来宮秀雄

今日のイブニングの『おせん』にいかにも小林秀雄風な「来宮秀雄」という人物が出てきて、「へぇへぇたしか高等部の国語の教科書で読まされたでやんす。なんか難しいっていうか、全然遊びも無駄もない文章で、まるで一切つなぎを使わねぇそば職人のような」「ほほうまさに言い得て妙」などというセリフがあるのだが。まあ確かになんというか、志賀直哉や芥川龍之介の短編小説などは「遊びも無駄もない」と言えるかもしれんが、小林秀雄の文章はときにかなり饒舌、冗長に感じる時があるのだが、気のせいだろうか。まれにただ単に原稿料を前借りしているだけではないか思われるときもあるのだが。

「一切つなぎを使わない蕎麦」が「全然遊びも無駄もない文章」に似ているかどうかも微妙だ。そういう文章は省略や余韻というものを多用している。つまり技巧として、本来あるべき語句をそぎ落としているのであり、和歌や俳句などの短い詩形などにもよく使われる。単につなぎを使わないだけではない。逆に短い詩形だからこそ、遊びを使うこともある。遊びを使うために省略もする。

ははあ。国語の教科書で小林秀雄というと「無常という事」なのか。読んだことないな。

「無常といふ事」だが、ごく短い文章なので、さらっと読んでみた。どうということもない文章だが、なぜこのように有名なのか。そしてやはりだらだらとした随想風だ。森鴎外が晩年考証家に堕したというのはとるに足らぬ説であり、同じことを宣長の「古事記伝」にも感じ、「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」「これが宣長の抱いた一番強い思想だ」などと書いている。難解な言い回しだがこれは単に「いろいろと想像で解釈をいじくり回すよりもたくさんの文献に当たって考証学的に意味を推量すべきだ」と言ってるに過ぎないのではないか。それと「常」と「無常」ということや、平安人と現代人の対比となっているのだが、やはり何が言いたいのかよくわからない。

果たして、「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」とは宣長の何を言っているのだろうか、と思うのだが、この「無常といふ事」は戦争中の昭和十七年に書かれたものであり、戦争中に読まれた「古事記伝」には特殊な意味があったに違いない。「本居宣長」は昭和四十年から書かれたものであって、当然昭和四十年に執筆を始めるときには宣長全集か何かを読み直した後のことであろう。だから、「無常といふ事」に書かれている宣長感は、後のものとはだいぶ違っているのに違いない。

ははあ。なるほど。これは、日本が戦争に負けてから出版されたので、「敗戦国民へ向けたメッセージ」として読まれたわけだ。そういう読み方もできなくもないが、それは明らかに誤読だろう。小林秀雄の宣長解釈もこの時点では何かあやふやであるし(そもそも小林秀雄の古事記伝解釈はちんぷんかんぷんだ)、それをまた読者は誤読しているわけだから、
小林秀雄の人気というのも実に怪しい。そしてそれを高校の国語の教科書に載せて、いったい何を読解しろというのだろうか。不思議だ。

追記。「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」とはつまり、古事記に書かれている神話というものは解釈不能なもので、信じるとか信じないとか嘘とかほんとうとか今の時代の価値観とは切り離して、古代人が感じたままに鑑賞すべきであって、だからこそ美しい、と言いたいのだろう。あらためて「無常といふ事」を読み直してみたが、どうしようもない駄文だ。この文に何か意味があったとしてそれを理解することにどれほどの価値があろうか。

「過去から未来に向かって飴のように伸びた時間という蒼ざめた思想」とか「現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、無常という事がわかっていない。常なるものを見失ったからである」など、気取って、言葉をもてあそんでいるだけにしか見えない。

鴎外の仮名遣意見

假名遣意見 森鴎外。すばらしいね、こういうものがさくっと検索してただで読めるのだから。この中で、本居宣長のことは、本居とか、本居先生とかで出てくるのだが、

扨(さて)古學者が假名遣のことをやかましく論じて居るのに、例之ば本居の遠鏡(とほかゞみ)の如き、口語で書く段になると、決して假名遣を應用して居らぬと云ふことを、假名遣を一般に普通語に用ゐるのは不可能である、或は困難であると云ふ證據に引かれますけれども、是れは少し性格が違ふかと思ふ。古學者達は文語と云ふものは貴族的なもののやうに考へて居りますから、そこで貴族の階級を極く嚴重に考へまして、例之ば印度(インド)の四姓か何かのやうに考へまして、ずつと下に居る首陀羅(しゆだら)とか云ふやうな下等な人民は、是れは論外だ、斯う云ふ風に見て居りますから、所謂俗言と云ふものを卑(いや)しんだ爲めに、俗言のときは無茶なことをしたのであります。若し假名遣を俗言に應用する意があつたならば、所謂俗言を稍重く視たならば、あんなことはしなかつたらうと思ふのであります。

本居の遠鏡というのは古今和歌集遠鏡のことだが、確かにこれは宣長の著作としては珍しく、古今集を当時の完全な口語訳を、しかも逐語訳的に作ろうとしたものである。しかし、森鴎外の言うように、宣長は、俗語というものを卑しんだがために、ぞんざいな口語訳を作ったかというと、そうとは言えないように思うし、また仮名遣いという意味では、きちんと「を」「お」や「い」「ひ」「ゐ」などを使い分けているように見える。

