配給

『ローマ人の物語』巻9はガリア戦記に相当するところだが、
ローマ軍の兵士は一日に小麦粉850gを支給されたとある。
根拠はわからんのだが少なくともガリア戦記にはその記述はなさそうだ。

日本軍は、大東亜戦争までは1日に一人米を6合食べていたという。
米1合は150gだから、900g。
そんなに食うのかと思うがそういうものなのだろう。

宮沢賢治の詩では一日に4合食べるというから600g。
これも相当多そうに思えるがたぶん控えめな値なのであろう。
たしかに蕎麦を3束、揖保乃糸だと1袋、
乾麺で300gくらいを一度に食べろと言われて食べられないわけではない。
私自身若い頃はそういう食べ方をしてた。

現代人は主食だけでなくおかずからも相当のカロリーを摂取しているだろう。
昔の人は逆に主食からもある程度蛋白質の摂取を期待していたと考えるべきだろう。

そりゃそうと、ガリア戦記をオリジナルよりも面白く書くのは難しいのかもしれんが、
作者自身そう言い訳しているが、正直ヘルウェティイ族の話のところなどかなりつまらない。
も少しどうにかなるんじゃないかと思うのだ。
さらに言えば、「ヘルヴェティ族」と表記しているが、ラテン語に忠実ならば
「ヘルウェティイ」、より正確には「ヘルウェーティイー」となるだろう。
そんな配慮は彼女にはまったくない。
他の著作を見てもそうだ。
単に現代イタリア語的に読んでいる。
たぶんイタリア語の文献を下敷きにしているんだろうな。

ガリア戦記を現代人のためにケルト人やゲルマン人について補完すればきっと何倍もの分量になろう。
しかし、量は減らしつつ現代的な解釈や補注を加えている。
これで面白くなるはずもないと思うが。
塩野七生はたぶんケルト人やゲルマン人などの蛮族には何の関心も無いのに違いない。
トルコ人やギリシャ人やアラブ人に対する態度と同じだ。

カエサルがどうしたこうしたということを書きたいだけなのだ。
ハンニバル戦記など、
面白い箇所もあるが、全体としてみると、
こういう有名になってから引き受けた長編小説では、
多くの箇所が中だるみしていてもしかたないのだろうか。
『十字軍物語』はさらにひどいと思う。
分野的に他に比較できる作家があまりいないせいだと思うが、あまり批判は聞かないよな。
逆に、彼女は日本人にとっては新しい分野を開拓した、先駆者なのだから、
もう少し良い仕事をすれば良いのにと思う。
もっとうがった見方をすれば、
彼女の小説の面白いところにはイタリア語の良質な文献がある。
それ以外のところは適当に間を埋めているのかもしれない。

光源氏

宣長の紫文要領には

> 光は此の君の諱のやう也。高麗人のつけ奉りたるよし、桐壺の巻に見ゆ。

とある。しかし、wikipedia には

> 「光源氏」とは「光り輝くように美しい源氏」を意味する通称で、本名が「光」というわけではない。

などと書いてある。
たとえば岩波文庫「源氏物語」の「桐壺」を読んでも、高麗人が人相を見た、
父の帝が源氏を賜った、とは書いてあるが、この御子を「光るの君」などと具体的に呼んだ、名付けたとはどこにも書いてない。宣長が読んだ写本が異なるのだろうか。

昔の中国では、諱は生まれた直後に付けるのではなく、
六、七才になってから付けるのだそうだ。
諱という風習はもともと日本古来のものではなく、
中国を真似て出来たものに違いない。
少なくとも、万葉時代の諱(人麻呂、赤人、田村麻呂)などではなく、
平安時代の源氏の一字の名前、襄(のぼる)、順(したがう)、挙(こぞる)、貞(さだむ)
などの名は、中国の影響によるものに違いない。

