一夜

若い頃は昼夜逆転と言えば夜更かしをしすぎて昼間寝ているようなことであった。私が京都駿台予備校上賀茂寮に住んでいたときはまさにそれで、朝5時まで烏丸鞍馬口にあったゲーセンで遊び、6時まで四条河原町辺りの喫茶店でだらだらして、上賀茂に戻ってまかない飯も食わずに夜まで寝て、夜が更けたらまた烏丸鞍馬口まで遊びに行く、などという無茶なことをしていた。しかし今から思えばめちゃめちゃ有意義な京都暮らしであったとも言える。一生のうちで一度くらいはそういう生き方をしてもよい。

今はまったく別の意味で昼夜逆転している。テレビ業界で夕方はゴールデンタイムというのかもしれないが、私にはまったく無価値な時間帯であって、さっさと酒を飲んで寝てしまいたい。朝は3時くらいに起きて風呂に入り5時の始発で移動して、夕方はできるだけはやく帰宅して寝る、というのが肉体的にも精神的にも一番楽な生き方なので今はそうしている。とにかく人間社会というものが嫌で嫌で仕方ない。年を取ったから早起きになるというのは実はそういうものであったかといまさら思い至った。

夏目漱石はいきなり長編小説を書いたと以前書いた。それで嘘ではないのだが、短編も書いてないわけではない。たとえば「倫敦塔」。しかしこれを短編小説といってよいのかどうか。小説というよりエッセイのようなものではなかろうか。

『猫』を読んでいたら、

せんだっても私の友人で送籍
そうせき
と云う男が一夜という短篇をかきましたが、誰が読んでも朦朧
もうろう
として取り
めがつかないので、当人に逢って
とく
と主意のあるところを
ただ
して見たのですが、当人もそんな事は知らないよと云って取り合わないのです。全くその辺が詩人の特色かと思います」「詩人かも知れないが随分妙な男ですね」と主人が云うと、迷亭が「馬鹿だよ」と単簡
たんかん
に送籍君を打ち留めた。

というくだりがあって、送籍とは漱石、つまり夏目漱石本人のことで、「一夜」という小説も青空文庫にあって読むことができる。

この「一夜」だが、誰も話題にもしないので私も今の今まで読んだこともなく、その存在も知らなかった。朦朧としてとりとめの無い話。まさにそうで、これに何か意味があって解読してみようと思った人もほとんどいないようだ。

普通小説家になろうという人はまず短編を書いてみてだんだん長くしていくものだ、と以前に書いた。その通りだと思う。夏目漱石はまず「猫」という長編小説を書いたように言われているが実はこの「一夜」が処女作なのではないかとまずは疑ってみた。

しかしたぶん違うだろう。では「猫」のあとに「一夜」を書いたのか。そうかもしれない。しかし思うに、漱石はたぶん誰か(子規であった可能性が高いがそうではないかもしれない)に、小説を書いたらホトトギス辺りに掲載しても良いよなどということを言われたに違いない。それで小説なんて書いたことないんだからどう書けば良いかわからない。適当に何本か、いろんな種類のものを書いてみた。漫談みたいなもの、留学の体験談みたいなもの、朦朧としたもの、などなど。それらが「猫」の第一話と「倫敦塔」、「幻影の盾」、「琴のそら音」「一夜」などの短編群だった。というあたりが当たりではないか。

それでそれらを読み比べてみて、とりあえず「猫」は一般受けしそうだからホトトギスに掲載してみたら非常に受けた。「猫」は連載が決まり、漱石は突然流行作家の道を歩き始めた。

朦朧としているあたりが詩人の特色である、などと書いているが、実際漱石は詩人、つまり漢詩人になりたかったのに違いなく、小説家なんぞになりたいわけではなかった。この「一夜」にも、「坑夫」にも、「草枕」にも、小説ではないという言い訳が書いてある。小説の書き方を知っていたわけでもなかった。ただ「猫」を書いたら偶然売れたのであとから小説というものはどう書いたら良いか試行錯誤したというのが当たっているのに違いない。そしていつの間にか、漱石は偶像化して、最初から小説家になろうとして、イギリス留学仕込みの英文学の素養を活かした小説を書き始めたということになってしまった。それはたぶん村上春樹には当てはまるけれども漱石はそんな人ではまるでなかった。漱石がもしそんな人であれば森鴎外と同じ頃から小説を書いていなくてはなるまい。

今と同じく当時も小説家になりたい人はたくさんいた。樋口一葉も生活の足しにするために半井なんとかという新聞作家の弟子になって小説の書き方を学んだ。漱石はそれすらしていない。いきなり小説を書き始めた。今の人は小説家の型というものがあってそれを学ばなくては小説家にはなれないと思っている。ほとんどの人はそう思っているだろうが、夏目漱石はそうではなかった。小説のようなものを書いてみたら売れたから小説家になったのだ。出版社の編集者はああ書けこう書けという。それはただライターの都合だから、ほんとうに小説家になれるか、書いた物が小説になるか、書きたいものが書けるかということとはあんまり関係ないと思う。

「一夜」「二百十日」「草枕」はよく似ている。これらは実は三つとも同じモチーフから出てきたものではなかろうか、「一夜」をリライトしたものが「二百十日」「草枕」となったのではないか、という仮説を立ててみる。

となると「一夜」に出てくる二人の男と一人の女は、夏目漱石、山川信次郎、そして前田卓だったのではなかろうか。漱石にとってこの一夜のことは一生の思い出となるような興味深いものだったのではないか。しかし漱石は当時すでに結婚していたし、体験をそのまま書いては小説にもならないし、プライバシーもへったくれもない。しかし小説を書いた経験もほとんどない漱石としてはどう脚色すれば小説になるかもわからない(漱石は絵の描き方も知らずに水彩画を描き始めたり、バイオリンをいきなり弾き始める人だった)。そんなテクニックはまだ身につけていないのだ。だから詩人か画家の書いた朦朧とした小説、ということにした。漱石としてはもう少しまともな作品に書き直そうと思って、「二百十日」「草枕」ができたんだけど、この二つもなにやら怪しげな、小説らしからぬ小説になってしまった。世間一般では漱石といえば『猫』に『坊っちゃん』というイメージが定着してしまっていた。それと外れたものは無視され、存在すらしないものにされてしまった。というあたりが真相なのではなかろうか。

