草枕3

草枕草枕2の続き。

「草枕」だが漱石が自分で作った詩がまだあった。

青春二三月 青春二三月
愁隋芳草長 愁ひは芳草に隋ひて長し
閑花落空庭 閑花は空庭に落ち
素琴横虚堂 素琴は虚堂に横たふ
蠨蛸挂不動 蠨蛸(あしたかぐも)、挂(かか)りて動かず
篆烟繞竹梁 篆烟(篆書のようにくねくねと立ち上る煙)、竹梁を繞(めぐ)る
獨坐無隻語 獨坐し隻語無し
方寸認微光 方寸、微光を認む
人間徒多事 人間、徒(いたづ)らに事多し
此境孰可忘 此境、孰れか忘るべけむ
曾得一日靜 曾て一日の靜を得て
正知百年忙 正に百年の忙を知る
遐懐寄何處 遐懐(遠く眺める)、何處にか寄せむ
緬邈白雲鄕 緬邈(はるかかなたに)、白雲の鄕

墨場必携:漢詩 春日靜坐 夏目漱石

きたね白雲きたね。

これも押韻はしているが平仄はけっこう適当(※追記。岩波文庫「漱石詩注」p.73に五言古詩として載る)。

たぶんこの出来だと平仄警察がわらわらわいてきて漱石は相当、詩人としてのプライドを傷つけられたと思うなあ。

夏目漱石が「草枕」を書いたのは明治39年、処女作「我が輩は猫である」は明治38年。しかしこれらの詩は明治31年、漱石が31才の時に作ったという。つまり「草枕」に出てくる画家と同じ年に作ったものだということになる。正岡子規が死ぬのは明治35年なので当時子規はまだ生きていた。

ウィキペディアによれば(書簡を見ればわかるというがそこまで調べるのはめんどくさい。よっぽどヒマがあったら調べてみるか)、熊本で英語教師をしていた漱石は、明治30年の大晦日、つまり明治31年の正月に、友人であった山川信次郎とともに熊本の小天温泉に出かけ、そのときの体験をもとに『草枕』を執筆したとある。漱石の誕生日は2月9日なので、明治31年正月の時点で彼はちょうど30才だった。まさに当時「三十我欲老」という心境だったのだ。やはり漱石は売れっ子作家になる以前の自分に回帰しようとして、自分自身をモデルとして、『草枕』を書いたのであろう。

漱石は「正岡子規」と題する談話で、「大将(子規)の漢文たるや甚だまずいもので、新聞の論説の仮名を抜いたようなものであった。けれども詩になると彼は僕よりもたくさん作っており、平仄もたくさん知っておる。僕のは整わんが、彼のは整っておる。漢文は僕の方に自信があったが、詩は彼のほうがうまかった。」などと評している。つまり若い頃漱石はあまり平仄の整わない漢詩を作っていた、それに対して子規の漢詩はきちんと整っていたのだった。だいたいつじつまが合う。

漱石が本気で(まじめに)漢詩を作り始めたのは、明治43年、修善寺で喀血した後のことだろう。『こころ』なんかを書いたのはさらにあと、大正3年頃。

岸には大きな柳がある。下に小さな舟を
つな
いで、一人の男がしきりに垂綸
いと
を見詰めている。一行の舟が、ゆるく波足
なみあし
を引いて、その前を通った時、この男はふと顔をあげて、久一さんと眼を見合せた。眼を見合せた両人
ふたり
の間には何らの電気も通わぬ。男は魚の事ばかり考えている。久一さんの頭の中には一尾の
ふな
宿
やど
る余地がない。一行の舟は静かに太公望
たいこうぼう
の前を通り越す。(中略)
かえ
り見ると、安心して浮標
うき
を見詰めている。おおかた日露戦争
にちろせんそう
が済むまで見詰める気だろう。

といった具合に日露戦争中であるような記述がある。日露戦争は明治37年から38年にかけてだから、その正月あたりの状況を写したものだろう。つまりちょうど203高地が陥ちた頃だ。久一さんとは徴兵で取られていく人のように思われる。「草枕」の発表は明治39年だから、執筆中、その頃の記憶も新しかったはずだ。つまり「草枕」は7年ほど前の30才の時の自分を日露戦争当時の世相に埋め込んで作られた話だということになる。

「やっぱり駄目かね」
「駄目さあ」
「牛のように胃袋が二つあると、いいなあ」
「二つあれば申し分はなえさ、一つがるくなりゃ、切ってしまえば済むから」
 この田舎者いなかものは胃病と見える。彼らは満洲の野に吹く風のにおいも知らぬ。現代文明のへいをも見認みとめぬ。革命とはいかなるものか、文字さえ聞いた事もあるまい。あるいは自己の胃袋が一つあるか二つあるかそれすら弁じ得んだろう。余は写生帖を出して、二人の姿をき取った。

これは主人公の画家がスケッチした町中の人だが、胃病なのは漱石のほうだ。漱石はやはりこのころすでに胃潰瘍で苦しんでいた。

漱石の妻、鏡子が書いた『漱石の思ひ出』の中に

俳句には随分と熱心で、松山時代から熊本に居る間の五年間ばかりが、一番俳句の出来た時で、生涯の句の殆んど三分の二はこの五年間に出来たもののやうです。それには中央を離れて熊本のやうな田舎に居りまして、自然文学の話などする友達もなかつたので、ただ子規さんあたりに動かされて、一生懸命で句作したといふことがあづかつて力がございませう。後には漢詩も作りましたが、とても俳句程の熱心は見られませんでした。

などとあるが、漱石の日記などみるに、確かに俳句は数は多いが、思いつくまま詠みちらかしているといったふうで、中には面白い、よく出来たものもあるようだが、どちらかと言えば単なる気晴らし、気分転換、多くはちょっとしたメモかなにかのようなものだったと思う。真剣に身構えて詠んだものではあるまい。『草枕』にも

何でも
でも手当り次第十七字にまとめて見るのが一番いい。十七字は詩形としてもっとも軽便であるから、顔を洗う時にも、
かわや

のぼ
った時にも、電車に乗った時にも、容易に出来る。十七字が容易に出来ると云う意味は安直
あんちょく
に詩人になれると云う意味であって、詩人になると云うのは一種の
さと
りであるから軽便だと云って侮蔑
ぶべつ
する必要はない。軽便であればあるほど功徳
くどく
になるからかえって尊重すべきものと思う。まあちょっと腹が立つと仮定する。腹が立ったところをすぐ十七字にする。十七字にするときは自分の腹立ちがすでに他人に変じている。腹を立ったり、俳句を作ったり、そう一人
ひとり
が同時に働けるものではない。ちょっと涙をこぼす。この涙を十七字にする。するや
いな
やうれしくなる。涙を十七字に
まと
めた時には、苦しみの涙は自分から遊離
ゆうり
して、おれは泣く事の出来る男だと云う
うれ
しさだけの自分になる。

などとある。要するに俳句は詩の中では最も簡便なわけだ。

「後には漢詩も作りましたが」というのはほんとうに晩年の『こころ』なんかを書いてた頃のことを言っているのだと思う。鏡子さんが自分で書いているように漱石は子供の頃から漢詩に志があって、若い頃からけっこう作っていたはずで、日本人が漢詩を一つ作るというのは俳句を百詠むより難しいし、随分心構えが必要で、てまひまがかかるものであるから、そんなに量産できるはずがない。鏡子はその数だけを言っているように思える。

※追記。吉川幸次郎「漱石詩注」序に、「漢詩は夏目氏の文学において、相当の比重を占める。おそらくは俳句よりも、より多くの比重を占める。少なくともその自覚においては、そうである。」とある。

草枕2

先日、漱石は

自分の詩を自分の小説の中に入れて抱き合わせにして人に見せたりすることもできたろう

などと書いたのだが、気になって『草枕』を読んでみると、実は漱石は自分の漢詩を『草枕』に埋め込んでいたのだった。

出門多所思 門を出でて思ふ所多し
春風吹吾 春風、吾が衣を吹く
芳草生車轍 芳草、車轍に生え
廃道入霞 廃道、霞に入りて微かなり
停筇而矚目 筇(杖)を停めて目を矚(そそ)げば
万象帯晴 万象、晴暉(明るい青空)を帯ぶ
聴黄鳥宛転 黄鳥の宛転たる(ウグイスのなめらかな声)を聴き
観落英紛 落英の紛霏たる(花が散り乱れる)を観る
行尽平蕪遠 行き尽くして平蕪遠く
題詩古寺 古寺の扉に詩に題す
孤愁高雲際 孤愁、雲際に高く
大空断鴻 大空、断鴻帰る
寸心何窈窕 寸心、何ぞ窈窕たる (自然の景観に対して自分を卑下する意味か)
縹緲忘是 縹緲(広く果てしない)にして是非を忘る
三十我欲老 三十にして我、老いむと欲す
韶光猶依 韶光、猶ほ依依たり(うららかな春の日差しがなごりおしい)
逍遥随物化 逍遥して物化に随(したが)ひ
悠然対芬 悠然として芬菲(草花の香り)に対す

春興

ああ出来た、出来た。これで出来た。寝ながら木瓜を
て、世の中を忘れている感じがよく出た。木瓜が出なくっても、海が出なくっても、感じさえ出ればそれで結構である。と
うな
りながら、喜んでいると、エヘンと云う人間の咳払
せきばらい
が聞えた。こいつは驚いた。

この無邪気な自画自賛ならぬ自詩自賛は微笑ましくすらある。

漱石は売れっ子作家になって、そろそろ自分の「地」を出してもよかろうかと思い、詩を披露した。しかるにおそらく、その評判は決して良くはなかっただろう。世間が漱石に求める「文学的役割」から離れすぎていて、反発をくらったと思う。なんだその、盆栽をいじり詩吟をうなる年寄りのような趣味はと言われたに違いない。詩のできもあまり良いとはいえない。

「聴 + 黄鳥 + 宛転」「観 + 落英 + 紛」などは変則的だし、「停筇 + 而 + 矚目」のように「而」を長さ合わせに使うのはあまりかっこよくない。押韻はしているが平仄はけっこういい加減。たとえば「三十我欲老」は平仄仄仄仄だし、「韶光猶依依」は平平平平平。実際若い頃(三十才くらい?)の作なのかもしれない。こうなってくると本職の漢詩人からはヤイヤイ言われて漱石はけっこうへこんだかもしれない(※追記。岩波文庫「漱石詩注」p.66に五言古詩として載る。つまり平仄は守らなくてよく、2 + 3 のリズムも守らなくてよい、ということか。18行というのも変則的。一韻到底は守っている)。

