新三十六歌仙

九条良経は土御門天皇の摂政太政大臣(実質的には後鳥羽院政のトップ)。1206年死去、38歳というからまだ若い。
新古今の寄人で仮名序(どうという見所もない文章)の著者。歌もたくさん採られている。

天皇や皇族で歌のうまいのは当たり前だが、摂政関白太政大臣で歌がうまいというのはかなり疑ってかからねばならない。
後鳥羽院も一応良経をほめているようだが、かなり割り引いて考えねばなるまい。
全然ダメとは言わないがかなり陳腐。
それは慈円にも言える。

良経の娘立子は順徳院の中宮。

良経の長男道家の三男頼経は鎌倉将軍(実質的には承久の乱より前から)。
その次の将軍が宗尊親王(1252-)。

面白いのは、頼朝の実母妹坊門姫は一条能保の室となって二人の娘を産み、
その一人(名前不詳)は良経の室となって道家と立子を産み、
もう一人(一条全子)は西園寺公経に嫁いで倫子を産み、
道家と倫子の子頼経が実朝の死後鎌倉将軍になっている、ということである。
つまり、道家と倫子はいとこどうしであり、共通の祖母・坊門妹を持つ。
道家と倫子の子・頼経は坊門姫の二重の曾孫であることになる。
従って実朝が死んでいきなり藤原氏が鎌倉将軍というよりは、かなり源氏の血筋というものが意識されていることがわかる。

実朝の妻が坊門信子なのだが、坊門姫という名と何か関係があるのだろうか。

[新三十六歌仙](http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/36sk.html)
面白い顔ぶれだよなあ。
政治的にかなりきな臭い連中が集まっている。
歌仙といっても良い人もいるがそうでない人もいる。
これらの人々が実質的には百人一首の成立に関与していて、かつ、
宗尊親王の係累であったのだ。

藤原定家、藤原家隆。家隆は定家の友人。

俊成卿女。俊成の実の孫娘。ようするに定家の身内。

藤原為家。為家は定家の息子。

源実朝。飛鳥井雅経。雅経は定家の門弟で実朝の友人。

式子内親王は定家の門弟。というかかなり親しい妹のような存在であった。

鴨長明。新古今編者の一番下っ端。

後鳥羽院、土御門院、順徳院。いわずと知れた承久の乱の三院。
雅成親王、道助親王は後鳥羽院の皇子。雅成は実朝亡き後鎌倉将軍候補となったが、後鳥羽院が拒否。

九条良経、西園寺公経。後鳥羽院時代の権力者。
慈円は良経の叔父。つまりは九条家。
九条道家、九条基家は良経の子。
西園寺実氏は公経の子。

後嵯峨院、宗尊親王。宗尊親王は後嵯峨院の皇子。後嵯峨院は土御門院の皇子。

久我通光。後嵯峨院政の太政大臣。久我家は土御門天皇の外戚。

衣笠家良。後鳥羽院、後嵯峨院の近習か。

行意。誰?

源通具。新古今寄人。

八条院高倉。後鳥羽院歌壇。

後鳥羽院宮内卿。

藻壁門院少将。後堀河女官。

藤原知家

藤原有家。新古今寄人。

葉室光俊。宗尊親王の歌の指南役らしい。

藤原信実

源具親

藤原隆祐。隠岐配流後の後鳥羽院に親近。ふむ。

源家長

藤原秀能。藤原秀郷の子孫で武士らしい。

うーん。
定家、家隆、為家、実朝、宗尊親王あたりまでは歌仙と言ってもよい。
式子内親王を入れるのもよい。
後鳥羽院、順徳院、土御門院を入れるのもよい。
あとはどうなんだろう。
精査してみないとわからん。

ていうか新三十六歌仙とかいうのを作る感覚が、小倉百人一首みたいな切りの良い数合わせをするのに似ているんだよなあ。
両方とも同じようなやつが企んだのではないか。
日本三大なんちゃらとかいうのと同じで、頭数あわせで権威付けしようとする。