「一夜」にも漱石の詩が出てくるのだがこれは「草枕」にも出てくる。

春日静座
青春二三月 愁随芳草長
閑花落空庭 素琴横虚空
蟰蛸挂不動 篆烟繞竹梁
独坐無隻語 方寸認微光
人間徒多事 此境孰可忘
会得一日静 正知百年忙
遐懐寄何処 緬邈白雲郷

よほど好きな詩なのだろう。白雲という語は漱石や徂徠の詩にしばしば出る。荒井健・田口一郎 訳注『荻生徂徠全詩』によれば白雲は清浄な隠棲の象徴であるというが、漱石の場合それは具体的には熊本県天水町のことである、ということになる。遐懐、緬邈とは遠い熊本時代の思い出ということになる。独坐隻語無く、方寸微光を認むとあるが、必ずしもこれを信じる理由もない。彼の傍らには二人の友がいたはずだ。

人生は徒らに忙しい、山の中でたまたま一日静かに過ごすことができたがまた人の世界へ戻って行かなくてはならぬ。三十才頃の漱石の述懐だ。

蟰蛸挂りて動かずとは「一夜」に出てくる蜘蛛のことであろう。

「蓮の葉に蜘蛛くだりけり香をく」と吟じながら女一度に数弁すうべんつかんで香炉のうちになげ込む。「蟰蛸かかって不揺、篆煙てんえん遶竹梁ちくりょうをめぐる」とじゅしてひげある男も、見ているままで払わんともせぬ。蜘蛛も動かぬ。ただ風吹く毎に少しくゆれるのみである。
「夢の話しを蜘蛛もききに来たのだろ」と丸い男が笑うと、「そうじゃ夢にかす話しじゃ。ききたくば蜘蛛も聞け」と膝の上なる詩集を読む気もなしに開く。

私の本業は一応CGということになっている。世間一般が言うCGとは少し違うかもしれないが、CGを仕事にして生きている人の一人であるには違いない。私が若い頃CGはまだ未発達で、個人レベルでも新しい仕事が出来もしたのだが、今は何もかも発達してしまって、私一人いようがいまいが、CG業界には何の影響もない。私がやるよりもうまくできる人がいくらでもいるのに老い先短い私がわざわざやる必然性はまったくない。私は私にしかできない仕事がしたい。だからはやくCGの仕事なんてやめてしまって執筆活動に専念したいのだが(笑)、あいにく売文では食っていけないから仕方なく昔覚えた仕事を続けている。

私もまた小説でも書いて生活の足しにしようとかつて考えた一人であったから、漱石の気持ちを詮索したりしている。たぶんだいたい当たっているだろうと思う。こういう考察をした人はあまりいない、というか、全然いないのではないか。ちょっと調べれば「一夜」と「草枕」がこれほどまで類似していることはすぐに知れる。

こないだ書いたけどいつ出版されるかわからない本、というものがあって、もうこれ以上書くこともないのだが、書いたことが間違ってちゃいけないから出版されるまでにいろいろ調べているところだ。今の所大して訂正することはないと思っている。

八畳の座敷に髯のある人と、髯のない人と、涼しき眼の女が会して、かくのごとく一夜いちやを過した。彼らの一夜をえがいたのは彼らの生涯しょうがいを描いたのである。
 なぜ三人が落ち合った? それは知らぬ。三人はいかなる身分と素性すじょうと性格を有する? それも分らぬ。三人の言語動作を通じて一貫した事件が発展せぬ? 人生を書いたので小説をかいたのでないから仕方がない。なぜ三人とも一時に寝た? 三人とも一時に眠くなったからである。

髭のある人というのは明らかに漱石だ。

小説家が初期作品をリライトして長編に仕立て直す、ということはよくあることのように思われる。ヨハンナ・シュピリも「フローニの墓に一言」をリライトして「ハイディ」を書いたのだと私は思っている。

吾輩は猫である

仕方ないので『吾輩は猫である』を頭から通して読み始めた。

つい最近草枕4というものを書いたが、『草枕』が温泉旅館の女将を画工の目から見て描いた、当時流行っていた一種の暴露小説というか、自然主義小説というか、私小説の類いであって、また画工も漱石自身のカリカチュアであって、要するに『草枕』は漱石の自分語りというか、自分の実生活から取材してそれをそのまんまネタにした(当時の)現代小説である。

これに対して森鴎外の『阿部一族』などは全く別種の、純粋な歴史小説であり、ある対象を客観的に(あたかも医者が患者を観察するかのような視点で)記録したドキュメンタリーである。

『猫』は『草枕』とまったく同じで、猫の視点から描いた漱石そのものだ。漱石は教師をやったり、正岡子規と一緒に俳句を詠んだり、水彩画に凝ったり、新体詩を作ったり、バイオリンを弾いたりと、いろんなことを試してみるがどれも世間で評判になることはない、要するに世間によくいる、人よりもちょっとばかり高級な教育を受けたおっさんの一人、教養人の一人であった(そういう人を高等遊民というのはちょっと間違っていると思う)。それで、世間ではやはり小説を書くのが流行っていたので、ホトトギスを主宰している子規から勧められて小説を書いてみることになった。そしたら非常に好評だったので八話まで連載することになった。『猫』はただそれだけのものだ。

『猫』を読めば漱石が常日頃持病の胃弱に苦しめられており、知人にいろいろ勧められて試してみてもどれも効果がなかったことなど、彼の日常がそのまま書かれている。彼の妻、子供たち、使用人ら、付き合いのある友人ら、彼の仕事、日露戦争当時の世情などが、多少おもしろおかしく改変されてそのまま出てくる。なんのことはない、これは田山花袋の『蒲団』と同じでただの私小説だ。むしろエッセイに近い。ホトトギスという雑誌は新聞のように一般大衆が読むものではなかったのに違いない。それでも当時文芸に携わっている人はほとんどもれなく読んで、それでやっと漱石が世間に知られたというわけだ。そのことまでが全部第二話には書かれている。

