丸谷才一が、本居宣長は歌が下手だというので、すこし調べてみたが、うまくはないが、
そんな下手とも言えないなと思った。
ひとつ例を挙げれば
> 水無月に風に当つとてとり出ればやがて読ままくほしき書ども
とりいだせば、ではなかろうか。
> 朝夕に物食ふほどもかたはらにひろげおきてぞ書はよむべき
わろす。
返歌:
> ものを食ひ酒を飲むとてかたはらに文をよみてぞたのしかりける
丸谷才一が、本居宣長は歌が下手だというので、すこし調べてみたが、うまくはないが、
そんな下手とも言えないなと思った。
ひとつ例を挙げれば
> 水無月に風に当つとてとり出ればやがて読ままくほしき書ども
とりいだせば、ではなかろうか。
> 朝夕に物食ふほどもかたはらにひろげおきてぞ書はよむべき
わろす。
返歌:
> ものを食ひ酒を飲むとてかたはらに文をよみてぞたのしかりける
仕事がランダムにばらばら降ってくると予定が立てられないわけですよ。
どんな仕事があるかあらかじめ知らせて欲しいわけです。
すると仕事する順番とか休みを取る日とか最適化できる。
最適化によってある程度仕事量を減らすことができる。
予定の立てられない仕事というものはもちろんあるが、
そういう不測の事態に対応するといった高度な判断力を要求する仕事ならばまだ諦めがつく。
というか仕事としてのやりがいはある。
どうでも良い仕事で、おもに他人がだらだらやってるせいで、
予定を立てさせてくれないのが一番腹が立つ。
源頼光の子に頼家というのが居て、
和歌六人党の一人と言われたらしい。
たしかに頼家が朝臣と呼ばれるのは変だ。
これはだまされた。
「吾妻鏡」。
> 元久二年・九月二日
> 乙酉 藤兵衛尉朝親、自京都下著。持參新古今和歌集、是通具、有家、定家、々隆、雅經等朝臣、奉勅定、於和歌所、去三月十六日撰進之。
同四月奏覽。
未被行竟宴。又無披露之儀。而將軍家、令好和語給之上、故右大將軍御詠、被撰入之由、就聞食、頻雖有御覽之志、態不及被尋申。
而朝親、適属定家朝臣、嗜當道。即列此集作者〈讀人不知〉之間、廻計略可書進之由、被仰含之處、依朝雅、重忠等事。
都鄙不靜之故、于今遅引〈云云〉
正確な現代語訳はよくわからんのだが、
源通具・六条有家・藤原定家・藤原家隆・飛鳥井雅経らが勅定を奉じて和歌所において、1206年3月26日に新古今和歌集を選進し、
4月に後鳥羽上皇に奏覽したが、未だに披露されてなかった。
しかし実朝は、和歌を好む上に、頼朝の歌が選ばれているとのことを聞いて、しきりにみたいと思っていたが、
見ることができずにいた。
そこで実朝の家臣で、藤原定家の弟子・内藤知親に頼んで京都から新古今和歌集をもってこさせ、9月2日に到着した。
とまあそんなところか。
実朝14才。
将軍になって2年目。
頼朝の死後7年目。
ここで、注目すべきは、実朝は父頼朝の歌が新古今集に採られているから読みたいといったというところで、
実朝が頼朝から何かの形で和歌の影響を受けていたのではないかと思わせる。
うーむ。
やはり実朝は二所詣以外どこにも出かけなかったわけだな。
鎌倉から箱根、三嶋、熱海まで。
太宰治「右大臣実朝」:
> この建暦二年の頃には、まだまだ人の心も、なごやかに睦み合ひ、上のお好みになるところ、下も無邪気にそれを習ひ、れいのお歌も、はじめのうちこそ東国武士の硬骨から、頗るけむつたく思ひ、相州さまなど遠まはしに御注意申し上げたものでございましたが、この頃にいたつては、まづ入道広元さま、相州さまの御弟君武州時房さま、御長子泰時さま、それから三浦の義村さま、結城の三郎朝光さま、和田の朝盛さま、内藤知親さま、東の重胤さまなどといふ猛将お武骨の面々が、いつのまにやらいつぱしのお歌人になり澄まし、仔細らしく三十一文字を案じて、赤焼けた太いお首をひねりながら御廊下をお歩きになつて居られるお姿などわけもなく微笑しい感じがいたしました。なんでもかでもお歌さへ作れば、よほどの過失があつても、おゆるし下さるさうだなどといふ物欲しげなお気持から、三十一文字を習ひはじめる御家人衆も多く出て来て、御ところのお歌会はお盛んになる一方で、またこのとしには非常に大がかりの絵合せも興行され、お奥の女房、近習にまじつて、れいの猛将御歌人連もそろつて御参加なされ、かへつて武骨の朝光さまのお絵が抜群の御勝利を得られたなどの大番狂せもございまして、さうして数日後にはその絵合せに負けたお方たちから御馳走が出まして御酒宴になり、遊女を御ところにお召しになつて舞へ歌への大陽気で末座の私たちまで芸を強ひられ、真に駘蕩たるものがございました。
建暦二年は実朝ちょうど二十歳。
いったい、吾妻鏡のどこをどう読めばこう解釈できるかは知らんが、まあそういうこともあったのかもしれん。
箱根を越えるとPASMOが使えなくなるので、
SUICAも残しておいたほうが良いかねえ。
しかしまあ、
小田原、箱根湯本あたりまでなら良いが、伊豆まで出かけると万札がどんどん飛んでいくんだわな。
> 我が君の手向けの駒を引きつれて行く末遠きしるしあらはせ
