風邪ひいた

逆算するとどうも5月4日(土)に近場で飲み歩いたときに感染したらしい。この日帰宅してすぐにうがい手洗いしてあったかくしてすぐに寝ていれば防げていた可能性は高い。

喉に違和感を覚えたのは6日。9日あたりが一番重症でとにかく喉が痛い。私の場合風邪をひくのはたいてい11月で、寝冷えしてまず鼻にきて、のど、肺ときておわるんだが、今回はずっと喉が痛かった。いつもと違うタイプのウィルスなのかもしれない。今日11日は1週間にしてだいたい回復したが、まだなんか微妙に調子悪い。いずれにせよまったく無駄な風邪だった。

楽しいより疲れないように

40代くらいまでは毎日おもしろおかしく暮らすことが人生の目的だったところがある。46才で大病を患ってもそのこと自体にあまり変化はなかった。多少金は使っても飲み歩いて楽しければそれは良い一日と言えた。

しかし最近は、いくら楽しく面白く過ごしても、翌日まで疲れが残っていると後悔のほうが強い。毎日、肉体的にも精神的にもできるだけ疲れないように生きていたい。アルコールが翌朝まで残るのがつらい。深夜2時くらいにはすっかりしらふに戻っていたい、などと考えるようになった。

酒飲んで面白いというのも、今となってはだいたいこのくらい飲んでこのくらい遊べばこのくらい面白いだろうというのがわかってしまっていて、意外性もあんまりなくて、要するに年を取ると人生そのものが全然面白くないという、毎日ただそれだけのあたり前のことになってしまった。

Richard Wagner が書いたものを読もうかと思って読んでみるが当然ながらめんどくさくて続かない。ドイツ語じゃなく英語で読んでみようかと思うがやはりめんどくさくて続かない。定年後にヒマになったら読もうかとも思うがそもそもヒマになって何がやりたくなるかもわからない。今さらあれもこれも読んで書いても仕方ないじゃないか。今書いているものを書き終えたらもう何も書かないというのもありかと思う。75才くらい、つまり今から15年後くらいに死ぬのがちょうどよいのではないかと思う。それから先何か新しいことをやるとはとても思えない。何もやることないなら生きている意味はなくないか。

仮に75才になってめちゃくちゃ作曲がしたくなって作品としては全然ダメだとしても何か作って残したいと思ううちは、後世の評価などは別として、生きててもよいと思う。そういうめちゃくちゃ何かしたいというものが無いのに、ただ疲れないように生きていても意味はなくないか。

仕事が忙しくずっと仕事場に泊まっていたりしたが連休でずっと家にいると家にいることにも飽きてくる。

本を書いているんだが長くなり過ぎた。削ろうと思うが、ではどこを削ろうか。だんだん何を書いているのかわからなくなってくる。

正徹と了俊

正徹は調べ始めるとだんだんわからなくなってくる人だ。どちらかといえば理論家のような気がしていたが信用がおけない。歌はつまらないような気がしていたが、良いものもある、みたいな。今川了俊の弟子だと言っておきながら実はどうもあやしい。疑い始めるときりがない。定家の崇拝者だというのも周りがそうあってほしいと思い、そういわせたような感じもしてくる。

なので結局彼がどういう人であったかということは彼が詠んだ歌をみるほかはあるまい。

正徹に比べて了俊は調べれば調べるほどわかりやすい人だ。了俊の歌は自分で処分したと言っていてほとんど残ってないが、残っているぶんをみても、確かにたいして面白くはなさそうだ。了俊の歌がほんとうにおもしろくなかったとしたら、和歌というものはほんとうによくわからないものだとしかいえない。

fallout (TV series)

fallout をうまく紹介している、fallout ファンにとっても楽しめるドラマにはなっているので、一応成功しているんじゃなかろうか。主人公の Lucy MacLean 役、あとグール役もまあまあ。

fallout をまったく知らない人にとってはどうなのだろうか。ただそういう人まで巻き込んで面白がらせようという壮大な野望で作られたものではもともとないのだろう。

ぐちゃぐちゃしたスラム街の描写は良い。一気に最後まで楽しく見れたのは良いのだが、世界観というかSF考証には少し疑問が残る。特に低温核融合。なんかの起動装置を科学者の首に埋め込んでその争奪戦になるという。結局それだけの話なんだけど、その起動装置に必然性がまったく感じられない。低温核融合装置作りましたで何がいけないのか、なぜ特殊な起動装置が必要なのか、その開発者がなぜ Vault を襲わなくてはならないのか(Raiderである必然性が感じられない)、なぜ Lucy の父はあのような判断をしたのか、なんで Vault で新興宗教が流行ってるのかなどなど、すべての設定に無理があるように感じる。

