5kg税込みで3500円のコシヒカリブレンドというものを買ったのだけど、普通にうまいと思う。冷蔵庫で一晩冷やしレンジでチンして食べてみたが大丈夫。

ただ、1.5合炊きの小さな炊飯器を使っているんだが、上の穴からものすごく蒸気が吹き出してやばかった。米が溶けやすいのかもしれない。

某スーパーにはまともな沢庵もまともな梅干しもなくてがっかりした。また別の某スーパーにはまともな梅干しとまともな沢庵が1種類ずつあったにはあったのだが、塩だけで漬けた梅干しの塩分が22%もある。それ以外は3%とか5%とか7%とか。なんて極端なんだろう。昔ながらの製法で塩分が15%くらいまでのものがほしいんだが、そういうのが一番高級で値段が高く、スーパーではなかなか買ってもらえないということなのかな。

米は一番安いのを買って、沢庵や梅干しは一番高いのを買おうとする私の消費傾向はなんなんだということになるんだけど、5kgで3500円だと一膳あたりだいたい50円くらいになるはずなんだ。高いのか安いのかよくわからん。梅干しだと高いやつは一個100円はする。高い米と高い梅干しだと一膳で200円することになる。それが高いのか安いのかよくわからん。そうして考えてみるとコンビニのおにぎりというものはそんなめちゃめちゃ高いということはないってことになる。

世の中ものが高い高いというが、歯医者の待合室においてあった、戦後間近の風俗が書かれたとおもわれる長谷川町子のサザエさんでも米が高い高いと言っていて、いつも米は消費者の目の敵にされるのだなと思った。

自炊してもこれだけの金がかかるのだから、むしろ外食で酒も飲んで1食2000円とか3000円というのは決して高くはないのだなと思える。世の中生きていくには金がかかるものだなあ。

一度死ぬほどヒマな暮らしをしたい

年を取って後は死ぬのを待つだけだから、これまでやってきたことの整理整頓だけやって、新しいことは始めないと決めると人生すごくヒマになる。40才くらいだと、定年退職までに社会がどんだけ変化するかわからんからアンテナ張り巡らしてできるだけ新しいことをできるだけ早いうちに手を付けておかなきゃなんて考えていた。10始めたことのうち1当たるかどうか歩留まりは悪いから時間ばかり余計にかかる。しかし今はもう定年まであと6年だから新しい仕込みはもうやらんで良いやろ。そう決めたら楽だよな。

だがしかし浅草に住もうというのはすごく新しいことではある。

20年近く同じ場所に住むとなにが苦労するかってもう散歩しようにも近場はどこもかしこも歩いたことがあって困る。4年くらいで転々と引っ越すのが良い。散歩してれば無駄な時間が潰せるし新しい気付きもあるしとにかく飽きずに済む。SNSなんかで時間を浪費せずに済む。空き時間があればちょこちょこ近所を歩けば良いわけだから。定年退職したら京都に住んだり大阪にすんだり名古屋に住んだり博多にすんだりしてみたい。そんなことはもうしないとか言ってたような気もするが、やはりヒマは怖いな。というか一度死ぬほどヒマな暮らしを実家でやってみてからの話だな。

今もすべては予定通り順調に行っているはずなのに、常に何か忘れていないか、何かすっぽかしていないかビクビクしながら生きている。気持ちがどんどん先回りして落ち着かない。実際に忙しいというよりメンタルの問題なのだが、その状態から早く脱したいとばかり考えている。

結局、米を炊いて、卵かけご飯かなんかにして、沢庵か梅干しかなんか添えて朝昼晩と食っていれば十分な気がする。とりあえず卵は食べなくちゃならん。そのほかは適当に栄養を摂る。米が高いというが、歯医者の待合室においてあった長谷川町子のサザエさんでも米が高いと書いてあって昔から米は高いものなのだな。

リモートワーク、地方分散

イーロン・マスクとかLINEとかがリモートワーク辞めまーすとか言って文句ぶちぶちぶちぎれている人たちがいるが、そういう人たちは、コロナが流行ってリモートワークが始まったころもいろいろ文句を言っていた連中に違いない。

