開けた場所に植えられると、根本から何本も放射状に分岐する。ソメイヨシノの場合に、一本のごつごつとした太い幹が、やや立ち上がった後に分岐するが、ヤマザクラはもっと地面に近いところから何本にもわかれ、幹の一本一本は比較的細い。ヤブに生えているときはその放射状の分岐がかなりせばまり、上へ上へと伸びる。斜面に植えられると横にのび、垂れ下がることもある。
カテゴリー: 雑感
ヤマザクラ(接写)
ヤマザクラとミドリヤマザクラ
さくら品種図鑑、桜花譜等々を見ると、山桜には主に「ヤマザクラ」と「ミドリヤマザクラ」がある。私も近所の公園をぷらぷらと歩いてみたが、新しい葉の葉緑素が足りずに赤みがかって、一見枯葉のようにもみえる桜の木がある。こちらが吉野山などの「ヤマザクラ」なのだろう。一方で青々とした葉の「ミドリヤマザクラ」というものもある。
ヤマザクラの美しさはおそらく、花の白さ、花芯や軸の赤さ、新葉の茶、赤、黄色みがかった緑まで、さまざまな淡い色合いが混じり合い、それらが山全体にわたって咲いているようすなのだろうなと思う。
ソメイヨシノは枝が横へ横へと広がっていく。ミドリヤマザクラもだいたい同じような形になる。どちらも花が間近に見れて、観賞用には良い。しだれ桜などはさらに花が目の前まで垂れてくる。しかし、「ヤマザクラ」は枝が上へ上へと伸びてたいへんな高木になり、さらにその梢に花が咲くので、花自体をよくよく見るのは難しい。特にやぶの中に生えているものは、他の雑木と競うから、よけいに上に延びる。写真にも撮りにくい。池の岸辺などに生えているものは、これも池の真ん中の方へ伸びてそこで咲いている。やはり写真にとりにくい。日本原生種の古態を留めていると言えば言えよう。とまあそんなわけでまだ満足のいく「ヤマザクラ」の写真がとれてない状況ではある。
潔い
いさぎよいとは「いさぎ」が良いのではなく、「勇」が「清い」のだな。
龍馬
龍馬はまさに「さざれ石が巌となって苔むすまで」虚像がふくれあがった人と言うべきだろう。土佐を脱藩して薩摩の密偵とか武器商人相手のブローカーのような仕事はしていたかもしれないが、教養があるわけではなく、今でいうところのやくざの中堅幹部くらいのものだったのではないか。「世の中を洗濯」程度のことはその当時の志士なら誰でも言いそうなことであり、和歌はほとんどがその時代のはやり歌のつぎはぎだし、手紙だって自分で読み書きできたかどうかすら怪しい。まあしかし野口英世母のシカだってなんとかこうとか手紙くらいは書くわけだから、まったく書けなかったということもないかもしれないが。そんなやくざ映画の主人公みたいなところが受けるのだろうが、彼一人居ようがいまいが、維新がどうこう、日本の歴史がどうこうということはあり得ない。
贈正四位坂本龍馬君忠魂碑というものがあるらしいが、昭憲皇后の夢枕にどうこうというそのいきさつはともかくとして、明治24年に追贈されたというから、おそらく薩摩藩でも西郷隆盛に追贈の運動があって明治22年に正三位を贈られているので、土佐藩の中では一番名高い龍馬にもそのような運動の結果、追贈があった、くらいに考えれば良いのではなかろうか。西郷隆盛は西南戦争の首謀者で本来朝敵だが名誉回復という意味で正三位にとどまったので、本来であれば正一位でもおかしくない。たった一位の違いだが龍馬と西郷隆盛ではその意味あいが違う。何しろ
我は官軍我が敵は 天地容れざる朝敵ぞ
敵の大将たる者は 古今無双の英雄で
と歌われたのが隆盛なのだから。贈正四位は生前だと五位くらいの、平安時代だと地方長官、鎌倉時代以降では執権や大名くらいの官位で、維新に功績があった人には普通かやや高めくらいか。
こういう形の偶像崇拝は、非常に不愉快だ。司馬遼太郎にも大いに責任がある、と言えなくもないが、司馬遼太郎を何か権威付けして利用し金儲けしている連中も、自分たちのやっていることが歴史上どれくらい危険か、自覚した方が良い。司馬遼太郎自身この手の虚構の偶像崇拝を嫌悪していたのではないのか。
伊東甲子太郎、橋本若狭、中原猶介が贈従五位か。ここらまでくるとほぼ無名の志士だな。も少し事例があればだいたいの相場がわかるのだが。
賀茂真淵の歌
本居宣長全集を読んでいると、村岡典嗣の評として(やや抜粋)
歌人としての宣長は、遺憾ながら第二流、もしくは以下の評価を甘受せねばなるまい。
文学や詩歌に対する、未曾有のすぐれた理解や見識を示した彼にして、なにゆえにかくのごときであったかは、あるいは不思議としうるくらいであり、学者と作者は必ずしも一致しないとはいいながら、この点賀茂真淵などと比較して、全く違っている
