象徴天皇

司馬史観の中でも、
空気のように当たり前と思われているのが、
天皇は今のように権力を持たず権威だけを持っている状態が「正常」であり、
後鳥羽上皇や後醍醐天皇や明治天皇のように実権を持っている状態が「異常」なのだ、
という説だ。
司馬遼太郎は天皇さんは神主さんだと言っている。
神主は、政治のどろどろとしたものに関わってはならない、浮世離れしてなくてはならない、という。

また、信長は天皇を担ごうとしたのではなくて足利将軍を担ごうとしたのだが、途中でじゃまになったので捨てて、
しようがなく天皇を担いだのだという。
秀吉は出自が賤しいので最初から天皇の権威で箔付けしようとした。
家康はそれを踏襲した。
そのように司馬遼太郎は言うわけだ。

よくわからん理論ではある。
一種の政教分離論。
俗と聖の分離。
わかりやすく聞こえるが、個々の事例に当てはめようとするとうまく説明できない。
天皇とは何かということ自体、一言で説明できるわけがない。

たとえば、司馬天皇論が、保元平治の乱や後白河院政に当てはまるか。否。
北条氏による承久の乱の戦後処理に当てはまるか。南北朝の動乱をうまく説明できるか。否。
後水尾天皇や孝明天皇のような江戸期の天皇をうまく説明できるか。否。
徳川幕府と天皇家の関係や、足利幕府と天皇家の関係を説明できるか。できないだろう。
足利義政は応仁の乱で御所が焼失したとき天皇を自分の屋敷に住まわせて一緒に寝起きし茶の湯や能楽を楽しんだ。
なるほど、御所が焼けたときに女御の里に天皇が住んでそこが御所として機能したことはある。
が、足利氏は藤原氏とは違う。天皇家は外戚関係にはないのだ。
あり得ないことだ。
このような関係をどう説明するのか。

今日まで一貫して日本の正統は天皇家にある。
しかも天皇は生身の人間であって、神主の性格も持っているがそれ以外の「俗」な属性も持っている。
独自の皇位継承ルールも持っている。

正統とは具体的には軍事・立法・司法・外交・税・所有権などすべてのことであり、
宗教的・象徴的権威だけを言うのではない。
天皇家の本質はそれが日本の正統の担い手であってそれ以外に担い手がいないということだ。
そうでなければ承久の乱のあとあれほど北条氏はトリッキーな苦労をしたろうか。
南北朝時代に足利尊氏は苦労したろうか。
天皇家が分かれたり消滅したりすれば日本中に天皇の子孫を称する人間が現れて、
それぞれが皇位の正当性を主張し始めて、
結果的にそれは無政府状態を作り出す。
明治天皇が南朝を正統としたためにわらわら天皇家の子孫が名乗り出てきたのと同じだ。
南北朝時代が長引けば日本中に後醍醐天皇の子孫が天皇を称したかもしれん。
そうなれば日本の分裂だ。
北海道に渡って独自王朝を作ろうとしたかもしれん。
以仁王が奥羽まで逃げていたらほんとにそうなったかもしれないし、
後村上天皇だってそのくらいのことはしかねなかった。
九州にも南朝の皇子は居て勝手に中国と貿易していた。自立したら独立国になってしまっただろう。
というか、後醍醐天皇が都を吉野ではなくて鎌倉に移したら確実に日本は二つに分裂していただろう。
長州だって天皇か皇子を長州まで連れて行こうとしたわけだし。
高氏の北朝だって本質的には同じこと。

いったん無政府状態を経なければ天皇家の代わりとなる日本の正統は創造できないのだが、
日本にはそのような状態は今まで一度もなかった。推古朝以前は知りようもないが。
北条氏も足利氏も要するにそのような完全な無政府状態が発生するのを恐れたのだと思う。
そんなものを作り出す当事者になるのを拒否したのだ。たとえ日本国王になれたとしてもだ。
もっと言えば、日本国王になんかなりたくなかったのだ。
彼らがほしかったものは日本国を統治する権力であって国王の地位ではなかった、と言えば良いか。
だからどんな屁理屈をこしらえてでも皇位を継承してきたのだ。

そうして考えてくると「象徴天皇」が正常だとか後鳥羽上皇が異常だとかいう分類が、
本質的な意味などないことがわかろう。

徳川家康による「終戦」も非常に面白い。
天皇を残し諸侯も残し、かなり純粋な形の、しかも安定した封建制度を作り出した。
もし、天皇家を滅ぼし、諸侯も滅ぼし、中国皇帝的な独裁君主になろうとしたら、
あと何十年も戦争を継続しなくてはならなかっただろう。
しかし家康ははやく戦争をやめてしまいたかったし、
自分の子孫の代までその事業を継続したいとも思わなかったに違いない。
だからあんなふうになったのだ。
有史以来最大の軍事力を持てた徳川家ですら、そこでやめてしまったということだろう。
家光がちょっと脅しをかけたようだが、本気ではなかったのではないか。

