推敲

文章は推敲すればするほど良くなるってことがわかってきて、それは良いことなのだが、例えば31字しかない和歌と同じてまひまをかけて10万字の小説を推敲するととんでもない時間がかかることになるし、『エウメネス』なんかは軽く50万字以上あるから、ちゃんと推敲するとたぶん死ぬまでやっても終わらない。私が本格的にものを書き始めたのは40代半ばくらいだが、どんなに少なく見積もっても100万字以上書いているから、それを全部推敲して死ぬことは不可能だ。それに60才を過ぎるとだんだん頭がぼけてくるからなまじ推敲しないでもとのままにしておいたほうがましだ、という限界点がいずれきてしまう。80才の爺さんが推敲なんかしたらかえって作品を悪くしてしまう。

今から見直すと20代に詠んだ和歌にも良いものはある。20代に思いついたアルゴリズムにも良いものはある。しかし文章は今見るとどれもダメだ。40代に投稿した小説なんかを今見ると全然ダメで直しようがない。

『虚構の歌人』はしかしまあ割とあの年にしてはよく書けたほうではないか。『読めば読むほどわからなくなる本居宣長』は今見ると全然ダメだ。構成からやりなおさなきゃダメだ。宣長について全部一から書き直したくなるが、そんなことをしてたらあっという間に人生が終わってしまう。

『虚構の歌人』は結局そうとうに推敲したのがよかったのだと思う。一つの作品をどれくらいの時間をかけて書いて削って書き足してまた削って、推敲しててまひまをかけたかである程度良さは決まってくると思う。『宣長』は書いて書きっぱなしだから良くなかった。

もし私の本が読まれるようなことがあったら『エウメネス』と『関白戦記』くらいはちゃんと推敲しなおして出し直したいな。

『民葉和歌集』なんかは今見るとまったく出来損ないで、どうしようもない。手の付けようがない。

もちろんこういうブログなんかは書きっぱなしで良いんだよ。じゃなきゃ書けないよ。

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最近ツイッター見たり書いたりしてるとすごくイライラするようになってきたので、もうやめようかと思っている。ツイートしたデータはダウンロードして取っておくとして、現状のまま放置しつつ、そのうちフェードアウトしようかなと。facebookとかカクヨムとかハテナとかいろいろSNSに手を出したもののどれも気に入らないので、サーバー再開したついでにここのブログにすべて集約しようかなと思っている。

昔は(高校生の頃とか)マスコミって馬鹿だなって思っていたが、一般人もマスコミと同じことができるツールを与えられるとマスコミとまったく同じことをやり始めた。要するにマスコミが馬鹿なのではなく人間が馬鹿なのである、ということを再認識した。

土屋文明が、俳句や和歌は誰でも鑑賞しまた自分も作るが、映画はそうはいかないと『短歌入門』で言っているが、今や映画だろうとなんだろうと自分で作ってユーチューブで公開できる時代となり、いまさら俳句や短歌なんぞという辛気くさい媒体で自己表現しようとする者など昭和生まれの年寄りだけになってしまった。

青空文庫を最近非常に良く読むのだが、世の中はずいぶんいろんな文人がいて、中には面白いことを書く人もいるんだなとすごく感心したりもするが、一方で九割以上の文人はゴミだとしか思えない。共通一次やセンター試験の現国の問題がわけわからないし面白くもなんともないと思っていたが今もまったく同じ感想しか持たない。なんで世の中の人たちはあんなものを好き好んで読むのだろうか。

魯山人の書いた食べ物や骨董の蘊蓄とか、谷崎潤一郎の陰影礼賛なんかは面白いなと思ってはいたが、ああいうのよりも、夢野久作が書いた随筆などがすごく面白いと感じる。他にも専門の文筆家ではない人、例えば画家などが書いたものですごく面白いものがあったりして、それについては今はまだ書かずそのうち書こうと思うが、非常に不思議な気がする。中学とか高校生くらいまでは内村鑑三とか小室直樹などを面白がって読んでいたが彼らがものを書いていたのより自分が年を取ってしまって改めて読んでみると、内村鑑三なんかは科学者ではないから当たり前なのだが、科学的にかなりあやしげなことを書いている。小室直樹も当時としてはすごかったが、今読むとまあこんなものかなと思う。

