なんかもう蓮舫の顔をみたくないのだが facebook にどんどん流れてくるので困ってしまう。
記事は読んでもいいが蓮舫の写真が流れてこないようにできないのだろうか。

蓮舫についてケント・ギルバートがもごもごっと擁護するような発言をしたのは、
小野田紀美の件を知っていたからなんだろうな。

で、蓮舫は国会議員なんで、法務省とか警察とか検察が動くということはまあおかしいわけよね。
国会議員は国民の代表として選ばれているわけだから。
役人は基本的に国会議員には楯突かないでしょ。
議員は親分、役人は子分の関係なのだから。

田中角栄の時は異常だったけどねえ。

最悪、二重国籍でも、税務署がきちんと収入把握してて、出入国管理もきちんとしてりゃまあいいとして、
そこがぐだぐだ、というか説明できないんじゃアウトだよな。
マイナンバーはやはり必要なんだよ。

政治家なんて信用できないから、法律とか、マイナンバーなんかの制度が必要になってくる。
国籍法にしても同じ。
皇室典範でも憲法でも同じ。
そこである程度、おかしなことをしようというやつは振り落とされる。

ミステリーものは読者が多いというので、今回マリナを書いてみたのだが、
まあ、マリナはいきなり人が死んだりするわけじゃないんで、そんなにミステリーでもサスペンスでもないんだけど、
それで気付いたのは、
なるほどそのジャンルにはそこそこ読者がいて、読んでくれるのだが、
その読者というのも限られていて、
kindle で unlimited で読んでて刑事ものが好きで、
少し官能小説系なやつ(マリナは官能小説じゃないけどねっ)が好きな人の数というのは限られているのだ。
で、ある程度読まれるともう読まれなくなってしまう。
そこでおわり。

で、今の世の中、一番魚影が濃い漁場というのは、村上春樹や三浦しをんみたいな、
もやっとした小説を読む人たちであり、そこからラノベやBLなんかが派生してきているのを感じる。
読者を獲得しようと思えばそういう漁場にどんどんコマセをまいて釣り糸垂れるのが一番効率よく、
またもともと自分が村上春樹や三浦しをんのファンであれば、そういうふうにして小説を書き、営業するのは全然間違ってないと思う。
最近は村上春樹の影響力の大きさがなんか実感できてきた。
村上春樹は読まないんでよくわからないが、リバースエンジニアリング的に村上春樹という人が実感できてきた気がする。

でまあ、私は、村上春樹や三浦しをんみたいな小説を敢えて書かない人なんで、
読者がいるわきゃない。
しかし古代ギリシャものが好きな人というのは一定割合いて、
そういう人はほぼ確実にヒストリエを読んでいて、
その読者の一部が私のエウメネスを読んでくれていて、
だからエウメネスはときどき思い出したようにだれかが読んでくれる。

そうしてさらにその中のごく一部の人が私のほかの小説も読んでくれるという仕組み。

小説の作品数は多けりゃ多いほど良いように思う。
やっぱ新作は書かなきゃいけないわけよね、コンスタントに。

私が書いたもののなかでよく読まれているものとまったく読まれてないものの差は自分ではないのだが、
読者にはあるわけなのだ。
読まれない作品というのは、要するに、社会との接点がない作品だ。
世の中で読まれている特定のジャンルと関係ない孤立した作品。
他人と違うものを書きたいと思っている私にはかなりこれがこたえる。
今までになかった新しいものを書くのが novel だと思って書いても読まれはしない。
今までにあるものを少しひねった作品がどんどん読まれるのがつらい。

そんで30代の頃は毎日夕方に酒を飲めば発散できたのだが、
今はそれがうまくできない。体力が落ちたせいだろうと思う。
そうすると人間関係も希薄になっていく。
人間関係自体以前は未知な部分が多かったが経験が増えるにつれてこれ以上どうにも発展しないってことがわかってくる。
あちこち旅行もしたから最近はおもしろみもすくない。
小説もいろいろ書いてみて書いてもどうせ読まれないってことがわかってきたし、
仕事もこれ以上どうにもならないし、
健康状態はこれからどんどん悪くなるし、
急に大金持ちにでもならない限りこのさき面白いことなんかありゃしないってことがわかってくる。
執筆活動にのめり込んだりして現実逃避しても限度がある。

