後水尾天皇

後水尾天皇は江戸初期の天皇だが、かなりアクの強い人で、和歌もたくさん詠んでいる。
後水尾天皇には徳川秀忠の娘・和子が入内していて、
その娘が明正天皇として即位しているが、
女帝だったのでその子は天皇とはなれず、
結果的に徳川氏がそれ以上天皇家の外戚となることはなかった。
男子が生まれていたらどうなっていたかわからない。
後水尾天皇が徳川氏が外戚となることにかなり抵抗したらしい。
後水尾天皇はかなり長い間院政によって朝廷をコントロールしていたようだが、
もし後水尾天皇が抵抗してなかったら、
徳川氏はすみやかに天皇家の外戚となって「公武合体」が進み、
天皇家ももう少し楽な暮らしができたのではないか。
しかし徳川氏も綱吉以後は金欠続きだったわけだから、
後世を思えばあまり頼りにせずによかったのかもしれぬ。

幕末には今度は天皇家から和宮が徳川氏に嫁したりしているわけだが、
どうなんだかねえ。

ていうか、二十一代集と明治天皇の間の御製は、丹念に調べれば、
なんとか埋まりそうな気がしてきた。
江戸時代でも和歌を好む天皇はたくさん居るし、
天皇の御製くらいはなんとか残っているらしい。
だが通常の方法ではなかなかアクセスできない。
結局は国会図書館か何かに行くのが一番良いのかもしれん。
或いは群書類従あたりを地味に調べていくか。

歴代天皇の御製を、安土桃山や江戸時代の間もきちんと連続させて、
雄略天皇から今上天皇まで、
日本の和歌の変遷というものを調べた人は居ないのではないか。
少なくとも明治以後に「短歌」などというものを流行らせた連中はそんなことはやってないだろうし、
一部の国学者には居たのかもしれんし、
丸谷才一にも若干それらしい意図は感じるのだが、
そもそもこういうことは当の宮中などでは逆に研究しにくいものだろうから、
民間でやるしかないと思うのだよね。

明治天皇御製はさすがに有名だが、
明治天皇の歌風というものが、どのようにしてできあがったか説明できる人はいない。
先行する天皇家の和歌の傾向とか影響とか。
研究のネタにしようと思えばいくらでもあるはずだが。

それはそうと、日本外史だが、源氏とか平氏とか豊臣氏などはすでに現代語訳があるのだが、
徳川氏の部分は長い上に現代語訳もない。
以前にここらは非常に長くて退屈だなどと書いたのだが、
次第に興味も出てきたし、
つまり江戸時代の天皇家の御製を調べる上でもその歴史を押さえておく必要性を感じてきたからだが、
他人が手を付けてない部分でもあるから、
源氏と平氏が終わったら次は徳川氏にかかろうかなどと考えている。

だいたい江戸時代の歴史などみんな知ってるつもりでいるが、
どうもきちんと調べようとするとわからないことばかりだ。
まあ何事もそんなものなのだろう。

横浜

みなとみらいコスモワールド

> むら雲のしぐれめきたる海辺には園生に遊ぶ子のかげもなし

みなとみらい桟橋

> 横浜の港を巡る船渡し風寒ければ賑はひも無し

ちょっと定家風に詠んでみた(笑)。

横浜中華街

> 横浜のもろこし町に立ち寄れどあわただしきは冬の夕暮れ

雑感

> くれたけの世のなりはひにまぎれつつ暮らせる日々の惜しくもあるかな

> はかもなく時を過ぐさばひととせも短かかるらむきさらぎの頃

愚かなる身

孝明天皇御製:

> とやかくと今年もしばしいたづらにかひなく暮らす身の愚かさよ

> よろづごとなすにつけても愚かなり身はいやましに悔いの八千たび

> 位山たかきに登る身なれどもただ名ばかりぞ歎き尽きせじ

> とにかくに起きても寝ても思ふその歎きぞ絶えぬ我が身なりけり

おそらくは京都の市場の賑わいを詠んだ歌:

> 市場には年の暮れをば惜しまずもただ売り買ひの声ぞ賑はふ

> ゆたかなる世の賑はひも市人の春をむかふる年の暮れかも

> 商人の売るや重荷を三輪の市何をしるしに求めけるかも

> 売り買ひの賑はふ声も辰の市治まれる世を市に知るかな

年の暮れ:

> きのふけふと思ひし間にも明け暮れて今夜ばかりの年の内かな

> 嘆きつつ今年もやがて過ぐるなりいつまでかかる身に暮らすらむ

> 年の暮れ惜しむ心の梓弓ひきとまるべきものにしあらねど

> 今はとて何につけても惜しまるるむべ一年の暮れと思へば

> 人ごころ同じこよひの年の暮れその家々のさまは変はれど

寂しく静かな感じ:

