亦不知其所終 田中久三 aka 田中紀峰のサイト。

今の世の人は頼まじ

01.25.2016 · Posted in 読書

学者はただ、道を尋ねて明らめるをこそ、つとめとすべけれ。私に道を行ふべきものにはあらず。されば随分に、古への道を考へ明らめて、そのむねを、人にも教へ諭し、物にも書き遺しおきて、たとひ五百年千年の後にもあれ、時至りて、上にこれを用ゐ行ひたまひて、天下に敷き施したまはむ世を待つべし。これ宣長が志なり。

まったくその通りだ。自然科学であれば、 ニュートンの力学と、現代の量子力学では、昔より今の方がより精密になっていることを断言できる。 自然科学とか数学というものは、そうしたものだからだ。

しかし思想とか文芸などはそうとは言い切れない。 近代よりは現代が、現代よりはポストモダンが優れているなどということは決して言えない。 前衛芸術は前衛であることに意味があって、時代的には後退しているかもしれない。

昔の人より、君達は果たして本当に利口になったかどうか

文字の発明の御蔭で、誰も記憶力の訓練が免除されるから、皆忘れっぽくなる。書かれたものに頼る人々は、物を思い出す手段を、(中略)自分達には何の親しみもない様々な記号に求めている。(中略)何も知らない癖に、何でも知ってるとうぬぼれるようになる。

同じことを中島敦は『文字禍』で言っている。

近頃人々は物憶えが悪くなった。これも文字の精の悪戯である。人々は、もはや、書きとめておかなければ、何一つ憶えることが出来ない。着物を着るようになって、人間の皮膚が弱く醜くなった。乗物が発明されて、人間の脚が弱く醜くなった。文字が普及して、人々の頭は、もはや、働かなくなったのである。

私は別に思想や文芸が自然科学より劣っているといいたいわけではなく、 新しい思想や新しい文芸、新しい芸術は必ずしも過去を凌駕しているわけではないという、 当たり前のことが言いたいだけだ。 だが往々にして人は今自分が生きているこの時代が最高であり、最も無謬であると考えたがる。 そして現代より優れているのは来たるべき未来だと考えたがる。 スマホがなかった時代よりスマホがある時代の方が人間も利口になったと思うし、 未来に今以上の何かSNSなりネットワークができればさらに利口になると思う。 果たしてそうかとそこで立ち止まり考えねばならない。 そうしたら過ぎた昔など意味はないことになってしまう。

私たちは何度も間違ってきた。帝国主義、資本主義、マルクス主義、共産主義、ヒッピー、ポストモダン。

現代人はそういう現代を賛美し過去を貶めようとする我々の現代というものと、 我々自身と戦わなくてはならない。 戦って後世に問わねばならない。 だからこそ、「私に道を行」わず、「古への道を考へ明らめて」、「物にも書き遺しおきて」、「時至りて」、「天下に敷き施したまはむ世を待つ」べきなのだ。

思うに、「古学」というもの、「古義学」「古文辞学」というものは、 中世から現代までの思想の影響を排除して、 古い時代のことをできるだけそのままの形で再現しようというものであり、 そのできるだけピュアな形態へ到達しようとするものであるから、 これは一神教との親和性が高いのである。 宣長が「古学」を極めた結果、 形態としては多神教であるが、 一神教的性格を持つ国粋主義に到達したのはある意味必然だったかもしれない。

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