それでありますから芳賀博士が、若し本居先生などが今在つたならば決して假名遣を國民に布くなどと云ふことは云はれないだらうと云はれるのは、同意が出來兼ます。本居先生が今在つたならば、必ずや國民に假名遣を教へようとしただらうと思ひます。本居先生のみならず堀秀成先生の如きも、是れは死なれてから間もありませぬけれども、若し今日居られたら矢張假名遣を國民に行はうとしたであらうと思ふ。

明治も終わりのころまで仮名遣いをどうするか、結論が出てなかったということだな。本居宣長が明治に生きていて、国民に「俗語的な仮名遣い」と「歴史的な仮名遣い」とどちらを教育しようとしたか、ということについては、まったく見当もつかないのだが。ていうか鴎外は、本居宣長の心境になりかわって、本居宣長ならばどう考えただろうかというような思考実験をしているようにはとても思えない。ただ宣長という権威を利用して自分の説を補強したいだけのようにみえる。

鴎外は要するに、ドイツ語にも英語にもフランス語にも正書法 (Orthographie) というものがあり、綴りと発音は決して一致していないのであり、それが当たり前なんだと言いたいわけだ。フランス語や英語に関してはまったくその通りで、特に英語はひどい。ドイツ語はかなり綴りと発音が近いが、 lieben の形容詞 lieb が [li:b] ではなく [li:p] と発音するなどの例をわざわざ探し出している。そして「歴史的仮名遣い」という言い方自体が何か過去の遺物のような印象を持たせてよろしくないから単に「仮名遣い」と言うべきだ、
などと言っている。

* 臨時仮名遣調査委員会
* 仮名遣

宣長の違和感

ドナルド・キーンや司馬遼太郎が宣長の文章に違和感を感じているという件だが、これはやはり何かの勘違いなのではないかと思えてきた。

もし宣長が、普通の学者のように、古今以降新古今的な言葉遣いだけを用いていたら、たぶんキーンも司馬も違和感は感じなかっただろう。現代人は新古今的なものや古今的なものは抵抗なく受け入れられるからだ。小倉百人一首などの古典のおかげだろう。

しかし宣長はそれ以前の記紀万葉や祝詞などを発掘した人なわけで、おそらく現代人はそういうものを聞くと激しく違和感をおぼえると思う。たとえば神主さんが祝詞をよみあげるわけだが、普通の人は意味がわからないから違和感もないだろうが、意味をわかって聞くと相当にへんてこな気分がするだろうと思う。私ですらそうだから、司馬やキーンなどもそうなのに違いない。ちなみに私は七五三や結婚式などで神主さんの祝詞を耳で聞いてほぼ100%理解できた。別に難しくもなんともない。あれがいわゆる擬古文というものだ。ふだん古典文法で和歌を詠む訓練をしていればあんなものはどうということはないのだ。

しかし、宣長が記紀万葉の言葉使いをしているところは彼の著作のほんの一部だ。玉勝間の中でも一部にしか出てこない。多く出てくるのは、私はあまり読んだことがないのだが古事記伝あたりだろう。そういう、一部の印象でもって判断しているのではないか。宣長の文章にはそういう雑多なものが混ざっている。漢文も、新古今も古今も、江戸風の言い回しも。その違いがわからず、つまり意味もわからず、ただなんとなく宣長の文章を読んでいたらちょうど車酔いのような気分になるだろう。それが違和感なのではないか。ははあここは祝詞だな、とか、ここはわざと万葉調に書いてるな、ここはどうも日常語らしいな、などとわかって読めば別にさらっと読めると思うのだが。

それから、万葉の古語を最初に発掘したのは賀茂真淵だから、宣長が「創作」したというのは当たらない。「創作」という言葉にも何か悪意を感じるな。

ドナルド・キーン3

ドナルド・キーンの「足利義政」を読んだ。ハードカバーだが、文章量はさほどない。それをさくっと読んだ感想だが、やはり、この人自身が、義政の東山文化にしか興味がなく、というか東山文化に興味をもったために義政に行き付き、その施政に疑問を持ち、いろいろ調べてみたが、西洋的な為政者のイメージとあまりに違っていてわけわからん、というのが結論らしい。

思うにドナルド・キーンは明治天皇を褒めすぎで義政をけなしすぎ。確かに明治天皇は偉大な人で、外国人から見ても日本人から見ても驚嘆すべき存在なのだが、ここまで褒めるのは何か偶像視しているようで違和感がある。明治天皇は偶像ではない。実在した生身の君主だ。逆に義政も悪政者の偶像ではない。

たぶん、ドナルド・キーンという人は、明治天皇と義政以外の日本の為政者は描けない人なのだろう。事実、彼は義教を義政の父として紹介しているのだが、実に平板な、恐怖政治を敷いたために暗殺された人、みたいな描写になっている。なんとも観察が浅すぎる。そんな文章なら大学生のレポートでも書くだろう。極端な例をさらに誇張して書くことしかできないのであれば、日本の歴史に現れたさまざまな功労者たちをどうやって顕彰できようか。日本史全体の流れをどうやってとらえられようか。そういうつまみ食い、文脈を無視した切り出しは許せない。