> 春きぬと柳の糸はなびけどもくる人もなき宿のしづけさ

> おのづからくる人もなくなりにけり宿は蓬や生ひ茂りつつ

有馬温泉:

> 人ならず何の思ひか有馬山岩漏る水のわきかへるらむ

> いまもなほ世には出で湯に行く人の有馬の山の名にし負ふかな

遊女:

> いつとても柳の糸のうちなびく妹が姿の花のよそほひ

> もろともに身は河竹の起き伏しも飽かぬ乙女の姿なる見ゆ

> いつくとも宿も定めず明け暮れもうたふ江口の船の中かな

> 漕ぎ出でてゆききの人のうかれ妻身は浮舟の契りなるらむ

なんとなく京都の生活感が感じられるのだが。

和歌の血統

いろいろと調べてみると、
光格、光孝、孝明、明治、大正、昭和と、今上天皇からさかのぼって光格天皇までは直系で代々続いている。
光格天皇の前は後桃園天皇だが、22才でなくなり男子がなかった。その前は、後桜町天皇で、女帝だった。
ここで中御門天皇以来の皇統が途絶えたので、
新井白石の時代に創設された閑院宮家の光格天皇が継いだ。

閑院宮家は世襲親王家だったので、光格天皇の父は親王ではあった。
光格天皇が即位したので、父の典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとしたので尊号事件がおこった云々。
光格天皇はいろいろと文芸復興運動をした人で、典仁親王は和歌の名人だったそうなので、おそらく明治天皇の歌好きは光格天皇の父の典仁親王までは確実に遡れそうだ。

難易度高い

平安神宮発行「孝明天皇御製集」を借りてきたがこれがまた難易度高い。
「序」によれば7000首以上が収められている。
せいぜい千首くらいのうすい冊子かと思ってたのであてがはずれた。
あまりにも膨大なので、「御幼年稽古歌」とか「御詠草案」などはどんどん飛ばし、
できるだけ幕末に近づいたあたり、
「此花集万延元年」などを読んでみるのだが、

> 今よりは春の心に成に鳧うくひすの音をしるへにはして「鶯告春」

> 枝の雪花ともみはやうくひすのはる知そむる声を聞にも「鶯知春」

> 鶯よ朝日と共に鳴いてゝ月待かほの夕はへの声「夕鶯」

これらなどは、

> 今よりは春の心になりにけりうぐひすの音をしるべにはして

> 枝の雪花ともみばやうぐひすのはる知りそむる声を聞くにも

> 鶯よ朝日と共に鳴き出でて月待ちがほの夕映えの声

とかまあ送りがなやら濁点を補うわけだが、
「鳧」は場合によって「けり」「ける」「けれ」などいろいろ読むようだ。
「実」は「げに」と読み、
「詠」は「ながめ」と読むようだ。
凡例に書かれている「勾点」「見せ消符」などの記号の意味も良くわからん。

で、ついでに「新輯明治天皇御集」も借りてきたのだが、こちらは完全に題によって分類されており、
しかも恋の歌は省略。
丸谷才一によれば明治天皇の恋の歌は佐佐木信綱によって封印されたそうだ(笑)。

孝明天皇御製集

丸谷才一の「日本文学早わかり」とかあとはネットをいろいろ検索していると、
孝明天皇はかなりの御製を詠んでいるらしく、
平安神宮が1990年に「孝明天皇御製集」というものを発刊しているようだ。
東京都立中央図書館と神奈川県立図書館には所蔵しているようなので、
今度見てみるか。

その歌風から察するに、明治天皇は孝明天皇から直接影響を受けている可能性が高いと思う。
頼朝と実朝にも類似するように思う。

柴折り焚く

> わびぬれば煙をだにも絶たじとて柴折りたける冬の山里

和泉式部集(正集)。

> さびしさにけぶりをだにもたてんとて柴折りくぶる冬の山里

(震翰)和泉式部集。

> さびしさに煙をだにも絶たじとて柴折りくぶる冬の山里

後拾遺集。

微妙な異同があるのだが、和泉式部が詠んだという歌。
真ん中のが一番やけっぱち感が出ていて、上または下はやや整った感じ。
この和泉式部の歌から派生して、

> 山里の柴をりをりにたつ煙人まれなりとそらにしるかな (肥後)

> いとなみに柴折りかくる仮の庵の軒に引き干す旅の衣か (隆季)

> 旅人の仮のふせ屋は風寒み柴折りくべて明かしつるかな (上西門院兵衛)

> 岩が根にま柴折りしき明けにけり吉野の奥の花のしたふし (守覚法親王)

