> Ach! es hätt’ in jenen bessern Tagen
> Nicht umsonst so brüderlich und groß
> Für das Volk dein liebend Herz geschlagen,
> Dem so gern der Freude Zähre floß! –
> Harre nun! sie kommt gewiß, die Stunde,
> Die das Göttliche vom Staube trennt –
> Stirb! du suchst auf diesem Erdenrunde,
> Edler Geist! umsonst dein Element
> ああ!かのよりよき日々ならば、
> 雄々しく大いなることも無意味ではなかった
> おまえの愛する心は高鳴る、かの民族のためならば、
> 歓喜の涙はいくらでも流れ得た –
> 今はただ待ち焦がれよ!必ず時は巡り来る、
> 運命が切り離す、土くれから神なるものを –
> 死ね!おまえはこの地上を探し求める、
> 気高き魂を!むなしき、おまえの一部を
シュピリを惰性で訳しているうちにふとヘルダーリンを訳したくなった。
シュピリはもう訳してもしょうがないかもしれない。もはやたいしたものは出てこないように思える。
シュピリを訳しているうちにだいぶドイツ語訳にも慣れてきた。
もっと面白いもの、意義のあるものを訳してみたい。
「運命が」は完全な意訳。
「その時が」を繰り返したくなかったのと、韻をちゃんと踏みたかったから。
伊藤静雄はヘルダーリンをドイツ語原文で読んで、あのような初期の詩を作ったという。
それでヘルダーリンの詩の訳というものは、そんなに良いものはないように思う。
例えば川村二郎訳の岩波文庫版で上の箇所は
> ああ! あのよりよい日々になら
> 愛にみちた君の心は 民のために
> どれほど大らかに親密を脈うったとしても 空しくはなかった
> あの日々ならば 君の心は歓喜の涙を思うさまながしただろうに!――
> 待つがよい! いずれは刻がおとずれよう
> 神的な力を 牢から解きはなつ刻が――
> 死ぬがよい! 高貴な精神よ! この地上では
> 君の住まう場を求めても 所詮甲斐ないのだ
と訳されているらしいのだが、あまり上手な訳とは思えない。
この「ギリシャ」という詩は1793年、ヘルダーリンが23才のときの作らしい。
比較的きちんと韻を踏んで作られた真面目な詩のように思える。
たとえば die Stunde と Erdenstunde、trennt と Element が韻を踏んでいる。
だから私も少し律儀に訳してみた。
このリズムを訳さなくては面白さは失われるだろうし、
川村二郎訳では、原文の意味が忠実に伝わってくるとはとても思えない。
これはギリシャ独立戦争に熱狂するヨーロッパ人の気持ちを表した詩だ。
「待つがよい! いずれは刻がおとずれよう 神的な力を 牢から解きはなつ刻が」
これは明らかにその時代背景をわかった上で訳しているのだが、あまりにも説明的で結果論的だ。
このように気狂いしたような若者の詩を、
神聖ローマ帝国的な中世の沈滞の中にその青春時代を生きたゲーテやシラーが、好むはずもなかった。
同じ理由でニーチェがヘルダーリンの影響を受けたのは当然だったと言える。
1793年、フランス革命は勃発していたがナポレオンはまだ大尉。イタリア方面司令官にすらなっていない。
ギリシャ独立運動も、まだかげもかたちもなかった。
ヘルダーリンはまさに時代の先駆者だったのである。