身の振り方

だいたい20年前に働き始めてその職場をたった4年で辞めたのは時期尚早だった気がするのだが、
しかしそのまんまその職場にいたら、動くタイミングを失っていただろうと思う。
川越のほうで4年間働いた。悪くない思い出だ。
あれがなければ『川越素描』を書くことはなかったのだし。

それから厚木のほうへ移った。
今までずっと、転職したことが、正しかったのかどうか半信半疑だった。

今思うと、やはりいろんな職場を転々としたほうが楽しかったのだろうと思う。

昔やってた研究、昔入ってた学会、昔の人脈などどんどん切り捨てて、今は小説書くのが一番、
CG作るのが二番くらいでやっている。
もしもとの職場にいたら、私はただの研究者で、
一生涯ずっと研究者で、
CGクリエイターまがいのことをやることもなく、小説も書かなかっただろうと思う。
たぶん。
かなり高い確率で。
ふと気付くと高校生の頃の自分に戻っている、個人的に活動していることは、だが。

30代の頃はまってた学会活動は、結局続かなかったわけだが、
その反省は小説のネタにはなっているので、全く無駄ではなかったというか、
あの試行錯誤がなければ、今の自分の立場はない。
そういう意味ではやりきったというか。
わかった上で惰性で続けるのを辞めたというか。

あと、10年か15年か働くかしらんが、
もう終わりは見えてきたのだから、
自分のやりたいことだけやってればいいだろうと思う。
やりたくないことをわざわざやらんでもいいだろう。
どんどんつぶしのきかない方向にいっているのは怖くもある。
普通に群れていた方が安全なのだが。

だがね、群れるのが好きなら好きで、やりようはあったはずなんだ。
いつも群の中心に居るように、努力すりゃいいんだから。
でも、自分のやりたい仕事だけやるってことが、
どんだけ楽か、
最近如実に感じる。
自由業で食っていければ、それが一番いいに決まっている。
少なくとも私には、会社員として縛られることに、組織の中で競争することに、何の興味も喜びもない。

当面、勢いで自由業者にならないように、気をつけていようと思う。

Valid W-8BEN

アマゾンから5月25日にこんなメイルが届いていた。

> Hello,

> Thank you for submitting your W-8BEN. Starting in June, your withholding rate on payments will be 0% and we are retaining the original form on our files. Please remember to submit a new form if your information changes. If you have any questions, please let us know.

> Thanks,

5月20日に、次回に振り込まれる金額が通知され、
振り込みがあったのが5月30日。
無事全額振り込まれていた。
やれやれ。

ま、あとはばんばん本を書くだけなのだが(良い本を書くより広報活動のほうが大事な気もする今日この頃)。

6月は5月よりか全然売れてないはず。

夏目漱石『坑夫』

夏目漱石『[坑夫](http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/774_14943.html)』
をkindle版で再読しているのだが、無駄に長い。
冗長。こんなだらだらしたものを書きたいから書いたんだろうけど、付き合うほうはよほどおっとりした性格でなくてはなるまい。

> 昨夕東京を出て、千住の大橋まで来て

とあるから、おそらく日光街道を越谷、春日部あたりまでを二日がかりで徒歩で歩き、
ここから鉄道で古河、小山、桐生、足尾とたどった、という設定だろうと思うのだが、
越谷や春日部のあたりは一面の田んぼのはずであり、どこまでも続く松原、なんてものがあるとは思えない。

途中の街道の描写は川越街道、武蔵野の光景に酷似している。

だいたい二日もぶっとおし歩けば、川越か春日部あたりまでいけるだろう。

川越の手前は川越河岸というものがあって、
ちょうど

> いつの間まにやら松がなくなったら、板橋街道のようなけちな宿の入口に出て来た。やッぱり板橋街道のように我多馬車が通る。

というのがこの川越河岸だか福岡河岸あたりの光景だろう。
さらに進むと、

> そのうちに人通りがだんだん多くなる。町並がしだいに立派になる。しまいには牛込の神楽坂くらいな繁昌する所へ出た。ここいらの店付や人の様子や、衣服は全く東京と同じ事であった。

これはおそらくは川越のことだろうと思う。
春日部がどんなだかは知らない。

> ここにはわざと云わない。

などと書いていて、しらばっくれているのは、ほんとうは春日部日光街道(奥州街道)なんだが、
そっちは取材してなくて、
たまたま知ってた川越街道のことを書いたんじゃなかろうか。
或いはだれか(漱石本人か)が川越のあたりまで出奔したという話と、
足尾銅山で働かされた誰か別の人からの取材があわさってできているのかもしれん。
でないと、この前置きの冗長さを説明できん。

そういうどうでもいいごまかしのために、或いは文字数を増やすがために、
やたらとだらだらわけのわからない文章を書かれては困る。
川越なら川越、春日部なら春日部と書けば良いものを。
わからんことは取材してから書けばよいのに、と思う。

きちんと実名を出し、余計な回想だかをくどくど繰り返さなきゃ、
この鉱山行の話は十分の一ですっきり片付くだろうと思う。

> 板橋街道

というのがぽろっと出てくるがこれは中山道と川越街道が板橋で分かれる手前のあたりを言うと思われる。

[追記あり](/?p=12675)

堀切駅

ははあ。
堀切駅があんなひどい有様なのにはわけがあったのだ。

堀切菖蒲園駅ができたのは荒川放水路が完成した後の、昭和6年。
もともとは浅草を出た東武伊勢崎線が鐘ヶ淵駅からまっすぐ堀切菖蒲園前にのびてここに堀切駅はあり、
そこからまたぐるっとめぐって千住にもどっていたのだ。
今、堀切菖蒲園の西側、荒川へ向かって小径があるが、ここが昔の駅前商店街だったと思われる。

堀切菖蒲園は昔は浅草から電車一本でいける至極便利なところだったのだ。
だから明治時代にここらに菖蒲園が繁盛した。
ところが荒川放水路のために堀切駅はとんでもなく窮屈なところへ押し込められてしまい、
駅とは思えないようなありさまになってしまった。
菖蒲園とも切り離されてしまったというわけだ。

いやはや。
荒川放水路というのは、つまり、都心と葛飾区を切り離すバリヤーのようなものになってしまった。
ある意味、葛飾にとっては災難だな。

堀切菖蒲園

東京スカイツリーに行く機会があったのだが、
私はあんなものに何時間も並んで登る趣味はないので、
近場の堀切菖蒲園というところの菖蒲祭りを見に行くことにした。

堀切というところに菖蒲があったのは浮世絵にも描かれているので事実らしい。
しかし、菖蒲園なるものが成立したのは江戸末期であり、
それが流行したのは明治に入ってからだという。
堀切菖蒲園自体は地図の上で確認して予想したとおりに、非常に狭苦しいところであった。
江戸時代から続いているというのでなければほとんど何の価値もないだろう。
町田の薬師池公園のほうがもっと広い。
近くには小岩菖蒲園とか水元公園などもっと広いところがいくらでもある。
新宿御苑でも明治神宮でもいいだろう。

とにかく堀切菖蒲園というところは古いだけが取り柄の場所だったのだが、
別に古い遺構があるというわけでもない。

向島百花園というところにも行ったのだが、ここも狭い。
新宿御苑とかあるいは六義園のようなものを期待していくのがいけない。
江戸時代から続く普通の庭園だから、とにかくこぢんまりしている。
悪く言えば、わざわざ遠方からでかける必要はない、と思う。

だいたい東京というところは、特に民間のものは、
古い古いと言っても嘉永とか慶応とか、よくて天保くらいのものばかりで、
古いものはたいてい焼けたか朽ちて残ってないのだろうと思う。
堀切菖蒲園は農民が、向島百花園は商人が作ったものらしいが、そういう江戸庶民の金持ちの庭園というのは、
たかだかこんなものだったのだろうと思って眺めると良いのだろうと思うよ。