酒というものが持ってる魔法の力を使いすぎたかもしれない。

まあ、完全に煮詰まってるよな。

wolfenstein: the new order 買ったが全然面白くてやる気がおきない。
call of duty 4 みたいな、ミッションインポッシブルをゲームにしたみたいな、
イベントドリブンでチェックポイント制の展開になっててなえる。
fallout とは全然違う。つまらん。

賊軍の合祀

10月13日の産経新聞に全面広告の意見広告が載っていた。

> ご存知ですか?

> 靖国神社に祀られているのは官軍のみで、賊軍と称された方々が祀られていないことを・・・

これは10月4日の
[靖国神社150周年 西郷隆盛や幕府軍の合祀計画が急浮上](http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20161004-00000010-pseven-soci)
という記事、
10月12日のNHK報道
[「西郷隆盛や白虎隊も靖国神社に合祀を」亀井氏ら](http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161012/k10010727511000.html)
と関連するものであろう。

西郷隆盛、白虎隊、新撰組、江藤新平らは、靖国神社には祀られていない。
ただし靖国神社の同じ境内の中にある、鎮霊社には祀られている。

私は、靖国神社の合祀者を増やすのは反対だ。
そういうことを言い出すと、
東京裁判で有罪判決を受けて死んだ政治家(軍属ではない)や、
民間人の挺身隊なども合祀し、
戦争に巻き込まれて死んだ、東京空襲の死者や原爆被害者などみな合祀しようという話になり、
さらには日本国民全員が靖国神社の氏子であるなどと解釈する者が出てくる。
それは明らかに昭和天皇が望まなかったことだ。
昭和天皇によれば明治天皇も、民間人を合祀することには反対であった。

亀井静香が言う、

> 靖国神社は日本人の心のふるさとのような所だ。この問題には、右も左もなく、国民の中にも理解が広がっていってる

というような、軍人と民間人を際限なく混同するような思想は間違っていると思う。

もし必要ならば、鎮霊社の扱いをもっと大きく丁重にすれば良い。
原則を変更すべきではない。

cf. [靖国神社合祀](/?p=16623)、[御衣黄](/?p=5747)。

伊勢物語の真相2

66、67、68

69、70、71、72
例の伊勢斎宮の話。

> ちはやぶる 神のいがきも 越えぬべし 大宮人の見まくほしさに

> 恋しくは 来ても見よかし ちはやぶる 神のいさむる 道ならなくに

これはもともと万葉集11-2663

> 千葉破 神之伊垣毛 可越 今者吾名之 惜無

> ちはやぶる かみのいがきも こえぬべし いまはわがなの をしけくもなし

73、74

75
これは有常が妻を任地の伊勢に連れて行こうとした話だろう。
「見る」と「逢ふ」が区別されているのだが、「見る」とは「文を見る」の意味だろう。

76
これの謎解きは『古今和歌集の真相』に書いた通り。

77、78
文徳天皇、女御・多賀幾子、藤原常行、在原業平の話。

79
貞数親王の話。
父は清和天皇、母は在原行平の娘・文子。

80

> むかし、おとろへたる家に、藤の花植ゑたる人ありけり。

在原氏と藤原氏のたとえだというのだが、それはどうだろうか。

81
源融の話

82、83
惟喬親王、在原業平、紀有常の話

84
長岡

85
出家後の惟喬親王

86
有常と妻の話か?

