小説は読まれない

今回『エウメネス6』を出してみて思ったのだが、私としては話を完結させねばならないという半ば義務感と、そろそろ決着を付けなきゃいつまでもきりがないという気持ちもあって書いたわけだが、待ち望んでいた人は誰もおらず、読みたがる人もいなかった、ということがほぼ明らかになった。
もちろんきちんと広報したわけではないので、もしかしたら第1巻から5巻まで買っていて、6巻が出れば買おうと思っていたがまだ気づいてないという人もわずかにはいるのかもしれない。そのうち気づいて買ってくれる人がいるかもしれない。でもまあそういう人は稀であろう。

これまで5巻まとめて買ってくれた人はたぶん「積ん読」で買ってくれたのか、あるいは、『ヒストリエ』の参考文献として必要な箇所が読めればよいと思ってまとめ買いしたのか、だいたいそんなところだと思う。

50万字の小説をわざわざ読む人はほとんどいないと思う。よほど話題になって読んでおかなきゃいけないかなと思って読む人はそりゃいるだろう。しかし私の場合はほとんど無名だ。50万字ちゃんと読む人がいるとはとても思えない。

認証サーバー。unity、blender、unreal、音楽ソフトなど。

cubase の elincencer だがときどきサーバーが混み合ってて認証されない。dawとかasioとかそもそも音楽関係のソフトって音が出ないとかうまく動かないとか開発が止まってて古すぎるとかいろいろストレスフルなところがある。そのうえ、認証サーバーが非力とかで、かなり精神力を削られるところがある。

この認証系のエラーメッセージ(ネットワーク接続を確認しろとか、サーバーがメンテナンス中かもしれません)ってのが出るのは、他の unreal とか unity なんかもそうだが、proxy や firewall のせいじゃなきゃたいていは認証サーバーが混み合っているせいだ。認証をかけてない普通のサーバーはだいたいいつも回線容量とかアクセス数とかに余裕があってさくさくダウンロードもできる。しかし認証サーバーはたぶん常にそういうサービスを供給するところが不足していてそれゆえに高価でだから業者もケチってるんだろうな。

github をブログ代わりに使おうかなどとも考えた。不可能ではないんだが、検索が非力で過去記事をスキャンするとかできなさそうなんで、結局使えそうにないので、またはてなに書くことにした。

音楽ソフトとかモニタースピーカーなんかはヨドバシとかビックよりも楽器屋のほうが品揃えがよく、さくっと話が通ってすぐに買えたりする。これからは楽器屋もこまめに顔をだそうと思った。

最近は作曲とかDTMとかdawとかシンセとかも始めてしまい時間をどんどん削られる。 私の場合どちらかといえば作曲がしたいというよりは、ゲーム制作や動画制作のアセットとして曲が欲しいわけなんで、曲ばかりバンバン作る必要もなく、アセットとして必要になったら作ればいいんだが、とりあえずは自分がどんな曲を作れる人なんかってことを試すためにいろいろやってたらかなり疲れた。

FL Studio はなんだかんだ言われるがやはり良い。Cubase はあまりに古すぎて身動きとれない状態になっていると思う。 LE を入れようとしても AI しか入らず、AI を入れると Elements にしろとか言われ、Elements を入れても Artist にしろとか言われ、Artist を入れても Pro にしろとか言われ、 Pro を入れても Nuendo にしろとか言われるのだろう。 なんだかスマホゲーの課金システムを見ているようだ。 認証サーバーも重くてつながりにくいし、ファイアーウォール挟むとさらにやっかいだ。 やっと起動しても音が出るまでに一苦労する。

FL Studio もまた Cubase と似たようなものだが、新参な分、身軽で良いのだと思う。 Cubase は定番なのに儲かってなくて経営者や株主からせっつかれてるのかもしれんが、ああいうやり方はユーザーの心証を悪くするだけだと思う。 完全に一から作った Daw が出てくればそっちに乗り換える可能性は極めて高い。 Maya や 3dsmax みたいに昔からのユーザーを引き連れているソフトよりも blender のほうが使いやすいのと同じだろ。

unreal editor は unity が出てから生まれ変わった。いまや unity のほうが旧態依然としているくらいだ。 unity も unity hub に移行してからずいぶんひどかった。いまは少し落ち着いたが。 epic games launcher の認証もファイアーウォールごしだと一時期もたついてたが今では特に問題ない。 私としては ue5 になってガラっと変わられては困るなと思っていたが、ユーザーインターフェースや仕様などほぼ ue4 を引き継いでいてくれてほっとした。

blender も 2.91 になってからすっかりおちついた。半年に1回定期的に upgrade されるようになってこれもありがたい。 というか、落ち着いたから定期 upgrade に以降したんやろね。落ち着いてなきゃできないことだ。

