漢文体

江戸時代まで、あるいはおそらく戦前までは、漢文のテクストとして、論語や大学のような中国の古典ももちろん利用されてはいただろうが、それと並行して、吾妻鏡の腰越状だとか、日本外史などが利用されていた。つまり、当時の武士というのは事務仕事もしなきゃならないが、日記にしろ公文書にしろ漢文で書く。漢文で日常的な作文をしなくちゃならないのに、ただ中国の古典だけ読んでいて書けるはずがない。公家が書いていた漢文の日記だとか、あるいは吾妻鏡のように漢文で書かれた公文書なども当然参考書にしたわけだよ。

ところが戦後の日本の教育では日本人の漢文というものがまったく排除されてしまった。
しかも近代や現代の中国語を教えるわけでもない。ただ単に浮世離れした漢籍だけを教えるようになった。これでは日本人にとっての漢文体というものがまったくわからんようになっても仕方ない。

せいぜい森鴎外とか中島敦とかそういうふうなところからしか「日本人の漢文体」を習わない。漢文体に接しない。

頼山陽が詩人であったということと、日本外史が漢文のテクストとしても使われていたということは非常に重要な意味があると思う。日本外史が日本の漢文体に与えた影響はおそらくものすごく大きい。しかし今の国語教育にはその観点が完全に欠落している、と思う。

千葉氏

源頼信とか平忠常の乱とか調べてて、千葉氏の一族 というめちゃくちゃ詳しいサイトを見つけた。こりゃすげえっっ。他にも、個人のブログとかで、日本史関連で異様に詳しいサイトとかかなりある。

花林
南木

など。

近頃は、何もすることがないとき、ぼーっと日本史のことを考えていると、案外時間がつぶせることを発見。脳内世界って便利。

田舎暮らしとジーパン

埼玉某市に10年ぶりくらいに遊びに行ったのだが、夫婦でやってた居酒屋は女将さんが死んでいなくなってたり、立ち飲み屋に行ったら820万円請求されたり(笑)、カラオケスナックで一曲歌ったら1000円しなくてまたびっくりしたりした。なるほどこの町って実は飲食代が異様に安かったんだな、今住んでる町が高すぎるのだなと思った。関東近県でも、飲食費が馬鹿高いのは吉祥寺とか多摩センターとかそんなところだけで、田舎に行けばこんなものなんだなと。

半ズボンでバス停でバス待ちしてたら蚊にふくらはぎをばんばん食われて困った。田舎暮らしにはジーパンのような厚手の長ズボンが必須だなと思った。田舎と言わずとも庭で草むしりとかヤブ蚊が出るようなところだとジーパンは便利だなと思った。夏でもびしっとジーパン、靴下、ブーツ。

昔は山道なんてところかまわずヒルやまむしが出てたいへんだったろうなと思う。だから大名行列には先払いみたいなものが必要なんだよなあ。

アイアンメイデン

知り合いと、Mr.Bigというバンドの武道館公演のビデオを見てて、なんかこう、優等生的な、秀才的なロックバンドだなという話になって、昔はヒッピーというか、普通のサラリーマンからはみ出した不良みたいのがロックやるイメージなのが、かれらはどちらかというと一生懸命技術を磨いたというか。
ギターの先っちょにビデオカメラ取り付けて指が早弾きすんのを見せるという。
確かに速いが音楽的にどうなのかと思うこともある。

それでそういえば今の大学生にヘビメタが好きだというのがいて、ヘビメタの何を聞くのかと聞いたらアイアンメイデンだよという。
アイアンメイデンって俺ら高校生の頃からあったよと。30年以上続いてるらしいね、って話になったのだが、でも最近ではアイアンメイデンはアニメで有名だよねっていうやつがいて、それからずーっと気になってたんだが、それってもしかして「ローゼンメイデン」???

ありゃりゃ。Mr.Bigもけっこう古くから活動してるんだなあ。でもせいぜい私が大学卒業するころくらいからだわ。

懸垂

懸垂が一度もできないと落ち込んでいたのだが、腕を完全に伸ばしてしまいそこから首を棒より上に出すのは難しい。しかし、腕を曲げたままならば、三回くらいは余裕でできることがわかった。みんなだいたい一回目は飛びついた勢いでできる(笑)。次に腕を完全に伸ばさないようにして、頭を棒の上下に往復させるだけならわりと楽にできる。回数がこなせるようになってから、徐々に腕を伸ばしていけば良いのではないか。