そういや宇都宮頼綱も、京都鎌倉宇都宮で日本三大歌壇とかぬかしてたらしいが、
恥ずかしいからやめろよ宇都宮。

ていうか、すべてに宗尊親王が直接絡んでいるような気がしてきたよ。
その取り巻き連中は九条道家、立子、基家の三兄弟。
プラス、西園寺実氏と倫子の兄弟。
すごくやばいにおいがするなあ。
特に基家とか。年齢的にもやばい。1203-1280。
続後撰集が出たときには40代後半。
父に似て(笑)歌は下手の横好きで、なかなか定家や為家には認めてもらえなかった。
後鳥羽院遠流歌合には歌を献じている。
続後撰集にはやっと歌を採ってもらったが為家には反発している。
なんかもうこいつ悪役の要素をすべて兼ね備えてるなあ。
馬鹿がわらわらとわいてきている感じ。

宗尊親王かあ。
けっこう大物がかかってきた感じだわな、小倉百人一首。
あとは為家と九条基家。
定家・為家はともかくとして、後鳥羽院に近すぎる九条家や西園寺家は、北条氏はいやがるわな。
で、土御門院系の後嵯峨院の皇子の宗尊親王というのは比較的ニュートラルで、
北条氏にはよかった。
つまり、やはりというか、後鳥羽院と順徳院の名誉回復は、土御門院系から鎌倉幕府に、
やんわりと要請があったということだろう。

たいへんどろどろとしてまいりました。
ある意味、百人一首成立の真相とかいうよりもこういう政治の話だけでおなかいっぱいになりそうだわー。
和歌の人たちってこういうのあまり掘らないよな。
ていうか、小倉山荘で定家がどの歌を選んだかなんてことはやはり、
わりとどうでも良いことなんだよ。
定家の権威を借りて承久の乱の名誉回復をしようとしたのが百人一首なんじゃないか。

小倉百人一首の成立

小倉百人一首がほぼ現在の形になったのは、続後撰集が出た後だろう。
1251年続後撰集に、承久の乱の後の後鳥羽院や順徳院の御製が採られたことによって、
おおやけに、院らの名誉回復が行われた。
小倉百人一首が院らの鎮魂という形で完成した。
時の鎌倉幕府執権は北条時頼。
天皇家では後嵯峨院が院政を敷いていた。
為家を選者としたのも後嵯峨院。

後鳥羽院や順徳院の名誉回復を強く願ったのは順徳院の中宮・九条立子だったはずだ。
彼女は1247年に死んでいる。
生きているうちには名誉回復がなされなかったのだから、無念だっただろう。
だれかがその遺志を継いだのだ。

定家が明月記に宇都宮頼綱の依頼で襖絵に歌を書き記した、いわゆる小倉色紙というものが成立したのは、1235年。
承久の乱はそれに先立つ 1221年。
頼綱は鎌倉幕府の御家人だから、後鳥羽・順徳の歌など、たとえ好きだったとしても立場上、
襖絵に飾ることはできなかったし、
定家だってわざわざそんな政治的冒険をするはずもないのである。

では1235年にできたのが「百人秀歌」であったろうか。
「百人秀歌」に名誉回復された後鳥羽院らの歌を載せて「小倉百人一首」ができたのか。
おそらく宇都宮頼綱は小倉山に新築の別荘を建てた。
頼綱の娘が定家の息子為家の室になっている。
これも同じ頃のことだろう。
為家はすでに37歳。
頼綱が定家・為家父子のパトロンになったということだ。

どうだろう、いくらなんでもふすまが100もある部屋など作るだろうか。
可動式の屏風であったかもしれないが、100もいきなり画賛を書くだろうか、定家という人が。
小倉色紙は最初はもっと少ない、たとえば20枚くらいだったのではないか。

「百人秀歌」が「小倉百人一首」のプロトタイプだとみなすのも危険だ。
後世、後鳥羽院や順徳院の歌が入った「小倉百人一首」を定家が選んだはずがない、
その矛盾を解消するために贋作されたのが「百人秀歌」かもしれない。

それでまあ、私としては、定家が選んだ20枚程度の小倉色紙というものがまずあって、
そこへ九条立子の遺言で定家自身の歌や後鳥羽院、順徳院、
立子の父の九条良経の歌

> きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣かたしき ひとりかもねむ

や、定家の義理の弟・西園寺公経の歌

> 花さそふ嵐の庭の雪ならで ふりゆくものはわが身なりけり

などが付加されて、あといろんな歌を見繕ってちょうど100首にした。
それを見繕ったのは定家の息子で続後撰集の選者である為家その人というよりは、九条家や西園寺家の、
必ずしも歌はよくわからない、有象無象の定家の崇拝者たちだっただろう。

