいるが雇い主に媚びる必要はない。ある一定の制約のもとで生活は保障されているから、「自己の職務と夢想に忠実に」研究や開発ができる。

エンジニアとアーティストが見た目これだけ違っているのは、実は単に雇用形態の違いだけなのかもしれない、などということはすでに誰かが指摘してることに違いないのだが。

毛沢東の私生活

「毛沢東の私生活」という本を読み始める。
昔も読んだのだが。
毛沢東の主治医になった李という医者が毛沢東に秘書にならないかとか、
政治や哲学の話題をふられたりする。
医者(技術屋)が秘書(事務屋。政治家)に転向した例は多い。
孫文、魯迅、郭沫若…、などと言ってしきりに誘われる。
しかし李先生はかたくなに一医師であり続ける。
そして毛沢東の死語だいぶ経ってからこんな暴露本を書いたりするわけだなー。
若い頃は技術屋さんでも中間管理職以降はだんだんマネージメントをやらされる。
昔読んだときと違う意味で感情移入してしまったわけだが。

ウコン

ごく大まかに言えば、
安いウコン茶は原産地がインドで、
高いのは沖縄産。
カレーの黄色いのはウコン(ターメリック)が入っているからで、
インドは世界最大のウコンの生産・消費国。
物価もそんな高くないから、
インドから輸入すれば安く作れる。
沖縄産にこだわるとやや高くなる。

焼酎

焼酎試飲会。
青酎というすごく臭い酒を飲んだが昔の白波はこれよりもずっと臭かったという。
なんでも数年前森伊蔵などの臭くなくてうまい芋焼酎というのが評判になり、
白波など昔からある焼酎も臭くないよう努力した結果、
今では臭い焼酎の方が珍しく「個性的」だなどと言われるようになったそうだ。
芋焼酎など臭くて女性が飲むものではないという私の先入観は間違いではなかったらしい。

焼酎は戦時中に兵隊に飲ますアルコールを増産するために国策として清酒の酒造に作らせたものがほとんどだという。
南九州は清酒を造るのには暑すぎるので焼酎専門の酒造が多いが、
長野辺りだと冬は清酒、春から焼酎を造るそうだ。