私も『安藤レイ』や『紫峰軒』に自分が作った漢詩をしれっと入れたりしたので、漱石の気持ちはよくわかる、つもりなのである。まあ私は売れっ子作家ですらないが。

古寺の扉に詩を書き付けるというのは、そんなヤンキーみたいなことして良いのかなと思ってしまうが、題壁(壁に題す)というのはよくやられることのようだ。もしかすると「題詩古寺壁」としたかったのかもしれないが、それでは韻が踏めぬから「題詩古寺扉」としたのかもしれない。

老人が紫檀したんの書架から、うやうやしく取りおろした紋緞子もんどんすの古い袋は、何だか重そうなものである。
「和尚さん、あなたには、御目にけた事があったかな」
「なんじゃ、一体」
すずりよ」
「へえ、どんな硯かい」
山陽の愛蔵したと云う……」
「いいえ、そりゃまだ見ん」
春水の替えぶたがついて……」
「そりゃ、まだのようだ。どれどれ」
 老人は大事そうに緞子の袋の口を解くと、小豆色あずきいろの四角な石が、ちらりとかどを見せる。
「いい色合いろあいじゃのう。端渓たんけいかい」
「端渓で鸜鵒(くよく)眼がここのつある」
「九つ?」と和尚おおいに感じた様子である。
「これが春水の替え蓋」と老人は綸子りんずで張った薄い蓋を見せる。上に春水の字で七言絶句しちごんぜっくが書いてある。
「なるほど。春水はようかく。ようかくが、しょ杏坪の方が上手じょうずじゃて」
「やはり杏坪の方がいいかな」
山陽が一番まずいようだ。どうも才子肌俗気があって、いっこう面白うない」
「ハハハハ。和尚おしょうさんは、山陽きらいだから、今日は山陽ふくを懸けえて置いた」
「ほんに」と和尚さんはうしろを振り向く。とこ平床ひらどこを鏡のようにふき込んで、錆気を吹いた古銅瓶こどうへいには、木蘭もくらんを二尺の高さに、けてある。じくは底光りのある古錦襴こきんらんに、装幀そうてい工夫くふうめた物徂徠大幅たいふくである。絹地ではないが、多少の時代がついているから、字の巧拙に論なく、紙の色が周囲のきれ地とよく調和して見える。あの錦襴も織りたては、あれほどのゆかしさも無かったろうに、彩色さいしきせて、金糸きんしが沈んで、華麗なところが滅り込んで、渋いところがせり出して、あんないい調子になったのだと思う。焦茶こげちゃ砂壁すなかべに、白い象牙ぞうげじく際立きわだって、両方に突張っている、手前に例の木蘭がふわりと浮き出されているほかは、とこ全体のおもむきは落ちつき過ぎてむしろ陰気である。
徂徠かな」と和尚おしょうが、首を向けたまま云う。
徂徠もあまり、御好きでないかも知れんが、山陽よりは善かろうと思うて」
「それは徂徠の方がはるかにいい。享保頃の学者の字はまずくても、どこぞに品がある
広沢をして日本の能書のうしょならしめば、われはすなわち漢人のせつなるものと云うたのは、徂徠だったかな、和尚さん」
「わしは知らん。そう威張いばるほどの字でもないて、ワハハハハ」
「時に和尚さんは、誰を習われたのかな」
「わしか。禅坊主ぜんぼうずは本も読まず、手習てならいもせんから、のう」
「しかし、誰ぞ習われたろう」
「若い時に高泉こうせんの字を、少し稽古けいこした事がある。それぎりじゃ。それでも人に頼まれればいつでも、書きます。ワハハハハ。時にその端渓たんけいを一つ御見せ」と和尚が催促する。
 とうとう緞子どんすの袋を取りける。一座の視線はことごとくすずりの上に落ちる。厚さはほとんど二寸に近いから、通例のものの倍はあろう。四寸に六寸の幅も長さもまずなみと云ってよろしい。ふたには、うろこのかたにみがきをかけた松の皮をそのまま用いて、上には朱漆しゅうるしで、わからぬ書体が二字ばかり書いてある。
「この蓋が」と老人が云う。「この蓋が、ただの蓋ではないので、御覧の通り、松の皮には相違ないが……」
 老人の眼は余の方を見ている。しかし松の皮の蓋にいかなる因縁いんねんがあろうと、画工として余はあまり感服は出来んから、
「松の蓋は少し俗ですな」
と云った。老人はまあと云わぬばかりに手をげて、
「ただ松の蓋と云うばかりでは、俗でもあるが、これはその何ですよ。山陽が広島におった時に庭に生えていた松の皮をいで山陽が手ずから製したのですよ」
 なるほど山陽俗な男だと思ったから、
「どうせ、自分で作るなら、もっと不器用に作れそうなものですな。わざとこのうろこのかたなどをぴかぴかぎ出さなくっても、よさそうに思われますが」と遠慮のないところを云って退けた。
「ワハハハハ。そうよ、このふたはあまり安っぽいようだな」と和尚おしょうはたちまち余に賛成した。
 若い男は気の毒そうに、老人の顔を見る。老人は少々不機嫌のていに蓋を払いのけた。下からいよいよすずり正体しょうたいをあらわす。