87

> 津の国莵原の郡芦屋の里

阿保親王の領地であるという。

88

95
藤原高子に仕える男女の話。

97
藤原基経

98
藤原良房

99
業平

101
行平

102
尼となった斎宮の宮とは誰だろうか。晏子か恬子だろうか。

103
仁明天皇に仕えた男。850年までの話になる。

106
竜田川。渚の院、業平。

107
藤原敏行

114
光孝天皇。伊勢物語の中では比較的新しい。

115、116
陸奥の話

125

> むかし、男、わづらひて、心地死ぬべくおぼえければ、

> つひにゆく 道とはかねて 聞きしかど きのふけふとは 思はざりしを

後付けな感じがするが『古今集』に採られているので古い歌なのだろう。
業平かどうかは疑わしい。

伊勢物語の真相

『古今和歌集の真相』を手直ししてて、『伊勢物語』が気になり始めた。

『伊勢物語』125段、藤原定家版以外なく、つまり、定家までどのような形で伝承してきたかすら、わからないということだ。

それでまあ、紀氏の家に紀有常の物語が残り、また藤原高子と遍昭の物語がこれとは独立してあった。
紀有常物語を執筆したのは紀貫之である可能性が高いと思う。
この二つの物語は比較的似ているし成立時期も重なっているので、
のちに一つに合体してしまい、
さらに似たようなエピソードも追加されて、
主人公は在原業平であることにされてしまったのではないか。

奈良や大和の話が多いのも気になる。
平城天皇系統の物語が在原氏を経て残ったのかもしれない。
京都からわざわざ奈良に来たときの話ではなく、平安時代になってもまだ奈良に住んでいた人たちの話。

1と2はよくわからんが、3から6段までは、高子と遍昭の若い頃の話。
高子入内866年より前。
1と2は後から巻頭に付け足された可能性もある。

7段は、有常が伊勢に権守として赴任したときの話だろう。857年。

8段は、有常が信濃に権守として赴任したときの話だろうから、871年頃。

9、10、11、12、13段は、有常が下野に権守として赴任したときの話。867年。
12段は、おそらく「国の守」である有常が下野に向かう途中に武蔵野辺りで盗人を捕らえて連行したという話だろう。

14、15段。

> 陸奥の国にすゞろに行きいたりけり。

下野は白河の関を越えれば陸奥であるから、そういうこともあったかもしれない。

16段。これはまさしく有常とその妻の話である。
時期はよくわからないが東国に赴任するころと一致するのに違いない。

17、18、19、20、21、22、23、24、25、26、27、28、29、30、31、32、33、34、35、36、37段。謎。
26段は高子の話か。
断片的なエピソードが集められた感じだ。

> 田舎わたらひ

> むかし、男かた田舎に住みけり。男宮仕へしにとて、

子供の頃は奈良で育ったが、宮仕えしようと京都に移り住んだ、という意味ではなかろうか。
ならばやはり在原氏の話ではなかろうか。業平とは限らない。
業平の父・阿保親王だとすると田舎とは太宰府であることになる。
奈良ではなく長岡京かもしれない。

38段。これも明白に有常の話。

39段。淳和天皇と、崇子内親王と、源至の話。848年。

40段。謎。

41段。

> 武蔵野の心なるべし

とあるから、有常の話か。

42
謎。

43
賀陽親王の話。
賀陽親王は桓武平氏の祖葛原親王の実母弟。871年まで生きたので、
有常より20歳ほど年上だが、同時代人とも言える。

44
有常の馬の餞の話か。

45
謎。

46
地方に下った有常へ京都の友が消息した話か。

47
謎。

48
これも有常の馬の餞の話か。

49
謎だが、有常の話であるとすれば、
妹とは、仁明天皇更衣の種子、
文徳天皇更衣の静子かもしれない。
妹に

> 聞こえけり

とあるのが暗示している。

50、・・・、59
謎。

60、61。
有常が肥後権守となったときの話か。

62
謎。

63
在五中将、つまり業平の話。

64
謎。

65
非常に興味深い話だ。
ここには藤原高子と清和天皇と在原某が出てくる。
清和親王の母・藤原明子(染殿后・文徳天皇の女御・藤原良房の娘)も出てくる。
高子入内後の話としてもよいが、それだと

> おほやけおぼしてつかう給ふ女の、色ゆるされたるありけり

皇后ならば禁色を許されているのは当たり前だろう。
だから高子がもう少し若い頃の話ではないか。
そしてそれより若い在原某は業平ではあり得なく、
業平の息子の棟梁、あるいは孫の元方であるかもしれない。
棟梁は有常の娘の子である。