が紹介してあり、では賀茂真淵には秀歌があるかと思って、岩波書店日本古典文学大系「近世和歌集」を読んでみる。確かに面白い歌もある。
大魚(おほな)釣るさがみの海の夕なぎに乱れていづる海士小舟(あまをぶね)かも
いにしへのしづはた衣きし世こそおりたちてのみしのばれにけれ
沖つ舟手向けすらしも岩浪のたてるありそにかかるしらゆふ
雲のゐるとほつあふみのあはは山ふるさと人にあはでやまめや
故郷にとまりもはてず天雲の行きかひてのみ世をば経ぬべし
もののふの恨み残れる野辺とへば真葛そよぎて過ぐる秋風
見わたせば天香具山うねび山あらそひたてる春霞かな
むらさきの芽もはるばるといづる日に霞色濃き武蔵野の原
つくば山しづくのつらら今日とけて枯生(かれふ)のすすき春風ぞ吹く
さくら花花見がてらに弓いればともの響きに花ぞ散りける
山ふかみおもひのほかに花をみて心ぞとまるあしがらの関
かげろふのもゆる春日の山桜あるかなきかのかぜにかをれり
しなのぢのおきその山の山ざくらまたも来て見むものならなくに
しかし特に驚いたのは次の二首
うらうらとのどけき春の心よりにほひいでたる山さくら花
もろこしの人に見せばやみよしののよし野の山の山さくら花
「うらうら」の方は「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」の本歌ではないかというくらい似ているし、「もろこし」の方も「もろこしの人に見せばや日の本の花の盛りのみよしのの山」にクリソツ。 もちろん、真淵は宣長の33才の年長であり、宣長が39才のとき(1769)に真淵は亡くなっており、先に詠んだのは真淵である。宣長も、わかった上でまねて詠んだのだろう。
世の中によしのの山の花ばかり聞きしに勝るものはありけり
みよしのをわが見に来れば落ちたぎつ瀧のみやこに花散り乱る
これらも真淵が吉野山を詠んだ歌。
宣長は43才のとき(1772)吉野に桜を見に行っている(菅笠日記)。猛烈に桜の歌を詠み出したのは44才の時からだ。思うに宣長の山桜好きは真淵から受けた影響(あるいは師・真淵を慕う気持ち)と、実際に吉野山を訪れたことによるのはほぼ間違いないし、「敷島の」の歌が真淵へのオマージュであることも確かだろうと思う。
真淵の歌を全体としてみれば、宣長と大した違いのない古今調だが、中にはわざと万葉調に詠んだものもある。田安宗武ら武士の師となったこともあり、武家の影響もみられる。一方、宣長は青年期から老年まで歌の傾向はまったく変動がない。二十台後半に書いた「おしわけをぶね」において彼の思想と学問の方針は完全に完成されているのは見事である。しかしゆえに十年一日のごとく「ほとんど生長も発展もみられないことも、やがて彼が真の詩人でなかったゆえとすべき」などと言われる始末だ。
「近世和歌集」の真淵の歌は抜粋なのでこれ以上なんとも言えないのだが、宣長に比べて真淵の歌が優れているとするのは単なるアララギ史観に過ぎないと思う。
ねぢけゆくわが心
木の花の 咲くがなどかは めづらしき よそぢとしふる 我が身なりせば
木の花の うつしゑうつす はかなさよ よろづの人も ならふてぶりに
ねぢけたる 老い人なれや わこうどの いはふ日なれど たのしくもなし
春の日に ねぢけゆくわが 心かな おくりむかふる 人の世ぞ憂き
いはふとて 飽かざらましや 千とせふる つるかめの身の 我ならなくに
いはふべき 春の良き日に しかすがに ふさがりとざす 我が心かな
ねぢをれて ひねまがりたる 老いけやき 憂き世に長く ふればなるべし
浮かれ女や 浮かれ男つどふ 春の野辺 たまゆらにこそ 浮かれやはせめ
大国魂神社
なぜか大国魂神社にしだれ桜を見に行く。そのあと府中美術館。歌川国芳展。まあまあ。
文覚が那智の滝に打たれる三枚続きの浮世絵が印象的。
ひろびろとして良い町。工場も多いし競馬も競輪もあるからさそがし地方税やら医療費やらは安かろう。戦闘機も飛ばず静かだし。のんびり住むには良い町だろう。
たま川を わがこえくれば 川の辺に 咲きたる桜 ひと木だになし
しだれざくらは赤みが強い。エドヒガンの一種らしい。ということはやや早咲き。ほぼ見頃だが、まだ満開ではなく散るようすもない。
こちらはやはり早咲きの、府中美術館近くに咲いていた大寒桜。
頼義・義家父子と家康が奉納したという大国魂神社ケヤキ並木を
武蔵野の司の道にうゑつぎていやさかえゆくけやき並みかな