動画ばっか作るようになったのはコロナのせいだ。 というか、ほんとは、もっと早く動画を作るようになるべきだったのだが、その必要性を気づかせてくれたのはコロナだし、 業務として動画制作するんじゃなきゃこんなに早く身にはつかなかった。 動画作るのは楽しいし、一番有効に時間を活用しているようにも思う(そうね。小説書いたり作曲したりする時間くらいに)。 でも時間がまじで足りなくなってきた。余裕がない。 コロナが落ち着けば少しは時間ができるかもしれないが、それでも足りない。 思うに、twitter とか facebook 見たり書いたりするのをやめれば時間が余るに違いないのである。 全然見ないわけにはいかないかもしれないが、 活動のメインを youtube とかブログにして、その告知くらいをたまに twitter あたりでやるので十分ではなかろうか。 twitter に直接いろいろ書くのも問題あるしね。

執筆活動

ここのところ1週間くらいkdpはkenpも注文数も0。ところが一部のランキングは動いていて不思議だ。『潜入捜査官マリナ』とか。なんでやねん。amazonのページにアクセスがあったとか?それとも購入済みの本にページビューがあったとかか?
ランキングが10万とか100万の世界だとそのくらいでランキングが変動するのかもしれんね。
不思議ついでだが『藤原定家』とか『シュピリ』も割とランキングが動いてて、こいつらは私が出版したわけではないので注文数とかkenpが動かなくてランキングだけ動いてても何の不思議もないのだが、kindle unlimited に登録されているから誰かがときどきチラ見しているということだろう。『シュピリ』はともかく『定家』も読まれているとは嬉しいことだ。

いや、嬉しくはなくて、ある日から注文もkenpも0になって世の中から見捨てられるのではないかという恐怖はずっとある。

いろいろ種を蒔き始めて10年が経ったわけで、このまま一部の人たちに名前を覚えられてなんかそのうち花咲くときがくれば良いななんて思ってる。

カクヨムは相変わらず。最初だけ少し反応があって、その後まったくアクセスが途絶える。ただし『伊勢物語』は別。悩ましい。『伊勢物語』を読んで他の作品もついでに読んでくれる人がいればいいのに。ていうか皆無ではないと思うが、ほとんどいまのところその効果は無い。
ときどきコメントとかレビューされることがあるがなんかこの人プロの研究者かな?とか思えるときもあってちょっとびびる。

ブログ

自分のレンタルサーバーでwordpressで日記書くのを諦めて、そのあと、カクヨムとかnoteとかも使ってみたが、ブログのようにアーカイブをただちに参照できるようにはできてなくて、つまり、何年にもわたって書きためるには向いてない。
で、自前のwordpressを持たないと決めたら残る選択肢はハテナブログくらいしかない。
ハテナブログはwordpressのすべての機能を使えるわけではない。でも、勝手に関連する過去記事のリンクを表示してくれるのはとてもよい。まあこれもおそらくなんかのプラグインを入れてるだけなんだろうけど。しかしそういうことを自前のwordpressでやろうとするとめちゃくちゃ重くなったりメンテがたいへんだったりするから、やはり便利といえば便利だ。
なので、あちこち書き散らすのでなくブログに回帰してくるかもしれん。
つまり、ブログはtwitterみたいな即時的な交流は(少なくとも昔ほかにほとんどSNSのたぐいがなかったころのような)期待できないがこつこつ書きためてアーカイブするには良い、ということだと思う。

渡り職人

中国で研究者になるというのが流行りらしいが、ケースバイケースではなかろうか。研究者というのは本来は渡り職人みたいなもので、中国だろうがアメリカだろうがヨーロッパだろうが世界中、あるいは日本国内でも、渡り歩くので良いと思う。
しかしながら年を取ってくるとそういつまでも転がる石みたいなことは(生涯年収的に)できないからどこかに落ち着くとなると、自分にとってそれなりに住みやすいところに住むしかなかろう。
中国に数年腰掛けるだけなら行けばいいんだろうが、そんな簡単に縁を切ることができるのだろうか。いろいろリスクがありそうだ。研究者が渡り職人であるためには労働市場の流動性が必要なわけだが(日本にはそもそもそれが無い)、中国に行って簡単に転職したり帰国したりできるんだろうか。
小説もブログも同じだが、何年も書きためてみなくてはわからんことは多い。長期的にみたときにふらっと中国に行ってそれで大丈夫なのだろうか。とは思わないのだろうか。
あとわざわざ中国が引き抜きにくるにはいろんな理由があるはずで、それをわかった上で引き抜かれようというのは、いろいろモラル的にはどうかと思う。
いずれにしてもマジで必要とされている人ならどこへでも行けるはず。もっと露骨に言えば、日本だけじゃない、アメリカでもヨーロッパでも相手にされなかったから中国に拾ってもらったんでしょ、としか思えない。
もひとつ。中国のアカデミズムは今やすでに世界最高水準だ、という評価には疑問を感じる。論文数や特許件数なんてのは、あれは商売と同じでマーケティングさえすればいくらでも水増しできるものだ。正味ははたしてどれほどだろうか。