清和天皇は幼主であったから女盛りの高子が不倫していてもなにもおかしくはない。

十一日の月

新月は日没時に西の地平線上に出てすぐに沈んでしまうので、実際には見えない。
目に見えるようになるのは「三日月」からだが、夕方西の空に出てすぐに沈んでしまう。

十五夜、満月は夕方東の空から昇り明け方西の空に沈む。つまり夜中見えるということだ。
十六日の月は「いざよひ」、
十七日の月は「たちまち」、
十八日の月は「ゐまち」、
十九日の月は「ねまち」、
二十日の月は「ふけまち」、
つまりだんだんに東の空から月が昇ってくるのが遅くなる。
月の出が日に日に、50分ほど遅くなっていく計算。

十一日の月は「とをあまりのつき」と言うらしい。
『伊勢物語』82段「渚の院」

> ・・・帰りて宮に入らせ給ひぬ。夜更くるまで酒飲み、物語して、あるじの親王、酔ひて入り給ひなむとす。十一日の月も隠れなむとすれば、かの馬頭の詠める。

> 飽かなくにまだきも月の隠るるか山の端逃げて入れずもあらなむ

> 親王にかはり奉りて、紀有常、

> おしなべて峰も平になりななむ山の端なくは月も入らじを

ここで舞台装置として出て来る「十一日の月」というのはつまり、
夜明けよりも三時間あまり早く西の空に沈んでしまう月、
もう少しで夜が明けるのでそれまで飲みあかしましょうよということになる。

『伊勢物語』の主人公は紀有常ではなかろうか。

そして『伊勢物語』の筆者は紀氏の誰か、有常から昔話を聞けただれかだろう。
紀貫之である可能性もある。
貫之は『土佐日記』で渚の院に言及しているが、
彼は当然、渚の院における惟喬親王や在原業平、そして紀有常の故事を知り得る立場にいた。

紀有常は名虎の子で、妹に静子があり、静子は文徳天皇の更衣となり、文徳の長男・惟喬親王を生んだ。
藤原良房の関心は文徳からその皇子の惟仁(後の清和天皇)に移りつつあった。
文徳朝末期、有常は伊勢権守となる。
これゆえに『伊勢物語』というのではないか。
権守というのだから実際に伊勢に赴任したのである(ほんものの伊勢守はおそらく王(皇族)で遥任)。
69段、

> 昔、男ありけり。その男伊勢の国に狩の使にいきけるに、かの伊勢の斎宮なりける人の親、「つねの使よりは、この人よくいたはれ」といひやれりければ、親のことなりければ、いとねむごろにいたはりけり。朝には狩にいだしたててやり、夕さりは帰りつつそこに来させけり。かくてねむごろにいたつきけり。

> 二日といふ夜、男われて「あはむ」といふ。女もはた、いとあはじとも思へらず。されど人目しげければえ逢はず。使ざねとある人なれば遠くも宿さず。女の閨近くありければ、女人をしづめて、子ひとつばかりに男のもとに来たりけり。男はた寝られざりければ、外の方を見出して臥せるに、月のおぼろなるに小さき童を先に立てて人立てり。男いとうれしくて、わが寝る所にゐて入りて、子一つより丑三つまであるに、まだ何事も語らはぬにかへりにけり。男いとかなしくて寝ずなりにけり。

> つとめていぶかしけれど、わが人をやるべきにしあらねば、いと心もとなくて待ちをれば、明けはなれてしばしあるに、女のもとより詞(ことば)はなくて、

> 君や来し 我や行きけむ おもほえず 夢か現か ねてかさめてか

> 男いといたう泣きてよめる、

> かきくらす 心の闇に まどひにき 夢うつつとは こよひさだめよ

> とよみてやりて狩に出でぬ。野にありけど心は空にて、こよひだに人しづめていととく逢はむと思ふに、国の守、斎宮の守かけたる、狩の使ありと聞きて、夜ひと夜酒飲みしければ、もはらあひごともえせで、明けば尾張の国へたちなむとすれば、男も人知れず血の涙を流せどえ逢はず。夜やうやう明けなむとするほどに、女がたより出だす杯の皿に歌を書きて出だしたり。とりて見れば、