漱石があからさまに荻生徂徠を持ち上げて頼山陽をこきおろしている箇所。「一座」とあるが、僧と老人と若者と一人称の主人公の四人くらいが会話している。春水は山陽の父。杏坪は春水の弟で、山陽の甥。広沢とは江戸初期の書家、細井広沢のことであるらしい。とにかく漱石は山陽の俗で才気走ったところが気に入らない。上方の俗儒が嫌いで、下手でも「品がある」江戸の官儒が好きなのだ。「多少の時代がついているから、字の巧拙に論なく」とはつまり古いものだから文字の良し悪しなど論じるまでもないなどと言っているからには決して字がうまいと褒めているわけではないのである。もともとそれほど「ゆかしい」ものではなかったけれど経年変化のために派手さがなくなり渋さが増して良くなった、などとも言っている。とんだ骨董趣味だ。それはそのまま漱石本人の趣味でもある。彼は通俗小説は書きたくないのである。「草枕」のような漢学の蘊蓄を語りたいのだ。素人が自分で作るなら下手に巧まずに不器用に作れ、とまで言っている。

思うに漱石はかつて熊本を旅行したときの体験を小説に仕立てようとして、そこになにやら怪しげな女の話やら、西洋文学の話題などを入れて通俗小説を書いてもらいたい新聞の編集者のリクエストに応えつつ、自分の漢詩趣味をむりやりねじ込んでこの「草枕」を書いたのではなかったか(英詩や俳句などをちりばめたのは照れ隠しか目くらましだったのではないか。)。しかし世間は漱石にそんなものを期待してはいなかったのである。新聞の娯楽小説でなければバタ臭い西洋風な小説を書いてほしかった。

東向島

台東区には台東区の巡回バスというものがあり、墨田区には墨田区の巡回バスというものがあるが、隅田川を挟んで墨田区と台東区を行き来するバス路線がまったくと言って良いほどない。たとえばだが、白鬚橋を渡って東向島、曳舟、押上を経て、言問橋を渡って鶯谷、三ノ輪へ回ってまた白鬚橋に戻るのような巡回バスがあると非常に便利だと思うのだが。

ともあれ、浅草から白鬚橋を渡り鐘ヶ淵から東向島あたりを散策してみた。

鐘ヶ淵は墨田区というより南千住、北千住あたりと雰囲気が近い。かなりさびれた感じ。東向島は比較的栄えていて、東武博物館などもあり、路傍に鉄道車両などが展示されていて、なにやら楽しげな町だ。まいばすけっとがあちこちにあったのでカラヒグ麺の在庫も確認してみた。あまり売れてなさそうだった。私がこれまでみた限りでは雷門のまいばすけっとが一番賞味期限が新しい。やはりあのへんがよく売れているのだろう。

隅田川神社はもとは水神と呼ばれて、もっと木母寺の近くにあったらしい。今の隅田川神社は隅田川の間に高速道路が走っていてまったく情緒が無い。木母寺には初めて来たんだと思うんだが、なかなかすごいところだった。

謡曲「隅田川」は世阿弥の作とも、世阿弥の子の観世元雅の作とも言われる。後崇光院の「看聞日記」にも演じられたと記載があるという。世阿弥、観世元雅、後崇光院はほぼ同じくらいの時代の人。将軍でいうと足利義教くらい。

一人子が人商人(ひとあきびと)に誘われて東国に下ったと聞いて、京都北白川に住んでいた女が物狂いとなって隅田川の渡しまでやってきた。

我もまた いざこと問はむ 都鳥 いざこと問はむ 都鳥 我が思ひ子は 東路に ありやなしやと 問へども問へども 答へぬは うたて都鳥 鄙の鳥とや いひてまし

ここ隅田川の渡しの地の人が言うに、「人商人の都より、年のほど十二、三ばかりなる幼き者を買ひ取つて」陸奥へ連れて行こうとしたが、馴れぬ長旅に疲れたのか病んで一歩も歩けなくなり、この地にひれ伏して、商人はその子を見捨てて陸奥へ下っていったという。その子は父には先立たれて母と二人で暮らしていたが、商人にかどわかされた、都の人が通りがかるのを見たいのでこの道ばたに埋めて目印に柳の木を植えてくれと遺言して死んだという。謡曲「隅田川」の中には

たづねきて 問はば答へよ 都鳥 すみだ川原の 露と消えぬと

という辞世の歌は見えない。梅若丸という名は出てくる。物狂いした母が子の死を知って出家し、妙亀尼と名乗ったという話も出て来ない。出家前の名、花御前という名も出て来ない。

木母寺に伝わる徳川家綱の時代に成立した「梅若権現御縁起」に梅若の父の名は吉田少将惟房、その妻は花御前、近江国坂本の日吉山王に願掛けして梅若が生まれる。梅若五才の時に父が死に、七才の時に比叡山月林寺に入る。おなじく稚児の松若丸との稚児争いで山道に迷い、人買いの信夫藤田というものにかどわかされる(信夫(しのぶ)というのは奥州の地名であろう)。梅若を葬ったのは忠円阿闍梨という僧侶、などとかなり詳しくいきさつが記されているらしい。花御前は梅若の塚の側に庵を建ててそこに住んで梅若を供養していたが鏡が池に入水して死んでしまった。死体を載せた亀が浮いてきたので、忠円阿闍梨が墓を建てて妙亀大明神として祀ったのだそうだ。