ヘッドホン聴き比べ

在宅勤務が増えたせいで最近ちょっとヘッドホンに凝ってるのだが、ロジクールのヘッドセット(1万円くらい)、マランツ(8千円くらい)、オーディオテクニカ(2万円くらい)を聴き比べてみた。
オーディオテクニカの ATH-M50x だが、こいつが一番音が細く聞こえ、ロジクールが一番音が良く聞こえる。
ところが、よくよく聴き比べてみると、オーディオテクニカが一番高音が聞こえやすくて、だから音が細く弱く聞こえるのだった。
同じ音量で聴くと明らかにオーディオテクニカが一番ゲインが高い。
オーディオテクニカの後にロジクールを聴くと音がモコモコして聞き取りにくい感じがする。
オーディオテクニカとマランツ MPH-2 の差はわずかだが、やはりオーディオテクニカのほうが高音が聞き取りやすいように思える。
あと、オーディオテクニカは側圧が強くて、ノイズキャンセリングではないのにものすごく密閉されている感じで、周りの音が聞こえなくなる。その代わりさすがに付けていて疲れる。密閉すればするほど高音が聞き取りやすくなる、ということもあるのかもしれない。

なので、よほど音質を気にするような作業をするときはオーディオテクニカだが、ふだん音楽を楽しむときはマランツで良いのではなかろうか、と思った。

あと、思ったのだが、冨田勲の昔のシンセサイザーのアルバムなどを今聴いてみるととても音が悪い。おそらく冨田勲自身が自分でオープンリールのテープレコーダーかなんかで多重録音しているのだろうが、そりゃまあ昔の機材だとこの程度の録音しかできなかったのか。
音がこもっているというか割れているというか。ダイナミックレンジも狭いし、まあふつうにLPにカッティングするんだから仕方ないんだろうけど、『宇宙幻想』とか、せっかく迫力ある盛り上がる曲なのに、もったいないと思う。今録音してたら全然違ったんだろうが、逆に、今だとシンセサイザーなんて珍しくもないからね。
ヘッドホンじゃなくて、BoseのPCスピーカーなんかでボコボコ鳴らすと逆に迫力があってよろしい。

Cyndi Lauper

ミュージックビデオ風のいかにも作られた映像は口パクのようだ。
67才になってあんなに踊りながら声を出せるはずもない。

地味な、スタジオ収録をそのまま撮影したようなやつで、座ってるか、立ったまま歌ってるやつはたぶん生声。

40才くらいまでのコンサートなんかはたぶん全部生声。

シンディ・ローパーのすごさがいまいちわからなかったが、ああやって飛び跳ね走り回りながらあれだけ歌えるのはすごい。普通の歌手、たとえば、ブリトニーとか、ベリンダ・カーライルとか、あのへんだと、何度も何度も取り直してつないで修正してやっとあの声で歌えてるわけで、コンサートの生声で歌えるわけがないのだ。
そうしてみると日本人でシンディ・ローパーに対抗しうる女性歌手には宇多田ヒカルくらいしかいないのではないか。まあ、和田アキ子を入れても良いが。
なんかだから趣味がね。ブリトニーのMVいいなあとか昔は思ってたが今はシンディ・ローパーとか宇多田ヒカルが良いなあと思い始めた。毎回毎回歌い方が少しずつ違うってのはすごいことなんだよね。

いやまあ実は、シンディ・ローパーが audio technica のヘッドホン使ってたから思わず欲しくなってしまったんだ。

バック・トウ・ザ・フューチャーに出てくる日本製品

ビデオカメラはJVC。
ラジコンはfutaba。
カセットテープレコーダーは AIWA。
ラジオ付デジタル時計は Panasonic。
腕時計は CASIO。
ピックアップトラックは TOYOTA。
ストップウォッチは SEIKO と CITIZEN。