ここらはとにかくアクセスが悪い。

堀切という駅があるがあんなひどい駅はあまりあるまい。
歩行者のための歩道というものがまるで整備されていない。
この駅周辺だけではない。
隅田川や荒川や柳瀬川ぞいの鐘ヶ淵とか、どこもかしこもだ。
こんなことは京都の鴨川なんかでは決してありえない。
私はもう墨田区というものに絶望した。
歩行者にはまったく優しくない地方自治体だと確信した。

葛飾区はものすごい田舎で、
部分的にむちゃくちゃな再開発をしてる墨田区とは対照的に再開発をほとんどしてない。
昔はこういう下町に情緒を感じたものだが、
小さな路地の中まで車が入ってきて、
こんなところでいい気に酔っ払ってて後ろからクラクション鳴らされたらどんだけ逆上するかもしれない、
何をしでかすもしれないと思うと、
もう恐ろしくて怖くてたまらない。

ま、しかし田舎というものはどこでもそんなものだ。
墨田区や葛飾区だからまだ文句の言いようがあるだけで、
名も無い地方自治体に文句をいってたらこっちが馬鹿だ。

鐘ヶ淵というのは調べてみると、
隅田川が差し金のように直角に曲がった淵であったという。
非常に興味深い地名である。
大宮台地の東側から来る川(隅田川、利根川)と西から来る川(入間川、荒川)が合流する地点が鐘ヶ淵であり、
その東岸、鐘ヶ淵から堀切、お花茶屋あたりまではひとつながりの台地であった。
ここを貫くように今は荒川が流れているが、
これがいわゆる大正から昭和初期に開削された荒川放水路。
つまり、堀切というのは昔は荒川で分離していたのではなかった。
地続きだったわけだ。

鐘ヶ淵はつまり荒川と利根川が合流して流れが直角に変わる淵だったのだから、
そりゃまあものすごい船の難所だったろうと思う。

墨田宿というのはその鐘ヶ淵の若干下流に位置していたらしい。
下総と武蔵の間の交通は主にここで行われた。つまり墨田の渡し。
水神の渡しともいう。
今の水神大橋と白鬚橋の中間くらい。
その宿の跡地には隅田川神社というものが建っているが、昔からこんな名前だったはずがない。
水神様、なんて呼ばれていた。
明治に入ってから隅田川神社なんて名になったという。
古地図では、浮島神社と言って、隅田川の中州に建っていたことになってるから、
今の東向島公園の一帯が昔は川底だったか。
浮島社は源頼朝の創建というがまあとってつけた話だろう。たぶんもっと古い。

いずれにせよ房総に逃れ再挙した頼朝もここを渡って鎌倉入りしたらしい。

台東区に石浜神社というのがあり、ここが西岸の渡し場だったと思われる。

マイノリティが毒を吐く

正義感というのは生きる上で何の役にもたたないものであり、
生まれたばかりの幼児にも正義感とか闘争心というものがあり、必ずしも高級な感情ではない。
少なくとも、理性の一種ではなく、動物にもあるものだろう。

試しに子供の母親をいじめる(いじめるふりをするだけでよい)と幼児は怒ってかみつく。
本気でかみつく。
ネコや犬が噛みつくのと何も変わりは無い。
闘争本能とか復讐心というものが教育や社会環境によらず生まれつき身に付いたものである証拠だ。

そこで正義感とか怒りというものをできるだけ抑えて、世の中に無関心無反応になるのが、
自分の精神も汚染しないし、気分良く生きていくコツだと思う。
どうせ世の中というものは変わらないし、自分に変える力もないのだから。

だが、酒を飲むと自制心が弱まって正義感が強まり、つい怒ってしまうことがある。
これが困る。
酒は飲みたいのである。

朝から歩行喫煙者を見ると腹が立つ。
飲食店でも当然のように灰皿がおいてあり煙草を遠慮無く吸うやつがいる。
中には煙草の火を消さずに道に投げ捨てるやつもいる。
犬が吠えてうるさい。
戦闘機がうるさい。
道をよけられないくらい狭い路地で車や自転車に後ろから警笛を鳴らされる。
自転車の運転が乱暴。
ロマンスカーで隣に座ったやつが横柄で越境してくる。
食い物の食い方が汚い、くちゃくちゃうるさい。
歩行者の動線などまったく考慮してない車線設定。
破綻した道路行政。
そういったものに腹を立てなけりゃいいんだが、
こういうものは、(たとえば犬のうるさいのとか車のうるさいのとか)子供のころは平気だったとしても、
次第次第に嫌な経験が蓄積されていくうちにアレルギーのように、
ささいなことでも腹が立つようになる。