稚児争いとか僧侶と稚児の関係などあやしげだが、要するに比叡山で起こった痴話喧嘩のために梅若丸ははめられて陸奥に連れ去られてしまった、陰湿ないじめや抗争のようなものがかつては良くあって、それが伝説として残り、謡曲となった、のかもしれない。

ともあれこの梅若伝説というものはいろんな形のいろんな言い伝えがあって江戸時代になって余計に手が加えられているらしく、誰かがきちんと総括したほうが良いんじゃないかと思った。そういう論文が既にあるのかもしれんが。

天下之糸平の石碑は実際に見てみなくては大きさが良くわからないと思うが、とにかくめちゃくちゃでかい。畳でいうと10畳くらいの広さ。それが5.45m × 3.6m でどーんと建っている。

初代三遊亭のために山岡鉄舟が揮毫したという石碑も、くねっとした形で、なんかあかちゃけてて味がある。

Instagram を使ってみたのだが、みんなスマホでしかやらないせいかしらないが、PC版(Web版)だとどこをどういじっていいのかよくわからない。ストーリーとか作れないんじゃないかと思う。ストーリーを作れないとハイライトも作れないらしいんだが、スマホで作業する気は1ナノメートルもないので、やる気が起きない。

その上、Web 版でブックマークしようとするとタイトルがバグるので余計につかいにくい。とにかくInstagramは自分がみたいものをすぐにみることができないし、レイアウトしたいようにもできないし、Instagramすらつかいこなせないのかとはがゆくなるが、私の場合は結局wordpressで物を書いて写真を載せた方がずっと気が楽だということがわかった。

人商人というのは漱石の「坑夫」に出てくる周旋屋のことだろう。日本にはずっとそうやって孤児などを拾って売り飛ばす商売人がいたものとみえる。

東向島から東武で浅草へ戻る。向島で飲むときは一軒に限る。どうせ浅草に戻ってきてもう一軒くらい行きたくなるのだから。ましかし大人しくタクシーで帰るというのも悪くはない。せいぜい1500円か2000円で帰れるのだから。

浅草の某商店街は雑貨屋も飲食店も道にはみ出して品物を並べたり椅子やテーブルを置いたりして、それを観光客が立ち止まってぼーっと眺めていたりして、そうすると余計に人だかりがして、自転車が大量に路駐してたりしてまさにカオス。歩きにくくて仕方ない。駅に急いで行こうとするときなど非常にイライラする。ここを避けて裏道を通るしかない。あといまだに「コロナ対策にご協力ください」などとアナウンスするのはやめてほしい。

入谷

浅草の中心部、浅草観光ゾーンにはやはり平日であろうとできるだけ近寄らないほうが良い。駅を出てあちこち買い物して帰ろうとするとかなり高い確率で精神を病む。人通りの多い道を避けて路地に入ると某町会事務所の前に灰皿が設置されていて堂々とタバコを吸っている。路地を通り抜ける歩行者には迷惑千万だ。もしかすると私道だから行政が口出しできないのだろうか。台東区にはこういうのを取り締まってほしいが、鶯谷駅北口ですらガンガン路上喫煙しているから、まったくやる気が無いのだろう。

雷門の某スーパーは刺身や魚類の品揃えが良いのだが、入り口付近に異様に動きが緩慢でうろうろいったりきたりする方々が滞留しているのでやはりメンタルをやられる。

とにかく浅草というところは自転車の危険走行が多すぎる。最近私が一番あぶなかっかしいと思うのは黒くてタイヤが太い電動自転車で、どうもレンタル自転車らしいんだが、あれが後ろからスピードを落とさずすり抜けていく。さっさと規制されればいいのに。

それで、浅草の周辺部、入谷とか山谷とか向島辺りは比較的平和でのんびりしているから、そういうところで極力日常の用を足すのが良さそうに思えてきた。入谷には花正も稲毛屋もあるし、まいばすけっともあるし、小さいけどダイソーもあるし、ココスナカムラという謎のスーパーもある。精神衛生上、入谷に軸足を移そうかな。浅草にはどうしてもいかなきゃいけないことがあるときだけ行くことにして。

曳舟

土日浅草は日本人だけでなく外国人もなぜか多くて、旅行中の外国人なら平日にくりゃいいじゃんと思うのだけども、ともかく土日は浅草の喧噪を避けて向島辺りを散策すると良いのではないかと思っている。

「天下の糸平」の話が内村鑑三の「後世への最大遺物」に載っていて、

有名な天下の糸平が死ぬときの遺言
ゆいごん
は「己れのために絶大の墓を立てろ」ということであったそうだ。そうしてその墓には天下の糸平と誰か日本の有名なる人に書いてもらえと遺言した。それで諸君が東京の
うし
御前
ごぜ

ってごらんなさると立派な花崗石
かこうせき
で伊藤博文さんが書いた「天下之糸平」という碑が建っております。それは、その千載にまで天下の糸平をこの世の中に伝えよというた糸平の考えは、私はクリスチャン的の考えではなかろうと思います。

なんてことが書かれているのだが、これを読んだのは長崎県の某中学校の図書館で、私が中学2年か3年の時のことだと思うから、以来もうずっと、45年間も「天下の糸平」のことが気にかかっていたというわけになる。