源光(みなもとのひかる)という名前だった可能姓は捨てきれないのではないか。
源氏物語の解釈に本居宣長の説は決して軽んじられてよいものではない、と思う。

いろいろ調べてみるとすぐにわかることだが、源氏物語の最古の写本は鎌倉時代のものだ。
鎌倉時代と言っても、150年くらいの幅があるわけだが、西暦1200年より後だとして、
源氏物語が書かれたのは道長の時代だから1000年くらい。
200年の隔たりがある。
これは恐ろしいことだ。
新約聖書ですら、イエスが死んで50年後くらいにはだいたい出来ていたのが、
それでも本当のイエスがどんな人だったのかはわからなくなってしまっている。
平家物語もだいたい事情は同じだ。
源氏物語のように200年も経つとどうなってしまうのか。

そもそも原文には「光源氏」「光る源氏」という単語はほとんど出てこない。
本文中にも一箇所「帚木」の冒頭に出てくるだけ。
この、「光源氏」という呼び名は、源氏物語が出来てしばらくたってから一般化したものなのだろう。

たとえば、似たような例として、
藤原俊成の古来風体抄がある。
俊成がこんなに長くて体系的な歌論を書いたはずがない。
定家や後鳥羽院ですら短い、または断片的な歌論しか書いてない。
俊成の歌論をこのような形に「完成」させたのはずっと後の世の人だ。
この時代のものは、もっと疑ってかかった方がよいのではないのか。

紫式部がいきなりあのような長編小説を書いたと考える方が間違っている、と考えるべきではないのか。
最初は帚木、夕顔、若紫、末摘花辺りしかなかったのではないのかとか。

皇位継承

[wikipedia 皇位継承](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E4%BD%8D%E7%B6%99%E6%89%BF#.E9.99.A2.E6.94.BF.E6.9C.9F.EF.BD.9E.E9.8E.8C.E5.80.89.E4.B8.AD.E6.9C.9F)

> 後三条天皇は、皇統統一をより強固なものとするため、生前に直系男子へ譲位し、上皇として政務に当たることを目論んでいた。後三条天皇はその実現の前に没したが、その直系男子の白河天皇は後三条天皇の遺志を継いで、上皇となって事実上の君主(治天の君)として政務に当たる院政を開始した。

うざいな。
wikipedia は「治天の君」厨がわいていて異様にうざい。
誰だろうこんなことを言いたがるのは。
どうしてこんなおかしな学説を世の中に広めたがるのだろう。
「治天の君」という概念は戦後のモノだろう。たぶん吉川英治厨あたりだろうな。
後三条天皇は譲位後すぐに死んでしまったので、
病気によって政務が執れないから引退しただけじゃないの。

だいたい後三条天皇の遺志を継ぐなら親政しろよ。
官僚体制整えて中央集権国家目指せよ。
なんかとんちんかんだよなあ。

白河天皇

後三条天皇が崩御し白河天皇が即位したのが1073年、
1075年には勅撰集編纂の命が藤原通俊に下り、
同じ年、殿上歌合、また続いて内裏歌合などが続いて催される。
1073年以前には公式の歌合が行われた形跡がない。

思うに、後三条天皇は和歌にはほとんど関心が無かったのに違いない。

その息子である白河天皇が、なぜ長い間途絶していた勅撰集を復活させ、
しかも在位中に後拾遺集と金葉集、二つも出した。
なぜか。
おそらくは最愛の中宮藤原賢子(1082年死去)の影響だろう。
賢子の実父は源顕房、内裏歌合を主宰したり、後拾遺集に十四首も選ばれたりしているから、
ほぼ間違いないだろう。源顕房は村上源氏の祖で後三条帝に抜擢された非藤原氏の能吏の一人である師房の子である。大江匡房も勅撰集にたくさん取られている。