一番いいのはまったく新たに作られた、道が広くて車道と歩道が分離していて、
喫煙者がいなくて、犬を屋外で飼うやつがいなくて、戦闘機が飛ばなくて、
住人がともかく礼儀正しい地方自治体というものをなんとか拵えてもらい、
自分もそこの住人になることだろうと思うのだが、まあ実現不可能だ。
田舎にいけばいくほど人間は練れてないから、都心のどこかにひっそり暮らすのが比較的理想に近いかもしれん。

今非実在なんとかとかうるさいんだけど、
昔、1990年に新風営法で、ソープランドとか競馬とかパチンコなんかが事実上野放しになってるのに、
ゲームセンターがなぜか規制対象になったことがあったが、
今回の規制にも似たようなものを感じる。
規制するなとは言わないが、他にもっと先に規制すべきものはいっぱいあるのに、なぜそこを規制するのか。
ゲームセンターが朝まであいてて何が困るのか。
居酒屋だって24時間開いてるところはある。
深夜は未成年者はいれないようにすればいい。
悪徳かどうかを政治が判断しないのが近代社会である。
少なくとも成年したまっとうな納税者がどういう私的生活をしているかに干渉しないのが近代社会である。
いやいやそもそも話は逆で、納税者の契約した社会が近代社会というものであり、
納税者の意思以外に社会を構成する根拠はないのである。

ゲームにパチンコに許されているような換金も許せば良い、パチンコだけ許すのは不公平だ。
ゲームは飛躍的に進化するだろう。
馬鹿がゲームにはまって困窮するかもしれないが、
大の大人がパチンコやギャンブルや宝くじや先物取引やゲームにはまって困るのは自業自得であり、
自分の意思で行動できる一般人を規制するのは間違いである。

もしゲームセンターが規制を受けなければ今ごろビデオゲーム文化はどれくらい発展し、爛熟していたかもしれない。
なぜ規制しなければいけなかったか。
規制しなかったことであり得たかもしれない可能性を、摘んでしまう。
その罪を、百年後千年後の人類にどうやって償うのか。
今までいろんな為政者がそうやって人類に対する罪を犯してきた。
同世代人である私もまたその共犯者なのだろうか。
当然共犯者である。
看過することによって人類に対する罪を犯すのである。
しかし、私はむしろ自分の静かな生活を守りたいし、行動にでたくはない。

人類の脳みそがも少し賢かったら、
アーケードゲーム特区を作りそこではカジノのように金かけてゲームできるようにする、
という実験さえできたのに違いない。
競馬など公営賭博がある。ギャンブル特区を作ろうという話もたびたびでる。
そういうことは絶対やってはならないというわけではない。
しかしいつもつぶされる。

ようは、賭博にしろ風俗にしろ、政治的マジョリティがいるからつぶせないだけであり、
児童ポルノにしてもゲームセンターにしても、その擁護者が政治的にマイノリティだから規制を受けるのであり、
政治的マジョリティが政治的マイノリティを規制するのはいつの時代でも人類に対する罪なのである。
未来永劫償おうとも償えない罪である。

私は児童ポルノがどうのというのにはあまり興味ないのだが、
たとえばコミケに参加するのが60万人弱いて、日本全国にそういう趣味の人がざっと100万人いるとしよう。
日本人の100人に1人くらいいるとしよう。
たぶん私はその中の1人ではない。
コミケに類したイベントには一度も行きたいと思ったことがない。