良経の歌が人麻呂の歌の本歌取りになっているのだが、あまりにも陳腐で笑ってしまう。
見た目は立派だが、
古今集の詠み人知らず

> さむしろに衣かたしきこよひもや我をまつらむ宇治の橋姫

とか藤原忠房

> 蟋蟀いたくななきそ秋の夜の長き思ひは我ぞまされる

などを適当にパッチワークにしただけなのだ。
この人はたぶん大してセンスのある人ではなかった。
たくさん歌を詠んだからには歌が大好きだったようだが、どれもきれいなだけで、
真心がない。

公経の歌はあきらかに後鳥羽院や順徳院の歌に唱和している。
良経よりはまだ少しみどころがある。

続後撰集と小倉百人一首がほぼ同時期に成立したとして、この時点で小倉百人一首が定家の撰だと言いたい人は誰もいなかったはずだ。
そんなことはあり得ないのだから。
しかし為家が死んだあとになると、やはり定家が選んだってことにしたい連中がわいてきて、
そのつじつま合わせのために「百人秀歌」がでてきたのではなかろうか。
それで、歌は全部で100だとして、どの歌を採るかなんてことは、
鎌倉末期まではかなり流動的で、いろんな人の「改竄」を経た可能性がある。
いわば小倉百人一首もまた、一種の二次創作なのだ。

百人一首というのは要するに歌を学ぶのには適してない

自分でも定家までの歌人を100人選ぼうとしているのだが、私の好みのせいもあるかもしれないが、平安時代だけだと50人も選べない。奈良時代を入れても全然足りない。素戔嗚尊からずーっと入れて70人くらいにしかならない。江戸時代まで入れれば簡単に100人になるがそれでは百人一首をまねたことにはならない気がする。

藤原公任とか源俊頼なんかはあんまり興味ないんだよね。わざわざ取り上げる必要があるのかという。当時の一流歌人だったのは間違いないんだけど。

百人選んでそれぞれ一首ずつというのは、まあ、歴史の勉強にはなるかもしれない。和歌の歴史を学ぶという意味会いはあるかもしれない。だが歌を学ぶのには不毛な作業だ。

読み人知らずの歌を採れないのもかなり痛い。

和歌を学びたければ、たとえば西行が好きなら西行の歌ばかり学べばよい。西行に飽きたら俊成とか。西行と俊成の比較とか。人に好き嫌いがあるのは自然だ。それをせずに、ただ百人並べてみるというのはおそらくはもともと歌のわからん人のやること。歌を楽しんでいるというよりは、それこそカルタのように歌人を並べて遊んでいるだけなのだ。要するに百人一首はただのカルタだというごく当たり前の結論に達する。まったく面白くもなんともない結論だ。ブロマイド集めたり、ポケモンとか妖怪ウォッチとか、そういう趣味と何の違いもない。

源頼朝と源頼政、花山院は入れたいよなあ。頼朝は完全な趣味として、花山院や頼政はなぜ百人一首から漏れねばならぬのかがわからん。どちらも藤原氏によほど恨まれてたとかではないか。

百人一首は凡歌を好む。

いよいよ百人一首を書こうと思って、また調べ始めたのだが、古今集のときと違って気が重い。
古今集の気持ちのよさが百人一首にはない。
どんどん憂鬱になっていく。

百人一首は凡歌を好む。
凡人の好みをかなり忠実に反映していると言っても良い。
プロの歌人がいればそのパトロンがいる。
パトロンとは要するに摂関家である。
百人一首の時代で言えば、九条家と西園寺家。
パトロンは必ずしも歌がわかるわけではない。
というより俗物でなければパトロンなどにならんだろう。
パトロンたちは天智天皇の歌や陽成院の歌が好きなのである。
そして宇多天皇や醍醐天皇の歌のよさがわからない。
持統天皇とか光孝天皇の歌は、プロにもパトロンにも好まれるという意味で幸せな歌である。当然載せるべきである。
私ならば天智天皇と陽成院の歌をよけてでも、宇多天皇と醍醐天皇の歌を入れたい。
しかし、悲しいことに、玄人受けはしても、一般受けはしない。