体重はなかなか減らない。73kgまでもう少しというところで1ヶ月は停滞している。

天領

佐渡が天領だというのは、すごく違和感がある。ただ単に徳川将軍家が佐渡島の金山を開発するために直轄領にしただけであるのに、だ。

しかし、Wikipediaなど読むと、徳川幕府の所領が明治初期に一時的に天皇の直轄領(御料)に組み入れられたために天領と言われるようになったということで、江戸時代にはそのような呼び方はされなかったというので、なるほどと思った。それにしても、廃藩置県とともに天皇直轄領、天領なるものも消滅したに違いなく、それにも関わらず、天領佐渡なる言い方が残っているのはいかがなものかという気がする。

IKKI 4月号

めちゃくちゃ気になったのでIKKI 4月号を買ってみる。担当変更いきなりボツ。そりゃそうだわな。考えてみりゃこんな人生300年みたいな漫画でいきなりデビューしちゃったみたいな話にしたら中年親父が本気になって脱サラとかして漫画家志望したりとかそんなおかしな新人作家がどんどん募集してきちゃっていやああれはフィクションですとか言っても俺の人生どうしてくれるんだとか因縁つけられてとても困ったことになりますよね。ここで一発ガツンと夢を打ち砕いておかないと。

プレスリー

エルビスプレスリーのDVDなど見ると、プレスリーは言われているほどデブではない。
1977年に42才で死んだのだが、1974年くらいまでのビデオでは普通に腹は出ていない。
コルセットで締め上げているのかもしれないが。

で、プレスリーは毎日ドーナツを百個食べて死んだとか、いやハンバーガーだとか、いやスイカを毎日二個食ったから死んだとか、いろいろ言われているが、せいぜい40代前半で、多少食い過ぎたくらいで健康ならば死ぬはずはない。
多少不健康になるかしれんが、40代前半で死ぬというのは相当大変なことだと思う。
50才60才なら糖尿病か何かの合併症で死ぬかもしれんがね。

FMレコパルという雑誌(FMファンとあと週刊FMだっけか、FMをエアチェックするためだけの週刊誌があったというのは今では考えられんなあ)があり、たしか黒鉄ヒロシの漫画でプレスリーが西瓜を毎日二個食ってデブで死んだとかいうのを私は読んでそれを今でも覚えている。
私よりも五歳か十歳上の人もだいたいそれと同じような記憶。
西瓜がドーナツだったりする位の違い。

しかし死ぬ直前に多少デブだったかもしれんが、もう少し長生きすればダイエットしてやせたかもしれんのに、たまたま死ぬ直前の数年に太ったからといってあそこまで、デブで死んだとかなんとか言われるのはかわいそうな気がしてならん。

かなりどうでも良いことだがFMレコパルのマンガにはかなり影響を受けた気がする。
メシアンの世の終わりのための四重奏曲などというみょうちくりんな現代音楽をわざわざ聞いたのも、その影響だった気がする。
他にも覚えてないがそうとう影響受けた。
そうそうたしか石森章太郎だった。
Wikipediaにも書いてあるから間違いないわな。
第二次大戦中に牢屋に入れられたときに作曲したんだった。

Wikipediaなど読むとエドサリバンショーではわざと下半身を映さず放送したとか、たしかにプレスリーは下半身が命なんだ。
若い頃の全身が映った映像は確かに衝撃的。

でもそれを言うとベリーダンスはどうなんだという話になる。ベリーダンスは太鼓の伴奏とシンクロして胸と腹と腰を別々に揺らすからすごい。ただ腰だけ揺らすのはフラダンスだってやってる。

あさか山

あさか山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を 我が思はなくに

安積香山の影までも見える澄んだ山の井のような浅い心では私は思っていないのです

小学館の「日本古典文学全集」など

いや、なんか違うんじゃないかなこの現代語訳は。井戸をのぞきこんだとき自分の姿が映って見えるほどに浅い井戸、水鏡の代わりになるほどに浅い井戸、そんなあさか山の井戸のように浅い心で私は思っているわけではないのだが、と言っているのだと思うのだが。
そもそも井戸の水が澄んでいるのは当たり前だと思うが。「澄んだ井戸の水のように浅い心」では意味がわからんだろ。

なんだかなあ。どうしてこう精神論的な解釈をしたがるのか。もっと感覚的・映像的に考えれば良いだけだと思うが、国文学者というのはそういう言語による視覚的表現にうといのではないかとしか思えない罠。万葉時代の歌を新古今的幽玄な解釈をして失敗している典型の一つか。