松蔭日記

図書館にあった講談社学術文庫はだいたい読みたいものは読み尽くしたので、つぎに岩波文庫にうつる。
上野洋三校注「松蔭日記」。

吉田松陰の日記かと思い、和歌だけでも抜き出してみるかと読み始めると、
柳沢吉保の話ばかり書いてあり、
あれっ、柳沢吉保って長州藩だったっけ、
もしかして吉田松陰って柳沢吉保と徳川綱吉の時代を評価していたのかななどと半信半疑に読んでいくと、
六義園が立派に完成してどうのこうのとか、最後まで柳沢吉保。
おかしいなと思い解説を読んでみるとそもそもこれは柳沢吉保の側室正親町町子が書いた自画自賛の日記なのだった。
解説に書いてある話もなんか悲惨で、幕初にあった資産も綱吉の時代に浪費しつくして、借金が吉宗の時代まで残った、
などと書いてあってひどいやつだなあ(笑)という感想しか出てこない。

テルマエ・ロマエ

ヤマザキマリ「テルマエ・ロマエ」を読む。
たぶん一話完結だったのが好評だったので連載化したのだろうが、
風呂に溺れて古代ローマから現代日本にタイムスリップしてしまうという恒例のパターンが、
だんだん苦しくなってくるよなあ(笑)。
このネタであと何話くらい引っ張るつもりなのだろうか。
月刊コミック・ビームに不定期連載、ってところが泣かせる。

タイトルの THERMAE ROMAE だが、ローマ風呂、とでも言う意味か。

「モーレツ!イタリア家族」というのも書いているのか。ふーむ。

ふとおもったのだが、

明治天皇御製、角川文庫版で

> 九重の庭の白菊たをらせて宴にもれし人におくらむ

とあるものが、J-Texts では

> 九重の庭の白梅たをらせて宴にもれし人におくらむ

となっていて、
J-Texts の方を調べてみると題が「折菊」となっているから、
単に「白梅」ではなくて「白菊」の誤記だったらしい。
「白梅」でも一応意味は通じるが、
「菊の宴」は毎年のように催されたようだが、
「梅の宴」というのは特になかったようで、
そういう意味でもやはり菊の方が正しいのだろう。
ここで「宴に漏れた人」というのはこれが明治三十七年秋に詠まれた歌なので、
日露戦争に出征していた人たちという意味が込められていると考えられるのだが、
実際には送ろうにも遠すぎて送れないわけで、単に多忙で出席できなかった人ともとれる。

誤記は誤記として、まとめてメモしておいて J-Texts に連絡してあげた方がよろしかろうか。

題の異同がはなはだしいのだが、
もしかするともともと「題しらず」だったのかもしれないし
(すべてが事前に題を課された「題詠」のはずはないし、中には歌を詠んでから題を付けたものもあるに違いない)、
或いは出版に際して題を詳しくするなどの手直しがあったのかもしれない。
一方が「をりにふれたる」となっていて他方が「をりにふれて」または「折りにふれて」となっているのも、
気にし出すと気になる。
「をりにふれたる」とはつまり特に題がないか季節がないという意味だと思うが、
しかし明らかに梅や桜など季節や題が特定できるものも「をりにふれたる」となっている場合があって、
となると題がもともとなかったものに仮に「をりにふれたる」と題を付けているようにも見える。
一度きちんと研究してみたくなる。
漢字か仮名か判然としない変体仮名などが使われているらしく、
原文を忠実に再現することは難しいのだろう。

ああっ。
また微妙な異同が。

> いかならむ薬すすめて国のためいたでおひたる身をすくふらむ

> いかならむ薬あたへて国のためいたでおひたる身をすくふらむ

これ。
おそらく原本にはどちらも採られているかと。

> 国の為いくさのにはにたつ人に仇なすやまひ防ぎてしがな

これと

>国のためいくさのにはにたつひとのやまひのあたをふせぎてしがな

これもほとんど同じ。

ところで最近暖かい日が続いたせいか梅が咲き始めたが、
梅は枝の下の方から梢のほうに順に咲くようだ。
先の方はまだつぼみだった。
おもしろいな。

serious sam

最近少しアクセスが増えたのは serious sam について書いたかららしい。
まあ、増えたと言っても 20ユーザ/日くらいだが。
別に広告載せてるわけでもないし、どうでも良いことだが。

