亦不知其所終 田中久三 aka 田中紀峰のサイト。

Archive for the ‘漢詩’ Category

近藤勇の漢詩

09.23.2014 · Posted in 漢詩

近藤勇の漢詩は探すとかなりある。 単に頼山陽に心酔し日本外史を愛読していただけでなく、 詩もよく作る。

富貴利名豈可羨
悠悠官路仕浮沈
此身更有苦辛在
飽食暖衣非我心

富貴利名豈に羨むべき
悠悠として官路の浮沈に仕ふ
此の身に更に苦有りて辛在らんと
飽食暖衣は我が心にあらず

官途に就いた直後の抱負だろう。 文久三(1863)年、浪士組の隊員となったことで、農民出身の近藤勇も晴れて幕臣となったのである。 「利名」は普通は「名利」であろう。平仄のため入れ替えたか。

読外史

摩挲源将木人形
自説盛功爾我儔
猶有一般優劣処
鉞矛他日凌明州

源将の木人形を摩挲(ましゃ)し
自ら盛功を説く爾(なんじ)は我が儔(とも)なり
なほ一般の優劣の処あり
鉞矛をもって他日明州を凌(しの)がん

源氏の将軍の木人形をなでさすり、その功績を説くあなたは私の友である。 私もいずれ武芸によって外敵を討ち、あなたと並び称されたい。

丈夫立志出東関
宿願無成不復還
報国尽忠三尺剣
十年磨而在腰間

丈夫志を立て東関を出づ
宿願成らずんばまた還らず
国に報い忠を尽さん三尺剣
十年磨きて腰間にあり

頼山陽の「遺恨十年磨一剣」に応じているのは明らかである。 「東関を出づ」であるからやはり浪士組隊員として関東を出て京都へ向かったときのことだろう。 「東関」は「関東」と同じだが、やはり押韻のため入れ替えたか。

負恩守義皇州士
一志伝手入洛陽
昼夜兵談作何事
攘夷誰斗布衣郎

恩を負ひ義を守らん皇州士
一志を手に伝へ洛陽に入る
昼夜の兵談何事かなさん
攘夷誰と斗(はか)らん布衣郎

京都に入ってから議論ばかりしていてらちがあかないと。 「皇州士」「布衣郎」いずれも自らのことを言っている。 「布衣郎」は粗末な服を着た武士というような意味。

曾聞蛮貊称五臣
今見虎狼候我津
回復誰尋神后趾
向来慎莫用和親

曾て聞く蛮貊五臣を称すと
今見る虎狼我が津(みなと)を候(うかが)ふと
回(かへ)りて復た誰か神后の趾を尋ねん
来りて慎むを向かへ和親を用うなかれ

「蛮貊」は論語に出てくる言葉で「野蛮人」の意味。 「五臣」はおそらく、これも論語の「舜有臣五人、而天下治」による。 野蛮国にも五人の優れた臣下がいればよく治まるの意味であろう。 それらの夷狄が四海から我が国を狙っている。 神后とはかつて三韓征伐した神功皇后のこと。 かるがるしく和親を結ぶな。 「候」は「斥候」「伺候」の「候」。さぐる、うかがう、まつ、さぶらう。

百行所依孝與忠
取之無失果英雄
英雄縦不吾曹事
欲以赤心攘羌戎

百行の依る所は孝と忠なり
之を取りて失無ければ果して英雄
英雄はたとへ吾曹の事にあらずとも
赤心をもって羌戎を攘んと欲す

「大菩薩峠」にも引用されている詩。 すべての行いは、孝と忠に依る。 これらを守って過失がない者が英雄である。 たとえ私は英雄ではないとしても、 真心をもって外敵を払いたい。 「吾曹」は「わたし」または「わたしたち」。

有感作(感有りて作る)

只應晦迹寓牆東
喋喋何隨世俗同
果識英雄心上事
不英雄處是英雄

只(ただ)應(まさ)に迹(あと)を晦(くらま)して牆東に寓せん
喋喋(てふてふ)として何ぞ世俗に隨(したが)ひ同じうせん
果して英雄の心上の事を識らば
英雄ならざる處これ英雄

