web日記30年

twitterにリンクを張ったのでPVが増えたかと思ったがまったくそうではなかった。google search console でちまちまURL検査してインデックス登録リクエストしたおかげで検索が増えている。過去記事を読まれるのはちと恥ずかしくもある。昔の記事には稚拙なものも多い。中には30年前に書いたものなどあって、物の見方が変わってしまうのは仕方ないではないか。

私はかなり早くからウェブに日記を公開していた者の一人だと思う。1994年にwebサーバーを立ち上げて、メモ書きのようなものを残し始めた。あまりにも幼稚なものは今は非公開にしてあるが、当時のものを読めばその雰囲気はわかると思う。1996年になると日記猿人などが出てきて私もせっせとweb日記などを書いたものだ。あの頃書いた記事はサルベージしてないだけでまだけっこうあるはずなんだよね(個人情報的に出せないとかで)。中台危機ダイジェストなどは、これは当時30才の私が書いたものだが、けっこう熱心に書いている。今の人たちはこういう過去のケーススタディなどろくにしないで、twitterあたりでやれ中国は台湾に侵攻するなどと騒いでいる。日本は良く奇襲戦法を採る。保元の乱以来ずっとそうだ。中国という国は奇襲はあまりやらない。歴史的にやった人がいるだろうか。項羽とか韓信くらいか。少しずつ挑発して様子を見ながら攻めてくる。中越戦争もそうだったと思う。そうしているうちにアメリカ人はすぐ頭に血が上ってマスコミが煽るから、議会は台湾に同情してきて空母を送り込んでくる。そうすると中国はひよって諦める。逆に下手に出て何もしないと調子に乗ってどんどん攻めてくる。南沙諸島や尖閣諸島なんかがそれだ。

しかし1994年から書き始めたとして今年は2024年だから30年が経ったわけだ。すごいね。年を取るはずだわ。ここにはそれ以前の日記も遡って多少は載せている。

道元 永平広録 巻十 偈頌。私の祖父が58才のときに書いた書。今の私とちょうど同じ年齢だなあ。

しかし、Eizoのモニターを使ってるのに中間調が全然出てないな。今年度買ったmouse computer のノートPCのディスプレイの方が発色が良い。世の中が進化しているのか。経年劣化によるものか。

氏姓

氏(うぢ)は朝鮮語(ul)、モンゴル語(uru-g)、ツングース語(ur)、トルコ語(uru)などと共通で、血縁、同族という意味で、地名や職業を一族の名としたもので、おそらく古代には女系の家系を言っていたのではないか。

これに対して姓(かばね)は屍、つまり死骸を意味する大和言葉であり、天皇から下賜される政治的な名であった。明らかに氏のほうが姓よりも古い。

族(やから)は家(や)+血縁(から)の意味で、(たね)とも訓む。

漢語の氏はおそらくもとは丘という意味(岐阜の阜に同じ)であって、丘の上に村が形成されたため氏族の意味になったのだろう。族は旗と矢からなり、明らかに軍事集団のことを言うようだ。姓は最も古くて、漢民族がかつて女系社会だった頃からある宗族のこと。

漢族の社会が女系から男系に変わった時期はよくわからないが、古い姓以外に、多くの氏や族ができてきて、それらは農耕共同体であり、軍事集団でもあったから、指導者を男から男へ継承する必要が生まれた。その継承ルールから姓以外に雑多な氏族が生まれ、姓もその中に飲み込まれて、すべての氏姓、宗族が男系に転じたが、女系の頃にあったイクソガミー(外婚)制度はそのまま男系にも引き継がれたのだろう。

タルコフスキー版ソラリスの問題

ハヤカワ文庫、旧訳「ソラリスの陽のもとに」と新訳「ソラリス」を読み比べると明らかに旧訳はおかしい。Joanna Kilmartin と Steve Cox による英訳「Solaris」も読んでいる。冒頭、新訳では「私は竪穴の周りに立っている人たちの前を通りすぎ、金属製の梯子を降りてカプセルの中に入った。」というところが旧訳では「私は狭い金属の階段を降りて、カプセルの中に入った。」、英訳では「The men around the shaft stood aside to let me pass, and I climbed down into the capsule.」となっている。英訳では金属というニュアンスが落ちている。旧訳は旧訳で、だいぶはしょっている。

スタニスワフ・レムは母国語、つまりポーランド語で原作を書いたと思われるが、ロシア語ならともかくポーランド語から直接翻訳できる人がそんなにいるとは思えない。まそれはともかくとして、新訳はできるだけ原文に忠実に訳そうと努力しているような感じを受ける。

レムの原作は、ソラリス・ステーションに着陸し、ステーションの中に入り、スナウトに出会って、スナウトと会話するところまでが実に念入りに書かれている。タルコフスキー版ソラリスの大きな問題は、そこのところが極めて雑だということだ。ハリーと出会うまでの前振りとして、ここをどのくらいきちんと描写するかで、全然感じが変わってしまう。