加地伸行

[【古典個展】立命館大教授・加地伸行 不善な君主に従うなら…](http://sankei.jp.msn.com/life/environment/100123/env1001230246001-n1.htm)

最近読んだ「孝経」の著者だな。
なるほど、大阪大学から立命館に移ったのか。

絵で見る幕末日本

エメェ・アンベール著、高橋邦太郎訳「絵で見る幕末日本」「続・絵で見る幕末日本」など読む。
鶴岡八幡宮の描写など面白い。
あと日枝山王社や神田明神の祭りなど。
今よりかなりどぎつかったようだ。

この、名前から察するに、フランス語系のスイス人の物の見方は現代人とほとんど何も変わらないように思える。

しかしまあ、

> われわれは、彼に対して、もし彼が、われわれのために、閉塞されている建物の中に入れるよう取りはからった場合には、
その奉仕に対しての代償を提供するであろうということを説明した。

みたいな言い回しはどうにかならなかったのかな。
CNN の同時通訳じゃないんだから。

デザイン

デザインというのは、ある不幸な状況のときに必要とされる。しかしもともと不幸な状況にあるのだから、その不幸な状況を改善できなかったとして、デザインのせいにするのは酷というものだろうと思った。そう、よくあるパターンとしては、デザイナーの独りよがりであったり、デザイナーの自己満足のためにデザインが悪いのだろうと思ってしまうということ。しかし、必ずしもそうではない。

たとえばある間取りの悪いテナントがあったとする。形も間口も悪くてどうがんばって洗い場やカウンターを配置しても客を効率的にさばけないとする。デザインしようがない。
しかしそんなときでも「デザインが悪い」と言われることが多い。デザインはかわいそうだ。

たとえばある限られた予算の中である公共交通機関ができるだけ乗客を増やしつつ障害者にも配慮した車両を作ろうとするだろう。そんなときに条件を満たそうとしてちょっとした配慮の不足があるとたちまちそれは「デザインのミス」として観察されてしまう。デザインはかわいそうだ。

しかし、往々にして、我々からみていると、とくに不幸な状況でもないのに、デザインがしゃしゃりでてきて、状況を不幸にしているように見えることもある。たぶん錯覚なのだろう。

資金が潤沢にあるようにみえてデザインが悪いのは、デザインが悪いのではなくてたぶん何かの政治的理由なのだろう。なにしろ金がうごけば動くほど世の中は妥協の産物となるものだ。やはりデザインのせいにされてはかわいそうなのだろう。

デザイナーはマネージメントができて戦略的な予測もできて、かつ市場調査もできなくてはならないが、そんな完璧な人材は、どんな業種にもめったにいない。デザイナーはやはりかわいそうだ。ある意味 SE くらいかわいそうだ、とおもえばわかりやすい。

そもそもアレとかアレとかアレとか、とてつもなく人間に不親切な設計とか、別段、デザイナーのせいではなくて、複数の候補を用意して、それを選んだクライアントがセンスがないせいかもしれない。たぶんだが、デザイナーは、センスの良いデザインではなく、コンペでクライアントに選ばれやすいデザインをする傾向にあるだろう。そうこうするうちにデザイナーはますますそういうデザインをするようになり、世の中はそういうデザインで満ちあふれることになろう。まあ、政治家と国民の関係にも似ているよな。あるいはマスコミと国民の関係と言っても同じだが。

デザイナーは同時にアーティストであったりする。しかし基本的にデザインとは自分を殺すことであり、アートとは自己主張することであって、あい矛盾する。しかしなぜか世の中ではアート&デザインなどといって、この二つは混同されている。いやおそらく同時に二つの属性が必要とされるのだろう。やはり不幸だ。それについて十分に説明されていない状況も不幸すぎる。