比較的最近発見された詩であるらしい。 いつの時期に作ったかは不明だがおそらくは官軍に捕らえられて以後ではないか。

孤軍援絶作囚俘
顧念君恩涙更流
一片丹衷能殉節
雎陽千古是吾儔

孤軍援け絶え囚俘となる
顧みて君恩を念(おも)へば涙さらに流る
一片の丹衷よく節に殉ず
雎陽(すいよう)千古これ吾が儔(とも)なり

俘囚を囚俘としているのは押韻のため。 雎陽は文天祥の「正気歌」による。 安禄山の乱の将軍・張巡を我が友と呼んでいる。

靡他今日復何言
取義捨生吾所尊
快受電光三尺剣
只将一死報君恩

他に靡き今日また何をか言わん
義を取り生を捨つるは吾が尊ぶ所
快く受けん電光三尺の剣
只まさに一死をもって君恩に報いん

平仄押韻もおおむね正確であって、 頼山陽が見たらきっと感心しただろう。 幕末明治の詩人の中でも一流。 昭和の中島敦などは遠く及ばない。 永井荷風もかなわないのではないか。

近藤勇の漢詩 はコメントを受け付けていません。

道元 永平広録 巻十 偈頌

05.16.2014 · Posted in 漢詩

chogetsu2

chogetsu


最近このブログで 山居がよく読まれているようだが、これは、 tanaka0903と名乗る前から書いていたWeb日記に載せた記事で、2001年のものであるから、 かなり古い。 どんな人がどういう具合でこのページにたどり着くのだろうか。 興味ぶかい。

最初に書いたのは 釣月耕雲慕古風というものなのだが、 1996年、このころからWebに日記を書いていたという人は、 そうざらにはいないはずである。 いわゆる日記猿人の時代だ。

あとで 耕雲鉤月などを書いた。 2001年と2011年。

それで久しぶりにじいさんの掛け軸を取り出して眺めてみたのだが、 今見るとけっこう面白い。 こうして写真に撮ってみると余計にわかりやすい。 うまい字というより、面白い字だ。 全体のバランスがなんか微妙。 メリハリがあるというより、気負って勢い余ってる感じだよなあ。 当時58才だったはずだ。 装丁もかなり本格的でこれはけっこう金かかったはず。

「釣月耕雲」を画像検索するとけっこう出てくる。 禅宗、というか茶道ではわりと有名な掛け軸の題材なのだろう。

でまあネットも日々便利になりつつあるので改めて検索してみるといろんなことがわかる。 山居の詩は「永平広録」もしくは「永平道元和尚広録」の巻十に収録されている125首の偈頌のうちの一つだという。 永平広録、 読みたい。 アマゾンでも売っているがかなり高い。 たぶん曹洞宗系の仏教大学の図書館にでも行けば読めるのだろうが、 なんともめんどくさい。

さて他にもいろいろ調べているうちに、 「濟顛禪師自畫像 – 神子贊」 というものがあるらしいことがわかった。 済顛という禅僧の自画像につけた画賛。

遠看不是、近看不像、費盡許多功夫、畫出這般模樣。 兩隻帚眉、但能掃愁; 一張大口、只貪吃酒。 不怕冷、常作赤脚; 未曾老、漸漸白頭。 有色無心、有染無著。 睡眠不管江海波、渾身襤褸害風魔。 桃花柳葉無心恋、月白風清笑與歌。 有一日倒騎驢子歸天嶺、釣月耕雲自琢磨。

適当に訳してみると、

左右の眉は跳ね上がり、口は大きく、大酒飲み。 寒くてもいつも裸足。 年は取ってないのに白髪。 無頓着。 何事にも気にせず波の上に眠り、粗末な服を着て、風雨に身をさらしている。 桃の花や柳の葉は無心、月は白く風は清く、笑いは歌を与える。 後ろ向きにロバに乗り山に帰った日には、月を釣り、雲を耕し、自ら修行に励む。

