幕下

慈円の『拾玉集』に頼朝の歌が載っているというので、近所の図書館に新編国歌大観を読みに行った。
歩いて通えるところに新編国歌大観があるのは便利なのだが。
国歌と聞いて和歌だとわかる人がどれくらいいるだろうか。
普通の人は世界中の国の国歌が集めてある本だと思うのではなかろうか。

『拾玉集』は私家集の中にある。初めて読んだが異様に長い。
ぱっと見どれが頼朝の歌かさっぱりわからない。
『拾玉集』を何度も何度も読んでいると、将軍とか幕下と呼ばれているのがどうも頼朝くさい。
幕下というは陛下・殿下・閣下などと同じで将軍に対する尊称のようである。
[吾妻鏡](http://adumakagami.web.fc2.com/aduma17c-09.htm)を見るに、
幕下将軍とは(死後の)頼朝個人を指す固有名詞のように使われている。
これに対して二代将軍・頼家のこと(というよりは当代の将軍のこと)はただ将軍家と呼んでいる。

幕府というのは[史記 李将軍列伝](http://zh.wikisource.org/wiki/%E5%8F%B2%E8%A8%98/%E5%8D%B7109)
が初出で、要するに将軍が戦場に野営しているその本営のことを言う。
李将軍とはここでは李広のことで、李陵はその孫である。

まあ幕下というのが『拾玉集』における頼朝のことだというのは間違いないとして、
確かにたくさん頼朝の歌が載っているのだが、
別段大して面白い歌でもなさそうだ。
慈円と頼朝が歌をやりとりしているのだが「あれより返し」などと書いてあるだけのやつは、
たぶん自分に対して「あれ」なので頼朝の歌だろうとわからなくもないが、
非常に紛らわしい。
心を落ち着けてきちんと読まにゃわからん。
『拾玉集』は五巻もあって目次がついてるかと思うと必ずしもそういう章立てにはなってないし、
とにかくいろいろだらだら書いてある感じ。
全然「玉を拾」ってる感じではない。むしろ玉石混淆(笑)

CD-ROM 版の新編国歌大観というのは、決して使いやすいとは言えない。
どの歌を誰が歌ったかという情報がない。
単に歌か歌以外の詞書きの文字列検索しかできない。
頼朝で検索かけると俊頼朝臣というのが大量にひっかかってきてうざい。
頼朝だけだと源平盛衰記くらいしか検索に引っかからない。
この源平盛衰記に出てくる頼朝の歌というのが梶原景時との連歌になってて、
連歌はもっと後の時代に一般化したものだろう。
源平合戦というのは平安時代末期なわけだから、おそらく贋作だろうと思われる。
梶原景時の歌というのが武家百人一首に載っているそうだが、
彼に和歌のたしなみがあったことすらあやしい。
新編国歌大観は、必ずしもデータベースとしてきちんとしてないし、
古代から近世までの和歌をすべて網羅しているわけでもない。
だがあまり需要がないからこれ以上編集に金かけても仕方ないということなのに違いない。

頼朝はいろんな呼ばれ方をされた。兵衛佐とか佐殿とか鎌倉殿とか二位とか右大将とか。
勅撰集では「右大将」という呼ばれ方が一番一般的ではなかろうか。
新古今集では「前右大将頼朝」と書かれている。割と親切だ。

頼朝の歌は『拾玉集』以外ほとんど残ってないのだが、
たぶん残ってないだけで子供の頃から大量に歌を詠んだものと思われる。

江戸の街道

別の地図を見ると、
小山から日光、宇都宮、水戸の三方向に街道が分岐している。
宇都宮から日光へ至るのが正式な日光街道であり、小山から日光に至るのは脇街道と見なせばよいか。
思うのだが、江戸から小山を経て日光へ至るのが一番自然な道筋だと思う。
いやそれよりも、そもそも江戸から日光へ至るには日光御成道を通るのが一番自然だ。
よくわからん、もっと正確な地図が欲しい。
宇都宮から大田原、鳥山、日光などに至る道が極めて適当に描かれている。
奥州街道を整備するにあたって宇都宮をその主要な中継地点にしたというような事情ではなかろうか。

小山から水戸へ至るのもやはり脇街道だろう。

千住から船橋を経て佐倉まで佐倉街道が延びているが、
これは町人が成田山詣でに利用したために成田まで延びて成田街道などとも呼ばれる。

大山街道というのは複数あって紛らわしいのだが、世田谷を起点として矢倉沢往還を記入してみた。
大山道というのも要するに江戸で大山詣でが流行ったからそういう呼び名が定着したのにすぎない。
ついでに中原街道も記入してみる。

東海道五十三次というが江戸と京都は含まれてない。
品川から大津までだ。
歌川広重の絵は五十五枚ある。
これの影響で、江戸の起点を日本橋としたのではなかろうか。
あまり根拠のあるものとは思えない。
東海道の京都側の終点を三条大橋だなどとはあまり言わないのではないか。
広重は幕末の絵師なのでまあそのへんは適当で。

江戸から行徳、船橋などへは直接街道が延びてない。
みな千住方面に迂回しているが、つまり、江戸初期にここらは低湿地であったためだろう。

江戸の四宿と街道

元禄六年の江戸地図を見ていると、中山道は単に板橋道と書かれている。
板橋道は本郷追分で岩渕道と分かれている。
岩渕道というのは岩槻街道もしくは日光御成道(おなりみち)のことであり、
荒川を挟んで手前が岩渕宿、向こう岸が川口宿。
日光御成道は日光街道の脇街道となっているのだが、これがまた紛らわしい。
日光御成道と日光街道は幸手(さって)追分で合流する。
追分とは街道の分岐点のこと。
本街道と脇街道が分かれたり合流するところなど。

同じ地図で奥州街道は「千種海道」と書かれているがどうやらこれは千住街道という意味らしい。
[こちらの地図](http://onjweb.com/netbakumaz/edomap/Edo101a7.pdf)
では、千住街道は千住大橋を渡った先の千住宿(今の北千住)で日光道と奥州道と水戸道に分かれている。
が、wikipedia では奥州街道と日光街道は宇都宮までは共通だなどと書かれている。
おそらくここで日光道と呼ばれているのは厳密に言えば日光御成道のことなのだろう。

ついでに江戸四宿の内藤新宿、板橋宿、千住宿、品川宿も描き込んでみる。

こうしてみると、どう考えても、日本橋がすべての街道の起点になっている、
などとは言えないのである。
江戸城をぐるりと取り囲む門や見附がそれぞれの街道の起点となっている、
と考える方が自然であるし、
特に江戸城下では中山道や日光街道や水戸街道などという明確な認識はなくて、
岩渕道とか板橋道とか大山道とか甲州街道とか青梅街道などがあっただけなのだろう。
従って、青梅街道や甲州街道の起点は内藤新宿であり、
奥州街道や水戸街道の起点は千住であり、
東海道の起点は品川であり、
中山道や川越街道の起点は板橋である、
と考えるのもわかりやすいと思う。
なんでもかんでも日本橋を出発点にするという考え方はどこから出てきたのだろうかとふと疑問を持つ。

epub3.0

ワープロでルビを振ってからpubooのエディタにコピペするのが楽だなと思っていたのだが、
『新井白石』でそれをやったらフォントサイズがばらばらで困った。
そこで一からやり直すことにした。
すでにいろいろ追記してしまった後だったので、
ブラウザからテキストを一太郎2012承にコピペしようとしたのだが、改行が余計に入ったりしてあまり相性がよろしくない。そこでword2010にまずコピペして、それからフォントサイズや行間などを修正し、
puboo の編集画面から入力していく。

フォントはHGSゴシックM、フォントサイズは12にする。
これでコピペするとだいたいうまくいく。
ブラウザからwordにコピペするときに不要な半角空白文字が入るので置換ですべて削除する。
明朝体とか教科書体にすると、
『大塩平八郎』のように文字が汚くみえてしまうので、適当なゴシック体を使うことにした。

wordでは横書きにしておいた。
これを縦書きの一太郎にコピペして、epub 形式でエクスポートして
windows 用の epub3.0 reader である EAST espur reader で確認する。
または、google chrome 用の epub3.0 reader 拡張 readium で確認する。
firefox 用の epub reader プラグインは epub3.0に対応していない。
readium は epub リンクをクリックしただけでは開いてくれない。一度ダウンロードして、
iBooks のように書棚に追加してそれから読まなくてはならないのだ。
リンクを辿るとすぐ表示してくれる firefox の epubreader の方が仕様的には好きだ。

epub を Mac にコピーする。
espur についてくる kusamakura.epub もついでにコピーしておく。

iTunes の iBooks アプリは epub reader ではないらしい。謎の仕様。
iPad にも iBooks をインストールしておく。
iTunes のファイル→ライブラリ→ライブラリを追加(わかりにくい。App Store で有料で買う場合には親切でも、それ以外でコンテンツを追加しようとするとどこをどうすればいいか実にわかりにくい)、で epub を iTunes に追加する。
追加した epub を iTunes のデバイスのブックにコピーする。
そうすると iPad の iBooks でやっと epub が読めるようになる。

espur の kusamakura.epub は iBooks で読めた。
しかし、一太郎でエクスポートした epub は本文の1ページ目までしか読めない。
どうにもわからない。
一太郎のせいなのか iBooks のせいなのか。
espur や readium では問題なく読めるのだが。
どうも一太郎のせいのような気がしなくもないし、iBooks 独自仕様のせいのような気もする。

Mac で動く iBooks がなく epub も読めないという糞仕様にはあきれかえる。
とうぜん Windows の iTunes でも epub は読めないと思う。
いやそもそも Windows に iTunes をインストールしたくない。

Android の puboo アプリで epub を読もうとすると、aldiko という epub reader をインストールするようになっているのだが、この aldiko というのが、ルビにも縦書きにも対応してないとてもだめな子である。
私としてはもっとまともな epub3.0 reader が Android にも出て、
PCでもAndroidでもepubが自由にかつ安定して読めるような時代になってもらいたいものだ。
Apple の糞仕様には付き合う気力すらない。
できるだけ Mac とか iPad からは遠ざかりたい。

横書きではあるものの、puboo が生成する epub は iBooks でも普通に読める。
現時点では epub のエクスポーターとしてかなり実用性が高いと言える。

とりあえず[大塩平八郎](/~nagae/oshio.epub)を一太郎でepub3.0でエクスポートしたので確認してみてほしい。

御用提灯

ふと、御用提灯というのはほんとにあったのだろうか、
同心やら岡っ引やらが大勢あんなものを持って御用御用と言いながら捕り物をしたのであろうか、と疑問に思ったので、
つまりアレは時代劇にありがちなステレオタイプではないのかと思ったので、少し検索してみると、
なるほど青空文庫にいくつか事例があっていずれも戦前の時代小説。
その中で直木三十五の『[相馬の仇討](http://www.aozora.gr.jp/cards/000216/files/1716.html)』というごく短い話があるのだが、その四節目、少し長いが面白い語り口なのでまるごと引用すると、

 喜遊次が高座を降りて、楽屋――と云っても書割のうしろで坐る所も無い。碌に削りもしない白木を打交えた腰掛が二つばかり、腰を下して渋茶をすすっていると、

「喜遊次とは御前か」

 と背後からぴったり左手へ寄りそって立った男。田舎の同心だけは知っている。右手へ立つと抜討というやつを食うが、左手へ立つとそいつが利かない。

「ヘイ、手前」

「一寸外まで」

 と、云ったが蓆一枚撥ると外だ。四五人が御用提灯を一つ灯して立っているからはっとしたがままよと引かれる。何かのかかり合いだろう。真逆露見したのじゃあるまい。と思いながら役宅へつく。

 白洲――と云っても自い砂が敷いてあるとは限らない。赤土の庭へ茣蓙一枚、

「夜中ながら調べる。その方元佐々木九郎右衛門と申したであろうがな」

 さてはと気がついたが逃げはできない。白を切ってその上に又と、

「一向存じません」

 役人首を廻して、

「この男に相違ないか」

 と云うので、喜遊次ふと横を見ると、篝火の影から、

「確と相違御座りませぬ。九郎右衛門、よも見忘れまい。中川十内じや」

 と、中川十内。奉行又向直って、

「どうじゃ、その方にも見覚えがあろう」

「はっ」

 と云ったが、十内が「相違ない」と云ったのと、奉行が「どうじゃ、その方にも」と云ったのとは、間髪を容れない呼吸で畳み込まれた。それに応じて明快に、

「いいえ決して」

 とは中々云えない。誰でも「はッ」と出てしまう。その隙に又追かけて、

「縄打て」

 あざやかな手口、原町へ置いておくには惜しい役人と思ったが、敵討願と云うので、丁度来合せていた領主相馬弾正の御目附、石川甚太夫が自身で調べたのだ。

「原町」とはなんであろうか。よくわからんので冒頭から読み直すと「相馬の仇討」というのは戦前は有名な講談だったらしく、

> 「軍右衛門、廉直にして」、「九郎右衛門後に講釈師となる」
 廉直などと云う形容詞で書かれる男は大抵堅すぎて女にすかれない。武士であって後に講釈師にでも成ろうという心掛けの男、こんなのは浮気な女に時々すかれる。
 そこで、軍右衛門の女房は浮気者であったらしく、別腹の弟九郎右衛門といい仲に成ってしまった。寛延二年の暮の話である。

寛延というから吉宗の子家重が将軍の時代。
佐々木九郎右衛門は磐城国相馬郡中村藩の武士で軍右衛門の異母弟、軍右衛門の妻と密通した上に、その妻と逃げ軍右衛門の寝込みを襲って殺害する。
金も取ろうとしたが見つからないのでまごまごしていると、家臣の中川十内に見つかってしまい、逃げるが雨戸に刺さったままにした刀で身元がばれる。
十内は九州の佐柄(?)から博多、広島、大阪、京、江戸と探し回り、とうとう仙台で喜遊次の名で講釈師になっていたのを見つける。
九郎右衛門対軍右衛門の息子清十郎、加勢に中川十内、十内の弟弥五郎と一対三の試合となり、清十郎はめでたく仇を討つ、という話。
「原町」とは相馬郡原町村(現南相馬市)によるのだろう。
御用提灯を持っていたから町奉行か何かというわけではなく、相馬藩士というわけだ。
邸宅というのも、相馬中村藩邸か何か(仙台にまで藩邸があるか?)なのだろう。

で思うに、わざわざ御用提灯を振り回して御用御用と叫びながら岡っ引が捕り物をするはずもないと思う。
しないことはなかったかもしれないが、実際の捕り物というのはもっと地味だったのに違いない。
ルパン三世と銭形警部じゃあるまいし。
だが岡っ引が提灯振り回して御用御用と言っているほうが時代劇的にはわかりやすい。
しかし直木三十五はそうしない。そこが偉い。
さすがに直木賞の元になった人だ罠。
時代劇、時代小説だからと型にはまったものは書かなかった、ということではなかろうか。
直木賞というのはやはり彼のような時代小説をメインとするものなのだろうか。

菊池寛『[恩讐の彼方に](http://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/496_19866.html)』も主君の妾と不義密通して逆に主君を斬って逃げ、息子が日本中を探して仇討ちする、
というプロットであり、割と似ている。こういうのが戦前は流行っていたのだろうか。

宮将軍擁立説

徳川四代将軍家綱が嗣子なくして死去したときに、後継者としては、弟の綱吉、家綱より早く死んだ綱吉の兄で家綱の弟の綱重の子の綱豊、その他に、有栖川宮幸仁親王を宮将軍として迎えようという案もあったと徳川実記に書かれているという。

有栖川宮幸仁親王は家康の血を引いているというので、調べてみると、家康の次男・秀康は結城家に養子に出たが後に松平家に復帰、その息子・忠直は越前松平家(福井藩松平家)当主でかつその妻は二代将軍秀忠の娘・勝姫。忠直と勝姫の娘で秀忠の養女となった亀姫(寧子)は高松宮好仁親王の妃。好仁親王と亀姫の子・明子女王は後西天皇の女御で、有栖川宮幸仁親王はその皇子である。たしかに、男系・男系・女系・女系・男系と来て家康の五代後の子孫なのである。

ここで一番問題になると思われるのは徳川宗主である家綱の遺志なのだが、これがまったくはっきりしない。血筋で言えば家光に一番近い綱吉であると徳川光圀や堀田正俊が主張したという。長子相続の原則にのっとれば綱豊(後の家宣)であるが、綱豊の父綱重(家綱の弟、綱吉の兄)はすでに死去していた。有栖川宮幸仁親王を推したのは大老酒井忠清。酒井家は三河時代からの譜代であるが、その主張に根拠なしとは言えない。

鎌倉幕府が宮将軍を迎えたのは、頼朝の子孫が皆絶えてしまったからであるが、家康の子孫は、親王・内親王を含めてけっこういたようである。ただし家康の血を引いた天皇はいまだいなかったはずで、いたらもっと大問題になっていただろう。いずれにせよ、頼家の子や実朝の兄弟らが死んだときほど必然性はなかったと思う。だって御三家だっているわけだし。血統が絶える心配がまるでないのに、わざわざ宮家から将軍を呼ぶか。吉宗に決まるときにもそんな議論があったのだろうか。

ただ、天下国家のためには宮将軍の方が都合が良いという考え方もあり得る。戦国の世であればともかく、血の近い遠いよりも、いっそのこと皇族を将軍に迎えた方が良い、外様大名や浪人者などから文句の出ようも無い、一気に天下は静謐になる。たぶん遅かれ早かれ公武合体は成るのだから、今一気にやってしまえ、という考えはあったかもしれない。豊臣秀吉だってわざわざ摂家になったのだから、ゆくゆくはそうしたかったのに違いない。

堀田正俊が稲葉正休に刺殺されたのは、稲葉の個人的遺恨という説が有力だが、堀田と対立した綱吉(もしくはその側近の柳沢など)の陰謀であるという説もある。また、綱吉を擁立した堀田を恨んだ有栖川宮幸仁親王派か綱豊派、大老の酒井らなどということもあり得よう。事件の現場に居合わせた大久保忠朝・戸田忠昌・阿部正武などの老中らが、口封じのために稲葉と堀田を一度に始末したと考えられなくも無い。よくわからんねえ。

しかし puboo が重くて困る。最近はときどきつながらないし。

追記。

有栖川宮幸仁親王の母は亀姫の娘明子ではなく、清閑寺共子、彼女と徳川家に血のつながりは無い。明子女王は後西天皇の正室なので、幸仁が明子の養子になったということはあっただろう。明子が生んだのは八条宮長仁親王。長仁は21才で死んでしまったが、長仁が宮将軍になるという話は実際にあったかもしれないし、後西天皇が霊元天皇に譲位したのも、宮将軍を立てたくない後水尾院の意向があったかもしれない。長仁が死んだのは1675年。家綱が死んだのが 1680年。堀田正俊が殺されたのは1684年。

なお霊元院の娘が徳川家継の正室になるはずだったが家継が早死にして成らなかったということがあり、これは『将軍家の仲人』に書いておいた。

従甥

メモ。

稲葉正休は政吉の子。政吉は正勝の弟。
正則は正勝の子。正則の娘が堀田正俊の妻。
つまり、正則と正休はいとこである。
正休にとって正俊はいとこの義理の息子となる。
いとこの息子のことをいとこ甥というらしい。
ややこしい。

迷走する国道一号線

なんだかよくわからんのだが、たぶん、本来の東海道というのは、
江戸城本丸中雀門を出て、下乗橋を渡り、
桔梗門を出て、桜田門、虎ノ門を出て、増上寺の西を抜けて、
品川宿、川崎宿を経て、神奈川宿へ至るのが正しいと思う。

品川宿というのは今の京急線の北品川駅から青物市場駅辺りまでを言う。
品川駅の南にあるのに北品川駅とはこれいかに、
ということについてはググれば書いてあるからまあ良いとして。
ここは第一京浜国道15号線なんだよね。

国道1号線は三田で15号線にぶつかる寸前で急に西に折れる。
直進して15号線に合流する三田通りというのがあるのにもかかわらず。
ちょうど慶応大学の辺りである。
ほんとうの東海道はこの三田通りを直進して15号線に入り、泉岳寺を通り品川を通り神奈川に至るまでずっと15号線。
この三田通りの交差点に「札の辻」というのがある。
おそらく京都から下向した来た武家はここから左の道を取る。
大名行列とか。
しかし、農工商は右の道を通る。
東海道の分岐点だったのだろう。

1号線はどんどん西へそれて五反田へ。
ここから中原街道に分岐する。
しかし中原街道になりきるのではなく、今度は東に向きを変える。
そしてなぜか第二京浜と呼ばれるようになるのである。
第二京浜とはなんぞや。
戦前の昭和に開発された国道らしい。
第二京浜は横浜の手前で第一京浜に合流する。
これで迷走する国道一号線はやっと一本に落ち着く。

日本の道路行政はひどすぎる。
よくみんな迷わず道を走れるものである。

筋違

筋違はスジカイと読むらしい。
中山道は大手門から神田橋、筋違橋を過ぎて、まっすぐ行けば上野、右へいけば秋葉原、を左へ折れて、
湯島聖堂の裏を抜けて、本郷通りをすすむ。ほぼ国道17号線。

Inkscape の練習にと江戸の地図を描いていたのだが、
わからんことだらけだ。
川越素描にも同じ地図を掲載したが、
小さくてわからんと思うから、もう少し解像度の高いのをここに貼っておく。
SVGで公開しても良いのだが、もう少し考えさせてほしい。
こういう地図はたぶんいままでなかったと思う。
あって当然であるし、もしかするとどこか知られてないところにはあるのかもしれない。
しかし、あまり見かけない地図である。


* [goo江戸切り絵図](http://map.goo.ne.jp/history/area_top.html)
* [goo明治東京地図](http://map.goo.ne.jp/map.php?st=8)
* [”超検索”大江戸八百八町](http://onjweb.com/netbakumaz/edomap/edomap.html)
* [貴重資料画像データベース](http://metro.tokyo.opac.jp/tml/tpic/resprint_d/all/isbn001_0_30/isbn001_002_001.html)
* [1590年頃の江戸](http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/edo/edo1590.html)
* [東京の川と橋](http://hix05.com/rivers/river03/river032.html)
* [江戸城本丸図](http://www.max.hi-ho.ne.jp/khori/Edo_castle_plan.htm)

などを参考にしているのだが、微妙に食い違う。
現代の都心の地図の方がまだ信頼できるので、これを下敷きにして、
もともとどんなふうだったかを想像しながら描くしかない。

江戸は、道灌の時代と、北条氏が治めていた時代と、
家康以後の三段階で考えないとわからんと思う。
北条氏の時代は小田原と江戸を結ぶ道、矢倉沢往還とか、江戸時代には大山街道と言われるが、これが主たる街道であったから、赤坂が江戸城の表玄関であったはずだ。
この名残で赤坂見附は非常に厳戒であるし、また赤坂筋違橋というものもある。

おそらく、江戸城から浅草へ向かう浅草橋に対して、筋違橋と呼ばれるのは、
上野へ向かう道である。
浅草と上野は確かに間違いやすいから筋違いと呼んだのであろう。
ただ、どちらかと言えば、筋違いな方が奥州街道や中山道や川越街道に接続しているから重要であり、浅草方面は水戸に続くだけなのである。
なので、筋違いという言い方は北条氏の時代にさかのぼるのではなかろうかと私は推測してみる。

本丸周辺は非常にややこしい。
特に竹橋、雉子橋、一ツ橋、平川橋辺り。
やっとだいたいこんなふうだっただろうと推測できた。
また、西の丸の辺りもややこしい。
今の二重橋とかその手前の石橋、桜田門と呼ばれている辺りである。
現在の地形が大幅に変えられてないと考えるとだんだんすっきりわかってくる。
今も昔も桜田門から入って石橋を通り二重橋を通らないと西の丸には入れない。
シケインのようだ。

昔は蛤濠と天神濠がつながっていた。
京都の方から東海道を下ってくると、まず虎ノ門を通り、
次に桜田門を通り、それから桔梗門、別名内桜田門を通る。
すると大手門を通らずにすでに二の丸前に出るからそこから中雀門を通って本丸へ至る。

蛤濠と天神濠の間が埋まってしまったために三の丸の位置が非常に紛らわしいことになっている。つまり、二の丸と三の丸の間にはもともとは濠があり、
しかも三の丸は二の丸の北側、平川門の手前にあったのである。

しかし、現在、三の丸尚蔵館は大手門を入ったすぐにあり、
そのすぐ北側に宮内庁病院と三の丸跡地がある。二の丸の東側が旧三の丸だったかのように、昭文社の地図にも描かれているのだが、これは限りなく間違いに近い。
昭文社地図に「覆馬場」と描かれている辺りが本来の三の丸である。
古地図にはいずれも明確にそのように描かれている。

新橋というのは江戸にはいくつもあって、いずれも見附や門が付随してない。
中の橋と呼ばれる橋も似たようなもので、いくつもある。
もとからある橋と橋の間に架けたので中の橋というだけなのだろう。
今東京では新橋は固有名詞のようになっている。
日本橋から京橋を経て新橋まではいわゆる銀座であって、
都庁移転前までは東京のメインストリートでもあるのだが、
この新橋京橋日本橋というルートは家康的にはメインストリートであったはずがない。町人や商人が往来する通りなのである。
武士は、少なくとも大名行列は、上に書いたように、決して新橋は渡らなかっただろうと思う。
実際、芝の増上寺の西側を通るのが国道一号線、左側を通るのが京浜一号線(国道十五号線、銀座通り)である。
国道一号線は桜田通りとも言い、虎ノ門を過ぎて桜田門にぶつかると折れて大手町に続いている。
江戸時代の書店が発行した地図というのは、これは町人や商人に便利なように書かれていて、従って京浜一号線の方が太く詳しく書いてある。
武家は利用しなかったのだろう。

改めて思うのだが、江戸城にとっての生命線というのは、
平川門から出て一ツ橋河岸から道三堀を通って隅田川まで、さらに東へ小名木川を伸ばし、行徳の塩田まで至っている。このルートである。
そして隅田川と神田川と外堀を防衛戦とすれば、
通常の考え方で言えば落ちない。
少なくとも大坂の陣のようなことにはなり得ない。
案外黒船とも戦えたのではないかと思う。
しかし、幕府は江戸の町を焼かれるのを恐れたか。
あるいは、武力に訴えて抵抗することに懐疑的だったのか。
たぶん台場を築き始めて、
考えるにここで戦を始めるのはあまり賢くないってことに気付いたのだろう。

鎌倉や福原(一ノ谷)とは比較にならないほど強固な軍都になっている。
土木技術の発達のたまものだ。
また北京の紫禁城などと比べても防衛上遜色はないのではないか。
紫禁城には城壁はあっても濠がない。
たぶん江戸城の方が落としにくいだろうと思う。
紫禁城よりか江戸城の方が少し小さいようだが。


新聞

思うに、産経新聞あたりがいくら正論を吐こうと日本は変わらないけど、
読売が書き、さらにNHKが報道すれば、ああそれが今の世論かと、少し態度が変わってきて、
海外でも、ああ日本も今回ばかりは少し怒ってるみたいだな、と認識するらしいな。

読売ってやっぱすごいんだな。
影響力的に。
絶対購読しないけどな。