私はコロナ騒ぎの頃は逆にコロナ対策というものに巻き込まれて、毎週のように対面でコロナ会議というものに出勤させられていて、労働量が爆上がりしていて、一方では自宅でだらだらのんべんだらりとリモートワークしてる連中がいて、まじでぶち切れていた。コロナのなんとかかんとかとかロックダウンとか、あんなものにはなんの意味も無いと私は最初から思っていたし、今も思っている。人間がいかに馬鹿で、何か世の中に良かれと思って自分だけが努力しても無意味、世の中は1ミリも進歩しない、人類はホモサピエンスに進化した50万年前から1ナノメートルも進化してない、むしろ退化してるってことを死ぬ前に知れたことだけがよかったと思っている。

リモートワークは良いことだと思う。みんながあんなに東京に一極集中するのは間違っている。であるにも関わらず人はみんな東京に集まりたがる。実に馬鹿げたことではあるが、私も今、浅草に住もうとしているわけだから、結局私も東京に一極集中したがっているアホ人間の一人なんで人のことはいえない。しかし私は今勤務地が中野であるし、小田急で通勤するのが死ぬほど嫌だし、一応役職付いているので、リモートワークなんてできやしないのである。

リモートワークというものがうまく機能するには、いわゆる中間管理職以上の人たちが結局はオフィスで対面でマネージメントの仕事しなきゃいけないのである。会社としては中間管理職以上の人たちだけを正社員にして給料を上げてあげて、それ以外の末端の社員はリモートワークにして、リストラするか給料下げるか契約社員にすりゃいいじゃんという話に絶対なる。イーロン・マスクもたぶん同じことを言っているだけだ。リモートワークするやつは地方に住める代わりに給料安いしそのぶん副業かなんかで稼ごうねという話に絶対なる。リモートワークさせろ地方に住ませろ給料も下げるなというのは虫の良い話。

リモートワークの社員のぶんまで本社でマネージメントしている人がいるから自分がリモートワークできているんだなんて発想はおそらくリモートワーカーにはないのだ(あるのかもしれんが自分に不利になることは決して発言しない)。そんなにリモートワークを推進したいんなら自分が会社たてて社長になってリモートワーカーを雇えば良いだろうと思う。人の会社でリモートワークさせてもらい自宅でのんびり副業がてら働いててよく文句が言えるなと思う。

しかも近頃は、せっかくコロナ騒ぎのころに培ったリモートワークのノウハウを捨てて自分に一番楽な働き方をつまみ食いしてやはり対面のほうが効果は高いですねみたいなことを言うやつもいる。そうじゃないんだよ。リモートワークに適していることはやればいいんだよ。適してないことは元に戻すべきなのよ。でも世の中やりがちなこととしては、自分が一番楽なやり方を選ぼうとするから、リモートワークに適していることをやめて、リモートワークに適してないことまでリモートワークにしたがるってことなのよ。そういうわがままを押さえ込んで会社を回していくのが経営者とか管理職とか役職者の仕事なんだよ。それがマネージメントってもんだろ。そのために役職手当ってもんがあるんじゃないの。ただ余計に給料もらってるわけじゃないんだよ。リモートワークもマネージメントも給料も待遇もほとんど同じじゃやってられんわ。ほんともうぶちきれるよ。

ていうか首都機能をさっさと分散させろよ。リモートワークでもできるような仕事をしてる連中はみんな地方に強制移住させろよ。そんで通勤なんていう馬鹿げた慣習を無くして、みんな徒歩で通勤できるようにしろよ。リモートワークを実現したけりゃそこまで徹底してくれ。人間はみんな一カ所に集まって住みたがるアホな生き物なんだから、その習性をどうにかしてくれ。

昔の日記

世田谷素描はまだこの日記に統合していなかった。1997年9月くらいから ASCII Internet Freeway + Geocities で書き始め(笑)、AIF はこの年の12月で終了しているから、そのあとリムネットに引っ越して続けたらしい。なんかすごいな。もう30年近く前のことなんだな。ついこないだのことのようだ。

