全集

今読んでいる小林秀雄全集は、新潮社版昭和43年発行なのだが、小林秀雄は昭和58年まで生きていて、
たとえば「本居宣長」などは昭和40年から新潮に連載途中なのである。
だから、全集と言ってもすべての作品を網羅しているわけがないのだ。
なんかだまされたような気分だが普通なのか。
作家にしてみれば、死んでから全集出されても、自分にとっては(少なくとも収入的には)うれしくないからな。
全集がまた「本居宣長」の広告を兼ねており、「本居宣長」が全集の広告を兼ねていたのだろう。
なんだかもうなぁ。
だが、この全集の出た昭和43年=1968年という年には、小林秀雄はもうとっくに還暦を過ぎているから、
生前に出しておいてもおかしくない年ではあったかもしれない。

「栗の樹」(昭和29年11月17日「朝日新聞」)という小文があって

> 文学で生計を立てるようになってから、二十数年になるが、文学について得心したことと言ったら何であろうか。
それが、いかにもつらい不快な仕事であり、青年期には、そのつらい不快なことをやっているのが、自慢の種にもなっていたから、
よかったようなものの、自慢の種などというろくでもない意識が消滅すれば、後はもう労働だ。
得心尽くの労働には違いないが、時々、自分の血を売るようななりわいが、つくづくいやになることがある。

とあって、小林秀雄52才の時の文章なわけだが、確かに私も、若い頃はつらい苦しい修行めいた仕事をすること自体にやりがいや快感を感じもしたが、
今ではその意識も失われて、単なる労働となってしまっている。
そしてその労働を、定年までの数十年間続けなければならないという、ほとんど絶望に近いうっとうしさを毎年毎年感じている。

文士

先になくなった井上ひさしにしてもそうだが、
昭和とかそれ以前の文士たちは、性格的に破綻した人が多く、
それゆえに良い作品を残したなどと言う考えの人が多いように思うが、
実際には、昔の日本人というのはだいたいああいう性格のひとたちばかりであり、
その中の一部がたまたま文士となっただけなのではないか。
かつては警察も司法も非力で、国の統計能力も低く、ジャーナリズムも必ずしも今ほど全国を網羅し、把握し、報道する力がなかった。

江戸時代まではそれぞれの村落ごとに私的に成敗がされていたのが、その風習がまだ昭和までは残っていたはずだ。
犯罪率は今よりはるかに高く、事件のもみ消しや泣き寝入りなども日常茶飯事だったと思う。
それに、戦後のどさくさが加わり、
日本全体がかなり治安の悪い、すさんだ状態にあった。それが戦後の日本というものの実体だろう。
文士たちはたまたまその日常を、私生活にわたるまで、記録に残しただけなのではないか。
実生活が悲惨であればあるほど、そのすごみによって、作品が良くなり、
結果的に作家として生き残った可能性はあるかもしれんが。

小林秀雄によれば彼は戦前からずっと鎌倉にすんでいて、鎌倉は戦災を免れたそうだが、
鎌倉のあたりは、今はいたるところの谷戸まで住宅が密集しているが、これらも戦後の光景であり、
戦後のベビーブームと農村の機械化であふれたサラリーマンが都市部に集中したからだ。
戦後の繁栄の象徴と見るか、混乱の発展とみるか。

戦後の終身雇用・年功序列の会社組織を、小室直樹は生活共同体としての新しい「藩」と呼んだのだが、
確かに、日本全体が崩壊したのちに、戦前の比較的良好な人間関係は、松下・東芝・三菱などに代表される、
電機会社等の中に個別に隔離した形で、秩序を保ち得たのだろう。
そしてそれら会社組織を核として日本社会も秩序を回復していった。
しかしそれらの組織も今や再編成の時は来た。

ともあれ、平成に生まれた人たちは幸せだと思うわ。
昭和に生まれた私たちは、とかく昭和を美化したがるが、その暗部・恥部を、
平成生まれの人たちは実感としてはわからないのだから、まだ記憶が新たなうちに、
私たちがきちんと総括しておかなくてはならんのではないか。

小林秀雄全集

図書館に、小林秀雄全集という本があったのだが、どうしてこれが「全集」なのかさっぱりわからない。
それはともかくとして「鎌倉」などの小文を読むに、
格別大したわけでもなく、いやいやしかたなく書いたオーラに満ちた普通の文章。
なんかいやいや書いた記事、いやいややった講演などがけっこう多い。
酔うと人に絡んだという、そんな言動がそのまま原稿用紙に残ったような文章も多い。
教科書に載れば本の売り上げにも影響するからと、不本意ながらも、掲載の依頼のはがきに全部「諾」と答えて返信したとか。
文芸だけで食っていくというのは、小林秀雄でもかくあるかと。