> かち人の 渡れど濡れぬ えにしあれば

> と書きて末はなし。その杯の皿に続松の炭して歌の末を書きつぐ。

> 又あふ坂の 関はこえなむ

> とて明くれば尾張の国へ越えにけり。

> 斎宮は水尾の御時、文徳天皇の御むすめ、惟喬の親王の妹。

これが実話であるとすると、伊勢国の守、兼、斎宮の守というのが有常。
「狩の使」とは朝廷の用にあてる鳥獣を狩るために地方に使わされた使者だが、
負担が大きいとして、平安初期から延喜五年までしか行われなかった。
この狩の使というのは、誰だかわからないが業平である可能性は必ずしも高くない。

有常が伊勢に赴任したのは857年。
この年の伊勢斎宮は晏子内親王。
文徳天皇の第一皇女だが、惟喬親王の実母妹ではない。
惟喬親王の実母妹、つまり静子の娘・恬子内親王が伊勢斎宮であるというのが通説のようだが、
なんか違う気がする。
業平との年の差は20歳くらいある。
有常815年生まれ、業平825年生まれ、惟喬844年生まれ、恬子848?年生まれ。
恬子は晏子の次、861年(13歳頃)に伊勢に下る。

斎宮が晏子だとすると
「伊勢の斎宮なりける人の親」とは文徳天皇のことではなくて藤原列子(従四位上・藤原是雄の女)ということになり、
その列子が「つねの使よりは、この人よくいたはれ」と言った勅使の男とは、はて、誰だろうか。
普通に考えれば藤原氏の誰かだろう。
だがまあ、もともとは有常と晏子の話だったのが、だんだんに恬子と混同され、業平の話になっていった可能性はある。

伊勢物語23段

> 筒井つの 井筒にかけし まろがたけ 過ぎにけらしな 妹見ざるまに

> 女、返し、

> くらべこし ふりわけ髪も 肩過ぎぬ 君ならずして たれかあぐべき

これは有常とその妻(藤原内麻呂の娘)のなれそめの歌ではなかろうか。

さらに867年、有常(52歳)は下野国の権守となる。このころではなかったか、

> 名にし負はば いざ言問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと

この歌が詠まれたのは。
そして伊勢物語16段は、有常が貧乏なので妻(藤原内麻呂の娘)が尼になるという話。

> 昔、紀の有常といふ人ありけり。三代の帝につかうまつりて、時にあひけれど、のちは世かはり時うつりにければ、世の常の人のごともあらず。人がらは、心うつくしくあてはかなることを好みて、こと人にも似ず。貧しく経ても、猶昔よかりし時の心ながら、世の常のことも知らず。年ごろあひ馴れたる妻、やうやう床離れて、つひに尼になりて、姉のさきだちてなりたる所へ行くを、男、まことにむつましきことこそなかりけれ、今はと行くを、いとあはれと思ひけれど、貧しければ、するわざもなかりけり。思ひわびて、ねむごろに相語らひける友だちのもとに、「かうかう今はとてまかるを、何事もいささかなることもえせで、遣はすこと」と書きて、おくに、

> 手を折りて あひ見し事を かぞふれば とをといひつつ 四つは経にけり

> かの友だちこれを見て、いとあはれと思ひて、夜の物までおくりてよめる、

> 年だにも とをとて四つは 経にけるを いくたび君を たのみ来ぬらむ

> かくいひやりたりければ、

> これやこの あまの羽衣 むべしこそ 君がみけしと たてまつりけれ

> よろこびにたへで、又、

> 秋や来る 露やまがふと 思ふまで あるは涙の 降るにぞありける

有常の歌は82段にも載る。業平の歌への返しである。

> ひととせに ひとたびきます 君待てば 宿貸す人も あらじとぞおもふ

あるいは

> おしなべて 峰も平に なりななむ 山の端なくは 月も入らじを

業平の室は有常の娘、その子が棟梁、棟梁の子が元方である。

丹念に探せばもっと証拠が見付かるかもしれない。

業平は確かに50過ぎて相模権守になってるから、相模までは行ったことがあるはずだが、
相模の国府は寒川辺りだ。
武蔵と下総の境の隅田川をこえて下野国まで行ったのは有常であった。
また彼が愛妻家であったことも確かだろう。
彼の場合は赴任というよりは左遷に近かった。
藤原良房や高子、基経らにとっては邪魔な惟喬親王の近親であったからだ。
文徳朝後期以降、抑圧され不遇に暮らした。