国会図書館デジタルライブラリでホトトギスの誌面も見てみたのだが、筆名は「漱石」とだけ書かれていて、これが子規の友人である夏目金之助という人だとはすぐにはわからない、最初はほとんど匿名に近い投稿だったと思われる。挿絵が入っているのだが、これがまた話とは何の関係もない、日露戦争とか朝鮮の絵なのがおかしい。この挿絵、とっくに著作権保護期間は過ぎているはずだが、公開範囲は「送信サービスで閲覧可能」になっているからここに貼ることはできない。

漱石は私小説『猫』を書いてそれがたまたま当たったので『坊っちゃん』を書いた。『坊っちゃん』もまた私小説ではあるが、だいぶ脚色されている。それで『坊っちゃん』も当たったので今度は少しひねって『草枕』を書いたがこれまた一種の私小説であった(『草枕』はモデルとなった女性については漱石の妻が詳しく記述しているし、漱石が温泉を訪れた時のことも詳しく調べられているから、どういう素材をどういうふうに加工してああなったのか、分析するのにちょうど良い)。『草枕』も、評判は悪くはなかったがそれほど当たらなかった。自分自身のネタがだんだん尽きてきたので今度は他人を取材して『坑夫』を書いた。しかし『坑夫』にもある程度漱石自身が投影されているように思える。たぶん自己の体験と取材対象からの聞き取りを適当に混ぜ合わせて話を作ったのだろう(私が一番しっかりと、たびたび読み返したのは漱石の作品は『坑夫』である。だから『坑夫』のことは漱石の作品の中では一番良く知っている)。

でまあこのあたりで教員をやめて朝日新聞専属の作家になったりしたもんだから、まじめに(?)小説を書き始めた結果が『こころ』などになった。夏目漱石という人はただそれだけの人だったように思う。

それで、普通の人は、高校生くらいで教科書で『こころ』を読まされて、それで『猫』の冒頭部分やら『坊っちゃん』などをちょろっと読んで、あー俺も夏目漱石わかるわかると思って、夏目漱石という人は偉い人だな、俺にもわかるわーとか思って、それ以上漱石とはどんな人だったかなんてことは深くは考えない。『猫』にしても全部を通して読んだりしない。読んだとしてもさらっと流し読みしてそのまんま忘れている。要するに社会的に記号化された、記号としての漱石は知っているが、漱石とは何かというところまでは考えたりしない。試験に出るから覚えているだけのことだ。小林秀雄にしてもそうだ。世間で偉い文芸評論家だというから、ちらりと読んでみて、記号としての小林秀雄を知っているだけで、なぜこの人はこんなことを書こうと思ったんだろうというところまでは考えない。小林秀雄は漱石ほど頻繁に名前が挙がることはなく試験に出る頻度も少ないから知らない人は知らない。逆に漱石はみんなが知っている。ただそれだけのことなのではないか。

ほとんど無名時代の漱石が、ほとんど匿名で寄稿したこの一話読み切りの『猫』を当時の感覚で読んでみないことには『猫』を玩味することはできないと思うのだ。予備知識や先入観をできるだけ捨てて。そうしないと漱石という人がわかってこない。

『猫』で、猫の絵を描いているのだが目が描かれてないとか、猫なのか熊なのかわからないとか、色も全然違うとか、人の描いた絵を見ても何が描かれているか察することができないとか、そういうのは漱石が自分の絵を人に見せて言われたことをそのまま書いているのだろう。実際漱石は目を描くのが下手だと思う。目を描けない、顔や表情を描けないのでは絵描きになることはできまい。

インターネット即時投票会員

新御徒町、というより、佐竹商店街に、「佐竹や」という店があって、私はあまりブログでお店の紹介はしないのだが、どうもこの店は情報が少なすぎる。何曜日何時に開店するということがどこにも書いてないし、店の前までいくと確かに何時から開くと張り紙がしてあるのだが、現地にいかねばわからぬのでは意味が無い。しかもその張り紙どおりに開店しないこともある。

それで最近は開店中は instagram でライブ配信するようにしたという。これならインスタグラムを見れば店をやっているかどうか、誰が店に立ってやってるかがわかるというわけだ。

この店は鹿児島出身の「社長」と呼ばれている人がやっていて、鹿や熊、アナグマなどのジビエ肉を中心に、いろんなメニューが張り出されているのだが、仕入れが少なくて今年の分は今日で終わりみたいな、すぐに売り切れそうなものははじっこの目立たないところに貼ってある。ゼンマイの酢味噌和えとかセリの白和えとか。それがまたうまい。それでここは油断のならぬ店である、と思った。

社長の他にもう一人、トリトン海野さんという芸人さんがいることがある。ラッパ漫談というものをやる人で、落語家の名は愛国亭日の丸という。話をするととても楽しいが、話芸を商売にする人であるから、タダで聞くのは気が引ける。こないだは競輪や競艇なんかのオンラインの賭け事の話をしていた。自分では誰が当たるかわからんので良く当たっている人に乗っかってその人が賭けるとおりに自分も賭けるのだそうだ。その乗っかられる人は、競馬の予想屋のように儲かる仕組みになっているのですかと聞くと、いやそうではない。ただ大勢に乗っかられるのが好きでやってるだけだという。

競馬も今はそうやってスマホアプリで賭けられるという。スマホで賭けると儲かってもすべて税務署に収入を知られてしまうので面白くないんじゃないか、みたいな話をしたのだが、いや、一度に100円とか200円くらいしか賭けないから儲かったところで大したことはないという。確かにそういう遊び方もあり得る。競馬だと土日しかやってないが、競輪競艇だと毎日平日でも日本のどこかしらでやっているから、いつでも賭けられるんだそうだ。まあそういう遊びもやってみたら面白いのかもしれん。