現代の人だとたとえば山形浩生は面白いが、しかし私とは専門性がかなり離れているので、ある程度までしか共感できない。

誰が書いたものがつまらないかといえば、たとえば折口信夫とか、寺田寅彦なんかはまったく面白くない。昔は面白かったのかもしれないが、今改めて読むようなものではないと思う。海野十三とか中谷宇吉郎とか宮本百合子とか和辻哲郎とか。全然面白くない。小林秀雄の『本居宣長』はまあ面白いんだが、中根道幸の『宣長さん』などと比べてしまうとかなり落ちる。八時だよ全員集合を今見るとつまらないと同じで、そういう見方をすると昔のものはだいたいにおいてつまらない。まだ宣長の『玉勝間』や白石の『折り焚く柴の記』など読んだ方が楽しい。

コロナ

コロナだけど、社会生活に制約かけられたりとか、社内アナウンスがうるさいとか、仕事増やされたりとか、そういうのがなけりゃ別に好きなやつは好きなだけ騒げばいいし、好きなだけワクチン打てば良い。私に関係なきゃ知ったこっちゃない。

SNSやメディアで騒いでるの、はまた以前のような状態に戻らないかなと不安になるだけで、無視することにしてる。でも天下の公共放送がいつまでも不安を煽ってるのはいつかきっちり責任取らせたいと強く願う。騒げば騒ぐほど墓穴を掘ってるだけだが、あとでどうせ知らん顔するに違いない。

風邪引いたら家で寝てろよ。

いまだに風邪引いてるだけなのにコロナだとか騒いで、まあ風邪なんだから自宅療養したきゃすりゃいいけどさ。無症状なのにコロナ陽性とか濃厚接触者とかいまさらなんなんだよ。そうやって騒ぐやつがいるから医療逼迫するんだよ。おまえらが大騒ぎするから外来受付の電話全然つながらないじゃん。迷惑なんだよ。学級閉鎖とかなんなんだよそれ必要なの?老人ホームもいまだに親族なのに会えないとかアホじゃないの。家族が面会しようとしまいと肺炎にかかるひとはかかるし肺炎で死ぬときには死ぬんだよ。それまで家族に会えないほうがおかしいだろ。

現代短歌

今、現代短歌と言っているものは、現代口語で五七五七七になっているだけで、別に都々逸でも良いわけだ。七七七五で作っても五七五七七で作っても大差あるまい。

今様みたいに七五七五七五・・・で作っても同じだろう。

現代口語だけどたまたま五七五七七にあてはまっているものを短歌と言ってありがたがっているわけだが、そんなものにいったいどんな意味があるんだろうか。

都々逸は別に口語でも文語でも古語でも現代語でも好きなように混ぜて詠めば良いだけだから、わざわざ現代短歌なんか詠む必要ないじゃないか、みんな都々逸詠めばいいじゃないかと思う。

私はときどき都々逸も詠むが、まあふつうで、別に面白くもなんともない。ただの短い定型詩だ。

だれか、都々逸ではなくあえて短歌で詠まなきゃならない理由を説明できる人なんているんだろうか。あきらかに都々逸のほうが短歌より詠みやすいし、現代語にあっているし、便利だと思う。

今書いている本

今書いているものなのだけど、良いものを書いている手応えはあるのだが、まったく売れる気がしない。

私が若い頃書かせてもらった本は、共著で、しかもほとんど全部私が一人で書いたにもかかわらず私が主たる著者ではなかった。いわゆる搾取だ。今懲罰委員会にかければ絶対処罰される案件だが、大昔のことだし、昭和だし、いまさらどうにもならんし、見る人が見ればわかることだからどうでも良いといえば良い。

その後にも手伝いで共著で書いた本があるが、くだらないどうでも良い本だったのでどうでもよい。

単著で書いたのは「田中紀峰」名義で書いたのが最初だ。「定家」と「シュピリ」。書きたいものを書かせてもらったので感謝している。どちらもだいたいどんな人が読んでどんな反応があるかは予測が付いたし、実際そうだったし、どちらもそこそこ売れて、でも初版絶版で、死んだ後も一応著書が残せたのは良かった。