日本外史は、そうはなってない。将門・純友の乱から始まり、前九年の役、後三年の役、保元の乱、平治の乱、源平合戦、承久の乱、建武の新政、南北朝の争乱、と読んでいくうちに、頼山陽が主張したいテーマというものが一本につながってわかってくる。なぜ天皇は失政を繰り返したのか。なぜ武家政権が起こったのか。なぜ武士らが皇位の継承や領国支配に干渉せねばならなかったか。もちろん個々人の活躍もあるのだが、日本外史が主張したいのはその日本史のコンテクストというものだ。しかしつまみ食い派の司馬遼太郎やドナルド・キーンにはその観点はない。そしておそらく、今の日本史教育にもそれはない。

なるほど、キリスト教やイスラム教では貧民に施しをする喜捨の習慣がある。美徳と言ってもよいかもしれん。しかし、内村鑑三も言うように、彼もキリスト教徒だが、一万円の金を一万人に一円ずつ配るよりは、その一万円の金で新しい事業を興した方が世の中のためにはなるだろう。その一万円が雇用を生み産業を生んだら何百万円の価値に増えるからだ。目の前の貧民に施しをしなかったから悪人であるというのはあまりにも短絡的ではないか。

内村鑑三の意見はエントロピー的にも正しい。一円の金を集めて一万円にするにはたいへんなエネルギーが要る。或いは、金儲けという才能、或いは運が要る。しかし一万円を一円ずつばらまくのは極めて簡単だ。労力は要らない。運も要らない。そしてばらまいたものは二度と戻っては来ない。仮にその一万円の投資が失敗しても、誰かにその金は渡っているのだから、世の中全体として無駄になったわけではない。

私なら知人で困っている人(かつ好意を持っている人)には何らかの援助をすることもあるかもしれんが、マスコミやら慈善団体を通じて寄付や募金をするということはしないと思う。自分のお金がどう使われるか、どんな人間に渡るのかコントロールできないのだから。

司馬遼太郎にしても、海軍を褒めすぎて陸軍をけなしすぎ。実際には海軍にもいろんな暗部恥部があったに違いない。陸軍とそれほど大した違いはないはず。なるほど東郷平八郎は偉大な提督だったかもしれんし、乃木希典には致命的な欠点があったかもしれんが、トータルで見たときに、組織として、陸軍と海軍のどちらかが悪でどちらかが善、という描写をするのは極めて危険だと思う。もし彼が単なる娯楽小説として書いているならばともかく、第二次世界大戦の敗北の遠因を分析しているつもりだとすれば、明らかに間違っていると言えよう。それは、幕末や戦前の危険思想家とどれほどの違いがあろうか。

ドナルド・キーン2

続き。ドナルド・キーンは

宋代の美学は、日本に非常に影響を与えています。

和歌の場合でもそうだと思いますが、特に京極派とか冷泉派の和歌の場合は、圧倒的に影響が強いですね。そもそも定家の場合でもそう言えるのじゃないですか。

などと言っている。別にここは目くじら立てるようなところではないのかもしれないが、
いったい何が言いたいのかわからない。もちろん定家以降の和歌には漢詩や禅などの影響が強いのだが、定家、京極派、冷泉派などと例示するならするで、では定家のどこが、京極派のどこが、冷泉派(二条派という意味だろうが)のどこがどう影響を受けたのか言ってもらわないと困る。

南宋の文化は、日本に一番影響を与えたと思います。そのあたりの詩歌は、日本人の趣味にぴったり合っていた。感情的であって、あまり雄大なテーマはとりあげない。むしろ年を取ることがどんなに悲しいかとか、自分の生活がロウソクのようにだんだん消えていくとか、それは日本人にとってわかりやすい、しみじみとした表現だったでしょう。

などとも言っているところを見ると、やはり何か勘違いをしているとしか思えないのだが。感情的で日常茶飯な歌もあるがそうではない歌もたくさんあるからだ。司馬遼太郎との対談は失敗だったのではないか。というのは、ドナルド・キーンはものすごく正直に、
自分の思ったことを言っているのだが、司馬遼太郎はその認識の誤りを指摘も訂正もできてないからだ。

キーン:

本居宣長などは、純粋のやまとことば、つまり当時の日常生活に使用されていることばとまったく違うようなことばで、自分の作品を書きましたが、なるべく穢い外来のことばを避けるために、不思議な、まったく不自然な日本語を創作した。

司馬:

あまり日本的なものとしてがんばりすぎると、いやらしいものになる。宣長さんがいやらしいかどうかは別として、あれは不自然なんです。ぼくは…小林秀雄さんにも申し上げてみたのですけれど、…あの文章を読むと生理的な不快感があるのです。

たとえば「玉勝間」というのは、何か細工物を見ているみたいな感じで、心が生き生きとおどってこない。

などと言っている。ここで、いくつか認識に誤りがある。まず、少なくとも玉勝間は、ただの随筆であって、「当時の日常生活に使用されていることばとまったく違うようなことば」で書かれているわけではない。漢語もたくさん混じっている。もちろん国学者独自のやまとことばによる言い回しも多いけれど、それは国学について書いているわけだから仕方ないことだ。玉勝間には国学とは関係ないほんとに普通の随筆も混ざっている。漢文の公家の日記を延々引用しただけのものもある。おそらくあれは、普段宣長がしゃべっていたのにかなり近い言葉で書いたものだろう。「うひ山ぶみ」「排蘆小船」などの歌論も同様だ。少なくとも私には「細工物」というよりは宣長の「肉声」を感じる。また、日記にはほとんど漢文調のものもある。享和元年日記など。「こまけえことはいいんだよ」レベル以上の事実誤認だ。

当時和歌は極力やまとことばだけで詠まれた。柔らかいやまとことばだけで歌を詠むというのは、ずっと続いてきた伝統であり、その代わり詞書きや題などには漢語が使われる。そういう区別はずっとあった。少なくとも宣長が創作したのではない。また小林秀雄にも申しあげたのだが、などと言っているが、小林秀雄は別段宣長の文章をおかしいとは思わなかっただろう。ドナルド・キーンや司馬遼太郎など、宣長からかなり遠いところに位置する人には、不自然なものに思えるだけではなかろうか。心が生き生きとおどってこない、というのも、結局宣長は偉い学者だと思っているだけで、その歌論にも思想にもまったく関心がないのに違いない。だから、宣長の文章が何か古代の祝詞をむりやり現代に復活させたようなものに思えるのに違いない。むしろ、宣長以外の誰かが書いたへたくそな擬古文の印象のせいなのではないか。たとえば、源氏物語や平家物語などを読んだあとに宣長の文章を読めば、そりゃあ不自然な感じはするでしょうよ。それはだけど仕方ないことだろう。

実際司馬遼太郎は別のところでもしばしば宣長は偉い学者だとは言っているが、では宣長のどこが偉いかとかどこが好きかなどということはまるで言ってない。結局彼は秀吉や龍馬のような人物が好きであり、勝海舟や北条泰時や本居宣長のような人間には関心がないのだ。ただそれだけだと思う。

ドナルド・キーン

ドナルド・キーンという人はまだ存命中の方のようで、88才くらいだろうか。源氏物語か何かを研究して海外に紹介した人、というようなイメージであっているだろうか。「日本人と日本文化」という本で、司馬遼太郎と対談しているのだが、何かずいぶんへんてこなことを書いている。

私は正規に日本史教育を受けた人間ではない。高校では世界史を取った。いわば独学なのだが、それもつい最近、日本外史を精読するようになったから、ついでにいろいろ調べてみているに過ぎない。で、日本史を特に知らなかったころの自分がこの本を読んだら、ふーんなるほどで済ませてしまっていたと思う。なるほど、司馬遼太郎とドナルド・キーンがそういうのならそうなんだろうな、と。しかし、ある程度わかってみて、自分の考えというものが固まってから読んでみるとかなり個性のある、独自の主張、もっというと異様な主張をしているように思えてくるのだ。

特に驚いたのは、足利義政と本居宣長についての評価だ。司馬遼太郎は義政を

法制的には(共和制ローマの)護民官みたいな立場にありながら、まったく政治ということにタッチしなかった

と言っている。また、キーンは

ローマ皇帝のネロが、ローマの燃える炎を見ながら、バイオリンを弾いていたという伝説がありますけれども、これは嘘でしょう。しかし事実として義政公は、花の御所で、いろいろ風流の遊びをし続けていた。そのごく近い所で、多くの人々が死んでいった。

などと言っている。ようするに彼らは、足利将軍をローマ皇帝だか護民官のようなものと比較して、あまりに義政が無為で文弱だった、と言いたいわけだ。しかし私は、もしドナルド・キーンが義政と同じ立場に立たされれば、きっと義政と同じようにやるしかなかっただろうと思う。

足利高氏は逆賊となるよりはと、一族郎党にかつがれて、幕府を作り北朝を立てた。義満の時代に南北朝は解消したが、必ずしも義満に権力が集中したわけではなく、すでに有力守護大名や関東管領らによる合議体に成りつつあった。おそらく南北朝の争乱を通じて将軍家としては、功績のあった諸侯に褒賞として守護職を与え続けるしかなかったのだろう。畠山にしろ細川にしろ山名にしろもとは関東から出てきて足利氏を御輿にして一緒に戦ったわけだが、だんだん足利氏の手に負えなくなった。

ところが足利義教の時、鎌倉公方を滅ぼしたり守護大名の力を押さえたりして、中央集権の強化を図った。義教は足利将軍の中では一番強権的で、帝政ローマの皇帝か共和制の護民官に匹敵したかもしれん。しかし、義教はあんまり調子に乗りすぎたせいで、守護大名の一人の赤松氏に弑されてしまい、赤松氏を討伐した山名氏は赤松氏の領国も合わせてますます強大になった。ここで当時最有力だった細川氏との間で緊張が高まった。