違法なオンラインカジノとかオンライン賭博というものではなくて、「インターネット即時投票会員」というものになってスマホで舟券を買ったりするのだという。こういう遊びが流行るとますますわざわざパチンコ屋に行く客は減るよな。自宅でだらだら酒飲みながらスマホで賭ける。楽で良い。或いは仕事の合間にチョコチョコ賭けられる。むしろ楽過ぎて便利すぎて大丈夫なのかとも思う。大阪万博跡地にカジノを含めたIR (integrated resort) を作るって話があるけど、スマホで合法的に博打ができるんじゃ、みんなスマホで済ませるんじゃないのかなあ。

まあしかし株もあれはあれで立派な賭博だとは思うのだが。

岩の井

某房総料理の店で千葉の地酒というので銘柄を聞いたら「岩の井」という、その酒を飲んだのだが、私が飲んだのはラインナップの中でも一番安い、山廃仕込辛口、一升瓶で2000円くらいのものであったと思う。

岩瀬酒造のサイトによれば

カルシウムやマグネシウムが多いと養分が多く発酵が旺盛します。硬度の高い水を使用し「山廃酛」で仕込みをすることで旨味のある、濃醇で酸味のしっかりしたお酒になります。

とのことで、確かに、熱燗にしても甘みをほとんど感じず、しかしきちんと味はあって、しかもなんだかピリピリ刺激がするのは酸味であったのかもしれない。

この酒はたぶん特に極端なのだろうが、この酒を飲んでしまうと菊正宗ですら甘く感じてしまう。もう少し高い酒を頼めばもっとまろやかなのだろう、と思った。

それで小林秀雄は毎晩、菊正宗の熱燗を二合しか飲まなかった、

家にいて、客のない日は、夕方六時からが晩酌である。一日二合と決めていて、その二合を李朝の刷目(はけめ)徳利や日本の桃山時代の備前徳利、李朝の井戸盃や桃山時代の黄瀬戸盃など、何百年にもわたって使いこまれてきた古い器でゆっくりと飲む。(小林先生の酒 著者: 池田雅延

というような話をいろんな人にしたのだが、いや、したかったのだが、誰も小林秀雄を知らない。それあなたの友達ですか、と言われた。だからそれ以上話が続かなかった。

小林秀雄って誰かということをどう説明して良いか迷ったのだが、彼は結局、それまで、ものを書くついでに文芸批評もしたというような作家はいたかもしれないが、日本で作品を書かずに批評だけで飯を食っていけた最初の人であり、昭和の終わりくらいまでは生きていた人だから、誰もが知っているものだと思っていたが、今の令和になってみれば、ほとんどの人が最初から知らないか、忘れてしまっているのだ。

岡田斗司夫やひろゆきなんか今の評論家などは元をたどればみんな小林秀雄にたどりつくと思うのだが、その大元の小林秀雄をみんな知らない。いや、ひろゆきはともかく岡田斗司夫を知っているのは一部の人だけだろうか。

日本文化の恣意的な切り取り

ドナルド・キーンに「三島由紀夫」という文があり、その中で彼は三島が自決に際して詠んだ辞世の歌2首を紹介している。

散るをいとふ 世にも人にも さきがけて 散るこそ花と 吹く小夜嵐

益荒男が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐へて 今日の初霜

キーンは

この二首は彼の最後の短歌であると同時に、昭和十七年(一九四二)、十七歳の吟以来、最初の短歌でもある。

と言う。この十七歳の吟とは「大詔」という詩のことであろう。

やすみししわご大皇(おほきみ)の
おほみことのり宣へりし日
もろ鳥は啼きの音をやめ
もろ草はそよぐすべなみ
あめつちは涙せきあへず
寂としてこゑだにもなし
朗々とみことのりはも
葦はらのみづほ国原
みなぎれり げにみちみてり
時しもや南(みんなみ)の海 言挙(ことあげ)の国の首(かうべ)に、
高照らす日の御子の国 流涕の剣は落ちぬ
時しもや声放たれぬ 敵共(あだどち)の船人
玉藻刈る沖にしづめぬ、
かちどきは今しとよめど
吉事(よごと)はもいよゝ重(し)けども
むらぎものわれのこころは いかにせむ
よろこびの声もえあげずたゞ涙すも

祝詞かなにかのように、古語で、大和言葉だけで詠まれているようにみせて実は「寂として」「朗々と」「流涕」は漢語である。

三島が割腹自殺したのは11月25日である。しかし「散るこそ花」とは桜であろう。季節があってない。またキーンによれば「今日の初霜」と詠んだのは3ヶ月前の7月であったらしい。要するに三島はその場で歌を詠んだのではなくて、かなり久しい以前からこれらの辞世の句を準備していた、ということになろう。長い時間をかけて巧んだ結果がこれだ、ということだ。

三島はたぶん居合刀のことを言っているのだと思うが、私は、そんな鞘鳴りするような刀を見たことがない。居合の演武で、刀が鞘とぶつかってカタカタ音がするなどというぶざまなことはほぼあり得ないと思うのだ。けなしているというより、違和感を感じるというか、何かぎこちない、ちぐはぐな、作り事めいたものをこれらの歌から感じるのである(おそらくそれは三島作品すべてに言えることだろう)。

歌の嗜みがない人が辞世の歌だけはあらかじめ用意しておく。さいとうたかをの『鬼平犯科帳』には磔になる罪人が辞世を代詠してもらう話があるけれども、そういうことはあっても良いと思う。その上で敢えて言わせてもらうが、和歌というものは、無意識のうちにその場ですっと出てきたものが良いのである。巧んで時間をかけた作り事はすぐに見破られる。異臭がするのだ。作為の後が残る歌はダメだ。そのため歌人はふだんから歌を詠みならして、口慣らしをして、自然と歌が出てくるようにしておく。そうしていくつもいくつも歌を詠んでいって詠草がたまっていって、その中にたまたま良い歌が混じる。歌とはそうしたもののはずだ。

三島はおそらく居合を習ったのだろう。腰に刀をさすようになった。試し斬りもしたであろう。鞘が鳴るたびに(おそらくそれは幻聴であろうが)、自決を、あるいは蹶起をうながされているような気持ちになる。その誘惑に、その衝動に、もう何年も耐えてきた。そしてついに今日自決するのだ。今朝、目の前には白い霜がおりている。もちろん腹を切るのも日本刀。介錯で首を落とすのも日本刀。私には戯画としか思えない。