「牛の御前」とはおそらく牛嶋神社のことであろう。糸平の石碑があるのは牛嶋神社よりずっと川上にある木母寺である。ウィキペディアなど見ると天下の糸平こと田中平八(屋号が「糸屋」、糸屋の平八で糸平と呼ばれたらしい)の次男が成島柳北の娘と結婚したなどと書かれていてへえっと思う。ともあれ明治の頃には有名な大富豪だったのだろう。以前この辺りは散歩に行って隅田川神社などは見たことがあったが木母寺には行ったことないんで今度行ってみよう。

クリスチャン的であるかどうかなんてことはともかくこうした馬鹿でかい墓を作りたがった人は他にもおおぜいいたらしく、そうした墓石を谷中霊園にいくといくらでも見ることができる。

正岡子規は20才の頃に長命寺桜餅山本屋に下宿していたことがあるから、この辺りの地名をいくつも歌に詠み込んでいる。以下は全部子規が詠んだ歌。

(ゆき)(うち)(さ)くも(みさを)(うめ)(わか)(な)のみ(さくら)(きみ)(こ)ふらむ (梅若寺。木母寺の別名)

「雪の中に 咲くも操や 梅若は」まではなんとなくわかるが「名のみ桜を 君や恋ふらむ」は何を言っているのかわからん。春は名のみで、まだ梅が咲き雪が降っている、あなたは早く春になって桜が咲かないかなと思っている、というような意味だろうか。

木母寺は梅若丸が死んだ場所だとされて梅若寺ともいう。梅若丸って誰かというと、室町時代に「隅田川」という猿楽が作られてその主人公が梅若。彼は京都の公家の子で人買いにさらわれた。病気になって捨てられ、隅田川のほとりで死んだ。現地の人が弔って、遺言によりその墓に柳を植え、それから一年が過ぎて一回忌の念仏を唱えるという日に、狂った女がはるばる京都から息子を探しにきて、それが梅若の母だった、という話。

何が面白いのかさっぱりわからぬが、ウィキペディアを読むと、家康が「梅柳山」という山号を与えたとか、近衛信尹が「梅」を「木」と「母」に分けて木母寺という今の名前にしたとか、ほんとかうそかわからぬが昔はそれなりに有名だったらしい。

(う)けぬとは (し)れども(いの)(み)めぐりや めぐり(あ)ひたし (わか)れにし(きみ) (向島三囲(みめぐり)社)

三囲社は墨田郷土文化資料館の近くにあるので、こないだ前をよぎった。

(ひと)(め)に かかるも(う)しや 牛嶋(うしじま)(いも)(われ)との すみか(さだ)めむ (向島牛嶋神社)

向島は濹東綺譚の舞台で、料亭や小料理屋などが点在していて浅草の観音裏に似た雰囲気もあり、昔はそれなりに栄えたのだろうけど、今は鳩の街通りなども閑散としているが、その分曳舟駅前がやや栄えている。向島の繁盛はすべてここ曳舟に吸い寄せられているように見える。浅草のように観光客でごった返すわけでもなくほどよく栄えていて良い感じがする。

吉川英治旧宅跡は今は墨田区立寺島保育園というものが建っている。

いづ(かた)も くもりなき(ひ)寺島(てらしま)(は)(ま)だになき (わ)(おも)ひかな (向島寺島町)

幸田露伴旧宅(蝸牛庵)跡は露伴児童遊園という公園になっていた。

向島にも見番(芸妓の組合)があった。

浅草は上野や御徒町、鶯谷あたりとひとくくりにされることが今は多いようだが、どうせ繰り出すなら反対の向島、曳舟へ行ったほうが楽しいと思う。押上やスカイツリーはどうしようもない。松屋浅草をエキミセ、スカイツリーをソラマチと言わせたがっているのは東武であろうが、こないだ初めて人がソラマチと言っているのを聞いた。調べてみるとほかにも東京ミズマチなるところがあるらしい。隅田川に架かる東武伊勢崎線(スカイツリーライン笑)の陸橋に沿って遊歩道(すみだリバーウォーク)が設けられており、そこからスカイツリーに続く北十間堀沿いの道のことをミズマチと言いたいらしい。

曳舟で飲み歩くのは楽しいが、結局、浅草に戻ってきても酔った勢いで何軒かハシゴしてしまい、おかげで二日酔いになってしまうのは非常にマズいのでなんとかしたい。

ウェブ日記回帰

トランプが発言するたびにニュースにするのはやめろなどと言っている人がいるが、そういう人はテレビを見るのをやめれば良いのにと思う。テレビをつけっぱなしにするというのは悪癖だ。いや依存症だ。依存症はれっきとした病気なので治療したほうが良い。そういう人が世の中にたくさんいるから人はますますヒステリックになっていく。

NYダウがじりじり下がっているのも、円がじりじり円高になっているのも、トランプが連邦政府の職員を大量解雇しているのも、アメリカがウクライナに金出したくないのもみんな当たり前のことではないか。おかしいのはヨーロッパだよ。ポーランドに核装備なんて、それこそ戦後秩序の破壊じゃん。ソ連がキューバに核を持ち込もうとしたことと何が違うのか。ロシアの日頃の行いが悪すぎるからヨーロッパが正しいようにみえるが、明らかにやり過ぎだ。

blueskyは左翼とバイデン支持者とトランプ嫌いと民衆党支持者しかいない。twitterはイーロンマスクが仕切っていて目も当てられない。もうね、SNSなんでみんなやめればいいんだよ、ブログ、いや、ウェブ日記の時代まで戻って、勝手に書きたいことを書けば良いだけなんじゃね?