一般人はリアリティよりはファンタジーを好む。
真実よりは雰囲気を好む。
実景や真情を写生した素朴な歌よりも、虚構で飾った派手な歌を好む。
これは私が小説を書いていても実感することだ。

醍醐天皇の歌をみよ。これぞまさしく古今調の神髄である。

> むらさきの色に心はあらねども深くぞ人を思ひそめつる

> うつつにぞとふべかりける夢とのみ迷ひしほどや遥けかりけむ

> あかでのみふればなりけり逢はぬ夜も逢ふ夜も人をあはれとぞ思ふ

醍醐天皇の歌は優美だが肉声である。
目の前で醍醐天皇自身が語りかけてくるようなそんな迫力がある。
醍醐天皇は歌という形をとって心を訴えている。
しかし、多くの人は、訴えるべき心もないのに歌を詠もうとする。

正岡子規は二十代の頃、その形をまねようとした。

> 物思ふ我身はつらし世の人はげにたのしげに笑ひつるかな

> いはずとも思ひの通ふものならば打すてなまし人の言の葉

> 我恋は秋葉の杜の下露と消ゆとも人のしるよしもなし

非常にまずい歌だ。こんな歌を詠むくらいなら、口語で都々逸でも詠んだほうがましだ。
いかにも、江戸か明治の人が詠みそうな、いくじのない女々しい恋の和歌になってしまっている。
陳腐な歌謡曲に過ぎぬ。
子規は自分の才能に絶望しただろう。だから、

> くれなゐの二尺のびたる薔薇の芽のはりやはらかに春雨の降る

のような、俳句を伸ばしたような和歌を詠むしかなかったのだ。
まあ子規には珍しい、唯一の秀歌と言ってよいのだが、これなんかも、

> 春雨に二尺のびたる薔薇の枝

でも十分よさそうなもので、やはり子規は俳句の人なのである。

古今集仮名序に、「やまとうたは人の心を種としてよろづの言の葉とぞなれりける」
と言うが、醍醐天皇の歌はまさにこの順序でできている。
定家の詠歌大概に「情以新為先詞以旧可用」も同じ意味である。
古い言葉を用いて新しい心を言い表す。
西行も為家もだいたい同じことを言っている。
俳句には実は心は不要だ。
少なくとも和歌で言う心と、俳句で言う心は違う。
俳句は目の前の情景を言葉で写し取る。
あるいは情景から興る感動を言葉で表す。
和歌はそうではない。
心の中にわき起こってきた形のないもやもやとした感情を、
客観的に自己観察して、
それを言葉に表す。
このとき「紫の色」などのような譬えを用いることはあるが、
もともとは何の色も形もないもの。それが和歌で言う心である。

百人一首を調べていると絶望しそうになる。
良い歌も混ざっているが俗な歌も多い。
ただの俗な歌に御製という箔付けをしたりするからよけいたちが悪い。
御製という箔付けがなくとも良い歌はよい。
悪い歌は悪いのだ。
歌とはそういう真剣勝負なのではないのか。
しかし百人一首はあきらかにそうではない。

万葉集では「将宿」を「寝む」と訓む。
人麻呂の「ひとりかもねむ」の「ねむ」が「将宿」と表記されている。

> 足日木乃 山鳥之尾乃 四垂尾乃 永長夜乎 一鴨将宿

なんでやねんと思う。
しかし万葉集の他の用例を見ると、
「将宿」は「宿らむ」とも訓まれ、
「将去」は「ゆかむ」、
「将隠」は「隠さむ」、
「将泊」は「泊てむ」、
「将示」は「示さむ」、
「将有」は「あらむ」、
「将見」は「見む」、
「将超」は「こえむ」、
「将吉」は「よけむ」、などと訓まれているのである。