バックアップのファイルはけっこう膨大にある。気が向いたときにちまちまやる。

ネットに日記を書き始めたのは1995年くらいからなんだが、この頃にはすでに大田区石川町から世田谷区太子堂に引っ越したようだ。

石川町というか最寄り駅でいうと東急池上線石川台に住んでたのだが、そこはトイレも流しも共同みたいな今の感覚でいうとかなり極貧なところだったなあ。駅前にはスーパーマーケットが一つあったが今地図で見るとピーコックって書いてある。ほとんど覚えてない。石川台商店街なるものもありはしたのだが全然大したものではなかった。

三茶は風呂無しワンルーム。1Kといえば1Kだったかな。

1997年頃にはすでに隣でマンション工事が始まりそれがうるさくて世田谷線の奥地に引っ越したのだったが(このとき初めて部屋に風呂がついた)、1998年には川越の方へ転職したのに1999年くらいまではしつこく世田谷に住んでいたようだ。あ、1999年4月に成増に引っ越したって書いてるなあ。なんかもう何もかも忘れている。日記というものはありがたいものだ。もっとこまめに書いておけばよかった。

今だとツイッターとかいろんなものにちょこちょこ書き込んだり写真撮ったりするから割と何してたか履歴が残りやすくて良いよな。まとまったこと書こうと思えばブログ書けば良いわけだし(それ言ったら今や自分の行動履歴はみんなgoogle様に筒抜けでgoogle maps でどこに言ったか過去までさかのぼってみれちゃう)。2000年よりか前はそもそもコンデジですらまだそんな普及はしてなかった。まだみんな銀塩写真を使っていたはずだ。

実家を出たのは大学受験失敗して浪人した時で、田舎にいては勉強もできないから都会に出ろみたいに言われてそれで京都の駿台予備校に入った。予備校の寮は朝と晩の飯がついて四人部屋で家賃はうーん、良く覚えていない。

東京で初めて住んだのは某地方自治体が運営する学生寮で二人部屋、家賃は1万円くらいだったと思う。人間関係が嫌すぎて1年しかもたなかったが、今から思えばおとなしくしてもっと長くいたほうがよかったと思う。あの時はしかし早く独り暮らしがしたくてしかたなかった。

石川町の部屋は3万円だった。1986年から住んだはずである。

三茶の部屋は5万円だった。ここへ引っ越したのは1992年1月だったらしい。てことはD1の時ってことか。

世田谷の部屋は半地下みたいなワンルームで7万円だった。このころはすでに給料をもらってた。

成増、というか、板橋区赤塚の部屋は2DKで40m2もあって8万円だった。一人暮らしするには広すぎるくらい広かった。人生別に何の不満もなかったんで(たぶん)、そこに同じようにずっと暮らしていても平気だったと思うが、その後いろいろあったというわけだ。

今度浅草に借りる部屋は赤塚よりはちょっと狭いがだいたい同じくらいの広さで同じくらいの家賃だ。浅草は人も多いが物件も多くてしかも古い物件が多いので、賃貸が比較的安いのだと思うが、それでもずいぶん格安なんだと思う。

1986年頃は、和歌を詠み始めて、引っ越しもして、一人暮らしを始めて、それで少しだけ日記が残っている。1987年はたぶん合宿免許の時に少し歌を詠んだのだが、それ以後、1995年にインターネットというものができて日記を書くまでは、ほとんど何の記録も残してない。写真を撮ったということもほとんどない。歌も詠んでない。学部から博士課程まで大学生だったころの記録がほとんどない。今から思うともったいない。少しは書いておくべきだった。ああそうだ。fj.soc.misc とか、ネットニュースにはいろいろ書き散らかしたはずで、探せばどこかに少しは残ってるかもしれない。

あー。検索すると出てくるね。でもあんまりほじくり返さないほうがよさそうだなあ。書き散らかしてしまったものは仕方ないんだけど。

Unified fj NetNews archiveの全文検索

それはそうといろんなことに関心というか驚きを失っているような気がする。twitterを読んでても、昔は何かマンガか動画があったらいちいちみてたが、今は見ずに流す。世間のニュースもよほどのことでないかぎり流す。youtubeもたいてい見飽きてみてみようという気がおきない。どうせこの程度のものだろうと思うと時間を使う気にならない。AIが描いたなんちゃらというのも最初は物珍しかったがすぐに飽きた。ていうか、全然面白い絵を描いてくれないからいらいらする。

