加後号

いわゆる加後号というものは、後一条天皇から始まっている。これは系譜を見ると明らかなように、村上天皇の皇子に冷泉天皇と円融天皇があって、ここで皇統が二つに分かれてしまっている。円融天皇を冷泉天皇の皇子の花山天皇がつぎ、花山天皇を円融天皇の皇子の一条天皇が継ぎ、一条天皇を冷泉天皇の皇子の三条天皇が継ぐ、といった両統並立状態だ。これはまずいというので、三条天皇を継いだ一条天皇の皇子には後一条天皇という追号がおくられた、後一条天皇が一条天皇の正統な後継者だ、という意味合いが込められているのだろう。それはわかる。

しかしその後がもうわけわからない。後朱雀天皇は朱雀天皇の直系子孫ではないし、五親等も離れている。後冷泉天皇も後三条天皇も円融天皇の系統であって、冷泉天皇の子孫ではない。どうもこの道長・頼通の時代に朝廷の原理原則というものが乱れきっているように思われる。

新井白石は後三条天皇がお気に入りである。蝦夷征伐を行い、記録所を置いて荘園を整理した。しかしその後の鳥羽天皇や白河天皇はもうだめだ。

荘園ばかり増えて国司は任地に赴きもしない。国の直接財源は百分の一ほどとなり、勝手な地方自治状態になっている。鳥羽天皇や白河天皇も自分で荘園を持っていたから富裕だっただけであって、きちんと国の経営をしたわけではなく、そのツケが後白河天皇の時代に保元の乱やら平治の乱やら源平合戦となって噴出した、新井白石はそう考える。

結局古代律令制というのは後三条天皇のときにすでに死んでいた、というわけだ。

中国では趙匡胤が統一国家宋を作り、歴史上世界的に中国が最も先進的な時代を迎えていた。中国が工業も政治も軍事力もすべてにおいて世界に優越してのは宋のときしかない(宮崎市定の受け売りである)。宋学という当時世界最先端の中央集権的な政治思想が当然後三条天皇の時代に日本に流れ込んできただろう。道長タイプの政治家とは違う実務的で有能な官吏が、日本も宋のようになればよいと考えたに違いない。そういう高級官僚は後白河法皇の時代にも、何人も現れている。要するに私営地を減らして国営地を殖やし、国の財源を確保して、健全な国家経営をしようという、ごくまっとうな、つまり現代的な発想をする人たちだ。だがそういうまともな官僚たちは、はじめに藤原氏に、次には平氏につぶされてしまい、結局源氏を経て北条氏に政治の実権がうつってしまった。

新井白石は高級官僚だから一民間人の頼山陽とはやはり発想が違ってくる。天皇と朝廷が国を経営しなくなったのがまず悪い。後三条天皇以後はもうむちゃくちゃで「政道を行はるることことごとく絶えはてて」「日本国の人民いかがなりなまし」という状態に至った。
だから頼朝が出て北条氏が出て賤臣の分際で国の政治を執り行った、ということになるのであり、白石自身が感じていた為政者側の責任感というものから、そういう考え方に至ったのであり、至極自然だと思う。

後三条天皇は皇太子時代が長く藤原氏を外戚とせず、三十代半ばの壮年期に天皇に即位した。これだけのことからでも、その志は察しえよう。

後三条天皇の号は母親が三条天皇の皇女(道長の孫娘)であるからおくられたものであろうか。つまり藤原氏の血縁関係の方が皇統よりも重視されたということか。

お玉が池

1450年の江戸(太田道灌江戸城築城時)
とか
1590年の江戸(家康入府時)
などを見るに、
まあ、これも完全な復元ではないにしろ、
昔、上野と浅草の間は広大な沼沢地であり、とうぜん町屋も田畑もなかったわけである。

不忍池から流れ出た川はいったん姫ヶ池という池に入って、それから北上して洗足池へ入り、さらに入間川(今の荒川)に入っていた。
姫ヶ池は現在の蔵前だ。そこにかつては不忍池よりも大きな池があり、周りは湿地帯だった。南に鳥越神社の建つ高台があるのみ。

浅草は細長い砂州の上にあった。
(古)利根川が運んでくる膨大な土砂が堆積したものであり、鹿島灘の大洗海岸や浜名湖やサロマ湖のような構造になっていて、
砂州が内海を塞いでいたわけだ。
浅草寺の由来の真偽はともかくとして、古くからここに寺があったのは間違いなく、
ということはここも鳥越神社と同じく利根川の洪水や高潮でも水没しない程度の高台にあったことを意味する。

家康以来、これらの洗足池や姫ヶ池は急速に埋め立てられていく。
神田川を東へ流すために駿河台を開削して出た土砂などが埋め立てに使われたのだろう。
吉原が1657年明暦の大火後に浅草裏に移転するが、そのときにはもう洗足池があらかた埋め立てられていた、或いは、
埋め立てる真っ最中だったのであろう。

上野と浅草の間というのは便利な土地であるから、急速に町が作られていったはずだ。
実際にはここには何百という寺ができ、墓ができた。寺と墓の密集地となった。
[江戸末期の古地図](http://onjweb.com/netbakumaz/edomap/edomap.html)でみると、
現在の浅草通り沿いはびっしりと寺である。
とにもかくにも見渡す限り墓と寺だったのであろう。
喜世が住んでいた唯念寺は浅草通り沿い南にあり、
新井白石が一時期住んでいたと思われる報恩寺は浅草通りをはさんで北側すぐにある。
唯念寺は今も同じ場所にあるようで、そこから報恩寺は直線距離で100mくらいしかない。

これらの墓や寺は維新や震災、戦争などを経て、だんだんに郊外に移っていき、その後にみっしりと町屋ができたのであろう。
今の浅草からは想像できない。

お玉が池というものが今の秋葉原の神田川の反対側内神田にあったというのだが、比較的初期の
[元禄時代の地図](http://www.library-noda.jp/homepage/digilib/bunkazai/ezu/08sub.html)
を見ても痕跡もない。
このお玉が池とか桜が池というのはつまりは姫ヶ池のことではなかろうか。
しかし神田川開削と同時に急速に埋め立てられて元禄の頃にはとっくに消失していたのだろう。

お玉が池跡として玉姫稲荷という小さなほこらが岩本町2丁目5番にある。
地形的にここに池があってもおかしくはないが、こういう祠は移転することも往々にしてあるわけで、
ほんとにここに池があったか、それもいつまであったのか、大きさはどれくらいだったか、まるでわからない。
北辰一刀流の道場があったかしれんが、
千葉周作は江戸後期の人だから、その時代にお玉が池があった可能姓はゼロだろう。

古来風体抄

中世歌論集でも少し書いたことだが。

wikipedia などによれば、古来風体抄は式子内親王が俊成に依頼して書かせたものであるという。しかし俊成の息子の定家が書いた歌論書ですら、断片的で短いものばかりであるのに、俊成がこれほどまとまった著書を残したとはとても思えないのである。また、俊成の歌を見るに、どれも軽妙で、感覚的で、芸術家肌の歌ばかりであり、学者的な人では決してなかっただろう。

式子内親王の依頼というのもどうにも腑に落ちない。これは、定家の後の人たちが、二条派歌論を権威付けるために俊成の名で書いたものではなかろうか。そう考えればこのめんどくさくもややこしい歌論の意味がわかる。

俊成は91才まで生きたのだが、古来風体抄を書いたとしたら80代後半という、当時としてはとてつもない高齢であり、文章が書けるはずもない、と思うのだが、どうよ。

そうだな、冒頭の、「やまとうたのおこり、そのきたれることとをいかな。」というのが、歴史的仮名遣いが間違っているし、俊成なら「とをい」「をのづから」「かきをき」とは言わず「とほき」「おのづから」「かきおき」と言うと思う。ひょっとすると相当後世のものかもしれん、とも思われる。

それに、「六義」「天台止観」だのと、定家や後鳥羽院ですら言わぬような、漢学臭く仏教臭いことを論じるだろうか。極めて怪しい。京極為兼くらいの時代の論法ではなかろうか。下手すると為兼本人か、京極派の誰かが書いたのではなかろうかというくらい似ている。

追記:そうかもしれないしそうじゃないかもしれないとしか言いようがないな。

イギリス王位継承順位

イギリス王位継承順位。男系でも女系でも良く、継承順位の下位のほうには、よその国の王とかも含まれてしまう。だから、継承戦争で、王様がブルボンからハプスブルクになったりハプスブルクからブルボンになったりするわけだ。

その王位継承(領地などの財産相続)の法律の解釈で戦争がおきてそれが継承戦争。やれやれ。

王の姓名

現在のスウェーデン王の名前は、カール16世グスタフであり、その前はグスタフ6世アドルフだった。明らかにグスタフもアドルフも姓ではない。ベルナドッテ朝とのことだが、ベルナドッテも姓というわけではなさそうだ。北欧の王の名はこのように即位前は名A・名B・名C・・だったのが、即位すると名A・X世・名Bとなる例が多いようだ。

わけわからん。もしかすると、いや、たぶん確実に、西欧の人名には姓という概念が無いか、希薄なのだろう。姓がないから、親と同じ名前を子につけたがる。名が姓を兼ねる、もしくは名がどの親の子かを表している。ある意味、極めて原始的な名前の付け方だ。で、それでは紛らわしいから、息子の名前が父や祖父やご先祖様までずーっとくっつけて組み合わせたような長い名前になってしまうのだ。東ローマには姓(というか王朝名)というものが一応あったような気がするが、もしかすると過去にさかのぼって学術的に王朝名を決めたのかもしれん。

ああもう、わけわからん。

アラブ人の名前が、子の名 ビン(イブン、ベン等とも) 父親の名、となっている方がまだ整然としているわな。そういや、中国人には姓があるがそれは中国が典型的なエクソガミー(外婚)社会だからだ。というか、エクソガミーがないところには姓もないか、希薄なのかもしれんな。

そうかそうか、昔、中国には、姓だけがあり、姓は女系で、氏は官位だったと。姓をもってたのは貴族だけだったと。なるほど。しかし、トーテムとかエクソガミーは、その由来は宗教が発達する以前の禁忌(タブー)であり、未開社会に固有なものであるから、貴族か庶民かというのは関係ないはずだ。だから、最初、中国にトーテム(母系で継承され、同じトーテムに属する者どうしは性的に交われない byフロイト)の部族があって、それがなにかの理由で支配階級(貴族)となって、それがだんだんと一般化していったのかもしれんな。

日本のウジ・カバネも一種の官位だわな。官位が世襲されてウジとなり、ウジの下の階層がカバネ。後の世では、土地の領主となってその土地の名を姓にしたりとか。

たぶん、こういうことだ、最初のグスタフとかアドルフとかが王朝の中で何番目だったがで番号を付ける。しかし、たまには二番目の名前まで一致していることがある。たとえば、フランツ・ヨーゼフとかヴィットーリオ・エマヌエーレとか。そうすると、フランツ1世ヨーゼフとはせずにフランツ・ヨーゼフ1世となり、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世となる。カール16世グスタフというのも、もし仮に、昔、カール・グスタフという王がいたら、カール・グスタフ2世とかになったのじゃないかと思うが、カール・グスタフ16世になるやもしれん。

あああ、わけわからん。

科挙に関する誤解

八股文と五言排律の続きだが、

明代初期の八股文についてに非常に詳しく述べてあるが、ごく概略を言えば、明末清初の学者・顧炎武は、

経義の文、流俗、之を八股と言う。蓋し成化以後に始まる。天順以前は経義の文、伝注を敷衍するに過ぎず。或いは対にし、或いは散にし、初めは定式無し。

と明確に記している。つまり、明初には、そもそも八股文などというものはなかった。
しかし、wikipedia 「八股文」には、

洪武帝は軍師の劉基とはかって、科挙には朱子の解説による四書を主眼とした。これは洪武帝や劉基が朱子学を奉じており、この学派が四書を重視していたためである。こうして宋代と代わって難解な教典である五経は二の次とされた。そして明朝期の受験生は答案の書き方として、八股文が指定された。

などと書かれている。これでは、明の高祖朱元璋が軍師劉基と計って朱子学に基づいて四書を八股文で課したと読める。まったく意味が違ってくる。

四書を科挙に用いたのは、朱元璋も劉基も、おそらく朱子も、四書が初等テクストだからであり、出題範囲を初等教育の範囲に限定するためである。それを韻文で書こうと対句で書こうと散文で書こうと明初では自由であった。つまり当初の意図としては、何か形式張った文章題を出したわけではない。ごく妥当な、まっとうな問題が出されたのに過ぎない。

日本でも試験問題というものは、だんだん受験テクニックを駆使しないと解けないような難解なものになりやすく、その弊害をのぞくために「ゆとり教育」というものが生まれ、「ゆとり教育」ではダメだというのでまた難しくなる。同じようなことが王朝交替のたびに科挙でも起きたのは当然だ。

劉基という人の漢詩も少し読んでみたが、どちらかと言えば学者というより、自由な文人という感じを受ける。八股文というものを考案して受験生に課したというのは、まずあり得ないだろう。

またwikipedia「科挙」には

「ただ読書のみが尊く、それ以外は全て卑しい」(万般皆下品、惟有読書高)という風潮が、科挙が廃止された後の20世紀前半になっても残っていた。科挙官僚は、詩作や作文の知識を持つ事を最大の条件として、経済や治山治水など実務や国民生活には無能・無関心である事を自慢する始末であった。こういった風潮による政府の無能力化も、欧米列強の圧力が増すにつれて深刻な問題となって来た。

中国が植民地化を避けるために近代化を欲するならば、直接は役に立たない古典の暗記と解釈に偏る科挙は廃止されねばならなかったのである。

などと書いてある。しかし、「儒林外史」などを読んだだけで明らかなように、「詩作や作文」にばかりうつつを抜かすような官僚がそんなにいただろうか。むしろそれは、科挙に合格できなかった遁世文人たちの戯画に近いのではないか。普通に科挙に合格して、普通に国政に腐心した政治家たちもたくさんいた。それは清朝の歴史を調べれば、明らかだ。

科挙が有害であったことは間違いないが、あまりにも多くの責任を科挙に負わせるのも、
やはり責任逃れに過ぎない。おそらく多くは清朝を不当におとしめようとした近代中国や、日本の左翼学者たちの決めつけなのではなかろうか。そのようなステレオタイプが wikipedia にも溢れているとすれば、非常に憂うことである。

受験テクニックの加熱は、往々にして、受験産業や受験生や教師や父母らによって助長されるものだ。必ずしも大学教員や国の官僚が意図してそうなっているのではない。日本の現状を観察しただけでもわかるだろう。五言排律という格式張った中世の形式が、清朝末期に、本来は自由な作文題だった四書題にいつの間にか潜り込んで、定型化していき、それが八股文となったのだ。つまり責任の多くは民衆の側にあるに違いない。

養子

昔の人の経歴を調べていて感じるのは、養子縁組というのが、非常に多かったということだ。
例えば自分が次男・三男などで、親戚筋、特に本家などに嫡子がいない場合に、
養子となってその家の家督を相続する。よくあることだったようだ。

独身で子供がいない、ということは当時としては滅多になかったようだが、
実子がいない、
実子がいても娘しかいない、
実子はいたが早死したり病気だったりして嫡子にはなれない、
あるいはなんらかの理由で廃嫡した、
などということはしばしばあった。

息子はいないが、娘はいる場合には、婿養子を取る。
その場合も通常は親戚の男子を優先するのだろうが、
特に学問や芸能の家の場合には、有能な弟子を婿に取ることが多かったようだ。
娘もいない、親戚にも適当な子がない場合は、
まったく赤の他人を養子にすることもあったように思われる。
その際には、赤の他人が赤の他人の嫁をもらう、というのではなく、
親戚の娘を養子にしてその婿養子をとるとか、
あるいは養子に親戚の娘を嫁がせるとか、
そんな工夫をしたのではなかろうか。

ともかくそういう具合に養子で成り上がった人というのが少なくない。
家というのが重要かつ根本的な社会組織であり、
そこには家業とか所領とか財産とか株とか組合など、誰かに相続しないわけにはいかない資産が付随する。
一方では子沢山な家庭があり、
他方では子宝に恵まれない家があり、
かつ家業の優秀な後継者が欲しいという状況では、
さかんに養子縁組が行われてきたのだろう。
一度養子制度というものをきちんと調べる必要があると思う。

宣長の結婚

宣長が京都に五年間も遊学していて、宝暦7年9月19日 (1757/10/31)には師事していた堀景山が死去する。それでようやく宣長も松坂に帰郷して、医者を開業し、嫁をもらうことになる。景山の葬儀が宝暦7年9月22日 (1757/11/3)、その10日後には、暇乞いをして帰郷の準備を始めている。この年はずっと景山の容態が悪く、宣長もかねて覚悟を決めていたのだろう。

翌宝暦8年、宣長は京都の医家へ養子となる運動を始めている。養子ということは、普通に考えれば婿養子になるということだろう。娘が居るというのと、跡取り息子が居るというのはだいぶ違う。まったく子供ができずに養子を取ることも、もちろんあっただろうが、その場合でも結婚相手はなおさら自分では決められないだろう。実の娘はなくても、おそらく親戚の娘か何かと結婚させられるだろう。

宣長はできれば郷里の松坂ではなく京都で開業したかった。しかし、それらの運動はうまくいかず、宝暦9年10月 (1759/12/18)、同じ町内の大年寄、つまり松坂の名家の村田彦太郎の娘ふみとの縁談が起こる。

宝暦10年4月8日 (1760/5/22) 村田家に結納。宝暦10年9月14日 (1760/10/22)、ふみと婚礼。宝暦10年12月18日 (1761/1/23) ふみと離縁。宝暦11年7月 (1761/8/29) 景山の同輩草深玄周の妹で、草深玄弘の娘・多美との縁談が起こる。宝暦11年11月9日 (1761/12/4) 深草家と結納。宝暦12年1月17日 (1762/2/10) 多美と再婚。

思うに、当時、結婚してみたけどダメだったので離婚した、ということは、比較的簡単にできたように思う。今の感覚とはだいぶ違うのではないか。どちらかといえば、ふみの方が宣長を見限ったのではないのか。京都で修業した医者の卵というので期待していたが、学問ばかりしていてつまらぬ男だと。

確か、『家の昔物語』だったと思うが、宣長は、松坂には非常に富裕な農家がたくさんあり、贅沢に暮らしている、などと書いているが、村田家もそうだったのではなかろうか。
妻が贅沢で金遣いが荒い。そして結局離縁していった。だからわざわざ書き残したのではないか。宣長の方は家は借金で整理して、江戸の店もたたんで、医者の仕事はまだ駆け出しで、趣味の世界ばかり熱中している。しかもヘビースモーカーだ(笑)。こんな亭主なら見限りたくもなるのではなかろうか。

たとえば、宣長の妹も、宝暦6年12月12日 (1757/1/31)に結婚し、宝暦8年8月28日 (1758/9/29) に男子を生んでいるが、宝暦8年11月20日 (1758/12/20)に男児は死去し、宝暦9年1月 (1759/2/26) には離縁しているが、8月には復縁している。なんだかよくわからない。

宝暦6年4月20日 (1756/5/18) 宣長は、まだ京都で遊学していた最中、法事のために松坂に帰省するが、途中、津の草深家に立ち寄る。宝暦6年5月10日 (1756/6/7) 復路再び草深家に立ち寄る。縁談話が持ち上がる前に草深多美と出会う機会はこの二度しかなかった。当時宣長は満26歳、多美は満16歳。大野晋はこのとき宣長が多美に一目惚れした、多美を忘れられなかったので、わざわざふみと離縁してまで再婚したのだ、というのだが、ほんとうだろうか。宣長が多美と出会った翌宝暦7年春、多美は津の材木商藤枝九重郎という人と結婚しているが、彼は宝暦10年4月26日に病死している。多美が独身になったのは、宣長と村田ふみが婚約したのの直後ということになる。

宣長はそんなに多美と結婚したかったのだろうか。少なくとも、多美を忘れられなかったから結婚しなかったのではなかろう。宣長としては、京都に住み続けたかったから、京都の医師の娘と結婚しようとしていたのであり、そのことの方がより重要だったと思う。五年も京都に遊学してたのも、単に学問が好きだったというよりも、婿養子先ができるのを待っていたのではなかろうか。要するに今で言う就活だ。婿養子になる場合それと婚活が合わさる。

また、初婚に失敗した宣長と、同輩の妹で後家の多美の縁談が持ち上がったのも、自然のなりゆきという以上の理由はないのではなかろうか。たった二度しかあったことの無い人とそんな簡単に恋に落ちたりするだろうか。

状況証拠的に言えば、学業を終えてこれから家を構えて自分で飯を食っていかなくちゃならないので、まず京都の医者の娘と結婚しようとしたが、うまくいかなかった。仕方ないので地元の金持ちの商家の娘と結婚したが、やはりうまく行かなかった。仕方ないので、京都遊学時代の同輩の妹で、出戻りの女と再婚した。と考えるのが普通ではないか。

仮に、宣長が、そんなドラマみたいな大恋愛をしたとすれば、それはおおごとだ。国学界のコペルニクス的転回と言っても良いくらい、大変なことだ。

しかし、宣長の場合はいつの時代にも、誤解・誤読されてきた。戦前も戦後も、今現在も同様だ。時代ごとにその誤読のされ方が違うだけだ。何でもかんでも「もののあはれ」という「イデオロギー」で解釈してしまって良いのか。それは危険ではないのか。大野晋とか丸谷才一のように、この体験によって『源氏物語』を読み解く目が開けた、「もののあはれ」を知った、などと言えるだろうか。

丸谷才一『恋と女の日本文学』

それまでの経過を通じて宣長は、恋を失うことがいかに悲しく、行方も知れずわびしいかを知ったでしょう。また、人妻となった女を思い切れず、はらい除け切れない男のさまを、みずから見たでしょう。その上、夢にまで描いた女に現実に接するよろこびがいかに男の生存の根源にかかわる事実であるかを宣長は理解したにちがいない。また、恋のためには、相手以外の女の生涯は壊し捨てても、なお男は機会に恵まれれば自分の恋を遂げようとするものだということを自分自身によって宣長は知ったに違いありません。
この経験が宣長に『源氏物語』を読み取る目を与えた。『源氏物語』は淫乱の書でもない。不倫を教え、あるいはそれを訓戒する書でもない。むしろ人生の最大の出来事である恋の実相をあまねく書き分け、その悲しみ、苦しみ、あわれさを描いたのが『源氏物語』である。恋とは文学の上だけのそらごとでなく、実際の人間の生存そのものを左右する大事であり、それが『源氏物語』に詳しく書いてある。そう読むべきだと宣長は主張したかったに相違ないと、私は思ったのです。

どうもこの丸谷才一という人は、『新々百人一首』を読んでいても思うのだが、たんなる妄想・憶測を、事実であるかのように断定する傾向にある。ちょっと信じがたい。というか、もし間違ってたらどうするつもりなのか。そりゃまあ、ひとつのフィクションとして小説に仕立てるのなら、十分アリだろうけどさ。しかし、リアリティに欠けるなあ。大野晋にしても、「日本語タミル語起源説」とかかなり無茶な学説を提唱してたりするから。もしかしたら嘘ではないかもしれないが、あまりにも強引過ぎる。

どちらかといえば、「もののあはれ」というのは、何かの観念にとらわれずに、リアリズムとか、心に思うことをそのまま表現すること、という意味だと思うのだよね。それは契沖から学んだ古文辞学的なところから導かれるもののひとつに過ぎないと思うよ。なんかの恋愛観のことじゃないと思う。恋愛感情が一番、心の現れ方が強く純粋だと言ってるだけでね。『源氏物語』を仏教的に解釈したり儒教的に解釈するのではなく、ありのままに、人間の真情が、そのまま記されたものとして鑑賞しましょうよ、と言ってるだけなんじゃないかなあ。「もののあはれ」っていう信仰とか哲学があるわけじゃあないと思うんだ。

宣長記念館では、

離婚の理由は不明。草深たみへの思慕の情があったという人もいるが、恐らくは、町家の娘として育ったふみさんと、医者をしながら学問をやる宣長の生活には開きがあったためであろう。またこの結婚自体が、ふみさんの父の病気と言う中で進められたこともあり、事を急ぎすぎたのかもしれない。嫁と姑の問題も無かったとは言えまい。真相は誰も知らない。

離婚から1年半、宝暦11年7月、草深玄弘女・たみとの縁談話起こる。たみは、京都堀景山塾での友人の草深丹立の妹である。いったん他家に嫁いだが、夫が亡くなり家に戻ってきていた。宣長も宝暦6年4月20日には京からの帰省途中、草深家に遊び、引き留められ一宿したことがある。顔くらいは知っていたであろう

などと書いているが、「草深たみへの思慕の情があったという人もいる」というのは大野晋と丸谷才一のことだろう。その説も知った上で、上記のような判断をしていると思う。宣長と多美は顔くらいは知っていた、程度の知り合いだった。至極もっともな解釈だと思う。

シチリアとロシア

Expedition of the Thousand

Britain was worried by the approaches of the Neapolitans towards the Russian Empire in the latter’s attempt to open its way to the Mediterranean Sea; the strategic importance of the Sicilian ports was also to be dramatically increased by the opening of the Suez Canal.

面白い話だが、シチリアとロシアの関係がいまいち裏付けが取れない。

まあ、おもしろけりゃ嘘でもかまわんが。