自民党の党員が減ってるのは裏金疑惑のせいだっていうけど、政治献金すれば、それまで合法であったものまで裏金裏金言われるんじゃあ、怖くて献金もできなきゃ党員にもなれないよな。パーティー券買っただけで裏金って言われる、じゃあどうやって政治資金を集めて政党活動、政治家としての選挙活動をすりゃいいんだろう。

たとえば20万円未満のパーティー券購入は報告義務はないんだよね?でもそれまで裏金と言われちゃあ、私なら怖くてパーティー券なんて買えないよ。買う気はまったくないけどね。報告義務もなけりゃ法律で禁止もされてなくてそれまで慣習的に行われてきたことを過去に遡って裏金よばわりする。いったい誰が得するのか。

もちろん、20万円未満に小分けしてパーティー券を購入すれば匿名になるというのは法律の抜け穴だからふさいだほうが良い。しかし、その穴をふさぐまでは合法なのだから、裏金よばわりされるいわれはないよな?

ぎりぎりアウト

私は車というものには何の愛着も感じないほうであって、洗ってもまたすぐに汚れるのにみんなよく洗車なんかするなあと思い、隣の住人がときどき日曜日にケルヒャーなどで車を延々と洗っているのをああなんてやかましいと思っていらいらしたりもするのだが(ケルヒャーにしろ掃除機にしろ、或いは犬を飼うにしろ、本人はちっともうるさくない。赤の他人が一方的に騒音を聞かされるからうるさいのだ)、ベランダに置いた洗濯機の蓋が汚れているのを見ると、やはり拭いてきれいにしたくなるものであって、ああ車を洗う人もきっと同じような気持ちなんだろうなと初めて共感できた。

賃貸の共同住宅なんてものはどこに住もうが多かれ少なかれ不満があるものであって、便利なところに快適に住もうと思えばそれなりの対価を支払わなくてはならない、それが嫌ならなにがしか我慢をしなくてはならない。

今浅草で借りているこの部屋だが、ギリギリセーフとギリギリアウトの境目辺り、どちらかといえば限りなくギリギリアウトに近い。最近かなり気になるのは隣でトイレの水を流す音が丸聞こえなのだが、まあそれはしょうがないと諦めるとしても、その流れる時間が異様に長いのである。そんな大きな音ではないのだが、ちょろちょろちょろちょろいつまでも流れている。あれはいったいなんなのだろうか。たぶん配管が詰まっていて、少しずつしか水が排水されていかないせいだろうと思う。完全に詰まれば管理会社が修理してくれるのだろうが、中途半端に詰まっているから放置しているのだろう、などと思うと余計にイライラしてくる。

それで今回またしても水道工事を頼んだ。蛇口の水がなかなか止まらないという話を先にここに書いたが、この蛇口が途中で止まらずぐるぐるぐるぐる回転するようになってしまった。ある一定角度のところで(45度くらい)水はなんとか止まりはするのだが、そこを越してさらに回すと水がまたでてきて、45度辺りまでくるとまた止まるという謎仕様。

これはさすがに使いづらいにもほどがあるので電話して修理してもらうことにした。

私ばかりでなく、都会では、相当多くの人が不動産に不満を抱いたまま、そして通勤にいらだちながら暮らしているんだなあと思う。こんなことならきっと縄文人のほうがクオリティオブライフは高かったんじゃないか。

乾麺と生麺

米一袋5kgが4000円いや5000円するのが当たり前な昨今ではパスタ乾麺がたとえばトップバリュ1kgで250円というのはかなり割安。5kgでも2500円にしかならない。昔は確かに5kgで2000円の米というものはザラであった。10kgで3000円というものもあったように思う。しかし今なら、単に炭水化物を摂る目的ならばスパゲッティを食べる方が安そうだ。

一方で現在浅草あたりではカラヒグ麺というものが話題になっていてこれが2月5日からまいばすけっとで買えるようになって、私は結構買ってたべているし、人にあげたりして勝手に普及活動をしていたりする。

一袋2食199円というのは、安い。安いと思うのはたぶん錯覚で、1食分100円というのはカップ麺に比べれば安いが袋麺よりはやや高いかな?と思うが、最近は袋麺もそれなりの値段がするからなんともいえないかな。

生麺が特にうまいと思ったことはなかった。たとえば蕎麦を生麺と乾麺で食べ比べてみて割高な生麺が特別うまいとは思えなかった。そうして今まではできるだけ安い乾麺ばかり買って食べてきた。しかし今回、敢えて生麺を食べてみると似ているようでまったく違う食べ物であって、自分の中でいままで試したことのない新味がある。しばらくはパスタ麺だけでなく蕎麦なんかも生麺で食べてみようと思う。

カラヒグ麺はかなり面白い。塩気がもともとかなり含まれているので、(乾麺の蕎麦のように)ゆでた後でいったん水洗いするならともかく、味付けにはかなり気をつけたほうが良い。ゆでて湯切りをせずそのままスープをからめていくやり方だと、麺からかなりぬめりが出るようだが、そのぬめりに塩気が留まってかなり塩辛くなる。早ゆで2分と袋には書かれているが、1袋に2玉入っていて1玉が生麺で130gであるから2玉くらい余裕で食べられるんじゃないかと思ってたべるとかなり弾力があって顎が疲れてくる。多くの人にとっては少し長めにゆでたほうがちょうど良い固さなのではないかと思う。