東京オリンピックより前の日本には、小林秀雄的な人は、たくさんいたのだろう。
今はかなり減った。
今の60代の人間が、定年でいなくなれば、まったくいなくなるに違いない。
そういう人間になりたいともまるで思わない。
昭和という時代に対するノスタルジーも、今はかなりなくなった。要するに、古き良き時代というには値しない、
でたらめな時代だったということだ。

戦前の日本には小野田少尉みたいな人が普通に、ざらに居たのだろう。
また日本の科学技術力も、国民のモラルも決して低くなかった。
逆にイギリス人やアメリカ人や中国人のていたらくは、目に余るものがあっただろう。
多少、勘違いしても、おかしくない状況だったのだと思う。
あくまで泥水をすする道を選ぶには、当時の日本人は志が高すぎたのではないか。

民主党政権最大の功績

吉田茂以来のアメリカとの腐れ縁を断ち切ったという意味で鳩山は最大の政治的成果を残したな。
やり方は最低だったが、でもこういう形しか、結局はとれなかっただろうよ。
歴代首相は、鈴木善幸も含めて、みんなそれなりにバカではなかったのだから。

いや、ごめん。やっぱり鈴木善幸は・・・(以下略)。あと他の首相も(以下自粛)。

一番うまいところをよけて食えと

読んでいるようで読めてないのが宣長。
何しろ著作が膨大なので、問題意識がないときにさらっと読んでいると読みおとす。
改めて読んでみるとそんなことが書いてあったのかと驚く。

[うひ山ぶみ](http://ijustat.at.infoseek.co.jp/gaikokugo/uiyamahumi.html)を読み返すとやはり玉葉・風雅批判がこれにも書かれていた。
うひ山ぶみは、宣長のライフワークとも言える古事記伝の脱稿・浄書後に、弟子たちに請われて書いた学問心得のようなもので、
一方、あしわけをぶねは、医業のかたわら学者として身を立てて行くことを決意した三十代前半か二十代後半、
自問自答形式あるいは学友との実際の問答から出来たかと思われる、初期の歌論であり、宣長の死後まで秘蔵されていたものである。

こういうものを読めば読むほど、宣長の思想と学問の中核にあるものは、詠歌と歌論であることがわかる。
あしわけをぶねでは、新古今が最高であり、新古今の歌人たちは古今集を学んで自然とあのような歌を詠んだのであるから、
古今集を手本として歌を詠めば新古今風の歌が詠めるようになる、というある種強引な、根拠不明の説を唱えていた。
一方、うひやまぶみでは

> まづ古今集をよく心にしめおきて、さて件の千載集より新続古今集までは、新古今と玉葉、風雅とをのぞきては、いづれをも手本としてよし。

と言って、21代集のうちの、新古今、玉葉、風雅を除いて、千載集から最後の新続古今集までを学べ、と言っている。
21代集でおもしろいのは、宣長の反対の部分であって、
古今・後撰・拾遺・新古今・玉葉・風雅、なのである。
宣長はそれがわかった上でわざとその反対を学べと言っている。
実にいやらしいやつである。
さらに、

> 然れども件の代々の集を見渡すことも、初心のほどのつとめには、たへがたければ、まづ世間にて、頓阿ほうしの草庵集といふ物などを、会席などにもたづさへ持て、題よみのしるべとすることなるが、いかにもこれよき手本也。此人の哥、かの二条家の正風といふを、よく守りて、みだりなることなく、正しき風にして、わろき哥もさのみなければ也。

21代集に直接当たるのはたいへんなので、頓阿の草庵集を手本とするのが便利だと言う。
頓阿というのはつまり、南北朝時代に、定家の本歌取りの作法とか、まねしちゃ行けない言い回しとかを理論化した、二条派を完成させた人だ。さらに、

> 其外も題よみのためには、題林愚抄やうの物を見るも、あしからず。但し哥よむ時にのぞみて、哥集を見ることは、癖になるものなれば、なるべきたけは、書を見ずによみならふやうにすべし。

題林愚抄は後水尾天皇勅撰の類題和歌集のもととなった類題集で、比較的古い歌ばかり集めた類題集だからよい、ということは、あしわけをぶねでも指摘されている。
面白いのは、当時、会席(おそらくは宣長が弟子を集めて主催したようなものだろう)で歌合わせのような競技をやって、
その題詠の参考書として、類題集を持ち込むということが普通に行われていたのだろうということが想像できる。
この、歌合わせ・題詠・類題集というのが、二条派の本質であろう。
堂上であろうが地下であろうが、歌合わせにおける題詠という遊技をたしなむには類題集が必須となる。
そしてある権威ある類題集というものが定まれば、それより外れた歌というものはなかなか出てきにくい。
特に宣長のように、古今・後撰・拾遺・新古今・玉葉・風雅以外の21代集を手本とすればなおさらその範囲は限定される。

私たちは、歌を詠むとは、ときおり思いついたことを歌の形にして書きとどめることだと思っているわけだが、
当時は歌合わせなどのようなサロンで競技をする、あるいはそのときのために日々習練しておく、ということに重要な意味があったに違いない。
それは、茶会のようなセレモニーに近いものであり、
歌の内容も良いにこしたことはないが、その場の雰囲気を楽しむのが主たる目的だったはずだ。
明治天皇の膨大な二条派風の詠歌も、彼が居た宮中という、毎日がセレモニーのような空間を仮定しなくては、
理解できないだろう。
貫之の頃に屏風絵が流行ったように、サロンにおけるセレモニーとしての二条派風詠歌というものが必要とされていたのだと思う。
そうとでも解釈しないと納得がいかない。
新古今・玉葉・風雅などの歌は、確かに、題詠や歌会にむいているとは言い難い。
明らかに、その異様さで場を壊す。

古今・後撰・拾遺の三代集はだいたい全部で一つと見て良い。
ただ後撰・拾遺が勅撰であるかどうかはうたがわしく、まただんだんに選出のクオリティが落ちているというだけだ。

新古今は後鳥羽天皇による和歌史上の壮大な実験が行われた場であって、それなりの活力がある。

玉葉・風雅は、京極為兼によって類題・題詠などの旧風を改め、思ったことをできるだけそのまま歌にしようという実験が行われたのであろう。
これまた古今・新古今に並ぶオリジナリティがある。

そして、それ以外の21代集には、いわゆるオリジナリティとかおもしろみというものに欠けている。
宣長が、意識的に、独創性やおもしろみというものを否定して、風雅とか詞の美麗さというものをその上の価値として認めてようとしているのは、
間違いない。
しかし宣長の言うことは、彼がたびたび批判していた、堂上や伝授などといった連中がやっていたのと本質的に同じことであり、
和歌を窒息させる要因の一つになったのではないか。
和歌の発展にはある程度のゆらぎが必要であり、古今・新古今・玉葉・風雅、そして新葉はそのような役割を果たした。
宣長の意図には、理解に苦しむところが大いにあるといわざるをえない。

思うに、室町時代というのは、朝廷と幕府の協力関係から始まり、
書院造りとか、小笠原流とか、二条派とか、その他もろもろの、現代に続く家元制度のようなものが確立していった時代なのだ。
勅撰集もまた、将軍が天皇に提案し、天皇が公家に撰集を委託するという、三位一体体制ができあがった。
世俗権力と伝統文化とが、あやういバランスの上に成立していた。
そして天皇も公家も武家もみな定家を手本とした雅の世界に陶酔していった。
これが一つの完成形としてできあがったのだが、
応仁の乱による足利幕府の崩壊によって一時頓挫し、
徳川幕府と朝廷の関係は足利幕府の時ほどは良好ではなかったが、
和歌の伝統は二条派とか古今伝授という形である程度復活した、ということか。

思うに、足利義満が天皇の位を簒奪しようとしていた、などという説が、
室町時代の認識を大きくゆがめているように思う。
或いは南朝が正統となれば、足利氏は天皇と対立した逆賊という構図になる。
実際には、たとえば勅撰集の作られ方などを見てみれば、あと両者が京都という一つの場所で共存していたことを思えば、
室町時代ほど朝廷と幕府の関係が良好だった時代はないだろう。
特に権力をほとんど失ってしまった義政などは天皇と同居すらしていた。

古今伝授については、宣長は、仏教徒が自分の宗派の開祖の教えを正しいかどうか判断することなく守るということに、
影響を受けたものだという。
仏教の影響というものは確かに非常に大きい。
しかしまあ室町時代以来の伝統というのはそういう家元制度とか、あるいは江戸時代の堂上家というものなしには、
なかなか残りさえしなかっただろうなとは思う。
京極派が絶えたのもその伝承者がいなかったからでもある。