だが今度書く本はちと違う。

もう死んだ後に残すための本は書いたのである。それにkindleでもたくさん書いているからこれらも死んだ後まで残るだろうから、それはそれで良い。できればkindle本も紙の本で出して国会図書館に献本したほうが後世に残りやすいとは思うがそこまでしなくても残るだろう。

今度書く本ももちろん死んだ後に残したいから書いているのだが、そうした本はすでに2冊書いたから今度は売れる本を書こうと思った。売れるというより、世の中に認知される本を書こうと思った。

一番あり得るのは今度出す本も前に出した本と同じで読む人は読むが一般人は読まないか、読んでも理解できないかだろう。

だがもしかすると売れるかもしれない。最低1万部くらい、2版が出るとなると話が違ってくる。売れるのなら次の本も出すかという話になってくるからだ。書けばいくらでも出してくれるというのであればもちろん私はうれしい。少なくとも定年後のひまつぶしにはなる。

ものすごく売れてくれれば今の仕事を早期退職して執筆活動に専念したいくらいだ。とにかく今の仕事には何の興味もなけりゃやりがいもない。というよりとっくの昔にやりたいことはやり尽くしてしまい今は飽きた。人生は短いんだから、いろんなことを試して死にたい。同じ仕事に縛られたくない。

いや、そんなことが書きたかったわけじゃなかった。今書いている本がもし売れたらそれなりに物議を醸すだろうと思う。批判されたり、悪目立ちする可能性もある。それは、売れる本を書いたら多かれ少なかれ起きる現象なんだろうけど、ちょっと怖い気がする。

創作活動

夜寝ている間に、部屋の中にちらばった小銭を集める夢を見て、とてもたのしいのだが途中で夢であることに気づいて急につまらなくなる。ビデオゲームをやることも似たようなもので、別にゲームの中でコインを集めたからと言ってどうということは無いわけだ。

夢の中で小説を書いたり作曲をしたりそういう創作活動をすることは不可能だ。ついこないだも夢の中で自分がいる場所の地図を書いたのだが、書いた地図がどんどん変わっていき、周りの間取りもどんどん変わっていくから、地図を書く意味がない。登場人物も変わる。意味がない。

創作活動に一番良いのは目が覚めた後の数時間、あるいは風呂に入っている間など、頭が冴えているときだ。

酒を飲んでいて良いものができるのは歌を詠むときくらいだ。歌もしかししらふできちんと詠むほうが良い歌はできる。酒を飲んで酔っ払ってあとで勝手に歌ができあがっているのは少し面白いがそれだけのことだ。夢も同じなのかもしれない。夢を見ている途中で書き記したことが起きた後に残っていると面白いものもあるのかもしれない。今の科学ではそんなことは不可能だが。

やる必要の無いことをやっている。

そろそろ60才になり、65才の定年まであともう少しとなった。

この年になって今更あくせくとし、新しいことを覚えなくても良いのではないかと思う。むしろ今やっていることで、どうせ後に残らないものは順番にやめていくくらいでちょうど良いと思う。

20代の頃にやった仕事、20代の頃に詠んだ歌でも、良いものはある。最近始めたことでも意味の無いことは、人生の無駄だからできるだけ早くやめたほうがよい。

昔読んで面白かった本も今読むとあまりにひどいもの、中身がまったく無いと思われるものがある。もちろんそれらの本は私の肥やしになっており、それらの本を読んだ結果今の私の考えがある。役には立ったわけだが、実に悲しい気持ちになる。

今私が本業でやっている仕事、つまり給料をもらってやっている仕事だが、世の中の役に立ってなくはないとは思うけれど、私が定年で辞め、私が死んだ後には何の価値もない仕事だ。要するに、給料をもらえるからやっている仕事、職場で必要とされているから役目としてこなしている仕事だ。私の後継者など不要だし、何も残すことはない。定年がくれば仕事場から私がいなくなるだけのことだ。仮に私の仕事を誰かが引き継ぐとしても私の代わりはいくらでもいる。代わりのいる仕事をわざわざ私がやる必要はない。

すでに私がやったほうがやらないよりは良い仕事というのはやり終えているので、死ぬまで何もやらなくても良いのだけど、収入はないよりあったほうがよく、生きていられるなら長く生きたほうが良いから働いている。ただそれだけだ。そして、生きているうちに自分の理解者を増やして、それらの人たちから何かフィードバックをもらって、自分の仕事の完成度をもう少しだけ高めたいなという、あんまりプライオリティの高くない仕事に関心がいってしまうのが困る。