スナウトはかなり重要な人物なのだがタルコフスキーはたぶん全然彼に関心が無かったのだろう。その点、ソダーバーク版ではケルヴィンとスノー(スナウト)の出会いと会話がかなり緻密に描かれていて好感が持てた、ような気がする。またちゃんと見直してみようと思うのだが。

タルコフスキーは単にスナウトを老いぼれた科学者という程度にしか描いていないが、ソダーバーグのスノーは若くて演技力が高い。ここの部分はソダーバーグがちゃんと原作を参照して丁寧に解釈し直していて偉い、と思う。

以前にも私は「スノー役のジェレミー・デイビスは名演技だった。」などと書いている。タルコフスキー版ではスナウトと話している最中からいろんな怪しげな現象があちこちで起きているのだがそんなことは原作には書いてない。タルコフスキーはクリスとスナウトが延々としゃべるシーンに耐えられなく、映像で手っ取り早く表現したかったのだろうが、雰囲気を台無しにしていると思う。原作ではスナウトに会い、自分の部屋でシャワーを浴びるまでケルビンはずっと重い宇宙服を着っぱなしだったのに、タルコフスキー版では宇宙カプセルから降りたばかりのケルヴィンが普段着で皮のブーツの紐がほどけていてつまづくなどというつまらない演出を入れている。SFを軽視するのも甚だしい。ちょっと許しがたい気がする。

postsToShow

wordpressはユーザーインターフェイスがしょっちゅう変わるらしくして、カスタマイズの仕方をネットで調べても役に立たないことが多く、結局phpをじかに書き換えるしかないってことが多い。wordpressのバージョンが5から6に変わったところで相当仕様変更してる。と思う。それで世の中が全然付いてこれてない。

最近の投稿リストの項目の数の替え方がわからんかったから、レンタルサーバーにログインして grep postsToShow。

wp-includes/blocks/blocks-json.php の中の postsToShow の default の値を変えれば良かった。

普通のエンジニアはどうやってこんなケースに対処しているのだろうか。

ブログをメンテしているとブログ村のPVがどんどん上がっていくのがわかる。googleが補足してないページをgoogleに教えてやり、googleがインデックス登録してないページを登録するようリクエストする。それをちまちまちまちまやっていると、クロールしてくるんだか人が検索してくるんだか知らないがアクセスが増える。このブログは長いことやってるせいでコンテンツだけは多いから割と効き目がある。

タルコフスキー再説

タルコフスキー、特にソラリスについて、過去に何度も書いている。タルコフスキーのソラリスソラリス総括というのも書いている。

DVDを借りてタルコフスキー版のソラリスを見たのは冨田勲の『宇宙幻想』を聴いて知ったからだ。初めてみたのがいつ頃だったかよくわからない。1998年、私が33才の時に『僕の村は戦場だった』と『アンドレイ・ルブリョフ』を見ている。『僕の村は戦場だった』はわかりやすい、トラウマになる映画だが、『アンドレイ・ルブリョフ』は確かにつまらない。確かロシアの農村で熱気球に乗る冒険家みたいなのが出てくる話で、もっと先まで見れば面白いのかもしれないが、いまだに見れてない。『鏡』はちょっと頭だけ見てやめてしまった。『ストーカー』『ノスタルジア』『サクリファイス』などは見たことが無いと思う。今後見るかどうかもわからない。

ローラとバイオリンは、わかりやすいけど、なんかどうでも良い作品だったような気がする。

タルコフスキー版ソラリス冒頭の「バートン報告」。以前私はこれを「台詞棒読みの謎シーン」などと評しているのだけど、改めて見直すとそれほど悪い構成ではない。ただ、原作の「バートン報告」というものはああいうバートン本人の口述を録画したというものではなくて、長大で精細な報告書なのであり、それをクリスがソラリスステーションの中で読むという筋書きになっているはずだ。映画という媒体の都合上、映像で表現するためにああなってしまうのは仕方ないのかなと思う。だがあれをあの台詞だけで説明するのにはもともと無理がある。

クリスがソラリスへ旅立つ前日、クリスの父母の家に息子クリスが泊まりにくる。父母の死に目に会えるかどうかもわからない長いミッションであるらしい。池の上にしぼんだ風船が木の枝に引っかかっているのはここに子供が住んでいるということを暗示している。その子はクリスとハリーの間に生まれた娘であるらしいが、そんなことは一切説明されないし、原作にも無いことだ。母ハリーが死んだあと、父クリスが祖父母に娘を預けて田舎で育てられた、と解釈しようと思えばできる。その娘はバートンが連れてきた息子としばらく遊んでいるが、クリスがバートンを怒らせてしまい、バートンは息子を連れて帰ってしまう。その後バートンと息子が乗ったタクシーが延々と東京の首都高速を走る有名なシーンがあって、何か特別な意味があるかと注意してみてみたがよくわからん。でもタルコフスキーの映画ではただひたすら白樺林の中でくるくる回っている主観視点の映像などあるから、こういう目の回るようなシーンが好きなのかもしれない。首都高シーンの後に再びクリスの父母が住む田舎のシーンに移るから、文明と自然の対比を言いたかったのかもしれない。この田舎のシーンが非常にくどいのは最後のオチがまたこの田舎に戻ってくるから、伏線として念入りに描写したのに違いないし、昔はこういう長回しのシーンが許容されていたということもあるかもしれない。ともかくも現代から見れば不可解なほどに長い意味不明なシーンがたくさんある。