三島由紀夫という人は歌人ではなかった、彼が生涯で詠んだわずか2首の歌、それも辞世の歌をドナルド・キーンがわざわざ取り上げるということに私は嫌な気分がしてならない。世の中にはいろんな歌人がいていろんな歌がある。ドナルド・キーンは日本文学の研究者だ。その彼がなぜこんな特殊で奇妙な歌をわざわざ論じなくてはならないのか。たまたま目に付いたからか。たまたま気になったからか。違うだろう。ある種の悪意、あざとさ、とでもいえそうなものを私は感じる。そこに私は恣意的な切り取りを感じざるを得ないのだ。

この世に存在したすべての日本人のうち、三島由紀夫はおそらく世界で最も有名な日本人であろう。

三島由紀夫はネイティブ並に英語が話せたのでそりゃあ外国人には受けが良かったであったろう。しかもハラキリ自殺までしたのだ。それがキーンの執筆動機か?

キーンは石川啄木についても書いている。キーンが歌人について一番まとまった文章を書いているのは啄木だ。なぜ啄木だったのだろう。啄木は日本を代表する歌人であろうか。最も偉大な歌人であろうか?

啄木は大和歌の破壊者であった。彼は最初まともな古語で和歌を詠んでいたのだが、途中から疑似文語とでもいおうか、へんてこりんな言葉で歌を詠むようになった。彼がきっぱりと因習を離れ、すなおに現代口語で歌を詠むならそれはそれでよかったのだが、大和言葉を変に改造した、気持ちの悪い人工言語を発明した。それは大和言葉をゆがめ、その血管に毒を流し、死に至らしめる作用をする。啄木は意図的に大和言葉を殺そうとしてああいう歌を詠んだし、だからこそ啄木は名声を博したのである。おそらくドナルド・キーンはそのことを十分に察知していた。啄木という腹黒い男のことを熟知していたからこそ、ほかの歌人はほっといて、この明治の文明開化期に出てきた旧時代の破壊者啄木を取り上げたのだ。啄木だけを取り上げるということは啄木と対極にいる保守的な歌人らを暗に否定しているのだ。キーンもまた啄木の一味だということだ。

世間ではメディアの切り取りということがしばしば問題視されるが、ドナルド・キーンが、さまざまな日本の文物を見渡した上で、三島由紀夫とか、足利義政とか、石川啄木のような、尋常ではない部分を敢えてピックアップして蒸し返し、さも普遍的な日本文化であるかのように紹介することは、日本文化というものを奇形たらしむることになりはしないか。

東京

小林秀雄に、昭和35年に書いた「東京」という短文があるが、そこに

独酌に好都合な飲み屋は、戦前までは、東京の何処にでもあつたのだ。料理も出ないし、女もゐないが、酒だけは滅法いい。さういふところには、期せずして独酌組が集まるものらしく、めいめい徳利をかかへて空想したり、考へ事をしたりしてゐた。ああいふ安くて極めて高級な飲み屋が広い東京のことだ、まだ一軒くらゐありはしないか、と時々思ふ。

などと書かれていて、料理が出ないというのはつまり、乾き物くらいは出たのだろうし、女はいないと言っても酌婦の婆さんくらいはいたのだろう。つまり今で言う、しゃれた小料理屋というのではない、普通の居酒屋のことを言うのだろう。

戦前の「滅法いい」「極めて高級な酒」というのがどういうものだったか。まったく見当もつかない。ただ酒を飲みながら一人で考え事をしているというのも、今の雰囲気とはだいぶ違うように思える。

似たようなことを書いている記事をみつけた。もひとつ。菊正宗のようなものであろうか。

晩酌の酒は、ふだんは灘の「菊正宗」だったが、これも、「菊正宗」であればよいというものではなかった。今では造り酒屋の蔵から町の酒屋の売場まで、輸送や保管にあたっての品質管理もすこしはマメに行なわれるようになったらしいが、先生がお元気だった昭和四十年代、五十年代はその方面の意識そのものが低かった。

先生は、家で飲む「菊正宗」は、そのあたりのことをよく知っている酒屋から買っていた。

なるほど、菊正宗の中でも上等で、しかもよく管理されたものを好んでいたということか。

菊正宗は確かに甘ったるくなく、燗に適している。温めるとそれでもそれなりに甘くはなるが、味けない端麗辛口などよりは良い。

実朝

小林秀雄はともかくたくさんものを書いているから、それらに一通り目を通さぬことには、小林秀雄について語ることはできまい。しかしながら、彼が歌人について書いたのはどうやら西行と実朝の二人だけらしい。昭和17年から18年にかけて、つまり戦争の真っ最中に。私は和歌についてはそれなりに学んできたと思っているので和歌について彼が語っている部分には多少口出ししても差し支えあるまい(和歌についてはもちろん彼は宣長のことも多く語っている)。

この西行と実朝の二人について書いたのは、芭蕉が弟子に「中頃の歌人は誰なるや」と問われて言下に「西行と鎌倉右大臣ならん」と答えたからであるらしい。実に不純な動機である。まず芭蕉がほんとうにそういうことを言ったかどうか。小林秀雄は話のネタにするためにはどんな怪しげな伝説でも採り入れて勝手に話を作る。実際、

文学には文学の真相といふものが、自ら現れるもので、それが、史家の詮索とは関係なく、事実の忠実な記録が誇示する所謂真相なるものを貫き、もつと深いところに行かうとする傾向があるのはどうも致し方ない事なのである。

などと言い訳している。なるほど小説などのフィクションならばそれでよかろうが、評論はどうか。時代小説なら?歴史小説なら?小林秀雄はその線引きを意図的にごまかし曖昧にして話を盛ろうとしているようにもみえる。と思えば別の所では

僕には、実朝が、そんな役者とはどうも考へられない。「吾妻鏡」編纂者達の、実朝の横死に禁忌の歌を手向けんとした心根を思つてみる方が自然であり、又、この歌の裏に、幕府問注所の役人達の無量の想ひを想像してみるのは更に興味ある事である。