つまり、意志の助動詞「む」を意訳して「将」とした。
まさに~しよう、という意味があるからだ。

「ひとりかもねむ」は
「獨可毛将宿」と書かれたり、
「獨鴨念」と書かれたり、
「一香聞将宿」「一鴨将寐」「孤可母寐」「一鴨将宿」「獨鴨寐」などと書かれたりもするが、
「比登里可母祢牟」と書かれたものもあり、これは「ひとりかもねむ」と訓まざるを得ない。
万葉時代には良く使われた言い回しだったのだろう。

「ながながしよを」は「永長夜乎」と書かれているが、
これでは「ながながよるを」と訓んでもよい。
「ながながきよを」「ながきながよを」かもしれない。
なぜ「ながながしよ」となったのか。

私なら

> あしひきの 山どりの尾の しだり尾の 長き長夜を ひとりかも寝む

と訓みたい。

平安時代すでに「ながながし」はシク活用なので「ながながしき夜」となって余計変だ。

こひぢ

こひぢは恋路とも泥とも書く。
恋路は濡れる、涙、蓮、あやめ草、五月などとかけて使われる。

更級日記に、今の隅田川当たりの情景を

> 浜も砂子白くなどもなく、こひぢのやうにて

などと言っているのが割と有名ではなかろうか。
単に「ひぢ」とも言う。
「ひち」は濡れるという意味。
音が近いがもともとは別の単語であろうか。
いずれにせよ泥で濡れるというイメージ。

後撰集

をとこのはじめて女のもとにまかりてあしたに、雨のふるにかへりてつかはしける
読人不知

> 今ぞしるあかぬ別れの暁は君をこひぢにぬるる物とは

返し
読人不知

> よそにふる雨とこそきけおぼつかな何をか人のこひぢといふらむ

はちすのはひをとりて
読人不知

> はちすばのはひにぞ人は思ふらむ世にはこひぢの中におひつつ

金葉集

小一条院

> 知らざりつ袖のみぬれてあやめ草かかる恋路におひんものとは

千載集

百首歌よみ侍りける時、恋の心をよみ侍りける
実定 右大臣

> さきにたつ涙とならば人しれず恋ぢにまどふ道しるべせよ

例を挙げるのはもうこのくらいでよいと思うが、
要するに、恋路、涙、濡れるというイメージが便利なので、頻繁に使われた。
後撰集に見える陽成院の歌

つりどのの皇女につかはしける

> つくばねの峰よりおつるみなの川こひぞつもりて淵となりける

みなは蜷という貝であるという。
タニシのことだろう。
タニシだから泥に住む。
みなの川、こひ、淵というイメージがつながる。
淵に泥がたまってそこにタニシが住んでいる。
その川の水は筑波山から流れ落ちてきたのであると。

そこまで説明されてやっとこの歌の意味がわかる。
誰もこれを秀歌だとは思っていない。
しかし絵に描いたようなイメージを伴った便利な歌である。
そして比較的古い。
広く知れた歌だったのだろう。
だから本歌取りが多い。
良い歌だから本歌取りされやすいとは言えない。
平凡で、使い回しやすいから本歌取りされるとも言える。
陽成院が自分で詠んだ歌ではあり得ない。
おそらくは宇多天皇時代の無名の職業歌人が代わりに詠んだ歌だろう。

みなの川は男女ノ川と書くという。
筑波山の男体山と女体山を表すという。
なぜミナが男女なのか。根拠ははっきりしない。
京都の貴族らは誰も筑波山を見たこともないし、男女ノ川を見たこともない。
男女ノ川の淵の泥の中に住んでいるタニシなどみたことない。
ファンタジーの歌だ。
しかしファンタジーは往々にして、人を楽しくもさせる。

ある意味、百人一首にはもっともふさわしい歌かもしれない。
口調がなめらかで、平安朝的で、しかも天皇の御製であるからだ。

釣殿の皇女とは光孝天皇の皇女である。
つまり、陽成天皇が光孝天皇に譲位したあと、
光孝天皇の皇女に陽成上皇が恋歌を贈ったということにしたいのである。
もし事実だとしても代詠であっただろう。
この微妙な人間関係もまた、この歌を有名にするのを助けたかもしれない。
ああ、誰が詠んだか知らないが、うまく無難に詠んだものだなと。