> 身をえうなきものに思ひなして、京にはあらじ、東の方に住むべき国求めにとて行きけり。もとより友とする人、ひとりふたりして、いきけり。道知れる人もなくて惑ひ行きけり。

京都にはろくに仕事もない地方官にでもなろう、というやけくそな感じではなかったか。

『伊勢物語』に出て来る藤原高子関係の話は、紀氏の伝承とはソースが別なような気がする。
高子は遍昭の愛人だったはずだが、それがいつ頃からはわからない。
業平や有常とはあまり関係ないような気がするがよくわからない。

以下は関連する書きかけのメモ。

仁明天皇の皇太子には最初、嵯峨天皇によって淳和天皇の皇子・恒世親王(母は桓武天皇皇女)が想定されていた。
恒世親王が死ぬとやはり淳和天皇の皇子・恒貞親王(母は嵯峨天皇皇女)が皇太子になった。
ところが承和の変で恒貞親王は廃太子され、
代わりに仁明天皇の皇子・道康親王(母は藤原順子、冬嗣の長女で、良房の妹)が立太子される。

この頃すでに天皇と内親王の間にできた皇子は政治的経済的基盤が弱く、
有力な外戚を持つ皇子には勝てなくなっていたのである。

道康親王は即位して文徳天皇となる。
文徳天皇の長男・惟喬親王の母は紀静子、名虎の娘であった。
紀氏は家柄としては藤原氏にはとうてい勝てなかった。
文徳と藤原明子(良房の娘)の間に皇子・惟仁が生まれると、生後八か月で皇太子となる。

文徳が死ぬと、惟仁は九才で即位、清和天皇となる。

清和天皇と藤原高子(長良の娘、良房の養子、基経の妹)の間に皇子・貞明が生まれるとわずか生後三ヶ月で立太子される。
惟喬親王が出家したのはその四年後なのだが、
おそらくこのとき承和の変に匹敵する政変があったはずだ。
幼主の外戚となり、自ら摂関となる。摂家の濫觴、「貞観の変」とでも呼ぼうか。

ファウスト

ファウストは私も一部訳したのだった。

> 太陽は懐かしいメロディーで

Die Sonne tönt, nach alter Weise, 太陽は鳴り響く、太古からのやり方で、

> 兄弟の星々と歌を奏で合い、

In Brudersphären Wettgesang, 兄弟星らと歌を競いながら、

> 規定の道を

Und ihre vorgeschriebne Reise あらかじめ定められた旅路を

> 雷鳴の轟きで染め上げる

Vollendet sie mit Donnergang. 雷鳴をとどろかせながら邁進する。

> 理由はわからないが

Ihr Anblick gibt den Engeln Stärke, その眺望は天使に力を与える。

> その景色は天使を力強くする。

Wenn keiner sie ergründen mag; 誰も彼を究明できないとしても、

> 不可知の気高い営みは

die unbegreiflich hohen Werke その認識しがたい高尚な作品は

> 天地創造の日と同様に素晴らしい

Sind herrlich wie am ersten Tag. その原初の日から素晴らしい。

すごい韻文だよなあ。
Wettgesang、Donnergang、ergründen mag、am ersten Tag
が韻を踏んでおり、
Weise、Reise、Stärke、Werkeが韻を踏んでいる。

nach alter Weise は「懐かしいメロディーで」と「太古からのやり方で」。
うーむ。Weise は普通「やり方」「方法」だが、
確かに音楽用語として「メロディー」という意味もある。
alt を「懐かしい」と訳してしまうのはどうだろうか。
おそらくこれは後から出てくる am ersten Tag と関連して、
単に古いとか昔のという意味ではないか。
tönen は「鳴る」だが、次の行を見れば歌を歌うことを言うのは明らかだ。

Wette はお金を賭けて競うこと、英語の bet に同じ。
Wettgesang は歌のうまさをお金を賭けて競う、という意味。

「歌を奏で合い」うーむ。どうだろう。歌は奏でるものだろうか?