「帚眉」だが、人相の用語らしく、いろんな眉の形の一つらしい。 検索してみると、図があった。 能面。 まだまだ知らないことがたくさんあるんだなあと思う。 たぶん箒のように開いた眉毛という意味だ。 「兩隻」もわかりにくい言葉で、「隻眼」と言えば片目のこと。 屏風に「右隻」「左隻」「両隻」などという言葉があるようだ。 いずれにしても、人相や絵などを表現するための用語で、 左右一対の両方、という意味だろう。 「倒騎」。これも画像検索してみるとわかるが、 後ろ向きに馬やロバに乗ることを言う。

さてこの済顛、済公あるいは道済とは、 1148年に生まれ、1209年に死んだ伝説的な僧で、 日本で言えば一休のような瘋癲の破戒僧であったようだ。 道元が南宋に渡ったのは1223年のことなので、 済顛の詩句を、自分の詩に取り入れた、ということになる。 確かに「釣月耕雲」だけ人から借りてきた禅問答風なにおいがする。 後は読めばわかる平易な句だ。 「釣月耕雲」と「慕古風」のアンバランスな組み合わせから奇妙な抒情が生まれている、と言えるか。 そこが味なのか。

済顛は肉も食い、酒も飲んだので、「釣月」とはやはり月の光の下で釣りをすることを本来は意味したかもしれない。 道元が魚釣りをして食べたかどうかまではわからん。 臨済にしてもそうだが、禅僧にはおかしなやつがたくさんいる。 道元ももしかするとその同輩であったかもしれんよ。

ははあ。菅茶山に「宿釣月楼」という詩がある。

湖樓月淨夜無蚊 忘却山行困暑氛 宿鷺不驚人對語 跳魚有響水生紋

湖のほとりの「釣月楼」は月が浄らかで夜の蚊もいない。 山登りで暑さに苦しんだのも忘れてしまう。 棲み着いたサギは人が話しても驚かず、 魚がはねる音が響き、水紋が生じる。

なかなか良い詩だな。「氛」がわかりにくいが「雰」とだいたい同じ。 「蚊」や「紋」と韻を踏むためにわざと使われているのだろう。 「雰」でも韻は踏める。 平仄は完璧と言って良いのではないか。 さすが菅茶山。

道元 永平広録 巻十 偈頌 はコメントを受け付けていません。

狂雲集

04.04.2014 · Posted in 漢詩

一生受用米銭吟 
恥辱無知攪万金
勇色美尼惧混雑 
陽春白雪亦哇音

狂雲真是大灯孫
鬼窟黒山何称尊
憶昔簫歌雲雨夕
風流年少倒金樽

まだ良く調べてないのだが、一休の漢詩集。 wikiによればこの中に

門松は 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし

という和歌があってこれのみが、一休の真作と認められているらしい。

まあ、和歌はともかくとして漢詩の方はどうやらかなりきっちり作られた七言絶句で、 韻を律儀に踏んでるし、平仄もまともである。 かなりの使い手と言っていい。 内容がかなり破戒的だから韻律的には完璧を期したか。

ググってみた感じでは、流通している本が書き下しのものばかりのようで、 群書類従にオリジナルがあるそうだから今度見てみなくては。 群書類従は大きな図書館にはたいていあるから助かるわな。 日本外史も書き下ししか出回ってないが、それはそれとして、 漢詩は白文がないとどうにもならんわな。

狂雲集 はコメントを受け付けていません。

衆人皆酔且喫煙

02.11.2014 · Posted in 漢詩

酒を自制する詩。 ああ、これは二度の入院の間に作った詩だな。 懐かしいな。 今はもうけっこう酒飲んでるがね。

完全に忘れてた。 平仄がむちゃくちゃ。 そりゃそうだわな。 平仄守り始めたのは二度目に入院した後だからな。 押韻すらしてない。 恥ずかしい。 良寛式(笑)

