ラーメン模様その2

ラーメン模様が商の獣面紋の時代から連綿と使われてきた意匠であるかというと、そうではないような気がしてきた。ラーメン模様自体は清朝までしか遡れなくて、この時代の歴史学というか考証学の成果として、つまり一種の文芸復興として、太古の獣面紋を器の意匠に採り入れたのではないか。

中国では宮廷の意匠を民間人が採り入れることで普及することが多いように思う。私が北京で買ってきたどんぶりも「大清光緒年製」などという銘が入っているがこれは大嘘である。12元くらいの大量生産品である。清朝くらい昔の意匠であれば誰でも勝手に使ってよいし誰もそれをとがめない。海外に輸出する分はどうか知らないが、中国国内で出回るものにはわざわざこれは偽物ですという但し書きさえない。だいたい古いものほど民間には伝わりにくい。民間で普及していたものが宮廷などに伝承され、民間ではいったんは絶えてしまうが、文芸復興運動などで民間に広がり、昔からずっと続いていたかのように復活するのだ。日本の文芸の多くもそうだ。

清朝時代の磁器の特徴は西洋風と中国風の意匠の折衷にある。草花をあしらった唐草模様風ではあるが、唐時代のものとかペルシャの影響いうより、西洋のデザインから来ているのだという。バランスとして、青銅器時代の古色蒼然とした中国風の文様を入れてみたくなったのかもしれない。満州人は漢民族ではないので、わりと自由に好き勝手にデザインしたのかもしれない。

ラーメン模様

ラーメン模様が古くは青銅器の獣面紋に由来するのは明らか。商の時代にすでにあったのは確かだが、おそらくこのような意匠は日本の縄文式土器のように、土器の時代にさかのぼるのじゃないか。つまりああいう文様というのはつちくれをいじくり回していると自然とできてくる。彩色でなくてテクスチャを表現しようとするとああいうふうになりやすいと思う。となると現代のラーメン模様は中国の歴史時代以前にまでさかのぼれることになり、そう考えるとラーメンどんぶりにも中国五千年の悠久の歴史を感じさせるのであった。

獣面紋はアフリカのお面とかアメリカのトーテムポールとかそういう原始芸術を思わせるよね。子供の芸術というか。

初詣は京城で

「初詣は京城で」という中吊り広告があって、はあ、ソウルで初詣とは?とよく見ると、「初詣は京成で」と書いてあったのだった。よけいな背景のテクスチャのせいで見間違えた。

山羊や羊は野菜くずをあげるとよい、ただしタマネギ、ネギ、ほうれんそうなどはだめらしい。そのへんの草やはっぱや紙を食わせてもいかんらしい。それは過保護ではないか。山羊の目は横に平たいと思ってたが必ずしもそうではないのか。

アメリカ

アメリカのマクドナルドは今はなきバーガーキングと同じくらい巨大サイズなんだが、デニーズも古き良きアメリカって感じで、昼間っから Tボーンとかビフテキ 500gとか出てきますよね、という話をしたら、アメリカのデニーズは人種差別がひどいのであまり行かない、と言われた。

人種差別というのはアジア人や黒人が来ても、いつまでたっても注文を取りに来ないとかそういうことだそうだ。

吉野作造評論集

さて連休なにしよう.和辻哲郎の「古寺巡礼」を読んで一瞬奈良に行きたくなった(笑).しかし仕事もたまってるし.思いつきで旅行すんのはやめよう.

「吉野作造評論集」とか読むと,メキシコ革命の話が出てくる.

アメリカとメキシコの関係はイギリスとスペインの関係に似ている.もともとイギリスはスペインよりも優れた国であるが,アメリカはイギリスの中でも一番(金銭的というよりは道徳的に)優れた人たちが移民した国であって,一方メキシコはスペインのならずものたちが移民した国である.さらにアメリカ人は家族で移民したがメキシコ人は独り者で,守るべき貞節も規範も何もないので,土人との混血がたちまちにして進み…,

故にアメリカでは民主主義がきわめてうまく機能しており,その政治システムをそのままそっくり借用したメキシコでは革命や内戦で国民は塗炭の苦しみを味わっている.

というのだ.あの吉野作造ですらこのいいぐさである.言いたいことはよくわかるが.
昔は西洋人も日本人もずいぶんと差別的なものの考え方をしたのだな.というか吉野作造の言ってることは単なる WASP の受け売りなのかもしれぬ.

DVD の字幕

だんだんいらいらしてきたのでガンダム DVD の字幕を消したいのだが消せない.英語字幕にすることはできたがフラウボウが MeiMei になってたり,シャアが Masha になってたり….これって広東語から英語に訳してないか.なんか拙い英語だよなあ.主語が省略されたりしてるしなあ.もしかしてこれって海賊版?