vollenden は完成させる、である。
「邁進する」は意訳。
「染め上げる」はどうだろうか。
直訳すれば「雷鳴によって完成させる」
少し意訳すると「雷鳴で敷き詰める」かなあ。
もとのままでいいかな。

まあ、ファウストはいろんな人が訳しているからなあ。

読者

思うに、通りすがりの読者も読者のうちである。
読み間違いする読者も読者のうちである。

あなたは誤読してますと指摘してはならない。
誤読もまた読者の権利なのだから。
そして誤読されないような文章を書こうと努力しても無駄だ。
大いなる徒労だ。
誤読されない文章が書きたければコンピュータ言語で書くしかない。
人間は誤読が大好きなのだ。
著者は読者が誤読することまで責任を負わなくてよい。
文章を書くところまでが著者の責任だ。

松岡正剛というひとが何者かは知らないが彼もしばしばはなはだしく誤読している。
白洲正子も。丸谷才一も。
読書体験というものはその大半は誤読で成立していると思えるようになってきた。

誤読を容認し、多くの人の目にふれるようにするのが大事だ。
だから、あなたが読もうとしている私の本はあなたが読みたい本ではないかもしれませんなどと指摘する必要はない。
大きなおせっかいだ。
自分から自分の本を読まれる機会をそぐようなことをしてはならないと思った。

比較対象にするのもおこがましいが、私は本居宣長と立場が似ていると思う。
もし宣長を誤読する人を宣長の読者ではないとすると、宣長の読者はほとんどいなくなってしまう。
もちろん宣長の理解者がいないわけではない。
しかしその思想の根本のところは理解されているとはいいがたい。
宣長は、世間の人はこう考えているが実際はそうではないよ、ということを言う人である。
しかし世間の人は宣長がいくら一生懸命そう主張していても、そうは読んでくれない。
自分に理解しやすい良いように解釈して読んでしまう。

平田篤胤や賀茂真淵などの場合誤読されるような心配はあまりない。
というのは彼らはある意味誰でも思いつくようなことを書くひとだからだ。
誰も思いつかないことだからこそ書こう、
というスタンスだと誤読は増える。

皇室典範草庵談話要録

10月10日の産経新聞の記事に、
明治20年3月20日に開かれた高輪会議とその覚え書きらしきもの「皇室典範草庵談話要録」が出てくるのだが、
この「皇室典範草庵談話要録」というのはこれまでまったく知られてなくて謎である。
記事によれば、参加者は伊藤博文、井上毅、柳原前光、の三名しかいなかったらしい。
とすると、井上が皇室典範の原案を作り伊藤がダメだしをした。
柳原というのはこの覚え書きを残した公家であろう。

この記事を書いた奥原慎平という産経新聞の記者もよくわからないが、おそらく奥原が柳原家に伝えられたメモ書きを直接見たということだろう。おそらくそのメモ書きというのは断片的でささいなものであり、記事にはほぼその全文が引用されたのではなかろうかと推測される。
つまり、この奥原の記事がすなわち「皇室典範草庵談話要録」と考えてよかろうと思えるのである。

それでこの明治20年3月20日の高輪会議というものだけで皇室典範が決まったわけでもなく、
他にもいろんな会議が開かれ、いろんな議事録が残され、その多くは散逸したのに違いない。
ただ紛れもなく言えることは、天皇の譲位を禁じるこの皇室典範というものを定めたのは公家ではあり得ないということ。
例えば岩倉具視の意見とは思えない。
武家に違いなく、武家でも天皇の意志に反して意見を述べられる一部の元勲しか考えられない。
明治天皇に強く反対できるのは伊藤博文くらいしか考えられない。

傍証としては、伊藤博文が辞表を出そうとしても明治天皇が決して認めなかった、伊藤は辞表が出せても、朕には辞表というものがない、とかなり露骨に伊藤に嫌みを言ったという良く知られた事実がある。
つまりはこれが伊藤と明治天皇の生の対立関係であったということになる。
伊藤と天皇がただの仲良し仲間だったはずがないのである。