衆人皆酔且喫煙 はコメントを受け付けていません。

大津皇子

09.14.2013 · Posted in 漢詩

日本で最初に漢詩を作ったのは大津皇子ということになっているのは『懐風藻』の冒頭にいくつか大津皇子として漢詩が載っているからだ。

大津皇子がほんとに漢詩を作れたかはあやしい。 弘法大師が温泉見つけたようなもんだと思う。 が、しかし、作ったかもしれん。

朝択三能士

朝に択ぶ、三能士

暮開万騎莚

暮に開く、万騎の莚

喫臠倶豁矣

臠を喫らひ、倶に豁たり

傾盞共陶然

盞を傾け、共に陶然

月弓輝谷裏

月弓、谷裏に輝き、

雲旌張嶺前

雲旌、嶺前に張る

曦光已隠山

曦光、已に山に隠れ

壮士且留連

壮士、しばらく留連す

まあそんな難しくはないな。 そのまま読めばよい。

「喫臠倶豁矣、傾盞共陶然。」 のあたりが実に愉快そうだ。 「且留連」は、去るにしのびず、しばらくぐずぐずととどまる、の意味。 対句が見事だよね。だからわかりやすい。

大津皇子 はコメントを受け付けていません。

小野篁

09.14.2013 · Posted in 漢詩

小野篁は菅原道真と同様に和歌も漢詩もうまかった人ということになっているのだが、 漢詩人というには詩がそれほど残っていない。 たとえば、頼山陽なら一冊の詩集になるくらい大量に詩を作っているし、 当時も菅原道真や嵯峨天皇は大量に詩を残している。 歌人というのも、貫之や業平ならやはり歌集を残しているから、 歌人といえるだろうが、 一つか二つしか残ってなかったり実は本人の作かすらわからんのもあり、 そういうのを何の検証もせずただ歌人とか詩人とかいうのはおかしいのではないか。

小野篁の詩は少ない。 わかる範囲で片付けていく。

和從弟內史見寄兼示二弟

従弟の内記に和して、寄りて見るに、二人の弟に兼ねて示す

内史は内記で官職、従弟はいとこだわな。二弟は二人の弟という意味だろうな。

世時應未肯尋常 昨日青林今帶黃 不得灰身隨舊主 唯當剔髪事空王

世時はまさにいまだ尋常を肯んぜず、 昨日の青林は今、黄を帯ぶ。 灰身は旧主に随(したが)ふをえず、 ただまさに髪を剔(けづ)り空王に事(つか)ふ。

旧主、空王が具体的に誰を言うはわからんが (嵯峨天皇と文徳天皇とか、いくらでも解釈はできるが)、 なんかの漢詩の言い回しを使っただけだと思う。 灰身というのはなんかもういろいろ疲れてぼろぼろになった私、とかそんな意味。

承聞堂上增羸病 見說家中絕米粮 眼血和流腸絞斷 期聲音盡叫蒼蒼

承り聞く、堂上では羸病増し、 見説く、家中、米粮絶ゆと。 眼血、流るに和し、腸、絞り断つ。 声、音尽きて、蒼々と叫ばんと期す。

和流、というのは兄弟いとこどうしでもらい泣きするという意味か。

つかまあ、少ないよね、関連書籍が。 ネットで検索してもあまり出てこない。 図書館で探し出しても解釈がついてなかったり。

小野篁 はコメントを受け付けていません。

嵯峨天皇

09.13.2013 · Posted in 漢詩

嵯峨天皇「春日遊猟、日暮宿江頭亭子」

三春出猟重城外 四望江山勢転雄

逐兎馬蹄承落日 追禽鷹翮払軽風

征舟暮入連天水 明月孤懸欲暁空

不学夏王荒此事 為思周卜偶非熊

これは恐ろしく良くできた詩だ。 平仄も押韻も対句も完璧。

しかも、天皇なのに乗馬して猟をしている。 嵯峨天皇が実際にこういう人であったかどうか。 少なくとも嵯峨天皇は日本の大君ではなくて中国の皇帝を理想としていた。 唐の皇帝を。それを唐詩にした。