とりあえず今はしなきゃならないことがたくさんあるからそれで良いのだけど。私の中では、しなきゃならないこととしたいことが半分くらいに混ざってないとメンタル的にやばいので、やらなきゃならない仕事が増えればそれに応じてやりたい仕事も増やさなきゃならない。やりたい仕事というのはつまり執筆活動とかそれに伴う読書なのだが。これが定年後やらなきゃならない仕事がなくなり、やりたい仕事だけになればだいぶメンタルは回復すると思う。それがもうあと六年後にせまっているのだが、そのときどうなるのかまるで想像つかない。

右も左も歯を治療して奥歯に穴がぼこぼこに空いていたのだが、やっと全部終わった。長かった。右でも左でも噛めるのは幸せだ。それだけでも少し気が楽になった。いまさらだが今度という今度は歯医者のありがたみを知った。歯は大事だ。四か月に一度定期的に通おうという気になった。これからはできるだけ柔らかいものだけ噛んでいきたい。固いものを噛む時はゆっくり少しずつ噛むことにする。

東京国立博物館、12月22日には年末年始の休館に入ってしまう。早すぎる。まあいいや。浅草に住んだらいつでもいけるわけだしな。

歌道普及会

大正の頃に歌道普及会というところから新派なんだか旧派なんだかよくわからない立ち位置から和歌の本がいくつか出ている。著者や編者が書かれていないので誰が書いたのか不明だが、かなりものを書き慣れた人だろう。明治以前の和歌については漠然とした知識しかない。つまり平安時代から江戸時代までは単なる教養として和歌を詠んでいた、というような雑なイメージしか持っていない。出版社は東盛堂。ここから本を出している人で、黒法師とか匿名とかで本を書いている人がいてこの人があやしい。渡辺霞亭という人のようだ。

かちかちの 山のたぬきは 焼け死にぬ 悪事をなせる 報いなりけり

こんなものを和歌だと言っていたり、和歌は平安朝以来明治初年まで娯楽の文芸として取り扱っていたため、などと書いていたり、どうも歌というものがよくわかっているとは思えない。『和歌の作りやう』という本に「同人」とか「読人知らず」で出ているのがこのひとの歌かもしれない。

ただ生き続ける

病院に通うということは、時間もとられるし、メンタルもがりがり削られる。しかし日頃健康で病院とは無縁だった人がある日突然死ぬということも聞くので、持病のために定期的に通院して早めに悪いところを見つけてもらうほうが良いとも言える。

歯の詰め物が取れただけで食欲がなくなってしまうのはいつものことだ。年寄りなので詰め物が取れるだけでなく、歯が一部欠けてしまったりする。逆に若い頃と違って虫歯にはなかなかならなくなった。

ともかくこうやって体を気にしながら生きていくのが面倒だ。しかし若い頃は気にしなさすぎて虫歯をたくさん作ってしまったし、あれやこれやと今の不養生の元になっているわけで、人生やりなおしたいかといわれればしかしそれもまためんどくさいし、やはりいちばん面倒くさくないことはさっさと死ぬことだという結論になる。しかしながら人間は本能的に死ぬのを怖がるし、勝手に死ぬと回りに迷惑がかかるから、めんどうくさいめんどうくさいと言いながらただ生き続けることになる。

今書いている本なのだが企画が持ち上がったのが去年の8月、最終〆切が来年1月になってしまった。いやはや1年半も延々と書き足したり削ったり推敲したりしている。気の長い話である。まあそういうこともあるだろう。とりあえずこの本が出るまでは死ねないな。他のことはともかくとして。

やることがないと退屈で死にそうになるとかボケるから、年を取ってから何か新しいことを始めたほうが良いなどとよく言われ、また私もそう思っていたが、そうすると私の場合 暇になるとだいたい Linux をいじったりし始めるのだけど、Linux をある程度弄り倒して思うのは、もう Windows でいいじゃんという諦めというか。これから何十年も生きているのであれば Linux とか MacOS とかいろいろ手を出して、Windows がなくなった世界に備えるということもありかもしれんが、Windows がなくなるより先に自分が死ぬのはほぼ確実だから、もうじたばたしてもしかたない、 Windows でいいじゃんという結論になる。Linux にしても、私ごときが使ったくらいで Linux に貢献できることなどしれている。Windows にしろ私ごときが使ったくらいで良くも悪くもならない。いろいろ新しく試して中途半端に終わるよりも、今までやってきたことで、一応成果があったことを少しでも磨いたほうがましだと思う。