> 橋本の君にはなにか渡すべきただそま川のくれてすぎばや
井沢元彦「逆説の日本史」を読み始めたのだが。まあ、一割くらいは面白いことが書いてあるが、八割近くは単なる状況証拠と推理であり、真実は多くて三割くらい。見ただけで間違いとわかることも多いし、記述があまりにも偏向してる。こういうのは南朝の皇族の子孫が明治になって出てきて云々というような話と同じだわ。一つ一つ、裏付けをとる作業を積み重ねながら先に進まないと、こんなふうに歴史なんてどんな具合にも脚色あるいは捏造できてしまうだろ。
義満が天皇になろうとしていたという話にしても、ただ単に自分の息子の義嗣を偏愛していただけとも読める。義満が天皇とまったく違う形の日本の統治者になるというのも、そのままそっくり天皇になるというのもどちらも無理だろ。天皇家の祭祀のうちいかに仏教系の儀式を自宅で執り行ったとしても、宮中の儀式の多くは神道系、たとえば新嘗祭とかなわけで、いきなり神主さんになりますかといわれてもなれないだろ。皇位の簒奪が難しいというのはやはりそのあたりが理由ではないか。
それに足利将軍やら管領やら公家やらが義満の独裁に批判的だったわけだから、義満の暴走は遅かれ早かれ中に浮いて頓挫しただろうと思うな。足利幕府は当時としてはかなり合議制が進んでいたように思われるので、義満はただ煙たがられてただけでは。義満は決して絶対君主的な存在ではないし、それだけの軍事力を足利氏が独占していたわけでもない。一休が後小松天皇の落胤で、後小松天皇の子・称光天皇の兄に当たるので、位を継げば良かったなどというのは、かなりトンデモ系。そもそも還俗して上皇になった例はあるかしれんが、天皇になったなどという話はないだろ。明らかにあり得ない。ていうか、上皇は院、つまり僧侶として法皇にもなれるわけだから、上皇になるために還俗する必要すらないわな。天皇は神道系の儀礼しかできない、法皇は仏教系の儀礼しかできない、という棲み分けはあったんだろうな。仏教系の祭礼の重要性が時代が下るとともに大きくなり、逆に神道系の祭祀が形式化していったのが、もしかすると院政がさかんになった大きな原因の一つかもしれんわな。逆に言えば幼い天皇でも宮中祭祀はできたということだが、摂政か関白が代行していたのだろうか。ていうか幼い天皇がいるうちは上皇は祭祀を代行するために、院にはなれなかったのではなかろうか。なので、天皇、上皇、法皇という三段構成が必要だったのでは。ややこしいなあ。ましかし、天皇家が神道以外に仏教も祭祀に加えていく過程で、直系内での役割分担が必要になって、自然とそうなっていったのかもしれん。江戸時代に入ると天皇家が仏教の儀式をやらなくなった(国家仏教をしきらなくなった)ので、法皇も不要になったのだろう。最後は霊元天皇(在位1663年-1687年、1732年崩御)。
しかし皇位継承が男系に限るというのは良くできている。女系もありとすると自分の息子(内親王と結婚してその息子か娘)を天皇にできる。しかし、男系に限ると孫(娘を皇后に立ててその男子)を天皇にすることしかできない。そもそも皇后に立てるというのはとても難しいが、内親王と結婚するのは割と簡単かもしれん (女帝と結婚する必要はない。皇族の女性と結婚しさえすれば良い)。義満も内親王の子だから、女系もありとするとあっというまに皇位継承対象者になってしまう。女系を認めるかどうかというのはやはりかなり難しい問題な気がする。
ましかし、上記は皇位を簒奪しようというのが男であるという前提だが、完全な男女同権の時代になってしまえば、ある(野心ある)女性が天皇と結婚して自分の子どもを天皇にすることも可能なわけで、あまり抑止力にならんわな。ある意味尼将軍政子みたいなものか。
ま、ていうか、野心ある女性が無理矢理天皇か親王と結婚して子供を天皇にするという状況があまり思い浮かばないけどな。
最近、普通のスーパーやデパ地下でも九州麦味噌が数種類並んでいるのだが、これはどうしたことか。半年前だとフンドーキンが一種類あるかどうかというところで、伊勢丹などに行けばやや種類があるという程度だったのだが。
頼朝と政子が子供連れで、あるいは、頼朝が死んだ後も政子・実朝らが二所詣と言って伊豆山神社と箱根神社、それから三嶋神社にたびたび参詣している。
伊豆山神社は、政子が輿入れ先から逃げ出して匿われたところだし、箱根神社は頼朝が石橋山で負けて匿われたところだから、要するにお礼参りということだわな。三嶋神社は伊豆で一番大きな社という程度のことだろう。
しかし市町村合併で伊豆に「伊豆市」と「伊豆の国市」があるというのはあまりにもひどすぎないか。いっそのこと合併すれば良いのに。
財布を確認すると、思ったよりも金が残っててびっくり。金を使いすぎてても嫌だが残り過ぎているのもどこかで勘定忘れて帰ったとか心配したりする。しかも胸ポケットに1500円入っているのも気になる。
なるほど。五千円札をあと一枚入れていたと考えるとだいたい勘定が合う。そして釣りを胸に入れたんだな。途中、松屋でカレー食べたのを思い出す。
まあ体重的にはOK。