などとしれっと書いていたりする。信じてみたり疑ってみたり変幻自在だ。

で、「西行」に比べれば「実朝」は割としっかり書かれた文章であって、やはり、小林秀雄はある程度まで和歌のことはわかっている人である、と思われる。

出でて去なば 主無き宿と なりぬとも 軒端の梅よ 春を忘るな

が贋作なのは明白だが、私はかつて

もののふの 矢なみつくろふ 籠手の上に あられたばしる 那須の篠原

も贋作なのではなかろうか、と疑っていた。実朝がこんないかにも武士らしい、武張った歌を詠むとは思えなかったからだ。正岡子規もこの歌をべた褒めしていてますます怪しい。しかしいろいろ調べてみるに、これはそんな、いわゆる武家の棟梁が冬の那須高原で巻き狩りなぞをしている(父頼朝が富士の裾野でやったような)ところを目の当たりにして詠んだ歌ではなくて、単に人の歌を本歌取りにしただけの、宮廷趣味的な、或いは習作的なものであったのだろう、ということがわかってくる。おそらくこれはただ単に定家の

大空に たがぬく玉の 緒絶えして あられ乱るる 野辺の笹原

を多少アレンジしたものであったに違いなく、また、

時雨降る 大荒木野の 小篠原 濡れはひづとも 色に出でめや

わが恋は あはでふる野の 小篠原 いくよまでとか 霜の置くらむ

雪深み 深山の嵐 さえさえて 生駒の岳に あられふるらし

笹の葉の 深山もさやに あられ降り 寒き霜夜を ひとりかもねむ

笹の葉に あられさやぎて 深山辺の 峰のこがらし しきりて吹きぬ

などといったよく似た歌もある。あられの歌をあれこれ詠んでいたときにふと弓場で矢を射る武者の姿が目に入り、歌に採り入れてみただけだったかもしれない。まあしかし、いきさつはどうであれ、よく出来た歌だと思うし、実朝の真作であるとすればすごいことだと思う。

思うに小林秀雄は歌人について何かおもしろおかしく書いてほしいという依頼があって西行と実朝を取り上げて論じてみただけだと思う。あまり深読みしても仕方ないし、それほど歌人や和歌に興味があったとも思えない。彼は彼の書きたいようにものを書けば良いのであってそれは彼の自由であってそれに対してあれこれ言っても仕方ないのだけれど、世間一般の西行像、実朝像が、小林秀雄の言っていることとにたりよったりの焼き直しばかりなのは腹立たしい。もっと全然違う角度からいくらでも眺められるのに。ウィキペディアにせよ、ブログにせよ、AIにせよ、小林秀雄の個人的感想をそのまんま再生産している。

西行再説2

鳥羽院に出家のいとま申すとてよめる

惜しむとて 惜しまれぬべき この世かは 身を捨ててこそ 身をも助けめ

この歌は『山家集』には採られていない。

西行こと佐藤義清は北面の武士であった。鳥羽離宮北の詰め所に彼は伺候していたわけだが、要するに御所の裏口、勝手口であって、彼がその職を辞するとき鳥羽院にこのような歌を奉っていとまごいとしたというのだが、ほとんどあり得ないだろう。謁見の機会すらほぼありようがなかったと思う。まして顔や名、詠んだ歌など覚えられてもいるまい。そういう関係で、こういう無礼な物言いの歌を院に詠むはずがない。さらに鳥羽院はまったく歌を残さない人だった。歌を詠まないか、歌に関心がない人だったはずだ。その鳥羽院にわざわざこんな過激な内容の歌を西行が詠んで出家した。後足で砂をかけるような勢いで。などということはどうみても創作、おそらく山伏か僧兵のごとき者たちが口ずさんでいたような当時の歌謡ではなかったか。

この歌に対して小林秀雄は

決して世に追いつめられたり、世をはかなんだりした人の歌ではない。出家とか厭世とかいふ曖昧な概念に惑はされなければ、一切がはつきりしてゐるのである。自ら進んで世に反いた廿三歳の異常な青年武士の、世俗に対する嘲笑と内に湧き上る希望の飾り気のない鮮やかな表現だ。彼の眼は新しい未来に向つて開かれ、来るべきものに挑んでゐるのであつて、歌のすがたなぞにかまつてゐる余裕はないのである。

自分の運命に関する強い或は強過ぎる予感を持つてゐたのである。

などと言っている。なるほど上に掲げた歌は確かに当時抑圧され鬱屈していた若侍たちの荒ぶる心理を代弁したものに違いない。しかしそれを西行本人が詠んだかどうかということは別問題だ。

西行の真作とみておよそ間違いないと思われる歌を眺めてみて、この歌を見るといかにも異様で異常である。

小林秀雄は西行が出家するときには何かしら激情に駆られてこのような異常で苛烈な表現をとったのだと思ったのかもしれない。だがそれは非常に無理がある。平安朝末期の歌人とはいかような人種であるか、ということがわかってないのではないか。

西行とて当時の歌人の一人であった。ふだん穏やかな、どちらかといえば感傷的で耽美的な歌ばかり詠んでいる人がいきなりこんな歌を詠む、というような事例はない。ふだんから変な歌を詠む人は変な歌しか詠まないし、平凡な歌ばかり詠む人は平凡な歌しか詠まない。

西行のごくありきたりな、おもしろくもおかしくもない歌をたくさん見てみるとよい。そういう歌は他人がわざと西行の名をかたって詠んだりしないから、西行本人の歌である可能性が高い。逆に奇抜でなんだかおもしろそうな歌は、他人が西行の名で詠んだのではないかと疑ってみなくてはなるまい。『御裳濯河歌合』『宮河歌合』『山家心中集』などは西行本人の自選集とみなしてほぼよかろうと思うから、そうしたところを中心に見るとよい。『山家集』もまあ信じてよかろう。『異本 山家集(西行上人集)』には頓阿の跋があるが、西行の時代から離れすぎていて信じがたい。拾遺や追加などはほぼ信用できないと言って良いと思う。

そうしてだいたい西行が詠んだとして間違いなさそうな歌ばかりを見ていけばその全体像がわかってくるはずだ。そうしてたとえば「花の歌あまた詠みける中に」などという連作の中に出てくる

