源俊頼陰謀論

貫之が仮名序に「あきのゆふくれ」と書いたことで平兼盛が「秋の夕暮れ」を歌に詠み込み、清少納言が「秋は夕暮れ」と言い、みなが「秋の夕暮れ」を使うようになったのだろうか。

貫之が「秋の夕暮れ」を発明したのだろうか。ではなぜ貫之は「秋の夕暮れ」を自分の歌に一度も使わなかったのか。なぜ彼の時代まで「秋の夕暮れ」を詠んだ歌が一つも無いのか。「古の世々の帝」が「さぶらふ人を召して、ことにつけつつ歌を奉らせ給ふ」例を列挙している中になぜわざと「秋の夕暮れ」を混ぜる必要があるのだろう?極めて不自然ではないか。

東京国立博物館に『古今集』の最古にして最も美麗な写本、国宝元永本古今和歌集が展示されている。通りがかる人はみな、なんだかちっこくて地味な本だなと、ちらっと見て過ぎ去るばかりだ。しかしながらこれ、唐草模様を雲母刷りにし、金銀の切箔を散らした料紙を用いており、そうとう手間も元手もかかったものらしい。なぜこんな写本を作ったのか。源俊頼が関わっているのはほぼ間違いない。俊頼本人が書いたか、誰か字のうまい人に代わりに書かせたのだ。

元永本は俊頼が白河院の歓心を買うため献上した品ではないか。これを俊頼は正本として、普通の紙に写した副本をたくさん作って配ったのではないか。何のために?

『後拾遺』は完璧な勅撰集だった。『後拾遺』に比べればそれより前の勅撰集は不完全だった。いろいろな不備があった。勅撰集の体裁は『後拾遺』で初めて整い、続く勅撰集の規範となった。白河天皇と藤原通俊による偉大な業績だ。そのことを誰よりも俊頼自身が痛感していたはずだ。俊頼はその事実をどうにかして否定したかった。そのため(『万葉集』ではなく)『古今』が最初の勅撰集であることにしようとした。『後拾遺』は単に四番目の勅撰集に過ぎないことにした。『古今』に日本最初の勅撰集たる権威を持たせるために俊頼は元永本を作った。自分が勅撰集選者の始祖たる紀貫之の正統な後継者であることにした。『古今』選者の一人に過ぎなかった貫之はこうして崇拝対象になった。そして自分が選んだ『金葉集』も、この元永本のように金ピカに装丁して白河院に献上しようとした。ダレイオス大王が自分こそはアケメネス朝の正統な王であることを誇示するためにべヒストゥーン碑文を彫ったように。ダレイオスはしかしキュロス大王の嫡流にとってかわった簒奪(さんだつ)者だったのだが。

『金葉集』という名前にしてもこの元永本にしても、俊頼はやたらと豪華でキンキラキンなのが好きなのだ。金閣寺を作った足利義満、金の茶室を作った豊臣秀吉みたいな人なのだ。しかし白河院は、先にも述べたように俊頼には決して勅撰を許そうとはしなかった。白河院はそうした下心やこけおどしが嫌いな人だったと思う。もちろんすべては私の勝手な空想である。しかしさまざまな状況証拠からプロファイリングしていくと俊頼という人はそんな人だったとしか思えないではないか。

俊頼ってほんとはどんな人だったんだろう、どういうつもりでこの本を作ったんだろうってことを考えながら、私はしばしこのA5版程度の大きさしかない、多少虫食いのある写本を眺めたのであった。

e国宝というサイトにいくとこの元永本の画像を見ることができるが、この仮名序にはっきりと「はるの朝に花のちるをみ、あきのゆふくれにこのはのおつるをきき」と書いてある。貫之の時代にはまだ「ゆふぐれ」という言葉はなかった。「ゆふべ」と言っていた。ほぼ間違いあるまい。では「ゆふべ」を「ゆふぐれ」と書き間違えただけ?しかし曽祢好忠の歌との類似性についてはどう説明する。好忠は貫之よりも後の時代の人だ。では貫之は老年になって自分よりはるかに若い好忠の歌を知ってそれを仮名序に取り入れたのか。ちょっとあり得ないだろう。

さらに疑いの目で見ると、仮名序の前半部分と後半部分で、どうも文体やテンポに統一感がなく、ちぐはぐな感じを受けないだろうか。また「鏡の影に見ゆる雪と浪を歎き」とは紀貫之自身の歌「しはすのつごもりがたに、年の老いぬることをなげきて」と詞書きした「むばたまの ()黒髪(くろかみ)(とし)()れて (かがみ)(かげ)()れる白雪(しらゆき)」を参照しているのは明らかだが、もし貫之が仮名序を書いたとして、古歌を並べている中にいきなり自分の、しかも晩年に詠んだ歌を入れるだろうか?おかしいではないか。 古今集仮名序疑惑、私の推理では真犯人は、源俊頼くん、君だ。となるが、このことについてはもうこのくらいにしておきたい。

秋の夕暮れ参照。

Visited 5 times, 1 visit(s) today

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA