中島敦生誕百年

2009年が中島敦生誕100周年だったせいでこの年に中島敦に関するいろんな出版物が出ているようだ。
まったく知らんかった。

小谷野敦[中島敦殺人事件](http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E6%95%A6%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6-%E5%B0%8F%E8%B0%B7%E9%87%8E-%E6%95%A6/dp/4846009084)

> 中島敦生誕百年で賑わう文藝ジャーナリズムに対して、あんなに寡作でしかも元ネタのある小説をいくつか書いただけの中島敦がそれほど偉い作家なのかという疑問を小説の形で書いたもの。

まったくその通りだ。
寡作とまでは言えないと思うが(実際の活動期間を考えれば、たとえば綿矢りさのほうがずっと少ない。
むしろ中島敦は死ぬ直前のごく短い期間に大量の作品群を執筆している、といえる)、
冷静に世の中に知られている作品だけで言えば、
「元ネタのある小説をいくつか書いただけ」なのであって、
こんなへんてこりんなことはない。
もっといろんな人が指摘すべきだと思う。

[中島敦 生誕100年 永遠に越境する文学](http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E6%95%A6-KAWADE%E9%81%93%E3%81%AE%E6%89%8B%E5%B8%96/dp/4309740235/)
図書館でチラ見しただけなのだが、一番最初に書いてた人が、
中島敦の作品が最初に載ったのは国語の教科書ではなくて漢文の教科書であり、
「弟子」が「論語」の日本語訳として採録されていた、これは私の発見だ、などと書いている。
当時、GHQ的には漢文教育自体は悪くない、論語なら問題ないと判断し(そりゃそうだ、何しろ戦勝国の中には中国がいたのだから)、
戦前の教材が軒並みやられた中で中島敦だけがGHQチェックを通った、ということのようだ。
だいたい、私の予測通りだな。

問題は、GHQが居なくなってもずーっと高校の国語教師が中島敦の漢文調の小説「だけ」を愛好し、
そのため教科書会社がなかなか彼の作品の掲載をやめられなかった、と言ってることで、
おそらく国語教師は、中島敦の小説をバーンと高校生にぶつけて、生徒が皆ショックを受けるのが面白くてしかたなかったのであろう。
そこで教師が得意げに解説すると、ははあ、やっぱり高校の先生ってすごいんだなあ、と思うわけだ。
はっきり言って、わかってない。中島敦のことがわかってない。
そういうちゃらい目的に使われては中島敦がかわいそう。

もし中島敦の霊が今の国語教育を見たとしたら半ば嬉しくもあり、しかし半ば落胆するだろう。

さらに深読みすると、中島敦は、南洋庁の役人として、現地人の教科書を作るためにパラオに赴任している。
それと、一連の小説を書いている時期がぴたりと一致している。
もしかして、「弟子」「山月記」「李陵」などの、漢籍に由来する作品群は、もともと、教科書に載せる教材として書いたものなのではないか。
パラオの人々に日本語や漢文を学ばせる、初等国語はともかくとして、やや高等な国語を学ばせる。
たとえばパラオ人の中から内地でも働けるような高級官僚を育てようと。日本とパラオの橋渡しができるような。
それには古典の教養が必要だ。
しかし、いきなり古典を読ませてもわからんから、かみ砕いた現代語に直してみよう。
そういうつもりで書いたのではなかろうか、そんな気がしてならない。
それが戦後、そのまま日本人の国語教育に使われたのではあるまいか。

しかし、中島敦は言っている、「戦時中で、食料も満足に調達できなくなってきているのに、教科書だけ多少立派にしてもなんにもならない。
むしろ、昔どおりの生活のままにほうっておいた方が彼らはどれだけ幸せかわからない。」
そして中島敦は教科書作りにだんだんと興味を失ってしまう。

でまあ、そう仮定すると、文章だけやたらと立派で、大してオリジナリティのない短編作品をなぜいきなり彼が書き始めたのか、
すとんと腑に落ちるのである。

新井白石

新井白石は面白い人だとは思うんだけどね。

ヨワン・シローテも面白い人だから、新井白石と一緒に吉原にお忍びで遊びに行った、そこでやはりお忍びで来てた将軍家宣とばったりでくわした、なんて話を書きたいなと思ったんだが、キリスト教徒の世界では彼は殉教者か聖人のように扱われているらしいんだな。だからどうにもいじりにくい。ああいう世界とへんに関わりもって文句言われるのはやだ。

新井白石もいろんな人がもう書いてしまってるから、普通に書いてもうまみはないのよね。

後は、まったく架空の殉教者と架空の為政者とまったく架空の国をでっちあげてそこでファンタジーものにするとか。ファンタジーもそういう目的であれば書いてみたいよね。だが、新井白石とヨワンの話はできれば実名で書きたいよなあ。ファンタジー仕立てにしておもしろみが却って益す場合と、全然そこなわれてしまう場合とあると思うんだ。

メディアリテラシー

まあこんなことをぶつぶつ書いてもしょうがないのだろうが、NHKのニュースで、
手術前に点滴を打たなくても同じ成分の生理食塩水的なものを口から摂取してもよくなりましたというのをやっていた。
まあそれはよい。しかし、病院というところはたいていのばあい手術前だけでなくて、三日とか七日とかぶっとおしで点滴を打つものだ。
たまたま手術前に絶食して点滴する、それをしなくてよくなりましたというのは、
そうだな、一部の外科の患者だけのことであり(たとえば痔の手術などがその典型だろうか)、
それ以外の場合、長い長い闘病生活の中の一部に過ぎない。
むしろ、手術前は、食事を抜いて点滴を打って、
気持ちの切り替えをしたくらいでちょうど良いと思う。
手術というのはつまり電気メスなんかで体を切りひらくのであろう。
点滴の針を打つのとはわけが違う。

手術前に点滴を打つか打たないかというのは要するにそのくらい些細なことにすぎない。
まあお暇なら私の書いたもの([安藤レイ](http://p.booklog.jp/book/39448))でも読んでください。
闘病生活に関してはだいたい実話だから(笑)。

しかしそんなどうでも良いことをわざわざ大げさにものすごく画期的なことのようにデフォルメしてニュースにする。
なぜそんなことをするのか。だれがうれしいのか、そんなことをして。

たぶんこれを作ったプロデューサーは自分が入院したことがないのだろう。
私がインタビューを受けたら、きっと「そんな一度点滴をさすかささないかなんて誤差に過ぎませんよ。」
とでも答えるだろう。
しかし、そういう答えはニュース構成を破綻させるから没になり、私はめでたくテレビには映らないことになるだろう。

以前もなんか、癌か何かを早期発見するかしないかとかそんな話題があった。
見てる感じでは、まだ実験段階で、実用化されるには十年以上はかかりそうな話で、
しかも適用範囲がとても狭い。
そんなものをまるでプロジェクトXか何かのように報道していいのか。

NHKというのは国会で予算が組まれる国営放送なのだから、
他の民放などが利益のためにはやらせくらいは当たり前なのとは違って、
きちんと国民に対してメディアリテラシー教育を行う義務がある。
Aという「個人の感想」があればAとは反対のBという「個人の感想」を伝えねばならない。
しかし、報道に都合の良いAという意見だけを、皆同じ意見であるかのように作る。
そんな番組を作ってはいけない。

それから最近NHKは電波塔の話ばかり流しているが、地デジなんてものはそもそも不要であり、
電波なんて競売にして、それでも必要なやつが勝手に自分の金で電波塔を建てればよいのだ。
それをまるで国家プロジェクトでもあるかのように毎日のように報道しやがる。
やれ花見だやれ地域活性化だとか。
たかが電波塔に大騒ぎするなという意見、特に携帯電話などの業界の意見も採りあげるんならまだバランスが取れるかもしれんが、
まるで地デジや電波塔は国是でもあるかのような錯覚を起こさせる、プロパガンダ放送はやめるべきだ。

NHKがきちんと教育放送でメディアリテラシーの番組も流すならほめてやろう。
それも大学生向けとかではなく小学生くらいからばんばん教育するのだ。
そうすりゃ民放もずいぶん迷惑するだろうし、NHKの株はさらに上がると思うのだが。
だいたい国家や営利企業の言うことを鵜呑みにするから戦争になるのだ。
そういう大衆を扇動しかねないメディアがいかに危険かということをきちんと教育するのが、
不幸な戦争や事故を二度と起こさないようにするほんとうの方法だ。

ところで一部で話題になっている、[受託開発を振り返って](http://1hawk.blog13.fc2.com/blog-entry-116.html)
というネタだが、
思うに、
「コンシューマゲーム開発におけるモラル」(なんだそりゃ)というものがどんなものかは知らないが、

> 上司の機嫌一つでころころ指示内容は変わるし、実際スケジュールも容量も当初の契約の倍以上に膨れ上がりましたし、果てはそれを「フレキシブルな裁量」と胸を張る始末。

上司が仕様変更を認めちゃうんだから仕方ないよなあ。
自分ところの上司のせいだなそれは。
仕様変更を認めてあげるのもサービスのうちだと思ってるんだなその上司は。
じゃあ仕方ない。
商売の一つのやり方としてそんなサービスを提供するのは有りだ。
私はもちろん嫌だが。

> ライターにもよると思いますが、私は何百枚、何千枚という原稿を書いても、「この一言を伝えたかった」という一瞬のために物語を書いています。けれどその一言(どころかシーン丸々)、小学生が書いた作文のような稚拙な文体で、薄っぺらい内容に改悪されている箇所が多々ありました。

それは、ライターなんだからしょうがないんじゃないの。
「小学生が書いた作文のような稚拙な文体で、薄っぺらい内容に改悪」というのはしょせん主観に過ぎないし。
ていうか、プロのライターのくせにそんなくらいの妥協・打算も経験したことがないのか、
そのほうが不思議だ。

> 評価は気にする必要ありません。売れた本数が全てです」と豪語されて

それは、「豪語」ではないよな。
小学生みたいな文体にした方が受けるとプロデューサーが判断したまでではないのか。

いずれにしても、多少クリエイティブな業界にシンパシーを感じている人間にとっても、
共感は得られない話だなあと思った。
そんな話はいくらでもあるし。
こちとら毎日NHKのニュース見ててもいらいらしてんのに。
もうニュースすら見ない方がいいのかな精神の平安のためには。
まして民放のバラエティなんて見ようもんなら発狂しそうになる。

中島敦ですらあの程度の扱われ方しかしてない。
まして普通のライターや作家がどんな目にあってもおかしくないわな。

還暦

[ちきりん](http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20120401)が還暦とは、もうそんな年なんだと思ったが、
しかし、四月一日のエントリなので嘘かもしれない。

あ、やっぱり最後にネタバレが書いてある。

西洋紀聞

新井白石「西洋紀聞」は大して面白くなかった。
最初面白いかと思ったが、イタリア人(ローマ教皇領の人らしいから当時はローマ人、か)と新井白石が、
日本人のオランダ語の通訳を通して意思疎通をしているというところからして、まあむちゃだな。
しかも、オランダとローマは日本で言えば長崎と陸奥くらいだからなんとかこうとか通じるとか、まあ、
無茶だ罠。
オランダ人とドイツ人でも書き言葉くらいでしか通じないだろうし、
イタリア語とオランダ語では、よほど教養がある人じゃないと通じないだろうし
(両方ともラテン語でしゃべれるとかならわからんでもないが)、
しかも片方はオランダ語を学んだ日本人というにすぎない。

たぶん新井白石的には本人から聞いたというよりはいろいろ知識を日本人からも中国・朝鮮人からも聞いて補完したのだろうと思う。

「折りたく柴の記」の方は最初の方は自分の親や祖先の話ばかりで死ぬほどつまんなかったが、後半はやや面白いように思えた。
ゆっくりと、辛抱強く読むことは可能かも知れん。
「藩翰譜」もちらっとみたが、これは電話帳みたいなもんだから、何か目的を持って読まないと読めないだろう。
こういうのを読むくらいならば、「徳川実記」でも読んだほうがまだ面白いのではなかろうか。
「三河物語」を面白く読める人なら素質はあるかもしれん。

そういう意味では新井白石の書いたものの中では今も入手が容易な岩波文庫の「読史余論」が一番面白いと思われる。
が、これを面白いと思える人というのは頼山陽の「日本外史」と「日本政記」を読んで、
たとえば後三条天皇について新井白石はどう考えているかとかそれについて頼山陽はどう評価しているかとか、
そんなことに興味を持つひとくらいだろうなと思う。
「日本外史」はそれなりに面白い読み物(軍記物に近い)だが、「日本政記」と「読史余論」は純粋な「史論」
なので、それも江戸時代の儒学者が書いた史論だから、ま、人によるだろうな。

切支丹屋敷に幽閉され新井白石が吟味したイタリア人の名は、ヨワン・バッテイスタ・シローテ (ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ(Giovanni Battista Sidotti)と言い、ローマン、パライルモ人とあるが、
パライルモというのはパレルモのことのようだ。
パレルモはローマンに隷する地名、とあるが、当時のパレルモはシチリア王国の一部のはずであり、
シチリア王はスペイン・ハプスブルク家だったから、スペイン領だったはずだが、
スペイン・ハプスブルク家はまもなく断絶し継承戦争の結果スペイン・ブルボン家になるが、
シチリアはサヴォア家が領有することになった。ややこしい。
シローテが日本で捕まったときはスペイン継承戦争の真っ最中であり、シチリアの帰属ははっきりしてない。
少なくともローマ教皇領ではない。
その後サヴォア家はシチリアとサルディーニャをスペイン・ブルボン家と交換する。
以来、シチリアは両シチリア王国が滅びるまでスペイン・ブルボン家の分家が治めることになる。

シチリア王国の公用語はラテン語とシチリア語であり、シチリア語はイタリア語の方言というよりは、
ロマンス系の姉妹言語という位置づけらしい。
イタリア語で「ジョヴァンニ」と言い、ラテン語ではおそらく「ヨハネス」とかで、
シチリア語では「ヨワン (Jovan?)」と言った可能性はあるだろう。
新井白石の聞き違いではあるまい。
「ウォアン」「ギョワン」などとも聞こえると書いてある。
「ギョワン」が一番イタリア語の「ジョヴァンニ」に近いなあ。
パレルモはシチリア語では「パレルム」または「パリエンム」などと言うらしい。

思うに、本人が「ヨワン・シローテ」と名乗っているのだから、彼が現在から見ればイタリア人だからという理由で、
イタリア語で「ジョヴァンニ・シドッチ」と言う名前で呼ぶのはどうかと思う。
当時はそもそもイタリアという国はなかったのだし。
同じことで、シチリア王国の始祖をルッジェーロなどと言うが、彼はもともとノルマン人なのだから、
ノルド語風に、ロジェール、などと呼ぶのが正しいのではないのか。
同じことは、バルドヴィンをフランス語風にボードワンと呼ぶのも同じ。
ヨーロッパの国々がそれぞれの国の呼び名で呼ぶのは間違いではないとして、
日本人がたまたま今のヨーロッパのそれぞれの国の言葉に合わせるのはおかしい。

ガス抜きとしての中島敦

中島敦は難解だと言われている。
山月記、名人伝、弟子、李陵。
確かに漢文調で、難しい。少なくとも高校の国語教科書で初めて読まされると、
とてつもなく高度で高次元な文学のようにみえる。
中島敦はしかし戦争中のごく短い期間しか小説を書かなかった。
しかも、中島敦の作品は上の四つ以外はほとんど読まれることがない。
なぜかというに、上記四作品は戦後の国語教科書で好んで採録されたからだ。

私自身中島敦は大好きだった。
高校のとき、夏休みの読書感想文の宿題は毎年「李陵」を書いたくらいだ。
今五十近くになって読み返すと確かに面白いが、しかしめちゃくちゃ面白いというわけではない。
中島敦がこの小説を書いたのは三十三だ。
錯覚かもしれないがそう思える年になったことを素直に喜ぶべきなのだろう。

思うに、私はもともと(今そうであるように)本居宣長や頼山陽のような、江戸の学者が書くようなものが好きだったのだろう。
だが、本居宣長や頼山陽などは、戦後民主主義教育ではほとんど完璧に隠蔽された。
何かものすごいものが隠蔽されているのを感じる。
オーラが漏れ出てくるからだ。
しかしその実態は、大人たちが懸命に隠しているので子供の目には触れない。
プラトンのイデア論ではないが、私はそのオーラの発信源が何か、その実像は何かについて知りたいと思った。
たとえば小室直樹に惹かれたのはそのためだったと思う。

戦前の右翼教育を完全に封じ込めた日教組は、しかし、そこに不自然な細工が残るのが気に入らなかった。
戦前の文学でも、戦時中の文学でも、良い物はよい。漢文教育にも良いものはある。
戦前教育を完全に葬り去ると漢文教育自体が成り立たなくなる。それは困る。
そこで、比較的人畜無害な中島敦の小説が選ばれた。
中国の歴史書や伝奇小説を素材にして、そのまま現代小説に仕立てたたぐいのものだ。
子供たちに容赦のない漢文調の文章を学ばせるために。
つまりもっと露骨な言い方をすれば、戦後の教科書に掲載されている中島敦の小説というのは、
戦前の日本外史や太平記などの代用なのだ。
私自身中島敦の作品に親しまなければ日本外史や太平記にたどり着くのにもっと時間を要しただろう。
しかし、中島敦を経ずにいきなり日本外史や太平記を学んだ方が、話はずっと速かったはずだ。
もし中島敦の作品がそれ以外の意味においても優れているのであれば、
かの教科書の作品以外のいろいろな小説も好まれたはずだ。

中島敦の小説は戦争の真っ最中に書かれたものであるが、その時代精神は、「山月記」などでは極めて希釈されてはいて、ほとんど感じ取ることができない。

彼の作品がなぜ「教科書にある」のか、なぜ「古典として学ばねばならない」のか、その真の意味が教師から説明されることはない。
多くの教師も、そもそもそんな意味を知りもしなかっただろう。
そして今日、単なる惰性で中島敦は読み続けられている。
かつてそんな企てが教科書出版業界であったことも忘れられてしまったのだろう。

「墨攻」で中島敦賞をもらった酒見賢一が中島敦について書いていた。
群ようこも書いていた。
中島敦はよくわからんと。全集を読むとますますわからなくなると。
いったい中島敦という人はなんなのかと。
つまり中島敦はその全著作の中のたまたま漢文調の堅苦しい小説だけに需要があった。
ほかのほんわかとしたエッセイみたいな小説や、スチーブンソンの宝島みたいなのや、
エジプトやメソポタミアのファンタジー小説みたいなのや、そんなのは無視された。

それが中島敦の謎の真相だ。

中國哲學書電子化計劃

> 朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

教育勅語だが、
たとえば中文版wikipedia に
[教育敕語](http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E8%82%B2%E6%95%95%E8%AA%9E)
なるものがあり、漢文訓読文を漢文に戻しているのだが、

> 朕惟我皇祖皇宗,肇國宏遠,樹德深厚,我臣民克忠克孝,億兆一心,世濟其美。此我國體之精華,而教育之淵源,亦實存乎此。爾臣民孝于父母,友于兄弟,夫婦相和,朋友相信,恭儉持己,博愛及衆,修學習業,以啓發智能,成就德器,進廣公益,開世務,常重國憲、遵國法,一旦緩急,則義勇奉公,以扶翼天壤無窮之皇運。如是者,不獨為朕忠良臣民,又足以顯彰爾祖先之遺風矣。斯道也,實我皇祖皇宗之遺訓,而子孫臣民之所當遵守,通諸古今而不謬,施諸中外而不悖。朕與爾臣民。俱拳拳服膺。庶幾咸一其德。

これの「孝于父母、友于兄弟」なんて言い方があるんかいなと思い、
[中國哲學書電子化計劃](http://ctext.org/zh)
で調べてみる。
すると、劉向という前漢の学者が著した「說苑」の中の「談叢」という項目で

> 孝於父母,信於交友,十步之澤,必有香草;十室之邑,必有忠士。

などと言ってることがわかる。おそらくこの「孝於父母,信於交友」が「孝于父母,朋友相信」の原型なんだろうなとわかる。ここで驚くべきことは「孝於父母」と「孝于父母」は助字が微妙に違うのに検索できているということだ。また、董仲舒が

> 君者將使民以孝於父母,順於長老,守丘墓,承宗廟,世世祀其先。

などと言っている。これも教育勅語的なフレーズだ。最後の部分など「世世厥ノ美ヲ濟セルハ」を思わせる。

というわけで、なんて便利なんだろうなと思ってしまった。「友于兄弟」についても、論語で

> 或謂孔子曰:「子奚不為政?」子曰:「云:『孝乎惟孝、友于兄弟,施於有政。』是亦為政,奚其為為政?

と出てくることがわかる。

軍人勅諭などは日本外史から来ているようだが。

いやいや、調べてみたくなったのは「亦實存乎此」の箇所だった。
漢文的には「実在此処」とかではないのだろうか。

雅葉和歌集

玉風和歌集というのをやっていたが、
[雅葉和歌集](/?page_id=4504)という名前に改めた。

玉風和歌集というのは玉葉和歌集と風雅和歌集を合わせた名前なのだが、あまりに露骨なので、
それから、できれば万葉集にちなんで「*葉和歌集」という名前にしたいと思い始めた。

それで「雅びな言の葉を集めた和歌集」という意味で「雅葉和歌集」という名前にしたのだが、
幸いまだこの名前は使われてないように思われる。
順序は逆になるがまたもや風雅集と玉葉集を合わせた名前になってしまったが、まあいいか。
なにしろ室町末期から江戸末期までの歌というのは、めちゃくちゃたくさんあって困るが、
とりあえず、いいやつは全部入れる勢いでやってみる。

古文漢文

現代日本では古文漢文は相当に衰えてしまっており、受験産業以外にこの分野を支える社会的需要がない、という状況だ。
しかし、あまりにも長い間注目されなかったせいかもしれないが、調べれば調べるほど、
最新の研究による定説の刷新が待たれている分野であると、考えざるをえない。

思うに、江戸時代の漢詩などを読むに、必ずしも、唐宋やそれ以前の古典の用例ではなくて、
むしろ、現代中国語で解釈した方がわかりよいものが、だいぶ含まれていることを感じる。
そりゃそうで、江戸時代といえど、清や朝鮮との交流は、それなりに活発に行われていたのだ。
漢学者や儒学者らは、訓詁学や古文辞学や詩文などばかりもてあそんでいたのではなく、
外交官として、「生の中国語」を駆使して海外事情を学んでいた、はずだ。

詩文がもてあそばれているように思われるのは単に詩文のほうが教材としておもしろみがあったからだろう。
わざわざつまらない勉強をするよりは面白く学んだ方が身につくに決まっている。
それは今の学問となんら変わらない。
詩文や古代の聖賢の話ばかりに没入してしまうのは、儒官としては本末転倒だっただろう。
民間の儒学者にしても、できるだけたくさん弟子は欲しいから、できるだけおもしろおかしい授業をしたのに違いない。
江戸時代は浮き世離れしてたから古文漢文などを学んでいた、はずがない。
実際旗本や与力らの仕事など調べてみると彼らの定員は少なく仕事は多い。
徴税や取締、警備、訴訟、その他さまざまな行政、江戸時代のお役人だからのんびりしてたなどという観念はまったく間違っている。

江戸時代を通じて関東の沼沢地のほとんどは干拓されてしまった。
これらの治水工事にも膨大な労力を要しただろう。
桑や茶などの換金作物が栽培されるようになり、これらが維新時の産業革命の立ち上げに大きく寄与した。
日本には多くはなかったが資本の原始蓄積があったし、高度に発達した職能組織や都市生活環境、貨幣経済もすでに用意されていた。
それを用意したのが徳川三百年の太平だ。
学問も大いに発展した。

現代日本だってもう七十年近く戦争をせず太平を謳歌しているのだ。
もし江戸時代を平和と停滞の期間とするなら戦後日本だって同じことだ。
たまたま学園紛争の真っ最中に書かれた文章を読むと、今は江戸時代と違って、
時代が極めて急速に変化していて、江戸時代の某らのようにゆったりとした時間の中で学問のできる時代ではない、
などと書いているが、それは大嘘だ。
学園紛争など社会変化全体の中でどれほどのものだというのだ。
江戸時代にだってそのくらいの変革は日常茶飯事的に起きていただろう。
浮き世離れしているのは戦後の学者のほうだろう。

江戸時代というのはとかく水戸黄門シリーズのようにおんなじことを飽きもせず三百年間繰り返してきたのだ、
永遠の過去だと思われがちだが、それは極めてよろしくない見方だ。
だが、古典文学の解釈というのはとかくそうなりがちで、
古典の用例によって古典を解釈しようとする。
聖賢を学ぶものもやはり聖賢であろうと思いたがる。
実際にはいつの時代にも聖賢などというものはいなかった。
酒は飲むし吉原で遊びもする。
金も権力もほしがる。
そういうふうにみなければ古文漢文などわかるはずがない。

江戸時代には共通語がなかったからいきおい古文が共通語というか書き言葉代わりになった。
しかし、新しい思想は新しい単語で表されたのであって、それは、比較的保守的な詩文にも、
徐々に浸透していったはずだ。
古いものがいつまでも古いままでいるのではない。
たとえば明治天皇の御製など今読むと古めかしいが当時としては非常に斬新なものだったのだろう。

むろん、学問とは道徳教育のため、という側面もあっただろう。
しかし、人間道徳ばかりじゃない。それは今も昔も同じはずだ。