一番うまいところをよけて食えと

読んでいるようで読めてないのが宣長。
何しろ著作が膨大なので、問題意識がないときにさらっと読んでいると読みおとす。
改めて読んでみるとそんなことが書いてあったのかと驚く。

[うひ山ぶみ](http://ijustat.at.infoseek.co.jp/gaikokugo/uiyamahumi.html)を読み返すとやはり玉葉・風雅批判がこれにも書かれていた。
うひ山ぶみは、宣長のライフワークとも言える古事記伝の脱稿・浄書後に、弟子たちに請われて書いた学問心得のようなもので、
一方、あしわけをぶねは、医業のかたわら学者として身を立てて行くことを決意した三十代前半か二十代後半、
自問自答形式あるいは学友との実際の問答から出来たかと思われる、初期の歌論であり、宣長の死後まで秘蔵されていたものである。

こういうものを読めば読むほど、宣長の思想と学問の中核にあるものは、詠歌と歌論であることがわかる。
あしわけをぶねでは、新古今が最高であり、新古今の歌人たちは古今集を学んで自然とあのような歌を詠んだのであるから、
古今集を手本として歌を詠めば新古今風の歌が詠めるようになる、というある種強引な、根拠不明の説を唱えていた。
一方、うひやまぶみでは

> まづ古今集をよく心にしめおきて、さて件の千載集より新続古今集までは、新古今と玉葉、風雅とをのぞきては、いづれをも手本としてよし。

と言って、21代集のうちの、新古今、玉葉、風雅を除いて、千載集から最後の新続古今集までを学べ、と言っている。
21代集でおもしろいのは、宣長の反対の部分であって、
古今・後撰・拾遺・新古今・玉葉・風雅、なのである。
宣長はそれがわかった上でわざとその反対を学べと言っている。
実にいやらしいやつである。
さらに、

> 然れども件の代々の集を見渡すことも、初心のほどのつとめには、たへがたければ、まづ世間にて、頓阿ほうしの草庵集といふ物などを、会席などにもたづさへ持て、題よみのしるべとすることなるが、いかにもこれよき手本也。此人の哥、かの二条家の正風といふを、よく守りて、みだりなることなく、正しき風にして、わろき哥もさのみなければ也。

21代集に直接当たるのはたいへんなので、頓阿の草庵集を手本とするのが便利だと言う。
頓阿というのはつまり、南北朝時代に、定家の本歌取りの作法とか、まねしちゃ行けない言い回しとかを理論化した、二条派を完成させた人だ。さらに、

> 其外も題よみのためには、題林愚抄やうの物を見るも、あしからず。但し哥よむ時にのぞみて、哥集を見ることは、癖になるものなれば、なるべきたけは、書を見ずによみならふやうにすべし。

題林愚抄は後水尾天皇勅撰の類題和歌集のもととなった類題集で、比較的古い歌ばかり集めた類題集だからよい、ということは、あしわけをぶねでも指摘されている。
面白いのは、当時、会席(おそらくは宣長が弟子を集めて主催したようなものだろう)で歌合わせのような競技をやって、
その題詠の参考書として、類題集を持ち込むということが普通に行われていたのだろうということが想像できる。
この、歌合わせ・題詠・類題集というのが、二条派の本質であろう。
堂上であろうが地下であろうが、歌合わせにおける題詠という遊技をたしなむには類題集が必須となる。
そしてある権威ある類題集というものが定まれば、それより外れた歌というものはなかなか出てきにくい。
特に宣長のように、古今・後撰・拾遺・新古今・玉葉・風雅以外の21代集を手本とすればなおさらその範囲は限定される。

私たちは、歌を詠むとは、ときおり思いついたことを歌の形にして書きとどめることだと思っているわけだが、
当時は歌合わせなどのようなサロンで競技をする、あるいはそのときのために日々習練しておく、ということに重要な意味があったに違いない。
それは、茶会のようなセレモニーに近いものであり、
歌の内容も良いにこしたことはないが、その場の雰囲気を楽しむのが主たる目的だったはずだ。
明治天皇の膨大な二条派風の詠歌も、彼が居た宮中という、毎日がセレモニーのような空間を仮定しなくては、
理解できないだろう。
貫之の頃に屏風絵が流行ったように、サロンにおけるセレモニーとしての二条派風詠歌というものが必要とされていたのだと思う。
そうとでも解釈しないと納得がいかない。
新古今・玉葉・風雅などの歌は、確かに、題詠や歌会にむいているとは言い難い。
明らかに、その異様さで場を壊す。

古今・後撰・拾遺の三代集はだいたい全部で一つと見て良い。
ただ後撰・拾遺が勅撰であるかどうかはうたがわしく、まただんだんに選出のクオリティが落ちているというだけだ。

新古今は後鳥羽天皇による和歌史上の壮大な実験が行われた場であって、それなりの活力がある。

玉葉・風雅は、京極為兼によって類題・題詠などの旧風を改め、思ったことをできるだけそのまま歌にしようという実験が行われたのであろう。
これまた古今・新古今に並ぶオリジナリティがある。

そして、それ以外の21代集には、いわゆるオリジナリティとかおもしろみというものに欠けている。
宣長が、意識的に、独創性やおもしろみというものを否定して、風雅とか詞の美麗さというものをその上の価値として認めてようとしているのは、
間違いない。
しかし宣長の言うことは、彼がたびたび批判していた、堂上や伝授などといった連中がやっていたのと本質的に同じことであり、
和歌を窒息させる要因の一つになったのではないか。
和歌の発展にはある程度のゆらぎが必要であり、古今・新古今・玉葉・風雅、そして新葉はそのような役割を果たした。
宣長の意図には、理解に苦しむところが大いにあるといわざるをえない。

思うに、室町時代というのは、朝廷と幕府の協力関係から始まり、
書院造りとか、小笠原流とか、二条派とか、その他もろもろの、現代に続く家元制度のようなものが確立していった時代なのだ。
勅撰集もまた、将軍が天皇に提案し、天皇が公家に撰集を委託するという、三位一体体制ができあがった。
世俗権力と伝統文化とが、あやういバランスの上に成立していた。
そして天皇も公家も武家もみな定家を手本とした雅の世界に陶酔していった。
これが一つの完成形としてできあがったのだが、
応仁の乱による足利幕府の崩壊によって一時頓挫し、
徳川幕府と朝廷の関係は足利幕府の時ほどは良好ではなかったが、
和歌の伝統は二条派とか古今伝授という形である程度復活した、ということか。

思うに、足利義満が天皇の位を簒奪しようとしていた、などという説が、
室町時代の認識を大きくゆがめているように思う。
或いは南朝が正統となれば、足利氏は天皇と対立した逆賊という構図になる。
実際には、たとえば勅撰集の作られ方などを見てみれば、あと両者が京都という一つの場所で共存していたことを思えば、
室町時代ほど朝廷と幕府の関係が良好だった時代はないだろう。
特に権力をほとんど失ってしまった義政などは天皇と同居すらしていた。

古今伝授については、宣長は、仏教徒が自分の宗派の開祖の教えを正しいかどうか判断することなく守るということに、
影響を受けたものだという。
仏教の影響というものは確かに非常に大きい。
しかしまあ室町時代以来の伝統というのはそういう家元制度とか、あるいは江戸時代の堂上家というものなしには、
なかなか残りさえしなかっただろうなとは思う。
京極派が絶えたのもその伝承者がいなかったからでもある。

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