源清蔭

源清蔭についての考察も今度出す本から除外することにしたので、こちらに載せておく。

桓武天皇の生母は百済(くだら)王家の血を引く(たか)(のの)(にひ)(がさ)。西暦六六〇年百済滅亡、六六三年白村江の戦いにも敗れ、大陸から多くの百済王族が任那(みまな)符の難民らとともに亡命してきた。人の移動とともに大陸由来の天然痘が流行し、聖武天皇は疫病を避けてあちこち遷都した。桓武によって新しく造られた平安朝廷では宮廷の公卿や女官にも移民が多く含まれ、和風より漢風の文芸が貴ばれた。「昔、聖武天皇は侍臣に詔し、万葉集を撰ばしめた。これ以来十代、百年を()て、其間和歌は棄てられ採られず。野相公(小野篁。野宰相とも)のごとき風流、在納言(在原行平)のごとき雅情ある者はあれど、皆、和歌で世に知られることはなく、他才(すなわち漢詩)で知られるばかりであった(筆者意訳)」と『古今集』「真名序」でぼやいている状況が生まれたのである。これに反発した平城天皇は奈良に都を戻し、日本文化を復興させようとしたが、薬師の乱で敗れ、嵯峨天皇が勝利した。

嵯峨帝は唐詩(からうた)を好み和歌(やまとうた)はほとんど顧みられなかった。この傾向は人臣にして初めて摂政となった藤原良房と、その甥で天皇が成人しても関白に居座り続けた基経の頃まで続く。清和天皇は二十代半ばで退位、出家させられて、三十路に入ってまもなく嵯峨野の奥、水尾(みずのお)の里で寂しく死んだ(そのため清和天皇は水尾の帝とも呼ばれる)。清和の兄、(これ)(たか)親王もいきなり基経に比叡山の麓、小野の里に蟄居させられ、あちこち放浪したあげく、五十才過ぎに寂しく死んだ(『伊勢物語』に詳しい)。清和の皇子、陽成帝は長寿を保ったが、やはり若くして退位させられ、院御所に引き籠もった後、何をしていたか全くわからない。『小倉百人一首』に採られた「(つく)()()(みね)より()つる みなの(がは) (こひ)ぞつもりて (ふち)となりける」、これ一首だけが陽成帝の御製として知られる。たった一つでは他の歌と比較することもできず、本人の歌かどうかすら疑わしい。調べは美しく、屏風歌としては良い出来かもしれないが、この時代の宮廷和歌がいかに形骸化して低調だったかを象徴するような歌ではある。

満十二才で即位して三年目、陽成帝には皇子(後の(みなもとの)(きよ)(かげ))が誕生するが、その年、基経は突如陽成帝を廃位し、皇統を四代遡り文徳天皇の弟、(とき)(やす)親王を立てて光孝天皇とする。時康親王はすでに五十五才、基経の恣意的な皇位介入に腹を立てて自分の皇子らをみな臣籍降下させてしまう。

光孝天皇は皇太子を立てぬまま崩御。このとき陽成院はまだ十八才だったが、基経は源氏姓を賜って臣下となっていた光孝天皇の皇子、(みなもとの)定省(さだみ)を皇籍復帰させ、立てて宇多天皇とする。藤原基経、人臣の分際で、もうやりたい放題である。

源清蔭の母は紀氏、『伊勢物語』の主要人物の一人である紀(あり)(つね)の娘は在原業平の妻。業平とともに『伊勢物語』によく出てくる(これ)(たか)親王(文徳の皇子で、清和の兄)の母は有常の父()(とら)の娘。さらに陽成帝廃位の直接原因と関係があると思われる、宮中殺人事件で殺された陽成帝の乳母、(みなもとの)(まさる)(嵯峨源氏)もやはりその母が紀氏。