チェーンスモーカー

午後6時から8時くらいまでは、おそらく、仕事と通勤で禁煙を強いられたと思われるサラリーマンが、店に来るなりたばこを吸い始める。いつまでたってもとまらない。四本目まで吸ってまだ勢いが止まりそうもない。私はそこで店を替えたが、こういう人は迷惑だから、どこか喫煙所でニコチンを摂取してから来てくれないかな。

こういう種類の客があまりこない店というのもあって、つまり、勤務中にだらだらたばこの吸える仕事をやってる連中ということなのだろうが、そういう連中の行く店に行ったほうがまだ気は楽だ。

私はもと喫煙者だったが、だいたい自分でたばこを買っても、一箱吸い終わるまえにしけってしまう。ライターもあまり使わないので、たびたび買い足して、使わずに火がつかなくなったライターが山のようにあった。長いこと放置すると中に液が残っていても火はつかないんだよね。で、たまに人が吸っていると吸いたくなってもらいたばこで吸っていたりしたが、それもだんだん面倒になっていつの間にか吸わなくなった。部屋の片付けや匂い、あと火の始末など、たばこがないとずいぶんすっきりする。ポマードなど整髪料と同じで無いのがずっと簡単で楽だ。

宣長の京極派批判

改めて、あしわけをぶねを読む。
長いのではしょると、

> 近代の先達は玉葉・風雅などの風体を嫌って、正風体を学べと教えているが、
その教えは良いとして、その自身が詠んでいる歌をみてみると、実際にはその嫌っているところの、玉葉・風雅に近い風体である。
この教えはもともとは頓阿という人が、玉葉・風雅の悪風を改めて、正風を詠んだことに始まる。
頓阿は名人なのでその歌はみな正風だが、その後の先達たちは、頓阿の説に従いながらも、歌の善悪を知ることが頓阿に及ばない。
その自分の歌も嫌っている悪風に近い。
というのも、正風に詠もうとすると珍しいことは詠みにくい。
珍しい風情や新規なことがらなどを詠もう詠もうとすると自然に異風になる。
昔の正風の人は、どんなに「めづらしく優なる歌」にても正風体を離れなかった。

ここで「玉葉・風雅」と言っているのが、京極派の歌風であり、
京極派というのは、「めづらしく優なる歌」を詠もう詠もうとして、「いにしえの風体」を失ってしまった。

> 近世もてはやす歌はみな、めづらしく一趣向あれば、必ず風体は悪く、それを手本にして詠んでも良い歌は出てこない。

> さて、後拾遺・金葉・詞花などは風体よろしからず、詞の善悪を考えず、ただ心を珍しく詠むことをもっぱらにして、詞をいたわらぬゆえに、
優艶なることなし。いわゆる実のみで花がない。
古今は心も整い詞も美麗である。

宣長によれば詞が美麗であった上に心が整っているのが優れた歌、ということになる。

> 新古今をまねようとすると玉葉・風雅の悪風に陥るので、三代集を手本に詠めばちょうど新古今のように詠める。

> 為兼卿という人は冷泉家より出て、一家をなして歌の道に名高いが、
その歌ははなはだ異風であり、風体が悪い。
玉葉・風雅は為兼の風ではなはだ風体が悪い。
古今を通じてこの二集ほど風体の悪いものはない。

> 頓阿は異風の歌に比べれば正風であるというだけで、新古今の頃に比べれば同日の談ではない。

思うに、宣長は、古今集などの三代集を手本として歌を詠めば自然と新古今のようになる、
と言っているのだが、宣長の歌を見る限りでは、その歌は頓阿の系統そのものであり、
また宣長自身が批判している二条派堂上の、古今伝授の歌風である。
宣長の歌は、決して古今にも新古今にも似ていない。
だいたい、「古今を手本にすれば新古今になる」とか
「新古今をまねると玉葉・風雅になる」などの説に根拠はあるのか。
実に不思議だ。
京極派は、誰の歌もまねない、当時使われていた俗語の言い回しや口語も用いる、
縁語や掛詞や本歌取りはしない、
詞を巧みに飾らない、散文的な表現もあえて使う、
心情をそのまま歌う、などということをやったのだと思う。
ただ現代の我々からみれば古典文法の範疇に完全に収まっており、さほど破綻しているようには見えない。
多少字余りが多いとか、言い回しや韻律が古今時代とかなり違う、というくらいの違いしかわからない。
思うに、古今に比べれば新古今はかなりきわもの、げてものに近い。
古今と新古今の差異が許容されるのであれば、
新古今と玉葉・風雅程度の差がなぜ許されないのか、と思う。