しかし八幡太郎が千本植えてさらに家康が補充したはずなのに現在は150本しかなくてしかも並木道の全長は500mもあるっていうのはどういう計算なんだいという。もともとせいぜい100本くらいしか植えなかったんじゃないのかなと。イチョウ、ケヤキの並木、大木が多い。五月頃来るとまた美しいのだろう。
二宮金次郎
菜の花の 咲けるをりには 思ひやれ 身を立て世をも 救ひし人を
「歯がない」と「はかない」をかけて
をさなごの歯の生えかはりゑむかほのはかなきものは春ののどけさ
をさなごのはかなきかほをながめつつ春のひと日を過ぐしつるかな
またたばこ
いたづらに立つや浅間のけぶり草目には見えでもけむたきものを
賀茂真淵の大和魂
賀茂真淵にいまなびによれば、
女の歌はしも、古は萬づの事丈夫に倣はひしかば、萬葉の女歌は、男歌にいとも異ならず。
かくて古今歌集をのみまねぶ人あれど、彼れには心及さく巧みに過ぎたる多ければ、下れる世人よひとの癖にて、
その言狹せばく巧めるに心寄りて、高く直き大和魂を忘るめり、とりてそれが下に降くだちに降ち衰えつゝ、終に心狂ほしく、言狹小ささき手振となん成りぬる。
女の歌も古い時代には何事も丈夫であって、万葉の女歌は男歌と大した違いはなかった。古今集の時代によると言葉を狭く巧むようになって高く直き大和魂を忘れ、だんだんと衰えて言葉狭く小さくなっていった、とある。
末の世にも、女をみなにして家を立て、鄙つ女にして仇あたを討ちしなど少なからず。かゝれば、此の大和魂は、女も何か劣れるや。まして武夫ものゝふといはるゝ者の妻、常に忘るまじき事なり。
末の世でも女が家を建てたり、田舎女で仇討ちをしたりするものが少なくない。このように考えれば大和魂というものも女が劣るというものではなく、まして武士の妻というものは常に忘れるべきではない、と。
こうしてみると、「大和魂」「大和心」という用例は源氏物語や赤染衛門が初出であるのに、その精神は万葉時代からすでにあったという論法だ。確かにそのようなますらおぶりな、高く直き心というものは、古くからあり、また近世の武士にもあるかもしれないが、それを「大和心」「大和魂」と呼んでしまうと、中世の用例と齟齬ができてしまう。
いったい全体、賀茂真淵のような用例はいつ頃から誰が言い始めたのだろうか。賀茂真淵がいきなり始めたこととはとても思えないのだが。「にひまなび」は1765年成立とあるから、宣長が35才のときにはすでにこのような説があったということだな。真淵と宣長がはじめて松坂で面会するのは1763年。国学者が「大和魂」などと言い始めたのはいつかってことは、たとえば小林秀雄の追求も真淵までで止まっており、そこからさかのぼってはいない。北畠親房「神皇正統記」、山鹿素行「中朝事実」あたりが怪しいと思うのだが。
うーん。やはり、それらしい思想はすでにあったけれど、その思想にそのものずばり今日の意味の「大和魂」という言葉を「発明」し当てはめたのは、やはり賀茂真淵なのかもしれない。そういうことはうまい人だったのだろう。宣長は真淵の弟子ということになっているので、宣長も真淵と同じような意味に「大和魂」という言葉を使ったに違いない、という誤解はあり得ただろうし、宣長よりは真淵の意味の「大和魂」の方が勇ましくてわかりやすいので、宣長の主張はかすまざるをえなかったということかもしれん。
永井豪
いまさらながら、ハレンチ学園やあばしり一家やデビルマンを小学生の頃読んだ世代にしてみれば、ああいうものが規制されなかったほうがおかしいと、改めて思う。ただ単に、役人も、世間一般も無知だっただけだろう。規制されるべきかどうかの議論にはあえて言及したくないが。
今の漫画もアニメも私たちが子供の頃の純朴だったときとは明らかに違う。エヴァなど見れば性的にどうこう言う以前に精神的に病んでいる。それで良いのかと思う。
ビデオゲームにしてもやはり昔のものはえげつない。その反省なしに先には進めまい。
こういうことは言えると思う。わずか20年なり、40年なり前は、何を見てはいけないか、何を見てもよいかという基準を国家権力が決めるのは、危険だった。だから、どちらかといえば、何もしない方が安全だった(昔の方が今よりずっと規制は多かったがコンテンツ自体が圧倒的に少なかった。というよりコンテンツが少なかったから選別して規制出来たと言える)。しかし、情報にあふれる今、逆に言えば、年少者がアクセスできる情報は国家がコントロールした方が良いのではないかと。今と20年前とどれほど情報量が増えていようか。
漫画家やゲーム開発会社が自由に創作活動するのは良い。しかし子供はどうか。