Wikipedia > 映画バック・トゥ・ザ・フューチャー PART3の劇中、1955年のドクが「安物を使うからだ。見ろ、Made in Japanと書いてある。」と言ったのに対し、マーティが「なに言ってんのドク。最高のものはみんな日本製だよ。」と返し、「(敗戦国の日本とは)信じられん。」とドクが驚くというシーンがある。

まあ、アメリカ人としては、一種の自虐ネタなんだろうけど。
時代設定としては1985年。私は大学一年生だった。電気電子工学科入学。
あの頃は、バブルへと駆け上がっていく途中。
NHKなんかも電子立国日本って煽ってた。
私も煽られて電気電子の世界へ飛び込んでしまった。
今なら絶対あり得ないと思う。工学部に行くにしてももちょっと違うほうへ行くと思う。
バック・トウ・ザ・フューチャーも、日本が景気が良すぎてアメリカは不況で日本がアメリカを買っちゃうみたいな設定だった。
あの頃の日本の電機産業って今からおもうとほんとすごかったな。

馬鹿騒ぎ

コロナに限ったことでなくマスクはしないよりはしたほうが良いに決まってるし、遠隔で仕事ができることはしたほうが良いし、通勤電車の混雑なんてものは首都移転でもやってさっさと解消すべきだし、年寄りは風邪引かないように冬は家でじっとしてるべきだし、居酒屋は空いてて広いほうが快適だし、どれもこれも別に全然コロナに限ったことじゃないし、コロナが無くなった後も多分そういう習慣は社会に根付いたまま残るに違いない。
コロナはもはや去年のコロナではない。少しずつ変異しているから。まさに「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。」だよ。
今回のこのコロナの馬鹿騒ぎも、人間はプラシーボがなければ生きていけない、もしくは、プラシーボはほんとの薬と同じくらいの効果がある、ことを証明しただけだ。

鯉の餌

audible なんだが、結局、1ヶ月に1冊1500円で audio book を買う、という仕組みなのだが、定価で買えば 3000円とか 4000円するけど欲しい audio book があれば数ヶ月は契約しておいてコツコツ買うのがお得、というサービスなのだと思う。

実を言えば数冊くらいは欲しいのがあるんで、一応契約は続行しようかと思っている。

最近やっと私は気づいたのだが、自分が読んで面白い本、つまり自分に読ませるために書いた本と、人に読ませて売る本とは、自分が食べて旨い料理と、池の鯉にやる餌くらいの違いがある。私が蒔いた餌を鯉が食って旨いかどうかなんてことは考える意味すらない。鯉が食うか食わないか以上のことを考えても無駄だ。ペディグリーチャムやチャウチュールを作っている人が、犬や猫がほんとに旨いと思ってるかなんて考えてるわけがない。ただペットが喜んで食えばそれでよいのだ。飼い主が金を払う気になればそれで良いのだ。

もしものを作って売りたければ自分で食べたいものを作ってはならない。鯉が良く食べるものを作らなくてはならない。当たり前のことだ。気づかなかったわけではないが、まさかほんとうにそうだとは思えなかったのだ。でも今では完全に理解した。しかも、自分が書きたい本、自分で読んで面白い本はもうほぼ書き終えた。これらの本が埋もれるのは惜しいから、売れる本を書いて、そのついでに私がほんとに面白いと思う本も読んでもらえるようにしなくてはならないと思う。

実際もう、自分が書きたい本を書くのには飽きてしまった。すでに書いた本をこつこつ手直しすることはまだ続けている。盆栽をいじるようなものだ。

では私に売れる本が書けるだろうか。わからん。努力はしてみよう。

安藤百福が47歳からインスタントラーメンというまったく新しい事業を始めて、私もまた同じくらいの年で、それまでの人生の延長で生きていくのをやめて、死ぬまでに今まで試したことがない才能を試してみようと思い、小説なんぞを書き始めたのと似てるなと思った。

百福はたまたま自分の事業が破産したから一からやり始めたのだろう。私はもともと飽きっぽい性格だからなのだと思う。飽きてしまうと、まだ自分ややり残していることがあるならこんどはそっちをやろうと思ってしまう。自分にはまだ試してない才能が残っていると思う。それが良いのか悪いのかよくわからん。若い頃からずっと同じことをやってその蓄積で大きく当たったり功績をみとめられればそりゃ面白かろうが、大して注目もされずだらだら続けるのは私には耐えがたい。