大和朝廷の王権というのは、ま要するに、天武天皇くらいに固まったのである。 天武天皇から嵯峨天皇まではわずかに150年くらいしかない。 当時の日本国というのは若い国家だった。 この頃はまだ万世一系とかそんなことは関係なく、 日本は、 アジアによくある、生まれては滅んでいく王朝の一つにしかすぎなかったのだ。 南北朝のころになってやっとなんか日本という国は特殊だな、ということに北畠親房あたりが気づいたのに過ぎない。

嵯峨天皇は中国式の完全に新しい国家を作ろうとしたのだろうと思う。

嵯峨天皇 はコメントを受け付けていません。

経国集

09.13.2013 · Posted in 漢詩

経国集 はここで読むことができるが、立派な漢文の序文がついている。 やはり、この流れで行くと、古今集の序も最初は漢文だったのではないかと思われてくる。

どうかんがえても淳和天皇の勅撰じゃないだろ。 嵯峨上皇の命令だと思うよな、普通。

滋野貞主が選んだと書いてあるのだが、 ウィキペディアには、 良岑安世、菅原清公らが編纂とあるのはどういうわけだ。

春宮學士從五位下臣滋野朝臣貞主等奉敕撰

ここで東宮というのは嵯峨天皇の皇子で、 淳和天皇の皇太子に建てられていた、 のちの仁明天皇だわな。

勅撰というものが明らかに意識されたのも、漢詩集のほうだわな。 和歌集の方は、勅撰という意識が確立されるまでにだいぶ時間がかかった。

良岑安世は僧正遍昭の父で素性法師の祖父だから、 もとはこの家系は漢学の家だったのかもしれんね。

当時の平安京というのは、 完全に人工的な未来都市として作られて、 原始神道的匂いのする和歌は嫌われてて、 そもそも新都平安京には和歌を詠むような住人もいなくて、 それで自然に廃れたんだろうな。

奈良の仏教というとなんか密教的な、山岳信仰的な匂いがあるよね。 そういうのも一切捨てられてしまって、 完全に中国式の宗教儀礼に入れ替わったということじゃないかな。

経国集 はコメントを受け付けていません。

本居宣長の漢詩

06.14.2013 · Posted in 漢詩

在京時代の本居宣長の漢詩が二十数編残されているが、 凝り性な宣長君らしく、平仄は完璧。

  春日早朝
鶏鳴九陌報清晨
初日纔昇映紫宸
金殿出霞花気暖
玉楼経雨柳條新
群臣集奏千秋寿
蛮客貢陳四海珍
且識天杯元承露
聖明恩沢更含春

新年の御所の様子を詠んだものと思われる。 悪くはないが、装飾過多、という印象。 宝暦6年1月11日か。 この漢詩を作ってみて宣長はよけいに漢学では日本文化の良さを表現できない、と悟ったのではなかろうか。

  読書
独坐間窓下
読書欲暁星
孜々何須睡
一任酔群経

独り窓下の間に坐し、読書、暁星を欲す、孜々として、なんすれぞすべからく睡るべし、もっぱら群経に酔ふに任せん、 と訓めば良いか。

夜独りで窓の下に坐って読書していると、すでに夜が明けようとしている。 一心不乱、どうして眠れようか。 ただ膨大な量の経典に酔うのに任せよう。

いやー。 宣長らしい詩ではある。

宣長、普通の江戸時代の文人並みには漢詩が作れたようだ(乃木希典レベル。中島敦よりはずっとうまい)。 そのまま励めばわりかし良い線いったんじゃないか。 でも、和歌のほうが好きだったんだよなあ。 どんな違いがあったのだろう。知りたい。

  上巳
元巳春風暖
桃花照錦筵
麗人更勧酔
流水羽觴前

上巳は桃の節句であるから今の暦では四月中旬、元巳はその別名。 春風は暖かく、桃の花が錦のむしろに映える。麗人、更に酔いを勧め、羽觴(さかづき)の前には水が流れている。 明らかに曲水の宴で作った詩であろう。