そう考えてくると、中国では、数百年おきに完全な無政府状態が起きる。
そこで易姓革命が起きる。
ヨーロッパではたとえ国ごとに革命が起きても、ヨーロッパ全土で完全に無政府状態になることもないし、
貴族が根絶やしになることもなかった。
だから封建制度が持続したわけだ。
日本でも、関ヶ原や大阪の陣によって無政府状態が生まれたわけではない。
諸侯も天皇も居たし、徳川家は最大の諸侯だったというに過ぎない。
秩序は保たれつつ戦争状態にあったわけだ。

諸侯を残すというのは家康の独創ではなく、秀吉がやったことを家康が継承しただけと言える。
秀吉は諸侯を滅ぼすほどの自前の軍事力など持ってなかったから、そんなことはそもそもできなかった。
律令制度もそのまま残した。天皇の権威も利用した。
徳川幕府は結局秀吉のやったことを何も変更しなかったし、
外征などは消極的だったわけだから、縮小すらした。
さらにおそらくは藤原氏や北条氏や足利氏を研究して、有職故事を復活させさえした。
天皇家の外戚になろうとさえした。
独創性や破壊性というものはほとんどなかったと言える。だからこそ封建制度が完成した。
ヨーロッパでもおそらく貴族の爵位や騎士などというものはカール大帝の時代までさかのぼれるのではないか。

伊達宗広の歌

陸奥宗光の父は伊達宗広、宗広は紀州藩藩士。本居大平に学ぶとある。大平は本居宣長の養子。本居家は宣長の後、実子の春庭の家系と養子の大平の家系に分かれる。松坂に住んだのが春庭、和歌山に住んだのが大平だったらしい。だから、大平はずっと和歌山城下に住んでいて、というより紀州徳川家に仕え、侍講などしていたので、宗広はその教えを受けられた、ということのようだ。なるほどそんなつながりがあったとは。大平は1756年生まれ、宗広は1802年生まれ、宗光は1844年生まれ。宗広はだから宣長が没した頃に生まれたわけだな。

松坂というか伊勢はもともと紀州領だったようだ。徳川家直轄としたのは伊勢神宮があったからだろうか。藩主治宝(はるとみ)は22才で宣長に五人扶持を与えている。もっとも仕官したわけではなさそうだ。というより宣長はいろんな藩からの仕官の申し出をすべて断っている。ただし養子縁組のためにしばしば和歌山に旅行している。

岡崎久彦「陸奥宗光」を読んでいて、伊達宗広の和歌がなかなかさまになってるなと、感心していたのだが、宣長の子の弟子だったわけだなあ。で、肝心のその歌だが、

葦原の中つ国原うちかすみみどりつのぐむ春は来にけり

なんかこう、古事記の世界を屏風に描いて添えた歌のようだよなあ。祇園の花柳界を詠んだ歌:

もののふのたけき心もなぐさむるうまし花園今盛りなり

どうなんだかなあ。

春来れど籠にこめられしうぐひすは古巣恋しと音をや鳴くらむ

ふるさとにとすれば通ふ夢路のみうき世の外か関守もなし

夢さめてわが影のみぞ残りけるあひみし人はいづち行きけむ

月見れば人ぞ恋しきその人も同じおもひに月や見るらむ

乗り捨てし水際の小ぶね朽ちもせでなににつながる命なるらむ

惜しまれて花も散る世に惜しからぬ身をなど風のさそはざるらむ

玉の緒の絶えねとばかりいのる身につれなきものは命なりけり

桜の花を

思ひ出の多かる花よ花だにもあはれと見ずやわれも昔は

咲けば花散れば塵とぞはらひけるあはれ桜も人の世の中

自分の子供を

まさるべくなほいのるかな竹の子の親と言はむもはつる身にして

仏道にはげむ

西山や月のみかげをしたひあへずくらきに学ぶ身となりにけり

西に入る月のみかげをあふぎても今は仏につかへこそせめ

しじまこそ今はわが身のつとめなれ幾重もとぢよ庭のよもぎふ

鞭打ちし心の駒をひきかへてのりの林につなぎとめつつ

やまもりは名のみなりけりさくら花散るも散らぬも風のまにまに

おほかたは定めなき世にさだめありてしぐれは冬を忘れざりけり

なにごともなすともなくてけふもへぬただあめつちの順々にして

うしといふうき世のことも慣れぬればあやなくものはおもはざりけり

色にこそ名の数もあれ菊の花香はただ同じ香に匂ひつつ

春ごとにつもるよはひは老いぬれどひとり老いせぬものもありけり

嵐山で

もののふのやそ氏人のつどひ来るみよの盛りも花にこそ見れ

あらし山花の盛りを来てみればわれはむなしく老いせざりけり

少し面白いのは

ことわりはことわりとしてことわりの外行くものは世にこそありけれ

何をよし何をあしとか定むべきときとところに変はりゆく世は

たいていは明治になってから詠んだもののようだが、

大殿の深きそのふに咲く花もゆきかふ袖にかをる春かぜ

悪くはないんだが、維新の頃にはこのくらいの歌を詠める人はたくさんいたと思うんだよね。
ともかくももう少しあさってみようかな。
伊達自得翁全集、および補遺だが、東京都都立図書館には置いているようだ。ふーむ。

空海の歌

風雅和歌集には、弘法大師の歌

わすれても 汲みやしつらむ 旅人の 高野の奥の 玉川の水

が収録されているそうだが、はて、あまりにも時代がかけ離れているし、空海が和歌を詠んだとして、風雅集の時代に初めてあらわれたというのが、ちと信じがたい。玉勝間11「高野の玉川のうた」で宣長はこれを後世の偽作と見ている。詞書きには

この流れを飲むまじきよしを、しめしおきてのち、詠みはべる

とあるそうで、歌の意味は「高野の奥の玉川の水は飲むなと定めおかれたものだが、旅人はそれを忘れて酌んで飲むものがいるかもしれない」となる。この歌の解釈を豊臣秀次とその家臣の霊が解釈するという話が雨月物語に出てくる。で、確かに高野山には玉川という川があるようだが、なぜこの川の水を飲むなと空海は定めたのだろうか。よくわからんのう。宣長が指摘しているように「わすれても汲やしつらむ」は「忘れて汲みやせむ」の意味だが、意味が通りにくい。

旅人は 定め忘れて 汲みやせむ 高野の奥の 玉川の水

とかならすっきりわかろうが。

チェーンスモーカー

午後6時から8時くらいまでは、おそらく、仕事と通勤で禁煙を強いられたと思われるサラリーマンが、店に来るなりたばこを吸い始める。いつまでたってもとまらない。四本目まで吸ってまだ勢いが止まりそうもない。私はそこで店を替えたが、こういう人は迷惑だから、どこか喫煙所でニコチンを摂取してから来てくれないかな。

こういう種類の客があまりこない店というのもあって、つまり、勤務中にだらだらたばこの吸える仕事をやってる連中ということなのだろうが、そういう連中の行く店に行ったほうがまだ気は楽だ。

私はもと喫煙者だったが、だいたい自分でたばこを買っても、一箱吸い終わるまえにしけってしまう。ライターもあまり使わないので、たびたび買い足して、使わずに火がつかなくなったライターが山のようにあった。長いこと放置すると中に液が残っていても火はつかないんだよね。で、たまに人が吸っていると吸いたくなってもらいたばこで吸っていたりしたが、それもだんだん面倒になっていつの間にか吸わなくなった。部屋の片付けや匂い、あと火の始末など、たばこがないとずいぶんすっきりする。ポマードなど整髪料と同じで無いのがずっと簡単で楽だ。

あしわけをぶね

宣長の初期の歌論書「あしわけをぶね(排蘆小舟)」だが、検索して見ると、一番古いのは人麿

みなといりの葦わけを舟さはりおほみわが思ふ人にあはぬころかな

拾遺集に収録。つまりはまあ、本来は葦がたくさん生えた入り江に入った小舟が、葦を分けながらなかなか前に進めない、或いは目的の港にたどり着けない、というもどかしさを言うもののようだ。歌の意味としては「差し障りがあって思う人に会えないこの頃だな」という程度。

その後、あしわけをぶねが入る歌はずっと下って、後嵯峨院

道あれと難波のことも思へども葦分け小舟すゑぞ通らぬ

これはまあ普通に和歌の道がなかなか進まないということだろう。為藤

澄む月のかげさしそへて入り江漕ぐ葦分け小舟秋風ぞ吹く

同じ江の葦分け小舟押し返しさのみはいかが憂きにこがれむ

漕ぎ出づる葦分け小舟などかまたなごりをとめさはりたにせぬ

ここらはまあ、普通に叙景の小道具として使われている感じで、為世など、
他にも何例かあるが、草庵集(頓阿)

漕ぎ出づる葦分け小舟などかまたなごりをとめてさはり絶えせぬ

これは、為藤の歌とほとんど同じだな。

波の上の月残らずは難波江の葦分け小舟なほやさはらむ

波の上の月を残して難波江の葦分け小舟漕ぎや別れむ

有明の月よりほかに残しおきて葦分け小舟ともをしぞおもふ

難波江の葦分け小舟しばしだにさはらばなほも月は見てまし

さりともとわたすみのりをたのむかな葦分け小舟さはりあるみに

とまあ同工異曲というか粗製濫造というか、頓阿は他にもたくさん似たような歌を詠んでいるようだ。本歌取りするにもほどがある。題詠+本歌取りで自己完結した知的遊戯に走りすぎる。ここらが確かに二条派の良くないところ。宣長はたぶん頓阿から影響を受けたのだろうな。題名に託した意味としてはたぶん、和歌の道を進む困難さを言いたかった、くらいか。宣長は確かに、為世や頓阿によく似ている。二条派の中の二条派だわな。

江戸時代の歌集

江戸時代の私歌集にはたとえば後水尾院歌集、契沖の「漫吟集」、宣長の「鈴屋集」、蘆庵の「六帖詠草」、秋成の「藤簍冊子」、景樹の「桂園一枝」、良寛の「布留散東」、加納諸平の「柿園詠草」、橘曙覧の「志濃夫廼舎」などの私家集(個人歌集)がある。また、真淵などは自選集はないが弟子や後世の人による個人歌集「あがた居の歌集」などがあり、田安宗武にも同様に「悠然院様御詠草」が、荷田春満には「春葉集」があるが、比較的最近平安神宮から出版された「孝明天皇御製集」も江戸時代の歌人の後世の人による個人歌集の一種といえる。

歌合の記録も残るが、あとは私撰集がかなりたくさんある。幕末だと、蜂屋光世という幕臣が出版した「大江戸倭歌集」「江戸名所和歌集」なるものが出ている。国歌大観に「大江戸倭歌集」は収録されている。どういう基準で集めたかわからんが、商業目的に良さそうなものを適当にむやみと集めたのか。また、真淵や契沖などの国学者やその門人の歌を集めた「八十浦之玉」というものもある。これも国歌大観に収録されている。また、江戸の堂上派武家歌集である「霞関集」「若むらさき」などもある。他にも「麓のちり」「林葉累塵集」「鳥の迹」などというものも国歌大観に収録されている。

これら江戸時代の私家集や私撰集の歌を全部合わせるとものすごい膨大な数になる。また入手しにくいものが多い。なんか気が遠くなるな。

ヤマザクラ


多摩の尾根緑道にヤマザクラの並木があったので、わざわざ撮影に行った。美しいが、ソメイヨシノに比べるとかなり地味。逆に、ヤマザクラを見てからソメイヨシノを見るといかにも人工的な造花のような感じがする。ソメイヨシノは派手だが色調が単調で、幹が黒々とごつごつしてて醜い。ヤマザクラは幹がすっと細く高く伸びて気持ちが良い。

ソメイヨシノだと、桜のトンネルのようなものを何千本も作りやすいのだろうが、ヤマザクラはそんなことをしてもあまり派手な感じにはならず、遠目にはかなり地味な印象で、ここの尾根緑道のような、雑木林にとけこんだような自然な感じにしかならないのではないか。しかしまあ、むやみやたらとソメイヨシノが咲いて、屋台や御輿が出てよさこいソーラン祭りみたいになっているところもあるのだが、わざわざこのような緑道まででかけて静かにのんびり桜を見る方がずっと良い気がする。

青い葉と白い花のコントラストが高いミドリヤマザクラとも明らかに雰囲気が異なる。

参考までにこちらが同じ日に別の場所で撮ったソメイヨシノ。
うーむ。こういうものを日本の文化と言ってしまうのはどうかと、
ヤマザクラを見た後では考えてしまう。単一DNAのクローンなんだよなあ、ソメイヨシノは。戦後の混乱期に、後にどんな劇的な効果を生むか最初はあまり深く考えず、植えてしまうのだが、それが50年も経つとえらいことになってしまい、さくらまつりみたいな盛大な祭りをやらざるを得なくなっている、そんな気がするのだが。ソメイヨシノに振り回されている日本、みたいな。宣長が見たらなんと言うだろうか。

ヤマザクラ(幼木)


比較的新しく植えられたヤマザクラ。ソメイヨシノは割と若いうちから花がたくさん咲くようだが、やはりヤマザクラは若いころは花が多くないのではないか。

植樹されたばかりのヤマザクラ(花が咲いてないのでよく確認できないが、状況的には)は添え木をあてられて幹は一本だけ。花を咲かすことはできず、若い葉だけがめばえている。

ヤマザクラ(樹形)

開けた場所に植えられると、根本から何本も放射状に分岐する。ソメイヨシノの場合に、一本のごつごつとした太い幹が、やや立ち上がった後に分岐するが、ヤマザクラはもっと地面に近いところから何本にもわかれ、幹の一本一本は比較的細い。ヤブに生えているときはその放射状の分岐がかなりせばまり、上へ上へと伸びる。斜面に植えられると横にのび、垂れ下がることもある。