昔バブルの頃は、低学歴だがお金持ちという人と、高学歴だが貧乏という人がいた。なんか矛盾しているようだが、こういう社会は非常に安定している。ようするに世の中景気が良くて勉強しなくても進学しなくても日銭がいくらでも稼げるわけ。ばかばかしくて何年もかけて勉強しない。はてはフリーターみたいな人たちも出てきた。そりゃそうだ。まじめに勉強したり、正社員としてしばられなくても、生きていけるんならみんなフリーターになる。しかし今は低学歴だと低収入、高学歴だと高収入という、当たり前なんだが、非常に危険な社会になってしまったよな。

だがしかし、そもそも、景気の変動の影響を受けやすいリスクの大きい仕事に就いた人と、景気の変動を受けにくい手堅い職に就いた人といるわけだから、景気の良いときに我慢する人と、景気の悪いときに我慢する人がいるのも当然のことだよな。

モーニングのアレとか読むと確かに大学進学率が上がって大学生が異常に増えた。大卒の採用人数も増えている。しかし大学生が多すぎるので、就職内定率は下がる。不況で新卒が採れないという以前に大学生が多すぎるから内定率が下がっている。もし大学生の数が20年前と同じなら内定率はもっと高いのだろう。

大学生は増えたかもしれないが、少子化で新成人は減ってきているはずで、じゃあこの先どうなるかといえば、団塊の世代が退職したあとは逆に新卒は足りなくなる。そもそも労働人口自体が足りなくなる。あと五年くらいだろうか。多少不況だろうと就職はできるようになろう。で、失業率が下がれば賃金も上がるし景気も良くならざるを得ない。そうこう考えればいま就職ができないとか不況がどうこうということをあまり深刻に考えても仕方ないのではないか。ただ今の状況だけ見て、企業の奴隷みたいな人材を作り続けるのはやめた方がよい。むしろやらなきゃいけないことは逆。

世の中には正しいか正しくないかの基準が明確には決まってないのにどちらかに決着を付けなくてはならないことがある。商売や営業などもそうだし、企画もそうだし、裁判もそうだし、倫理や文芸批評もそうだろう。とにかく人文系はたいていそうだ。これが工学系だと、定量化とかいう手法を使うわけだが、文系だと延々と時間をかけて立法とか法令の成文化とか判例の蓄積とかなんだかんだかけてやっている。答えがないんだからそうやってやっていくしかないのだろう。それはそれで良いとして、センター試験などの大学入試の問題も文系の問題はたいていそうだということだ。もっとも確からしいものを選べといわれてもどれも正しくどれも正しくないように見える。そういう答えが判然と決まってない問題を大学入試に出して良いのか。あるいは大学入試の頃からそのような感覚を磨かねばならないのか。出題ミスかどうかの判断はどこでされるのか。

無視できない違い

> ちりやすき一重桜の花のうへに雨さへそひてふく嵐かな

明治天皇御集角川文庫版。

> ちりやすき一重桜の花のうへに風さへそひてそゝぐ雨かな

文部省版。似ているが単なる誤記ではないな。

思うに9万首の御製の中には、このような推敲の段階によって微妙に異なる歌、習作、などがかなりふくまれるのではなかろうか。
題も相当に違っている。

梅にうぐいす

[梅にうぐいす 北大路魯山人](http://www.aozora.gr.jp/cards/001403/files/49960_37760.html)

ひどい話だなと思った。
うずいすは、二月から八月くらいまで毎日のように鳴く鳥で、
しかも梅の木というよりはごく普通の竹藪にいるものだ。
正直に観察すれば梅にうぐいすのような陳腐な歌など出てくるわけがない。

最初に鳴き始める二月が一番印象的なのかもしれない。
だが、ただそれだけだ。
そもそもうぐいすの鳴く声は聞いたことはあるが、
その姿をわざわざ目撃するというのはまれだと思う。

> あたらしきいへゐはならびたちにけりやぶうぐひすのすみかなりしが

> うぐひすのあさなあさなに鳴く里は夏のやぶ蚊もさぞおほからむ