なんというかもう少し、New California Republic の話で盛り上がれはいいんじゃね、とも思ったが、まあいいや。

木枯し紋次郎

菅原文太の木枯し紋次郎を昔見て面白いなと思って、prime video にあったのでまた見てみた。二度見たせいもあるんだが、最初の15分と最後の10分だけみればわかる、わかりやすい構成の映画だ。菅原文太の股旅物として初見でじっくり見るとそれなりに面白いと思う。最初の仁義を切るところも、昭和残侠伝に並ぶ名シーンだと思う。

島流しにあった罪人に対する扱いがひどすぎるのが少し気になった。鬼平犯科帳なんかみていると、罪人に対する扱いも、一人ひとり違っていて丁寧に描き分けられているのに対して、この作品ではただ一律に厳しく扱っていて、幕府とか任侠に対する設定が雑すぎて、戦後民主主義的偏見を感じる。罪人とか流人に対する扱いとか、江戸時代の奉行というものについてもう少し時代考証してほしい。人民はただ抑圧されていたとか虐げられていたという、ただそれだけの前提で話を作られては、納得できないし、見ていていやになる。

あと紋次郎が強すぎる。敵が何人いても一人で全部斬ってしまう。これがリアリティをそいでいる。その点やはり鬼平犯科帳は良い。強敵がいたり、ライバルがいたりしてほしい。結局紋次郎が勝つんだろという、ただ爽快感だけ求める人には良いのかもしれないが、簡単すぎてつまらない。

「あっしには関わり合いのないことでござんす」という名台詞を最後に一回だけ使わせるという演出はストイックで良い。

一宿一飯の恩義で、魚の骨を紙に包んで懐にしまっていたのは、あれはどういう意味があってのことなのだろうか。箱膳ではそうするものなのか。

渡世人が旅先でその土地を仕切る親分の元に世話になる(草鞋を脱ぐ)場合、幾つもの厳しい掟を守らねばならず、その中には「出された食事は完食する」というものもあるのです。そしてどうしても食べられない魚の骨などはああやって懐紙に包んで懐にいれることになっているのです。

博徒の食事作法。渡世人に食事を提供する側はご飯二膳の提供が作法になっており、客人は出されたものを残してはならないのも作法。おかずに魚が出た場合は、骨や尾は懐紙に包んで懐に入れ、大盛りの二膳飯を食べきれない人は一膳目の中央部分だけを食べておかわりを願い出るのが作法と言われている。

Yahoo知恵袋に書かれたものの引用。

確かに私が小学生の頃には給食は完食しなきゃならないという掟のようなものがあったが、あれも渡世の掟のようなものだったのか。

ゴジラ-1

なんなんだろうか。自分にはまったく面白くなかった。ゴジラが口からなんか吐くのにいちいち背中のトゲが立っていくあの演出も、ただイライラするだけで面白くない。破壊シーンが面白いというが、は?何が、としか思えない。

雪風と震電。嫌いじゃないはずなのになんかおもしろくない。既視感のせいかもしれない。こだわりのツボが違うのかも。メカに対して求めているものが自分となんか違う。うまく説明できないが。永遠のゼロとか海賊と呼ばれた男なんかをちらっとみてつまんね、と思ってやめた感じと同じ。同じ監督だからそうなのだろうが、ともかく監督と波長が全然シンクロしない。この監督が面白いと思うものを私がことごとく面白いと感じないせいだと思う。

俳優が面白くない。一人として面白いと思えなかった。ものすごく無個性に見えた。演技が下手だと言いたいのではない。たぶんうまいのだろう。しかし役を演じているだけの、ただの記号のようだった。全員が脇役というか、ゴジラですらそうで、淡々とストーリーが進んでいくだけに見えた。

日本でも、世界的にも割と評価高かったこの映画が、自分としては全然面白く感じないのが不思議で仕方ない。もしかしたらゴジラとかガメラとか怪獣映画に対して不感症になっているのかもれない。世の中でウルトラマンとか仮面ライダーなんかが流行ればはやるほど自分の中では嫌いになっていく。マイナーなものを面白いと思い、みなが好きなメジャーな作品を嫌うという傾向はある。メジャーになっていけばいくほど特有の臭気を放つようになる。これだけの手間ひまと人と金をかけたのでこういうものができました、と言われている気がする。意外性が無い。インプレゾンビ的な、世の中に媚びているような作品になっていくような気がするのである。

じゃあおまえは監督が好き勝手に作ったマイナー映画が好きなのかといわれても困る。たぶん嫌いだ。

タランティーノ監督はわりとすきだ。レザヴォアドッグとかパルプフィクションとか、最初はなんとも思わなかったが何度かみているうちに好きになっていく。たぶんシナリオが凝ってるからだろう。見るたびになにかの気付きがある。で、ゴジラ-1 のストーリーはシンプルすぎる。なんかひねりあったかな。最後に船がいっぱい集まってきてゴジラを引き上げて、戦闘機が特攻するの。あれ、面白いか?永遠のゼロと海賊と呼ばれた男の組み合わせだよな?