後拾遺集や金葉集に取られている白河院の歌をみると、
平明な中に独特の着眼があって、まずまずの出来である。
おそらく本人も和歌は好きだったのだろう。

さしてゆく-みちもわすれて-かりかねの-きこゆるかたに-こころをそやる

かひもなき-ここちこそすれ-さをしかの-たつこゑもせぬ-はきのにしきは

やとことに-おなしのへをや-うつすらむ-おもかはりせぬ-をみなへしかな

もみちはの-あめとふるなる-このまより-あやなくつきの-かけそもりくる

おほゐかは-ふるきなかれを-たつねきて-あらしのやまの-もみちをそみる

あふさかの-なをもたのまし-こひすれは-せきのしみつに-そてもぬれけり

よろつよの-あきをもしらて-すききたる-はかへぬたにの-いはねまつかな

かせふけは-やなきのいとの-かたよりに-なひくにつけて-すくるはるかな

はるかすみ-たちかへるへき-そらそなき-はなのにほひに-こころとまりて

おしなへて-こすゑあをはに-なりぬれは-まつのみとりも-わかれさりけり

ほとときす-まつにかかりて-あかすかな-ふちのはなとや-ひとはみるらむ

いけみつに-こよひのつきを-うつしもて-こころのままに-わかものとみる

藤原能信

藤原頼通は道長の長男、教通は五男で頼通の同母弟。
能信は四男、頼通の異母弟。
頼宗は道長の次男。

後三条天皇は後冷泉天皇の弟だった。
頼通は養女・嫄子を天皇の中宮に入内させる。
教通も娘・生子を女御として入内させる。
頼宗も娘・延子を入内させる。
一方、能信は天皇の弟の尊仁親王(後三条天皇)の側に付く。
能信には子がなく、妻の姪・茂子を養女として尊仁親王の妃(白河天皇の実母)とする。
尊仁親王は皇太子であったが、じきに後冷泉天皇に皇子が生まれれば皇太子の変更があるだろうと、親王を後見する者は能信以外にいなかった。

後冷泉天皇が跡継ぎなく死去したので、尊仁親王が皇位継承して後三条天皇となる。
天皇と関白頼通は直接の血縁関係がない。
能信と茂子は天皇が即位する前に死んでしまう。
教通は頼通から関白を譲られるはずだったが、頼通が自分の息子の信長に関白を継がせようとしたために対抗して天皇に接近する。おそらく天皇との間の密約かなんかがあって関白職に就く。

天皇は即位時33才の壮年であり、積極的に親政を行って摂関家の勢力削減に努めた。
下級官吏の大江匡房、藤原実政らを抜擢するとともに、
村上源氏の祖・源師房、能信の養子の能長(実父は頼宗)、
源隆国(高明の孫)の子息・俊明などを登用した。
大内裏再建、荘園整理、蝦夷征伐、財政再建のための貨幣・度量衡の国家統一を次々に打ち出す。
しかし改革半ばにして40才で崩御。

こうしてみると、藤原能信という人が、
後三条天皇の改革のキーパーソンであることがわかるな。
どんな人だったのだろう。
もしかすると俊明辺りから母方の祖父・高明の間接的な影響を受けているのかもしれん。

いやー。面白すぎるな。
いままでは、道長的世界のエピローグとして、
続く白河天皇による院政期のプロローグとして、能信が描かれることはあったようだが、
私としては、中国で宋が出来て、宋から新しい政治システムが日本に導入されてきて、
古い律令政治が行き詰まって荘園だらけになって、
個人領主としての天皇家は富んでいても国家財政は破綻寸前。

それを宋に習って改革しようとしたのが後三条天皇で、
宋の中央集権的官僚制をモデルとして能信、匡房、実政、師房、能長、俊明らにばりばり仕事をさせたということになろう。
道長の王朝時代よりずっと面白い時代だと思うのだがのー。

[宋の改革](/?p=10724)参照。

白河天皇は逆にもう国家はどうとでもなれと。
天皇家が公家よりも大きな荘園を持っていればそれでよい、
公家もどんどん荘園もて、
寺社もみんなもてもて、という方針に切り替えた。
自らも出家して法皇とか称して仏教やら建築に放蕩三昧。
為政者としてはどうかと思うがまあ時代には合ってたんだろうな。
勅撰集編纂を復活させた、というより、事実上創始したのも白河天皇だしな。
法皇とかおかしなことも白河天皇が始めたようなもん。
もっとも院政が発達し、最も天皇の権威が高かったのも白河天皇のときだしな。
どう評価してよいのやらわからんが、
しかし、新井白石は後三条天皇は褒めているが、白河天皇の評価は極めて低い。
ある意味後三条天皇は雍正帝に似ており、
白河天皇は乾隆帝に似てるわな。
後白河天皇は白河天皇の劣化コピーだしな。