陽成天皇は実体がよく見えないぼやっとした人である。
積極的に何かをしたというものがまるでないが非常に長寿だった。
歌のぼんやりしたイメージとも合ってると言える。

ミナはカワニナの古名であるともいう。
ニナ貝は普通は磯で捕れる貝である。
カワニナは川蜷であって、
まあ要するに小型のタニシである。

ペルセポリス

ペルセポリスはダレイオス一世によって作られ、アレクサンドロス大王によって破壊された。
すなわち、わずか200年足らずしか存在しなかった、人工都市だったということだ。

スーサとかバビロンとかエクバタナなどの都市と同じように考えることはできない。

アケメネス朝でもっとも栄えた町はバビロンかスーサであろう。
アレクサンドロスはスーサで大結婚式を行った。
またバビロンで戴冠式を行った。
つまりスーサもバビロンも破壊されなかったということだろう。
エクバタナはペルシャ人発祥の古都である。
ここも略奪されたとか破壊されたとは書かれてない。

ペルセポリスには確かに王宮があったが、
ここはどちらかと言えば王墓の都であり、王家祭祀の町であって、一般住民はほとんどいなかったと思う。
ダレイオス一世以後の墓はあるがそれ以前のキュロス大王の墓などは別のところにある。
王墓と町はほとんど重なるようにして建てられている。
エジプトのピラミッド、カルナーク、ルクソール、アブシンベルのようなもので、
町というよりは神殿群のようなもの、ペルシャの民衆というより王家固有のものではなかったか。

アレクサンドロスがペルセポリスの王宮を焼いたというのは、ある種、象徴的な行為であって、
それはペルシャ軍がアテナイのアクロポリスを略奪したことへの報復というような意味であったかもしれない。
或いはギリシャの神々、とくにディオニュソスを信仰するギリシャ人からみて、
ペルセポリスは破壊すべき異教の町に見えたかもしれない。
いずれにせよ一般民衆から略奪したというのとはかなりニュアンスが違うように思う。

或いは、スーサやバビロンなどはペルシャ人によって支配された民の町、被征服者の町であったが、
ペルセポリスだけは、ペルシャ人の、ペルシャの王族が住む町であったかもしれない。
従ってスーサやバビロンではさしたる民衆の抵抗はなかったが、
ペルセポリスに入城するときには強硬な抵抗があったのかもしれない。
ペルシャを征服するにはペルセポリスを無傷で残すことはできなかった。
歴史の長いアジアでは征服者どうしが戦うことはあっても、
征服者と被征服者が戦うことは滅多にない。

さらに、ダレイオス三世はアレクサンドロスによって代々の王と同様に(つまり丁重に)ペルセポリスに葬られている。
このことから見ても、アレクサンドロスが単にペルセポリスを破壊し、略奪したとは思えないのである。
ペルセポリスは、スーサと同様に、ペルシャ帝国の衰亡とともに捨てられ、忘れ去られただけではないのか。

焼き尽くす献げ物

[「燔祭」か「焼き尽くす献げ物」か?](http://www.geocities.jp/hirokuro01/hansai.html)

サムエル記上2:12-16
> さて、エリの子らは、よこしまな人々で、主を恐れなかった。
民のささげ物についての祭司のならわしはこうである。人が犠牲をささげる時、その肉を煮る間に、祭司のしもべは、みつまたの肉刺しを手に持ってきて、それをかま、またはなべ、またはおおがま、または鉢に突きいれ、肉刺しの引き上げるものは祭司がみな自分のものとした。彼らはシロで、そこに来るすべてのイスラエルの人に、このようにした。
人々が脂肪を焼く前にもまた、祭司のしもべがきて、犠牲をささげる人に言うのであった、「祭司のために焼く肉を与えよ。祭司はあなたから煮た肉を受けない。生の肉がよい」。
その人が、「まず脂肪を焼かせましょう。その後ほしいだけ取ってください」と言うと、しもべは、「いや、今もらいたい。くれないなら、わたしは力づくで、それを取ろう」と言う。

普通に考えて、祭壇に献げた犠牲を完全に燃やしてしまうということは考えにくい。
神道でも仏教でもやらないことだ。
仏壇にお供えした食べ物は普通後で人が食べる。

サムエル記を読む限りでは、
祭司はお供えの肉を食べることがあったようである。
生肉のまま食べてはいけないが、
煮たり、
脂肪を焼いて煙にしてしまった後に残る肉は食べた、と解釈できるように思う。