たぶん私は、コロンボとかホームランドとか、目を離した隙にストーリーが負えなくなるくらい展開が読めない話が好きなんだと思う。展開がある程度読めたとたんにつまらないと感じるんだと思う。凝った戦闘シーンとかたぶん飛ばしたいタイプで、そんなのCGとかAIで自動生成できるだろとしか思えない。ハリーポッターとかスターウォーズもそう。レースシーンのSFXとか何の興味もないしハラハラドキドキしない。

Deep Red (サスペリア2) とかSource Code (ミッション8ミニッツ)も好きだな。やっぱ、作品そのものとか、作品のコンセプトが好きとかじゃないんだよ。特に特定のシリーズものだからとか、あるジャンルだから好きとかじゃないんだよ。なんかしら新しいものがみたいだけなんだな。今までなかった要素が少しでもあればよい。今までどこかでみたような要素をうまくまとめた作品は退屈なだけ。ストーリーと役者の演技、そして監督の演出が好きなんだと思う。というか、面白いと思うことが監督と一緒じゃないと面白いと思えないんだと思う。共感がない。単に娯楽作品として楽しめるように作られている作品だから楽しめるんじゃないんだよ。そういうものをみたいんじゃないんだ。

ガソリン車は臭いしうるさい

EVが好きなわけではないがガソリン車よりはましだと思う。市街地の交通に関していえばさっさとEV以外禁止してほしい。臭い。うるさい。あと完全自動運転にしてほしい。あほな人間に運転させるのはもうやめてほしい。人間が勝手に自分の好き勝手に車運転するとか危険すぎるだろ。

人生の選択肢

ずーっと家にいて人に会わず、寝たいときに寝て、おきたいときに起き、仕事したいときに仕事していると、酒を飲みたい気持ちもおこらなくなる。

竹取の翁みたいな生活、つまり、山の中で竹を切って竹細工を作って売りに行って働きたいときに働くというような生き方をするのが自分には一番向いていて、ストレスを抑えるために酒を飲む必要もなく、病気にもかからず長生きできたのかもしれなかった。今の時代でいえば田舎暮らしでリモートワークみたいな。

しかしながら私の場合、仕事が増えると増えたなりになんとかこなしてしまい、さらに仕事が増えてもだんだんにこなせる量が増えていき、しかしながら一方でストレスもまた増えていって、飲む酒の量が増え、心臓を悪くしてしまったのかもしれない。

田舎から出てきた私は都会でおもしろおかしく毎日を暮らしているともいえるんだけども、人生の選択肢を間違えたような気もする。

改行が多く行間が広いブログ

行間が異様に広く、ときどき2行か3行も行間をあけたり、しかも改行が多すぎて1行が異様に短いブログを書く人がいるが、おそらく間違いなくスマホで書いているのだろう。スマホで見ればそういう文章はそれなりに見えるが、PCで見ると異様に読みにくい。

私のこのブロクで古い記事には Markdown で書いていたものがそのまま放置されているものが多くあり、改行が多くみえるが、それは意図してそうしたわけではない。いわば、プログラムのコーディングで80文字で適当に改行を入れたりするがそれと同じような感覚で改行を入れている。そうして文章を「コーディング」しておき、最終的に Markdown が整形して表示してくれる、という書き方を好んでいた頃があったが、今では普通に、ワープロ的な書き方をしている。Markdown に依存しているとそれを他にコピペするときなどに不便だし、wordpress は勝手に仕様変更していくし、どこに改行を入れ、どこでパラグラフを分けるかということは最初から明示しておいたほうが良い、などといろんなことを総合して今のような書き方(つまり wordpressのデフォルトの書式で書く)に落ち着いた。

ブログ村など見るとレイアウトとか背景とかが異様に読みにくいて読む気すら起きないのにわりと読者がいるブログがあってああいうのは要するにみんなスマホで読めばそこそこ読めるのだろう。

google chrome拡張機能手書き入力

atokを使わない場合、wordで手書き入力するにはms imeを使うしかないらしい。

google chrome (braveを含む)で手書き入力するには、まず拡張機能を google input tools で検索してインストールし(「手書き入力」で検索しても出てこない)、手書き入力を有効にするには「手書き入力」で検索をかければそのウィンドウが開く。

なかなか難易度が高い。ネットを見てもあまり説明もない。

atokが年寄りに使われ続けている理由が少しわかった気がするが、しかしもう atokを使おうとは思わない。