> 雪埋む山路のそこの夕煙柴折りくぶるたれがすまひぞ (隆信)

> 寂しさに柴折りくぶる山里も身より思ひの煙やは立つ (範宗)

> 寂しさに柴折りくぶる夕煙心細くや空に見ゆらむ (藻壁門院但馬)

> 思ひかね柴をりくぶる山里を猶さびしとやひたきなくなり (寂蓮)

> 朝夕に柴をりくぶるけぶりさへ猶ぞさびしき冬の山里 (慈円)

> 雪の中に柴をりくぶる夕煙さびしき色の空にみえぬる (慈円)

> さびしさに柴をりくぶる山ざとにおもひしりける小野の炭やき (藤原家隆)

> さびしさに柴折りくぶる夕煙さとのしるべとみやはとがめぬ (飛鳥井雅有)

などが出てきて(まだまだある)さらに後鳥羽院が

> 思ひ出づる折りたく柴の夕煙むせぶもうれし忘れ形見に (後鳥羽院)

と詠み、慈円が返して

> 思ひ出づる折りたく柴と聞くからにたぐひまれなる夕煙かな (慈円)

ここから新井白石が「折りたく柴の記」
という題で本を書いた。

ふうう。ものすごい連鎖だな。
和泉式部より前にはさかのぼれないのかな。
後鳥羽院は最初の歌から連想しているように思える。

やや似ている歌:

> 難波女か小屋に折りおりたくしほれ芦の忍びにもゆる物をこそ思へ (殷富門院大輔)

> さぞとだにほのめかさばや難波人折たく小屋のあしの忍びに (前大納言為氏)

いずれも和泉式部よりは後の人。

思うに、和泉式部は実際に山里だかどこかで、自分で芝を折り折り、
いろりにくべて煙をたてたりしたのだろうが、他の人たちというのはどうなのだろうか。
単に本歌取りしただけなのか。

返歌

本歌取りや返歌に文句を言っても仕方ないなと思った。
返歌はどうせ説明されないとわからんし、
定家の歌は本歌取りばかりなんだから、わからんで当たり前なんだなと。

ていうかガチンコで歌を読もうと思うと、まずは取材をしないといけない。
写生するなり観察するなり。
で、その気分が残っているうちに詠まないといかん。
昔はみんなそうして歌を読んでいたが(たとえば和泉式部など)、
そのうち本歌取りというゲームが流行りだして、
定家なんかがそのルールを明文化して、
ひたすら三代集とか八代集とかの歌を丸暗記して、
題詠+本歌取り+歌合というもう完全にバーチャルな遊技の世界になってしまい、
そういう場で競い合ってそこからそのまま勅撰集に取られるようになって、
とてつもなく狭い宮中遊技の中に閉じてしまって、
あんなふうになってしまったんだろうなと思う。

一方で実朝やら、あるいは南朝の後村上天皇などは実際に山野を踏み歩いて、
その場その場の写生というかガチンコで詠んでいるとしか思えない歌が多い。

古今集の頃は本歌取りするような歌がまだあまりなかったから(しかし紀貫之も本歌取りしたらしいが)、
遊びとしてはだじゃれみたいなのが流行ったんだろうな。
宮中でも民間でもみんながみんな和歌を詠んでいたのってやっぱ古今集時代、
遅くて和泉式部くらいまでなんだろうな。

藤原定家

> 駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕ぐれ

定家にしてはめずらしく写生的な歌なのだが、
実際には存在しない情景を詠んでいる。何かはぐらかされたような気分になる。

つまり、「駒とめて袖うちはらふ」人影すらないただもう一面の雪景色というわけで、
しかもおそらくは定家は佐野の渡し場の光景を実際に見て歌を詠んだわけではあるまい。
ありありと目の前に情景が浮かんでくるようで、それをいきなり否定されて、
まったくの架空の絵空事でしたという結論。
定家はやはりよくわからん。
一種の禅問答だと言われた方がわかる気がする。

> 苦しくも降り来る雨か神の崎狭野の渡りに家もあらなくに

こちらが本歌らしい。

本歌取りのお手本とされる有名な歌らしいのだが、
こんなものが本歌取りなら取らぬ方がましだと思うのだが。
なんか解釈間違ってるか。

本居宣長

丸谷才一が、本居宣長は歌が下手だというので、すこし調べてみたが、うまくはないが、
そんな下手とも言えないなと思った。

ひとつ例を挙げれば

> 水無月に風に当つとてとり出ればやがて読ままくほしき書ども

とりいだせば、ではなかろうか。

> 朝夕に物食ふほどもかたはらにひろげおきてぞ書はよむべき

わろす。
返歌:

> ものを食ひ酒を飲むとてかたはらに文をよみてぞたのしかりける