そもそも守護大名らはいくつもの領国を持っていたので、将軍家よりも力を持っていた。山名宗全など赤松氏の領国を合わせて但馬・備後・安芸・伊賀・因幡・伯耆・石見・播磨の八ヶ国の守護職だった。足利氏が独力で細川氏や畠山氏を討伐することなど不可能だし、討伐したらしたで功績のあった大名の領国が増えるだけだ。最悪、赤松氏に殺された義教のように、自分も守護大名に殺されることだってあり得る。そういう状況で義政が大名の家督争いを下手に仲裁しようとしたもんだから、応仁の乱に発展し、日本全土に戦が広まって、長期化してしまった。おそらく、義政にできたことは、荒れ果てた京都において、天皇家や公家らを保護するくらいのことだっただろう。義政は最初はおそらく将軍らしくいろいろな問題を仲裁しようと思ったが、自分にできることがあまりにも少ないので絶望してしまったのだろう。だから早く引退したかったのだが、子供もいないので仕方なく養子を育てることにしたのだが、実子が出来てしまい、正室の日野富子がどうこうということがあって、なかなか将軍職を辞めらなかった。

キーンは、京都に住んで京都大学で研究してたから、京都のことはよく知っていたに違いない。いろんな人からいろいろ義政の話も聞いたのだろうが、義政の極めて一部だけを知って、つまり銀閣寺を建てたとか花の御所で遊び暮らしたとか、そんなことだけをとがめ立てして憤慨しているとしか思えない。

ある意味では気違いだったのでしょうか。

とまで言っている。気違いだとかアスペルガーだとか言ってしまえばもうそれから先は思考停止しかない。

司馬遼太郎はもっとひどい。義政はまったく政治にタッチしなかったのではない。なんとか仲裁し調停しようとはしたのだ。しかし守護大名らは勝手に戦を始めてしまった。軍事力をもたず調整役でしかない将軍が、始まってしまった戦をどうすることができようか。さらに応仁の乱はあまりにも長期的で全国的な争乱だった。おそらくは散発的なものだったのだろう。それで焼け出された民衆を助けるといっても限度があったに違いない。おそらくは、まったくなにもしなかったのではなかろう。やってみたが、焼け石に水だったのだ。それに、民衆を助けるというが、その実態は「足軽」という名のよくわけのわからない民衆たちが、勝手に寺や神社や公家の屋敷などに火を付けて略奪して回った、というのが事実なのではなかろうか。そんな民衆をどうして助けたいと思うだろうか。

なるほど、ドナルド・キーンと言う人が、義政について、よくわからないと。分からないなりに外国人としての視点から指摘をするのはまだ良いが、それについて、きちんと誤りを正す立場にある日本人が、司馬遼太郎のように、

キーンさんは、いわば義政はろくでなしの政治家であるとおっしゃった。まったく言われてみればその通りですが、しかしわれわれは将軍というものに、それほど政治家であることを期待していない。
当時も後世のわれわれも期待してないわけです。

足利将軍家の義政というのは東山文化を生んだたいへん偉大な人物であると、われわれ不覚にも単純に思っていたら、キーンさんはそれを大統領にして、あの「大統領はよくなかった」とおっしゃるからおもしろかった。

などと言ってしまっては、もうどうしようもない。司馬遼太郎の認識では足利義政は銀閣寺はすばらしいくらいでしかなく、そこに外国人から為政者として批判があっても、それにうまく答えられない。そればかりか、無学な北条氏はまじめに政治をやったが、教養人の義政は不真面目だった、要するに学問があるやつは政治にむいてないくらいの、ただの飲み屋の親父が言う程度のことしか言えてない。

思うに北条泰時などは相当なインテリだっただろう。ああいうことはよっぽどきちんと宋学を学んでないとできないはずだ。それに泰時は定家に学んで歌も残している。無学どころではない、きちんと当時の京都の最新の教養を身につけた人だ。始祖の北条時政もずいぶんと利口だった。でなければあんな大それたことはできまい。それがどうして

鎌倉時代の北条三代というのは、無学でしたけれども、一生懸命政治をします。

などということになるのだろうか。司馬はさらに

どうも後世から応仁の乱を考えると、無意味で、どうしようもなくて、ただ騒ぐだけの戦争ですが、

などとも言っているのだが、ようするに、彼にとって秀吉や義経や龍馬のような、わかりやすい英雄とか、わかりやすい決着が不在の戦争、ごちゃごちゃした始まりも終わりもないようなうやむやな内戦のような戦争は無意味でただ騒ぐだけの戦争に見えるということだろう。そういう認識は間違っていると思う。そしてほんとうに問題なのは、日本人の多数が司馬遼太郎程度にしか応仁の乱を認識していないってことだよな。

なるほど。ドナルド・キーンは足利義政について何冊か本を書いているようだな。まあ、だいたい内容の予測はつくが。

草加

出張で草加まで行く。広々としている。綾瀬川。ほとんど起伏無く真っ平らな、典型的な武蔵野。武蔵野の広さを実感するには、浅草から日光までじっくり東武に乗ってみるとわかるだろう。これが神奈川だと、だいたい川沿いには深い谷ができる。崖にすらなっているが、神奈川の風景とはだいたいが山から川が出てくる谷地ばかりだからだ。草加の綾瀬川などは、周りの土地に何の渓谷も形成していない。つまりここは氾濫原であって、川筋が固定されたのはつい最近のことなわけだ。これだけまったいらで広々したところに首都を作ればどれほど便利だっただろうか。軽くロサンゼルスくらいの規模の街を作れるだろう。だが、江戸時代にはそんなに広大な都市を造ろうという発想はなかったに違いない。

龍馬の歌

けっこうたくさんあるんだな。歴史的仮名遣いに直したりした。

春夜の心にて

世と共に うつれば曇る 春の夜を 朧月とも 人は言ふなれ

月と日の むかしをしのぶ みなと川 流れて清き 菊の下水

湊川で詠んだものらしい。「月と日の」は謎。日月旗(錦の御旗)の意味か。単に月日、歳月という意味か。菊の下水とは楠木正成の菊水紋を言うか。

憂きことを 独り明しの 旅枕 磯うつ浪も あはれとぞ聞く

明石で詠んだもの。

嵐山 夕べ淋しく 鳴る鐘に こぼれそめてし 木々の紅葉

嵐山。

梅の花 みやこの霜に しぼみけり 伏見の雪は しのぎしものを

伏見で江戸へ出立の時に

又あふと 思ふ心を しるべにて 道なき世にも 出づる旅かな

先日申てあげたかしらん、世の中の事をよめる

さてもよに 似つつもあるか 大井川 くだすいかだの はやき年月

いずれも淀川。

桂小五郎揮毫を需めける時示すとて

ゆく春も 心やすげに 見ゆるかな 花なき里の 夕暮の空

心から のどけくもあるか 野辺はなほ 雪げながらの 春風ぞ吹く

丸くとも 一かどあれや 人心 あまりまろきは ころびやすきぞ

これはちょっと面白い。

奈良崎将作に逢ひし夢見て

面影の 見えつる君が 言の葉を かしくに祭る 今日の尊さ

「かしくに」は「かしこに」か??

父母の霊を祭りて

かぞいろの 魂や来ませと 古里の 雲井の空を 仰ぐ今日哉

蝦夷らが 艦寄するとも 何かあらむ 大和島根の 動くべきかは

常磐山 松の葉もりの 春の月 秋はあはれと 何思ひけむ

世に共に うつれば曇る 春の夜を 朧月とも 人は言ふなれ

土佐で詠む

さよふけて 月をもめでし 賤の男の 庭の小萩の 露を知りけり

泉州名産挽臼

挽き臼の 如くかみしも たがはずば かかる憂き目に 逢ふまじきもの

これは何か。結構面白い歌だな。単なる月並みでも人まねでもない。上司と部下がうまく噛み合って連動すればこのようなつらい目にあうことはないのに、という意味。いろいろ解釈はあるようだが、土佐や長州というよりは、勝海舟の立場を詠んだものではなかろうか。ははあ。ただしくは吉村虎太郎の作という説もあるようだ。なかなか簡単には信用できないね。

藤の花 今をさかりと 咲きつれど 船いそがれて 見返りもせず

「船急がれて」か。これも吉村虎太郎作らしい。

文開く 衣の袖は ぬれにけり 海より深き 君がまごころ

世の人は われをなにとも 言はば言へ わがなすことは われのみぞ知る

春くれて 五月まつ間の ほとどぎす 初音をしのべ 深山べの里

人心 けふやきのふと かわる世に 独り歎きの ます鏡かな

消えやらぬ 思ひのさらに うぢ川の 川瀬にすだく 螢のみかは

みじか夜を あかずも啼きて あかしつる 心かたるな やまほととぎす

かくすれば かくなるものと 我もしる なほやむべきか やまとたましひ

君が為 捨つる命は 惜しまねど 心にかかる 国の行末

もみぢ葉も 今はとまらぬ 山河に うかぶ錦や おしの毛衣

山里の かけ樋の氷 とけそめて 声打ちかすむ 庭の鶯

道おもふ ただ一筋に ますらをが 世をしすくふと いのりつつゐし

くれ竹の むなしと説る ことのはは 三世のほとけの 母とこそきけ

うーむ。謎は深まった。もっとサンプルがたくさんあるとわかりやすいのだが。

居酒屋ばくまつ (過去ログ置き場です

龍馬の和歌ですが、龍馬が詠んだと伝えられている和歌の数はそれほど多くはありません。現存する短冊や書簡、あるいは関係文書に収録されているもので殆どですが20首前後です。ただ、坂本家は実は歌人一家で代々、玄祖父直益、曽祖父直海、祖母久、父直足、兄直方、姉栄、外曽祖父井上好春、義兄高松順三などなど、詠んだ和歌が遺されており、歌会もしばしば営まれていたようです。この歌人一家の環境の中で龍馬は幼少期より姉乙女の薫陶を受け和歌も学びますが、大岡信氏によれば古今和歌集の系統の新古今和歌集や新葉和歌集を読んだ影響が見られるとのことです。