本居宣長の漢詩 はコメントを受け付けていません。

平仄

03.22.2013 · Posted in 漢詩

漢詩を作ったり、漢詩作成支援ソフトなど作ったりしているので、 気になるのだが、 通常「平仄」という言葉は、 「平仄が合わない」とか「平仄を合わせる」という言い方をすると思う。

で会議に出ていて気になったのだが、 規約の言葉遣いを整合させることを「平仄合わせで」とか「平仄が合う」とか「平仄を直す」とか「平仄を正す」などというのが、 気になった。 また、Aである、ただしBの場合Cである、とかいうような複雑な規約を矛盾無く作ろうとすることも 「平仄を合わせる」とかいうようである。

いきおい、規則の条文を整えること全般を「平仄を合わせる」などと言っていて、 会議の途中「平仄」という言葉を聞くたびにびくりとする。

で、自分がどういう使い方をしているか気になって調べてみたら、 「平仄や押韻は適当なようだ」 「平仄はちょっとおかしいが、韻は一応踏んでるようだ」 「意味によって平仄が変わる漢字をなんとかしたい」 「平仄がいまいち」 「平仄はいい加減」 「押韻も平仄も割とちゃんとしている」 「平仄はやや乱調かと思うが、ちゃんと押韻している」 「平仄は完全とは言えない」 「平仄はやかましく言わない」 「押韻も平仄もきちんとしている」 「押韻も対句も平仄もほぼ完璧」 「平仄がなんだか変だ」 「平仄も押韻もめちゃくちゃ」 「平仄を守っている」 「平仄はでたらめ」 「押韻や平仄などが厳密に守られた詩」 などという言い方をしている。

「平仄があってない」 「平仄と押韻のあうように考えればよろしい」 「平仄を合わせる」 などと言っていることもある。

毛沢東の詩で 「竜虎盤踞」を「虎踞龍盤」としたり、 「天地翻覆」を「天翻地覆」としたりしているのは、 二六対、二四不同などのルールを守るため、字を入れ替えているのであって、 私はこういうのは好きじゃないのであまりやらないが (「砂石」を「石砂」にしたり、「片雲」を「雲片」にしたりとか、あまり露骨にならない程度にはやることがある)、 「平仄を合わせる」 の原義は「文字の配列を入れ替えて音韻規則に合うようにする」 ということだろうと思う。

でまあ、 私の中では、 「平仄が合わない」というのは「つじつまが合わない」、 「平仄を合わせる」というのは「つまらぬ小手先のルールにこだわる、体裁にこだわる」という、いずれにせよネガティブな意味があって、 「校正する」とか「推敲する」のようなポジティブな意味に使われると違和感があるのだろう。 推敲、も作詩に由来する言葉だが。 あるいは漢詩を作ったこともない人が、安易に「AをBとすれば平仄が合う」などと言っているのがいやなのだろう。

どうも、法律関連のジャーゴンで「平仄」と言うことがあるのかなと思い、 検索してみると、はたして

規定と平仄をとった文言修正

規則第4条の改正に平仄を合わせ

財務諸表等規則に平仄を合わせるべき

などとあるから、たぶん法人本部とか法務部ではよく使われている言葉なのだろうな。 うー。 「整合をとる」という意味で「平仄をとる」とは言ってほしくないかもなあ。 「Aに整合させる」という意味で「Aに平仄を合わせる」という言い方もなんか間違ってる気がする。

追記: ネットからも少し例文を拾ってきた。

規制行政庁と全体的に取り入れ方針については平仄をとりながら対応していくということになるのではないかと思っております。

若干報告書案内での平仄合わせで記入しましたところが、

この中で「安全性の妥当性」という表現を使っておりますので、これと平仄を合わせて「安全性の妥当性について判断する」という形で記載の平仄を合わさせていただいております。

法務省の規則案にも登載しておる文書でございますので、平仄合わせで登載をしております。

つまりAという基準となる条文がすでにあって、あたらにBという報告書等を作るときなどに、 Aとの平仄合わせでBにこれこれという記載をする、などというらしい。

平仄 はコメントを受け付けていません。