おしなべて 花の盛りと なりにけり 山のはごとに かかる白雲

などはどう考えても西行の歌に違いあるまい、と思えてくる(『御裳濯河歌合』にも出てくるから真作に違いないのだが)。こうした歌はどれも一見平凡だが、テンプレがなく、簡単に詠もうと思っても詠めない歌ばかりであることがわかる。言葉も平易で無理がなく、調べも整っている。癖が無くひっかかるところがないので見過ごしてしまいがちだ。ふだん和歌に親しんでいない人には単なる凡作にしか見えないだろう。それが西行の歌の特徴であって、逆に何か違和感(荒さとか雑味、と言っても良い)のあるものは偽物である可能性が高い。

風になびく 富士の煙の 空にきえて 行方も知らぬ 我が思ひかな

西行は京極派のような、字余りの多い歌人だと言われているのだが、こんなふうに露骨に字余りのある歌を西行が詠むとはとても思えない。京極派の歌人が西行の歌を偽造したのではなかろうか、とさえ思える。

この歌に対して小林秀雄は

これを、自讃歌の第一に推したといふ伝説を、僕は信じる。

この歌が通俗と映る歌人の心は汚れてゐる。

などと言っているのだが、彼はどうしてこの歌をそれほどまでに気に入ったのだろうか。私にはまったく理解できない。私はこの歌を通俗とは思わない。ひどく不細工で、西行に全然似つかわしくないと思えるのである。こういうひどくいびつ(というかぞんざい)な歌は京極為兼以降に出てきたものであって、西行の時代にはまったく許容されていなかった。西行だから敢えてそれをしたのだという人もいるかもしれないが、私にはあり得ないと思う。

どうも西行という人はとんでもなく誤解されている。誰も西行のことを知らないし、まともに解説もできていない。

西行本人にまとわりついている、西行以外のなにか。西行はあまりにも有名で、あまりにも人気が高くて、その割に身分が低く、歌の真贋を確かめるすべがない。そこが利用されたのだ。もっと具体的に、ありていにいえば、当時の仏教徒たち、平家物語なんぞを創作した坊主たちによって好き勝手に脚色されているのだろうと思われる(ほとんど同様のことが太田道灌の歌にも言える)。それを今日の骨董趣味の連中がやはり自分たちの好き勝手に利用してきたのだ。西行、道灌ばかりではない。定家しかり。百人一首しかり。何もかも今一度きれいに洗濯してみてはどうか。

身を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ

この歌はもともと『詞花集』に採られた詠み人知らず、題知らずの歌であったが、『西行物語』に採られたために西行の歌ということになったらしい。「惜しむとて 惜しまれぬべき この世かは 身を捨ててこそ 身をも助けめ」と口ぶりが非常に良く似ている。桑原博史編『西行全歌集 』新典社には「別本山家集にはあって筑波大本には無い歌」の中に載る。要するに鎌倉時代になってから、適当に『詞花集』などからそれっぽい歌をみつくろって、「文武に秀でた青年であったが,25歳のとき友人の死を身近に見て無常の思いを強め,袂にすがる娘を縁側から蹴落として西山に走り,出家する。」などというドラマチックな物語をでっち上げたのであろう。実に馬鹿げたことだ。そして小林秀雄もかなりそのイメージに引きずられているように感じられる。というより、わざわざ西行が詠んだかどうだか疑わしい歌ばかりピックアップして虚構の西行像を造り上げようとしているようにも見える。

繰り返しになるがその当時そのように世の中に絶望し、やけくそになって出家した若者は実際に数多くいたのであろう。だからこそそんな物語が作られて世に流布した。しかしその主人公が西行であった可能性は低いと私は思う。

日本文学とか日本史とか、ちょっと冷静に客観的に考えてみれば、何もかも嘘っぱちだらけなんだが、みんななんでこの現状に耐えられるんだろう。そうか、みんな真実よりも伝説のほうが好きなんだな。リアリズムよりフィクションやファンタジーのほうが楽しいんだ。誰かにだまされているほうが幸せになれるんだ。そうに違いない。当時西行は身分が低すぎたから詞花集には詠み人知らずで採られたのだと。なるほど無名の武士が出家して詠んだ歌ではあったかもしれないが、それが西行とは限るまい。

小説はAIで書けば良い

小説を書きたい人はまずテーマと世界観を決めて、それから起承転結を考えましょうとか。登場人物の設定をしましょうとか。初心者でもわかる小説の書き方とか。ユーチューブ見ているとそういう動画がよくあって、それは実際に小説家になれた人が作ってるらしいんだが、世間では逆で、小説を書いてみたら良く売れるのでもっと書けと言われて書いている人しかいないと思うんだよね?

小説の書き方がわからないとか、どんな小説を書けば良いかわからないという人が、どうして小説を書きたいのかがわからない。人に読まれる小説を書きたいんならAIに書いてもらえばいいじゃんと思う。

いわゆるラノベなんかはみんなAIが書けば良いんじゃないか(ラノベなんてどれを読んでも同じじゃんと思っている。特になろう系の、限りなく二次創作的なものは。仮に二次創作ではなかったとしても続編はそうなる)。ラブレターをAIに書かせるという話も最近よくみる。一般大衆が読みたがるような文章とか動画なんてのはAIのほうが得意だろう。それっぽい受けのよさそうなものを集めてきて適当に見繕って幕の内弁当みたいにまとめたものがラノベだろ。樋口一葉だって恋文の代筆をしていたし、下手に素人が恋文書くよりはプロのライターに書いてもらったほうが効果があるだろ。自分の心はまったくこもってなくてもさ。

沢庵にしろ梅干しにしろスーパーには、いろんな調味料加えて沢庵っぽい、梅干しっぽい味にした何か、しか売られてないわけだから、それでなんら問題無いという人は、AIが書いたラノベ読んでりゃ良いじゃん、って話だよな。

小説を書くということの問題の本質はそこには無いと思ってるんだよね。まず自分が書きたいものを書く。出発点はそこであって、書きたいものが無いとか書けない人ってのは、出発点自体が存在してないんだからAIに書いてもらえばいいじゃんって思うよ。