ともかくいろんな意味でこのカラヒグ麺というものは食感が独特で、敢えて食べてみる価値は十分にあると思う。

カラヒグとはカラスと樋口という二人の人が作ったのでそういう名前なのだそうだ。

カラヒグ麺、中野新橋のまいばすけっとでは、賞味期限がどんどん新しくなっているので、結構回転しているようだ。しかし町田のまいばすけっとで買ったときは中野新橋よりも後で買ったのに賞味期限は古かった。やはり都心のほうがこうい新しいものに関心が高いのではなかろうか。

カルボナーラには良く合うと思う。ボンゴレビアンコもうまい。まだ試してないがミートソースにはきっと合うと思う。あっさりしたボンゴレを食べたければ湯切りもしくは水洗い(と温め直し)をちゃんとしたほうが良い。

ざるそばのような食べ方もしてみたのだが、これだと小麦粉そのものの味わいを試せるということはあるのだが、めんつゆとはほとんど絡まないような気がする。あんまり相性は良くない。食感は餅に近いので、砂糖醤油で食べると案外うまいのじゃないかと思っている。

ラオタ界隈では浅草開化楼はかなり有名なラーメン屋で、ここでこのカラヒグ麺は使われているそうだ。私はラーメン屋にはほぼまったく行かないのでよくは知らない。浅草地下街のニュー小江戸の焼きそばにも使われている。この焼きそばは(以前にも書いたかもしれないが)、最初食べたときは固くて焦げててなんてたべにくい焼きそばだろうかと思ったのだが、食べ慣れてみるとほかの焼きそばはもう食べ応えがなくて焼きそばを食べた気になれなくなるというしろものだ。初心者には敷居が高いが、何度も食べているとそのうちはまる。

初期万葉集

白川静 孔子伝の続き。

白川静「初期万葉集」を読み始めた。これによればなぜ白川氏が万葉集の研究を始めたのか明らかだ。彼は漢学者、というより、漢字学者として、詩経を学び、詩経と万葉集を比較しようと考えたのだ。

詩経と万葉集を比較した学者ならば江戸時代にもいた。というより、平安時代にもいた。藤原公任は和漢朗詠集を作った。九条良経など漢詩も作り和歌も詠んだ。彼らは漢詩と和歌を際限なくごっちゃにしていた。

詩経に関しては荻生徂徠がかなりまとまったことを言っているはずだし、国学者も万葉集、詩経両方を研究した人がいたはずだ。私にはまずそこから研究すべきではないか、と思えたのだ。

しかし漢字学者である白川氏が江戸時代の国学者や歌学者を知っているはずもない。そうした先行研究を調べることはできなかっただろうと思う。もし万葉集の研究をするのであればまず仙覚、荷田春満、賀茂真淵の先行研究について触れなくてはならなかったのではなかろうか?

また私には、文字の無い時代から文字を得た時代の文芸について研究するのであれば、当然西アジアを含む全世界の古代文芸、ギルガメッシュ叙事詩や、ホメロスやその他の叙事詩との比較研究を行うべきであろうと思う。近代の研究者である白川氏にはその責務がある。しかしながら、世界の古代文芸との比較も行わず、江戸時代の先行研究のサーベイも行わず、白川氏独力で、いったいどれほどの研究ができるのだろうか、と私には思える。

一人の人間がそんな網羅的な研究ができるはずもない、もう少し限定的な何かを追求しようとしていたのかもしれないから、もう少し白川氏の書いたことを読んでみようとは思っている。

一人の一歌学者として思うに、日本人は古来、漢詩の理論で和歌を体系づけようとして、ことごとく失敗していた、その轍を踏むのではないかという危惧がある。

漢詩は漢詩なのである。和歌は和歌なのである。漢詩と和歌には似ている。確かに似ている部分もあろう。和歌が漢詩の影響を受けた部分は多い(逆は無いとしても)。しかしそもそもまったく違うものなのであって、これまで多くの人が陥った間違いに白川氏も陥るだけなのではないかという気がしてならない。そう、そもそも、日本歌学における漢学の影響を排除するところからしか、和歌というものは分析できないと私には思えるのだ。なぜなら、漢学の影響が日本文芸には強すぎるからだ。

漢語と大和言葉はそもそも言語として全然違う。相性は最悪だと思うが、長年の努力で混淆してきた。

私から見るとドイツ詩と漢詩は構造が良く似ている。しかし和歌はまったく違う。特に短歌形式や発句形式(俳句や川柳)は、短くて構造を持たないことが特徴である。一方(ゲーテなどの)ドイツ詩や漢詩は対句や押韻によってシンメトリカルに整った構造を持っている。今様や都々逸にはまだ構造や対称性、反復、リズムというものがあるけれども、短歌には無い。短歌でリズムを表現しようとするところに多くの人の勘違いがある。金属や宝石などの結晶は構造があるがガラスは結晶ではない。ガラスはほとんど変形しない液体なのだ。短歌もまた結晶構造を持たない、アモルファス、静止した液体なのである。という比喩でわかってもらえるだろうか?

和歌は世界中見ても類例の無い詩形だ(良く探せばアフリカとかネイティブアメリカンなどに似たものがあるのかもしれん)が、東アジアと西アジア、そしてヨーロッパの詩というものは相互に影響を与えながら成立したのではないか。詩とはなんであるかということの考察はそんなに簡単なことではない。