紀氏は名虎でさえ正四位下で、いわゆる受領階級、国司に任じられ地方に派遣される程度の家柄だった。その紀氏が天皇や皇族の妃となって徐々に宮中で勢力を拡大し、藤原氏を脅かす存在になりつつあった。もしかすると皇族は、摂政関白に居座り続ける藤原氏に対抗し得る氏族として紀氏に期するものがあったかもしれない。しかし有常は文徳朝末期に左遷。惟喬親王も清和朝に蟄居。

陽成朝に基経は出仕拒否。藤原氏から女御が入内する気配すらない。陽成帝が藤原氏を嫌っていたのは明らかだ。そうしたところで陽成帝に清蔭が誕生。帝が清蔭に譲位して院政を始めれば、藤原氏は皇統から切り離され、摂政になることもできない。誰の入れ知恵か、源融(みなもとのとほる)あたりか知らないが、そういう企てが進行していたかもしれない。源融は東宮傅として皇太子時代の陽成帝に仕えていたので、自分が摂政になると思っていたのに基経に摂政を取られて怒っていたという説もある。源融はおそらく藤原氏によって軟禁状態にあったと思う。紀氏を巻き込んだ皇族対藤原氏の対立。薬師の乱以来の大乱になる可能性があった。それで基経は藤原氏を母に持つ時康親王まで皇統を強制的に巻き戻した。陽成帝の生母藤原高子と兄基経の仲が悪かったとか、陽成帝に乱行があった、などというのはすべて作り話か、事実としても本質的な問題ではない。

陽成天皇暴君説。藤原氏に同情的に書いているのが自分ながら意外だ。

栗山潜鋒と三島由紀夫と小室直樹。ここにもちょこっと陽成天皇の話が出てくる。小室直樹の書いたものも今読むといたるところに間違いがあることに気付く。

水尾の里と小野の里

ほかにもいろいろ書いているがめんどくさくなってきたのでとりあえずこのへんで。

源俊頼陰謀論

貫之が仮名序に「あきのゆふくれ」と書いたことで平兼盛が「秋の夕暮れ」を歌に詠み込み、清少納言が「秋は夕暮れ」と言い、みなが「秋の夕暮れ」を使うようになったのだろうか。

貫之が「秋の夕暮れ」を発明したのだろうか。ではなぜ貫之は「秋の夕暮れ」を自分の歌に一度も使わなかったのか。なぜ彼の時代まで「秋の夕暮れ」を詠んだ歌が一つも無いのか。「古の世々の帝」が「さぶらふ人を召して、ことにつけつつ歌を奉らせ給ふ」例を列挙している中になぜわざと「秋の夕暮れ」を混ぜる必要があるのだろう?極めて不自然ではないか。

東京国立博物館に『古今集』の最古にして最も美麗な写本、国宝元永本古今和歌集が展示されている。通りがかる人はみな、なんだかちっこくて地味な本だなと、ちらっと見て過ぎ去るばかりだ。しかしながらこれ、唐草模様を雲母刷りにし、金銀の切箔を散らした料紙を用いており、そうとう手間も元手もかかったものらしい。なぜこんな写本を作ったのか。源俊頼が関わっているのはほぼ間違いない。俊頼本人が書いたか、誰か字のうまい人に代わりに書かせたのだ。

元永本は俊頼が白河院の歓心を買うため献上した品ではないか。これを俊頼は正本として、普通の紙に写した副本をたくさん作って配ったのではないか。何のために?

『後拾遺』は完璧な勅撰集だった。『後拾遺』に比べればそれより前の勅撰集は不完全だった。いろいろな不備があった。勅撰集の体裁は『後拾遺』で初めて整い、続く勅撰集の規範となった。白河天皇と藤原通俊による偉大な業績だ。そのことを誰よりも俊頼自身が痛感していたはずだ。俊頼はその事実をどうにかして否定したかった。そのため(『万葉集』ではなく)『古今』が最初の勅撰集であることにしようとした。『後拾遺』は単に四番目の勅撰集に過ぎないことにした。『古今』に日本最初の勅撰集たる権威を持たせるために俊頼は元永本を作った。自分が勅撰集選者の始祖たる紀貫之の正統な後継者であることにした。『古今』選者の一人に過ぎなかった貫之はこうして崇拝対象になった。そして自分が選んだ『金葉集』も、この元永本のように金ピカに装丁して白河院に献上しようとした。ダレイオス大王が自分こそはアケメネス朝の正統な王であることを誇示するためにべヒストゥーン碑文を彫ったように。ダレイオスはしかしキュロス大王の嫡流にとってかわった簒奪(さんだつ)者だったのだが。