明治20年というのは日清日露戦争よりは前で、西南戦争の後であるから、
西郷隆盛みたいな「権臣」が皇族を擁立して南北朝が再現されるおそれというものはまだまだあったのである。
外征よりは内乱の危険性の方がまだ高い。
西郷隆盛は朝敵そのものであった。
実際、足利尊氏はいったん九州まで逃げ落ちて、そこから巻き返して、
京都を奪い返し、北朝を建てたのである。
この頃京都は東京に対して西京といったが、
東京にいた明治政府は西郷離反に慌てて、西京に大本営を移したのである。
伊藤博文には西郷隆盛が足利尊氏に見えていたに違いない。
明治天皇には兄弟や従兄弟などはいなかったが、もしいたら、「権臣」が現れて、
皇統が分裂していた可能性は高いのである。
その際、譲位ということがあって、天皇の他にも何人も上皇がいたら、
明治政府としてはたいへん困ることになる。
明治政府としては明治天皇はしっかりおさえてあるが他の皇族まで手が回らないかも知れない、
伊藤博文はそういう事態を危惧した。

日露戦争が過ぎた頃には明治天皇が譲位しても何の問題もなかった。
伊藤博文にも明治天皇の譲位に反対する理由はなかった。
しかし伊藤はすでにハルピンで安重根に暗殺されてこの世にはいなかった。

宣長が養子縁組みして離縁した件

神社は氏子、寺は檀家という。
しかし伊勢神宮では檀家という。
この伊勢神宮の檀家を束ねるのが御師。

宣長は伊勢山田妙見町の今井田家に養子に行った。
『宣長さん』によれば、今井田家は紙商で御師。

氏子というのは村の神社があって、その村に住んでいれば勝手に氏子扱いされた。
寺は一つの村や町に複数あることがあって、
徳川幕府によってどれか一つの寺に属さなくてはならなかった。
いわゆる檀家制度だ。

伊勢神宮が氏子と言わず檀家というのは、
神宮の氏子なのではなく、神宮寺の檀家だからであろう。
神宮の氏子は厳密に言えば天皇家だけだ。

全国を行商して、檀家を組織し、お札や暦を売る。
神主や氏子はそんなこと普通しない。
神仏習合というものがあって、御師があって、檀家があるのだ。

神宮寺は幕府や領主が檀家となったために、いわゆる一般の村民や町人の檀家はいなかったことになっている。
はたしてそうなのか。
明治の神仏分離令によって神宮寺が廃寺となったときに、かなりの数の檀家がその帰属する宗教的コミュニティをうしなった。
冠婚葬祭ができない。これは困る。
その檀家を吸収するために神道系の新興宗教が興った。
明治の神道系新宗教の多くは神宮寺に由来するのではないのか。

宣長は学問が好きで、子供の頃から漢籍や仏典も良く読み、僧侶になりたいと考えたこともあった。
今井田家には実子もいたらしく、宣長は学問を生業にしたくて今井田家の養子になったものと考えられる。

しかし、今井田家で本格的に学問を始めると、
宣長は、仏教や、神宮寺や、御師というものに疑問を感じ始めただろう。
漢学や仏教から離れ、古学、歌学、皇学を志した宣長は、今井田家に居続けることができなくなった。

> ねがふ心にかなはぬ事有しによりて

宣長は養子に行くより前から和歌を詠み始めているが、
和歌に執着し、添削も受けるようになったのはこの養子時代だ。
まだ契沖には出会っていない。
和歌を学ぶということは、大和言葉を学ぶということだ。
和歌からさまざまな文芸がわかれていった。今様、連句、俳諧、猿楽。
それらは漢語や仏教語を取り込んでいった。
しかし、かたくなにそれらを退けて、大和言葉にこだわったのが和歌である。
和歌にのめり込むということ、和歌を学ぶということは、漢学や仏教の影響をうけない古代の大和言葉を追求するこということであって、
そこから当然、国学、皇学への志向が生まれてくる。

宣長という人は寺に仏式の墓を建て、その中には遺骨は納めず、
山の中に神式の墓を建ててそこに葬られた。
墓を二つ作った。
それが宣長なりの神仏分離であり、後世に遺した宣長のメッセージだった。
神仏分離という思想の源流が宣長なのは間違いない。