次にあるのはたぶんマーケティング。それから、自分が書きたいものと人が読みたいものとのすりあわせ。それらは自分だけではどうにもできないから、人に手伝ってもらったり売り込んだり、宣伝したりしなきゃならんわけだよね。

或いはテクニック。出だしとか。文体とか。そういうものは素直に勉強するべきだとは思う。売れ筋というかキャッチーなセオリーなんかは事例研究から学ぶしかないよね。

もちろん自己満足で、書きたいものを勝手に書いてそれがたまたま人が読みたい話になる人もいるだろうけど、自分がそういう人である可能性は非常に低いよね。だからそれなりに努力はしなきゃいかん。自分を曲げる必要もあるかもしらん。

しかし自分が書きたいものがまだないって人は書きたいものが決まるまで人の作品を読みあさるほうが良いと思う。

書きたいことがあるのにうまく書けない、という人もやっぱりAIを使えば解決するんじゃないのかな。AIに書いてもらった文章では気に入らないというのだとこまるがそのうちもっと自分の世界観をそのまますっと小説にしてくれるAIが出てくるかもしれないからそれまで待てば良いのじゃないか。ほんとに書きたいものがあるならそれで解決する。でもそんなAIが出てきてわかるのはやっぱり自分には書きたいものなんて最初からなかったんだ、ってことになるかもしれんね。自分には書きたいものがあるんだが実はそんなものは最初からなかった。自意識とか無意識とか阿頼耶識とか唯識みたいなものが存在していると思ってたけど実はない。ましかし、AIってなんであんな嘘でたらめな答えを出してくるかわかってないわけだからアレも唯識と言えば唯識だよね?

私は最初からそういう、ウィキペディアを切り貼りして改変してゴーストライターに手伝ってもらえば書けちゃうようなものを書きたいとはまったく思ってない。私にしか書けないものを書くのじゃなければ人生の無駄遣いだと思っている。人にも書けるもの、人に頼めば書いてくれるようなもの。AIにも書けるようなもの。そんなものをいくら書いて売れっ子になったところで、死んでしまえばそれまでじゃないか。そんなことして何が面白いのかと思う。

ゲームを作るのも今はゲームエンジンというものがあるからアセットは適当に集めてきて、自分で作れるアセットは自分で作って、それらを組み立てて作れば良い。生成AIが出てきて小説もやっとそういうアセットの組み立てでできるようになってきた、とも言えるかもしれんね。まあしかし私はAIは使わないけどね。

自分の文章をAIに直してもらったことはあるが、そうすると自分がけっこう、わざと省略したりわかりにくく書いたりして、メリハリを付けていることがわかるよね。前景と背景を違う描きかたをしたり、つまり一部は細かく描いて一部はわざと描かなかったりしてる。遠近感というか被写界深度みたいなもの。それを全部にピントがあったような文章に直されちゃう。ただ流暢なだけで無個性な文にされる。文体も微妙にブレがあるのはわざと無意識にそうしている(そうなっている)んだがそれを全部直して統一されちゃう。その方が読みやすいのかもしれんが、私自身はそういう文章を読みたくも書きたくもない。私はそういう意味では読みやすい文章なんかわざわざ書きたくないし、読みたくもない。

そういう文章の緩急というか揺らぎというか、息使いというか、なんだろうね、翻訳してしまえば失われてしまうようなディテイル、「英語で書こうが日本語で書こうが同じ」ではないところまで表現したいんなら、AIは使えないだろ?それを学習させるには私そのものを完全にAIに学習させるしかないわけだから。

西行再説

西行の歌西行などを読み返しているのだが、

身を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ

または

世を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ

または

惜しむとて 惜しまれぬべき この世かは 身を捨ててこそ 身をもたすけめ

などはおそらく後世、西行の名をかたった偽作であろう。西行は民衆に仏道を説くような人ではなかったし、こういう露骨に抹香臭くお説教臭い歌を詠む人ではなかったはずだ。西行は悟りを開いて魂を救済されたい、現世は嫌だ、死後の世界で救われたい、などと思っていたのではないはずだ。俗世に未練たらたらな人だったはずだ。たとえば

世の中を 捨てて捨て得ぬ ここちして みやこはなれぬ 我が身なりけり

まどひきて 悟りうべくも なかりつる 心をしるは 心なりけり

などのような歌こそが西行の歌であるようにおもわれる。

「俗世を捨てて出家する人は、自分を捨てたのではない。後の世で救われるのであるからむしろ自分を拾ったのである。自分を助けたのである。現世で世を捨てぬ人は、あの世で自分を捨てているのである」とか。「この世は惜しむほどのものだろうか。この世を捨てて、出家して、身を捨てればこそ自分を助けることになるのだ」とか。こうした厭世観というか現世否定とか浄土思想とかあるいはあからさまな布教活動というものは西行には似つかわしくない(西行という名前には明確な浄土思想を感じるけれども)。だがたとえば兼好ならこんなふうな歌を喜々として詠むに違いない。

日本仏教は聖徳太子、役行者、弘法大師の頃から有名人を使ってやたらと奇跡や伝説をでっち上げて布教活動に利用してきた。キリスト教の聖遺物や聖者と似たようなものか。

小林秀雄はもしかすると、出家した直後の西行は俗世に対する執着心が捨てきれずに、それゆえ「馬鹿正直な拙い歌」を詠んだりもしたのだが、修行して悟りを開いてからは達観した歌を詠むようになったのだ、世の無常を知り悟りを開いたので、はかなく散る花や空を流れる雲の美しさを詠めるようになったとでも思ったのだろうか。

そうではあるまい。西行は出家する前も、出家した直後も、老いて死ぬ直前も、女々しい男であった。あくまでも人間的な、迷いを捨てきれぬ人だった。私はそう思う。そうでない歌は、西行の名を借りて仏教を広めようとする偽者が詠んだ歌であると思う。果たしてどちらが真実であろうか、悟ろうとして悟り得ない愚かな人間と、行いすまして悟りを目指し、人をも悟りへ導こうとする人と。他人の名声を盗用してまで己の教えを広めてもらいたいとは仏陀も思ってはいるまい。