タルコフスキーとしてはソ連にああいう立体交差の高速道路があればそれを撮ったに違いないが当時も、今のロシアにもそんなものはあろうはずがない。タルコフスキーとしてはアメリカのインターステートみたいなものを撮りたかったのではないか。しかしソ連の映画監督がアメリカに撮影に行くこともできなかったろうし、また、標識が英語で書かれているのも都合が悪かっただろうから、しかたなく東京で撮影したのかもしれない。

カラーと白黒のシーンがランダムに混ぜられているように思える。モノクロにすることに何か意味(回想とか想像とか)があるのかと思って見てみたが、よくわからん。当時は映画がモノクロからカラーに移行するときに当たっていて、地の部分をモノクロで、特に派手に演出したいところだけをカラーにしたのかもしれない。

クリスがバートンから直接話を聞くという設定も、クリスがバートンに無理解なのも、映像でストーリー説明するにはこうするしかなかったような気もする。最後のオチも、原作のあっけない終わり方では映画にならないから、タルコフスキーが苦心して付け足したものかもしれない。

ソラリスステーションに到着したばかりのクリスがなんだかよくわからない東欧風かアメリカ風なのかわからない普段着を着ていて、革のブーツの紐がほどけていてつまづくなどというのは奇妙だ。基地の内部も今の目で見るとあまりにも宇宙船ぽくない。というのは私たちがキューブリックの2001年宇宙の旅を見た後だからそう思うのかもしれない。

などとあれこれ考えてみるにアレは何か奇をてらったとか、余計な解釈をしたというよりも、レムのゴリゴリのSFを割と無難にタルコフスキーが映画にまとめた作品だった、と言っても良いのかもしれないなと思った。

あの映画の恐ろしさというのは、やはりハリーの登場シーンで、目を覚ますといきなりハリーが椅子に座っていて、手に持った櫛で顔をなでる。それから立ち上がり寝起きのハリーにキスする。バートンが見た幻覚を馬鹿にしていたハリーが、自らその幻覚を見るはめになった驚きと恐怖が良く表されていると思う。もちろんその後にもショッキングなシーンはいくらもあるのだが、ひっぱってひっぱってあそこでいきなりハリーを出したのはやはりインパクトを最優先した効果的な演出で、それはソダーバーグ版ソラリスとは全然違っている。ソダーバーグ版ではクリスと妻レイア(ハリーから改名)の映像が冒頭から延々と繰り返される。

wikipedia惑星ソラリスには

上記の、東宝から発売された『名作・ソビエト映画』吹替版VHSは、(中略)地球シーンが無いことなど、実は「映画版」と「小説」が乖離している部分がかなりカットされており、タルコフスキーの世界観を度外視するならば、奇しくもレムによる原作に近い仕上がりになっていると言える。

などと書かれているが、誰が書いたかしれないが、ずいぶん余計な感想だなと思う。レムとタルコフスキーが喧嘩した話なども、そりゃそれくらいの意見の相違はあったろうなとしか思えない。レムは、映像だけでストーリーを説明しなくてはならない、ちゃんと起承転結をつけて客を楽しませなくてはならない映画という媒体に対しておそらくまったく何の理解もなかったと思うし、レムの言う通りにやればそもそも映画化は不可能だっただろうと、タルコフスキーに同情したりもする。

ところで クリス・ケルヴィンはロシア語では Крис Кельвин (Kris Kelvin) と書くらしいのだが、Kris も Kelvin もロシア人の名前らしくない。彼はイギリス人という設定だったのだろうか。Sartorius はドイツ人ぽい。スナウトもなんとなく英語っぽい感じだ。Hariという名もなんだか変だ。レムは無国籍な、聞き慣れない名を使いたかったのだろうか。Henri Burton に至っては明らかにイギリス人の名だ。Gibarian もイギリス人かドイツ人の名前っぽい。

それからついでだが『宇宙幻想』は冨田勲が46才のときに作った作品だが、今からみると2001年宇宙の旅に始まり惑星ソラリスに終わる、途中にLPレコードに収まりきれるだけ曲を安直に詰め込んだ宇宙SFもののアラカルトに見える。だが当時、あんなふうにフルオーケストラの曲をそれっぽく、正弦波と三角波と矩形波とノコギリ波とノイズしか出せないアナログモジュラーシンセサイザーとデジタルシーケンサーだけで演奏したというのはおそろしくすごいことである。今ならDAWがあれば誰でもあれくらいのものは作れてしまうのだが。

『惑星』『宇宙幻想』『バミューダ・トライアングル』はSF三部作と呼ばれているらしい。『惑星』が一番名高いらしいが私はどちらかといえば『宇宙幻想』『バミューダ・トライアングル』のほうが好きだった。『バミューダ・トライアングル』を知らなければプロコフィエフを聴くなんてこともなかっただろう。