いや,もしかしたら香港ローカル版なのかもしれない.香港人は広東語も英語も話すし,香港ネイティブ英語がオーソドックスな英語である必然性もないわけだ.

アムロは Yabao,ガンダムは Gaoda.ブライトは広東語名が「布」で,英語名は Mr. Bu になってた.いやはや.「了解」は I see ではなく Roger! とか Yes, Sir! とかじゃないのか.「いきまーす」は Action! とか言ってたが,空母から離陸するときにはなんていうのか. Take off! かな. Ready, Go! かな.

いかんいかん.なんかヒマ人と思われてしまう….

初代ガンダムのDVDを見る.

なぜか中国繁体字字幕.フラウボウがなぜか「美美」とか呼ばれている.ガンダムは「高達」.二十年ぶりくらいに見てみると新たな感動がある.アニメーション技術的にはきわめて稚拙だが,それなりに手をかけているようにも見える.ストーリー展開のなんとみごとなことか!

フラウボウの家族がみんな死んでしまう.アムロのお父さんは宇宙に吸い込まれる.なんかとても残酷で衝撃的だ.

シャアはいつもこむつかしい独り言ばかり言っていて違和感ある.

革命児サパタ

シェンムー2.少しおもしろい.

「革命児サパタ」というのを見た.すこしおもしろい.メキシコの歴史についていかに無知だったかを知る.革命とか戦争でもメキシコ人は常にソンブレロをかぶっていてユーモラスだ.公平にみえる.しかし,アメリカ人の視点で作られたものには違いない.メキシコ人ならもっとアメリカ資本を呪うに違いない.

「ジェロニモ」というのを見た.少しおもしろい.白人はいくら殺してもつぎから次に涌いてきた,ということなのだろう.農業と産業革命の勝利というべきか.

「アパッチ砦」というのもみた.超つまらない.途中放棄.

1965年くらいの日活を飽きるほど見てみたいのだが,まったくビデオレンタル屋にない.
カストロやゲバラやホーチミンや毛沢東の映画もない.おそらく世の中にはビデオレンタル屋に並んでいるよりは 100 倍より多くの映画があり,そういう映画の中には私のみたいのがかなりあると思うのだが.

山居

「釣月耕雲慕古風」に関しては961208000306などで考察して来たのだが,インターネットもずいぶん広くなったようで, 明確な出典が見つかった.道元の漢詩だった.思ったよりも古くて大物だったな.

山居(さんご)
西来祖道我伝東 西来の祖道我東に伝ふ
釣月耕雲慕古風 釣月耕雲古風を慕ふ
世俗紅塵飛不到 世俗の紅塵飛べども到らず
深山雪夜草菴中 深山雪夜草菴のうち

道元というひと,それからこの漢詩の前後の文脈から,だいぶはっきりしたことがわかる.おそらく「釣月耕雲」というのは,後世の人間どもがこねくりまわした「禅問答」じみた意味ではなくて,俗世間を離れた山奥の静かで質素な勤労生活のことを言っているのだと思う.つまりこの四行の詩は全体に非常に具体的で単純明快なことを言っているのであって,「釣月耕雲」の部分だけになにか深淵な謎がかけられているとは考えにくい.「耕雲」というのはつまり雲が眼下に広がってるような高原の畑を耕している光景が思い浮かぶし,「釣月」というのは夜水面に映った月に釣り糸をたれているような感じがある.しかし,禅宗とか道元というのはかなり保守的な仏教のように思うので,魚を釣って食べたというのは少し考え難い.ここに疑問が残る.が,しかし,鎌倉仏教というものは,肉食はしなくとも川魚くらいは食べたかもしれん.江戸時代までの日本人はだいたいそういうもんだし.「紅塵」というのは繁華な市街の土ぼこり,つまり「俗塵」のこと.山の上には俗世間の塵が飛んでもとどかないということだね.

台湾の高雄にも「曲橋釣月」という名所があるそうだ.しかし台湾の中国の歴史というのはせいぜい清朝からこちらだし,日本の植民地だったこともあるので,日本の禅宗の影響を受けている可能性は非常に高い.であるから,「釣月耕雲」というのは,すでに中国語にあった慣用句というよりは,道元の「独創」であるというので間違いないのではないか.

で,私の爺さんがなぜ「釣月耕雲慕古風」を掛け軸にしていたかということだが,禅はずいぶん好きだったようだし,そのころ京都に本部がある日本剣道連盟と喧嘩別れしたということもあったようだから,世俗の評判や名声などは気にかけず,田舎でひたすら古武道を探求する,というような心境だったのではなかろうか,と推察される.

松尾芭蕉が初めて句集を編んだのが「釣月庵」というそうだ.

追記: 道元 永平広録 巻十 偈頌