シロはイスラエル12支族の一つエフライム族の土地にある町。
この時代、幕屋と契約の箱は移動をやめ、このシロに留まり、
やがて神殿が建てられたという。
しかしながら祭司のレビ族はそのまま神殿を管理したのであろう。
契約の箱はペリシテ人に奪われるが、
後に送り返された(ということになっている)。
祭司エリはレビ人であったように思われるが、養子のサムエルはエフライム人のようにも思われる。
レビ人に独占されていた祭司が普通のイスラエル人に移っていったことを意味しているのかもしれない。

レビ記2:1-3
> 人が素祭の供え物を主にささげるときは、その供え物は麦粉でなければならない。その上に油を注ぎ、またその上に乳香を添え、
これをアロンの子なる祭司たちのもとに携えて行かなければならない。祭司はその麦粉とその油の一握りを乳香の全部と共に取り、これを記念の分として、祭壇の上で焼かなければならない。これは火祭であって、主にささげる香ばしいかおりである。
素祭の残りはアロンとその子らのものになる。これは主の火祭のいと聖なる物である。

穀物が献げられたときも、
司祭はその一部を取って焼くが、残りはレビ族で食べて良い、と書かれている。
つまりレビ族は自分自身の土地を持たず、
自給はできないが、祭壇に献げられたものを食べて生きていた、と考えられるのである。

モーセとレビ族

モーセを出したレビ族は謎である。イスラエル12氏族は普通に数えると13氏族ある。しかしながら、非常に重要な祭司の一族であるレビ族は、継承する土地を持たなかったため、12支族には数えない、らしいのである。

民数記 01:47

レビ人は、父祖以来の部族に従って彼らと共に登録されることはなかった。

民数記 01:49-51

レビ族のみは、イスラエルの人々と共に登録したり、その人口調査をしたりしてはならない。
むしろ、レビ人には掟の幕屋、その祭具および他の付属品にかかわる任務を与え、幕屋とすべての祭具の運搬と管理をさせ、幕屋の周囲に宿営させなさい。
移動する際には、レビ人が幕屋を畳み、宿営する際にはレビ人がそれを組み立てる。それ以外の者が幕屋に近づくならば、死刑に処せられる。

民数記 02:33

しかしレビ人は、主がモーセに命じられたように、イスラエルの人々と共に登録されなかった。

民数記 26:62

彼ら(レビ族)はイスラエルの人々のうちに嗣業を与えられなかったため、イスラエルの人々のうちに数えられなかった者である

フロイトは「モーセと一神教」の中で指摘している。
p.069

(レビ族は)いかなる伝承も、この部族が元来どこに住んでいたのか、あるいは、征服されたカナンの地のどの部分がレビ族に配分されたのか、はっきりと言明していない。

あるいはEdマイヤーという人の説

モーセという名前はおそらく、そしてジロの祭司一族のなかのピンハスという名前は、・・・疑いようもなくエジプト語である。
もちろんこれは、この一族がエジプトに起源を持っていたと証明しているのではないが、

を引用している。

これらを素直に解釈すれば、レビ族はエジプト人、少なくともエジプト化したイスラエル人であった。普通のイスラエル人のように、パレスチナに土地を持った部族ではなく、エジプトから移り住んだ、となる。

至誠所は臨在の幕屋の中にある。幕屋というのは遊牧民のテントを思わせる。定住せず、移動・宿営を繰り返していたようだ。レビ族は、エジプトに土着した遊牧民であったかもしれない。やはり彼らがヒクソスなのではないか。いや、そもそも、イスラエル人とは、ペリシテ人(パレスチナ人)の土地に侵入したヒクソスのことなのではないか。ヒクソスはアラビア人の一氏族なのではないか。

徳川制度

図書館で借りて面白いんだが、読んでも読んでも終わらん。
電話帳か辞典みたいなもんで、一度に読むのは無理。
これはもう買うしかないかもしれん。

小説を書く上でのヒント、時代考証が満載。
小伝馬町の牢屋敷の図面、裁判の判決事例等々。
うん、江戸時代の判例集みたいなもんだなあ。