なるほどなあ。

象徴天皇

司馬史観の中でも、
空気のように当たり前と思われているのが、
天皇は今のように権力を持たず権威だけを持っている状態が「正常」であり、
後鳥羽上皇や後醍醐天皇や明治天皇のように実権を持っている状態が「異常」なのだ、
という説だ。
司馬遼太郎は天皇さんは神主さんだと言っている。
神主は、政治のどろどろとしたものに関わってはならない、浮世離れしてなくてはならない、という。

また、信長は天皇を担ごうとしたのではなくて足利将軍を担ごうとしたのだが、途中でじゃまになったので捨てて、
しようがなく天皇を担いだのだという。
秀吉は出自が賤しいので最初から天皇の権威で箔付けしようとした。
家康はそれを踏襲した。
そのように司馬遼太郎は言うわけだ。

よくわからん理論ではある。
一種の政教分離論。
俗と聖の分離。
わかりやすく聞こえるが、個々の事例に当てはめようとするとうまく説明できない。
天皇とは何かということ自体、一言で説明できるわけがない。

たとえば、司馬天皇論が、保元平治の乱や後白河院政に当てはまるか。否。
北条氏による承久の乱の戦後処理に当てはまるか。南北朝の動乱をうまく説明できるか。否。
後水尾天皇や孝明天皇のような江戸期の天皇をうまく説明できるか。否。
徳川幕府と天皇家の関係や、足利幕府と天皇家の関係を説明できるか。できないだろう。
足利義政は応仁の乱で御所が焼失したとき天皇を自分の屋敷に住まわせて一緒に寝起きし茶の湯や能楽を楽しんだ。
なるほど、御所が焼けたときに女御の里に天皇が住んでそこが御所として機能したことはある。
が、足利氏は藤原氏とは違う。天皇家は外戚関係にはないのだ。
あり得ないことだ。
このような関係をどう説明するのか。

今日まで一貫して日本の正統は天皇家にある。
しかも天皇は生身の人間であって、神主の性格も持っているがそれ以外の「俗」な属性も持っている。
独自の皇位継承ルールも持っている。

正統とは具体的には軍事・立法・司法・外交・税・所有権などすべてのことであり、
宗教的・象徴的権威だけを言うのではない。
天皇家の本質はそれが日本の正統の担い手であってそれ以外に担い手がいないということだ。
そうでなければ承久の乱のあとあれほど北条氏はトリッキーな苦労をしたろうか。
南北朝時代に足利尊氏は苦労したろうか。
天皇家が分かれたり消滅したりすれば日本中に天皇の子孫を称する人間が現れて、
それぞれが皇位の正当性を主張し始めて、
結果的にそれは無政府状態を作り出す。
明治天皇が南朝を正統としたためにわらわら天皇家の子孫が名乗り出てきたのと同じだ。
南北朝時代が長引けば日本中に後醍醐天皇の子孫が天皇を称したかもしれん。
そうなれば日本の分裂だ。
北海道に渡って独自王朝を作ろうとしたかもしれん。
以仁王が奥羽まで逃げていたらほんとにそうなったかもしれないし、
後村上天皇だってそのくらいのことはしかねなかった。
九州にも南朝の皇子は居て勝手に中国と貿易していた。自立したら独立国になってしまっただろう。
というか、後醍醐天皇が都を吉野ではなくて鎌倉に移したら確実に日本は二つに分裂していただろう。
長州だって天皇か皇子を長州まで連れて行こうとしたわけだし。
高氏の北朝だって本質的には同じこと。

いったん無政府状態を経なければ天皇家の代わりとなる日本の正統は創造できないのだが、
日本にはそのような状態は今まで一度もなかった。推古朝以前は知りようもないが。
北条氏も足利氏も要するにそのような完全な無政府状態が発生するのを恐れたのだと思う。
そんなものを作り出す当事者になるのを拒否したのだ。たとえ日本国王になれたとしてもだ。
もっと言えば、日本国王になんかなりたくなかったのだ。
彼らがほしかったものは日本国を統治する権力であって国王の地位ではなかった、と言えば良いか。
だからどんな屁理屈をこしらえてでも皇位を継承してきたのだ。

そうして考えてくると「象徴天皇」が正常だとか後鳥羽上皇が異常だとかいう分類が、
本質的な意味などないことがわかろう。

徳川家康による「終戦」も非常に面白い。
天皇を残し諸侯も残し、かなり純粋な形の、しかも安定した封建制度を作り出した。
もし、天皇家を滅ぼし、諸侯も滅ぼし、中国皇帝的な独裁君主になろうとしたら、
あと何十年も戦争を継続しなくてはならなかっただろう。
しかし家康ははやく戦争をやめてしまいたかったし、
自分の子孫の代までその事業を継続したいとも思わなかったに違いない。
だからあんなふうになったのだ。
有史以来最大の軍事力を持てた徳川家ですら、そこでやめてしまったということだろう。
家光がちょっと脅しをかけたようだが、本気ではなかったのではないか。