文章は練れば練るほど良くなるから、ちまちまいじっているが、しかしこれとてやらなきゃやらなくても済むことだ。

万年筆

万年筆はやはりある程度高いものを買わなければダメだ。1000円以下の安いものだとキャップの先が取れてしまったりする。万年筆のキャップはちゃんと閉まらないとペン先が乾燥して書けなくなってしまう。

それからシースルー(スケルトン)のやつはかわいいけど、良いものは少ない。たぶん買わない方が良い。

カートリッジ式のほうが絶対実用的で経済的なんだけど、やはりわざわざ万年筆を使うのであれば、インクボトルから吸い込むやつが欲しい。ここはどうしても譲れない。

そうするとだいたい、店頭の実売価格が3000円くらいのやつで、シンプルで、ぴったりキャップが閉まるタイプのものを買いたくなる。逆に1万円以上するような万年筆は偉そうで好きになれない。

おなじ理屈で、あんまり安いmidiキーボードもすぐ壊れるからダメだ。たぶんオモチャと楽器では設計思想が違うんだろう。安いやつは結局楽器として作られているのではなく子供のオモチャとして作られていて、だからUSBのインターフェイスとかスイッチとかセンサーに金がかかってなくてすぐにダメになってしまうんだろう。

パソコンのキーボードもmidiキーボードもどちらもUSB接続でキーがたくさんついてるものなのに、パソコンのキーボードがそんな頻繁に壊れたという話をきいたことも実際見たこともない。

女性専用空間

駅から降りてすぐに銀行があるというのは、まあしかたないと思う。飲食店があるのも良い。しかし化粧品とか服とか高級ブランド品の店がありがちなのはどうだろうか。私は駅前にはスーパーとか生鮮食料品や雑貨などを売る店があればよく、ブランド品の店などは駅から離れたところにしか建てられないように規制すべきじゃないかとさえ思う。その方が社会的コスト(移動距離とか時間とか)を節約できて良いはずなのに。

女性が「女性専用空間」を守りたいという運動をするのは良いとして、そこにある本質的問題ってのは、まさに、女性だけに社会的リソースが使われすぎているっていうことなはずなんで、そこをなんとかクリアしてもらいたいと思うね。

江戸時代だとそもそも銭湯は混浴だったし、明治以降も『伊豆の踊子』なんか読んでると、別に男と女がきっぱりわかれて入浴している感じではない。公衆便所というものも昔は非常に不潔だったのが、バブル期に急にきれいになった印象がある。

ホテルとか高級百貨店が、きれいなトイレを、特に女子に対して提供するというのは別に良いとして、公共の空間にトイレを置くときは、まず第一にその面積をどうシェアするのかっていうことが問題になると思う。私のイメージだと男はトイレに行っても済ませることを済ませてさっさと立ち去るんだが、女子トイレには小便器も無いし、化粧したり、長くいすぎて面積も要するように思えるんだよね。

でも地方自治体や公共交通会社にしてみれば、いまやそんな女子にばかりリソースを割きたくないんだと思うんだよ。多目的トイレを作るにしても、男子トイレか女子トイレを削らないと新しく作れないとか、とにかく女子トイレにやたらと費用がかかるってことが、今起きてるほんとうの問題なんじゃないの。トランスジェンダーとかよりもさ。女子トイレにできる長蛇の列。あまりの回転率の悪さ。事実なんだよね。女が男より社会的リソースをたくさん使っているという、隠しようのない、紛れもない事実。

でも政治家とか自治体とか鉄道会社ってそういうことを直接は言いたがらないじゃん。女はトイレ長いんだよって言えば女性差別だって言われる。女は話長いんだよって言った政治家みたいにね。女性の側もそういう問題があることは知ってるはずなのに敢えて議論の場に持ち出さないじゃん。マイナンバーカードだってそうだよね。社会のリソースを使っているのならその社会のルールなりマナーなり守って、リソースをシェアしよう、どこまでなら許容範囲なのって議論を直接すりゃいいだけじゃないのかな。