『金葉集』という名前にしてもこの元永本にしても、俊頼はやたらと豪華でキンキラキンなのが好きなのだ。金閣寺を作った足利義満、金の茶室を作った豊臣秀吉みたいな人なのだ。しかし白河院は、先にも述べたように俊頼には決して勅撰を許そうとはしなかった。白河院はそうした下心やこけおどしが嫌いな人だったと思う。もちろんすべては私の勝手な空想である。しかしさまざまな状況証拠からプロファイリングしていくと俊頼という人はそんな人だったとしか思えないではないか。

俊頼ってほんとはどんな人だったんだろう、どういうつもりでこの本を作ったんだろうってことを考えながら、私はしばしこのA5版程度の大きさしかない、多少虫食いのある写本を眺めたのであった。

e国宝というサイトにいくとこの元永本の画像を見ることができるが、この仮名序にはっきりと「はるの朝に花のちるをみ、あきのゆふくれにこのはのおつるをきき」と書いてある。貫之の時代にはまだ「ゆふぐれ」という言葉はなかった。「ゆふべ」と言っていた。ほぼ間違いあるまい。では「ゆふべ」を「ゆふぐれ」と書き間違えただけ?しかし曽祢好忠の歌との類似性についてはどう説明する。好忠は貫之よりも後の時代の人だ。では貫之は老年になって自分よりはるかに若い好忠の歌を知ってそれを仮名序に取り入れたのか。ちょっとあり得ないだろう。

さらに疑いの目で見ると、仮名序の前半部分と後半部分で、どうも文体やテンポに統一感がなく、ちぐはぐな感じを受けないだろうか。また「鏡の影に見ゆる雪と浪を歎き」とは紀貫之自身の歌「しはすのつごもりがたに、年の老いぬることをなげきて」と詞書きした「むばたまの ()黒髪(くろかみ)(とし)()れて (かがみ)(かげ)()れる白雪(しらゆき)」を参照しているのは明らかだが、もし貫之が仮名序を書いたとして、古歌を並べている中にいきなり自分の、しかも晩年に詠んだ歌を入れるだろうか?おかしいではないか。 古今集仮名序疑惑、私の推理では真犯人は、源俊頼くん、君だ。となるが、このことについてはもうこのくらいにしておきたい。

秋の夕暮れ参照。

めまい

体調が悪くて半日潰れた。例によって心房細動の方はまったく自覚症状はないし、息切れするなどということもない。心臓の鼓動はいつ聞いてもいつも違っていて、だから最近は聞いても仕方ないなと思っている。鼓動の間隔がいつもバラバラなのは心房細動のせいもあるだろうけど飲んでいる薬の副作用な気もしてならない。期外収縮もいつも起きている。

薬を2日続けて飲み忘れたので1日1回のところを2回ずつ飲んで、今日もあと1回飲もうかと思ってたのだが、めまいがする。明らかに心臓の不調ではなくて、内耳とか、そのあたりの問題だと思う。心臓とはまったく関係ない別の持病なのか。半年に一度くらい突然くる。薬の飲み過ぎによる副作用?電車が速く走って(京急線みたいに)はげしく振動するときなどに気分が悪くなることがある。小田急でもなったことがある。立っているときになるのでできるだけ座るようにしている。今日は朝早く起きたからそれも関係あるか。

だいぶおさまってきた。なんなんだったのだろうかこの症状は。

自分のために書き残しておこう。昨日今日とお酒を飲む気が起きなかった。

髪の毛がますます細くなってきた気がする。若い頃はゴワゴワのくせ毛だったので思い切りすいていたのだが、今はすかなくてもよい、すくと少し少ないくらいになって、かきわけると地肌が見えるようになってきた。