そう考えてくると、中国では、数百年おきに完全な無政府状態が起きる。
そこで易姓革命が起きる。
ヨーロッパではたとえ国ごとに革命が起きても、ヨーロッパ全土で完全に無政府状態になることもないし、
貴族が根絶やしになることもなかった。
だから封建制度が持続したわけだ。
日本でも、関ヶ原や大阪の陣によって無政府状態が生まれたわけではない。
諸侯も天皇も居たし、徳川家は最大の諸侯だったというに過ぎない。
秩序は保たれつつ戦争状態にあったわけだ。

諸侯を残すというのは家康の独創ではなく、秀吉がやったことを家康が継承しただけと言える。
秀吉は諸侯を滅ぼすほどの自前の軍事力など持ってなかったから、そんなことはそもそもできなかった。
律令制度もそのまま残した。天皇の権威も利用した。
徳川幕府は結局秀吉のやったことを何も変更しなかったし、
外征などは消極的だったわけだから、縮小すらした。
さらにおそらくは藤原氏や北条氏や足利氏を研究して、有職故事を復活させさえした。
天皇家の外戚になろうとさえした。
独創性や破壊性というものはほとんどなかったと言える。だからこそ封建制度が完成した。
ヨーロッパでもおそらく貴族の爵位や騎士などというものはカール大帝の時代までさかのぼれるのではないか。

伊達宗広の歌

陸奥宗光の父は伊達宗広、宗広は紀州藩藩士。本居大平に学ぶとある。大平は本居宣長の養子。本居家は宣長の後、実子の春庭の家系と養子の大平の家系に分かれる。松坂に住んだのが春庭、和歌山に住んだのが大平だったらしい。だから、大平はずっと和歌山城下に住んでいて、というより紀州徳川家に仕え、侍講などしていたので、宗広はその教えを受けられた、ということのようだ。なるほどそんなつながりがあったとは。大平は1756年生まれ、宗広は1802年生まれ、宗光は1844年生まれ。宗広はだから宣長が没した頃に生まれたわけだな。

松坂というか伊勢はもともと紀州領だったようだ。徳川家直轄としたのは伊勢神宮があったからだろうか。藩主治宝(はるとみ)は22才で宣長に五人扶持を与えている。もっとも仕官したわけではなさそうだ。というより宣長はいろんな藩からの仕官の申し出をすべて断っている。ただし養子縁組のためにしばしば和歌山に旅行している。

岡崎久彦「陸奥宗光」を読んでいて、伊達宗広の和歌がなかなかさまになってるなと、感心していたのだが、宣長の子の弟子だったわけだなあ。で、肝心のその歌だが、

葦原の中つ国原うちかすみみどりつのぐむ春は来にけり

なんかこう、古事記の世界を屏風に描いて添えた歌のようだよなあ。祇園の花柳界を詠んだ歌:

もののふのたけき心もなぐさむるうまし花園今盛りなり

どうなんだかなあ。

春来れど籠にこめられしうぐひすは古巣恋しと音をや鳴くらむ

ふるさとにとすれば通ふ夢路のみうき世の外か関守もなし

夢さめてわが影のみぞ残りけるあひみし人はいづち行きけむ

月見れば人ぞ恋しきその人も同じおもひに月や見るらむ

乗り捨てし水際の小ぶね朽ちもせでなににつながる命なるらむ

惜しまれて花も散る世に惜しからぬ身をなど風のさそはざるらむ

玉の緒の絶えねとばかりいのる身につれなきものは命なりけり

桜の花を

思ひ出の多かる花よ花だにもあはれと見ずやわれも昔は

咲けば花散れば塵とぞはらひけるあはれ桜も人の世の中

自分の子供を

まさるべくなほいのるかな竹の子の親と言はむもはつる身にして

仏道にはげむ

西山や月のみかげをしたひあへずくらきに学ぶ身となりにけり

西に入る月のみかげをあふぎても今は仏につかへこそせめ

しじまこそ今はわが身のつとめなれ幾重もとぢよ庭のよもぎふ

鞭打ちし心の駒をひきかへてのりの林につなぎとめつつ

やまもりは名のみなりけりさくら花散るも散らぬも風のまにまに

おほかたは定めなき世にさだめありてしぐれは冬を忘れざりけり

なにごともなすともなくてけふもへぬただあめつちの順々にして

うしといふうき世のことも慣れぬればあやなくものはおもはざりけり

色にこそ名の数もあれ菊の花香はただ同じ香に匂ひつつ

春ごとにつもるよはひは老いぬれどひとり老いせぬものもありけり

嵐山で

もののふのやそ氏人のつどひ来るみよの盛りも花にこそ見れ

あらし山花の盛りを来てみればわれはむなしく老いせざりけり

少し面白いのは

ことわりはことわりとしてことわりの外行くものは世にこそありけれ

何をよし何をあしとか定むべきときとところに変はりゆく世は

たいていは明治になってから詠んだもののようだが、

大殿の深きそのふに咲く花もゆきかふ袖にかをる春かぜ

悪くはないんだが、維新の頃にはこのくらいの歌を詠める人はたくさんいたと思うんだよね。
ともかくももう少しあさってみようかな。
伊達自得翁全集、および補遺だが、東京都都立図書館には置いているようだ。ふーむ。