60万人というのは厚木花火大会と同じ動員数であり大したことはない。
しかし、その60万人だか100万人だかは日本の文化創造のほぼ中核にいるひとたちである。
で、規制をかけると飯が食えなくなって普通のサラリーマンか下手するとアルバイトで飯を食っていかなくてはならなくなる。
同人活動は基本エロで食っている。
社会に順応できず、同人活動を行いつつ、メジャーをめざすものたちにとってエロは死活問題なのだ。
エロを規制するとは、ゲスな親父や変態を規制することとは少し違う。
そういうおっさんたちを規制する方法は他にいくらでもあるんじゃないのか。

どんなつまらないマンガでも小説でもエロを入れれば買い手はつく。
才能の無い人間、メジャーになれてなくて、他に飯を食う手段がない人間はそれにすがりつくしかない。
メジャーな作家でもお色気シーンなどを入れて読者サービスをしなくてはならない。
司馬遼太郎の『燃えよ剣』だって似たようなものだ。
宮城沢昌光だろうと佐藤秀峰だろうと三浦しをんだろうと鈴木みそだろうと畑中純だろうとそうだ。
無難なエロを入れるかお上品なエロを入れるか、露骨なエロを入れるかの違いだ。
それが商売というものだからだ。

で、そのエロが社会に悪影響を与えるというのなら規制の対象になってもしかたないかもしれないが、
同人が身内で楽しんでいるだけならば、規制するのは間違いである。
暴力ゲームも同じ。
暴力ゲームとリアルの暴力の関係が明らかでないならば規制するのは間違いである。

春画は規制されただろう。
山東京伝も為永春水も規制された。
しかし今の時代それらはすべてすぐれた江戸の文化の一部だ。
同じことを現代の為政者として行って、百年後、千年後の人類にどう申し開きをするつもりなのか。
過ちを犯して我々に謝って欲しいのではない。
未来の人類に責任をとってほしい。

時の鐘bot

時の鐘というと川越のが有名だが、昔は浅草寺でもどこでもやっていたはずだ。
今、詳しく調べてないけど、
たとえば四つの鐘というのは実際に四回鐘を叩いていたわけで、
九つだと九回。

九というのは大事な数字だからだというが、
一回、二回、三回は間違って撞いたのかもしれず、
また最初の一回などは聞き逃したりして紛らわしいので、
四回以上九回までということになったのではなかろうか。
鐘というのは実際少なすぎるとわかりにくい。

それでまあ、日の出は卯の刻、日の入りは酉の刻、と決まっているので、
昼を六等分、夜を六等分するという変則的な時刻ができたんだろうけど、
鐘の回数で、明け六つだねとか、暮れ六つだね、などと言い出して、
そっちのほうがわかりやすいんで、自然と「明け六つ」「暮れ六つ」
という呼び名が定着したのだろうと思う。

今の川越の時の鐘は、機械式で、
午前6時・正午・午後3時・午後6時の四回鳴らしているというが、
これはいかにも味気ない。正午は動きようもないのだが、明け六つ、暮れ六つは日の出日の入りに無関係、
午後三時に至っては江戸時代の時刻になんら対応していない。

機械式かどうかってことはあんまり関係ないと思う。
人が撞いた方が情緒があるかもしれんが、
そもそも江戸時代から和時計というものがあったのだから、
現代の技術をもってすれば、昼と夜をそれぞれ六等分して鐘を撞くくらいの仕掛けを作るのは簡単だろう。
そのくらいのことをなぜやらないか。

寺が夕方くらいに梵鐘を撞くけれど、
あれも六回どころでなくずっーと撞いている。
しかも毎日ではないように思われる。
気の向いたときに撞いているのではなかろうか。
入相の鐘、というらしいな。回数決まってないのかな。

でまあ、
[時の鐘bot](https://twitter.com/tokinokane_bot)というものを作ったのだが、
いろいろ考えてみるに、
明治政府が太陰太陽暦を廃止してグレゴリオ暦にした、
その直前までの暦が天保暦というもので、
いま旧暦と言っているのはその天保暦の規則をそのまま延長したものであるらしい。
だが、完全にそのまんまではなく、
天保暦では京都を基準にしたのを今は明石を基準にしている。
明石の日の出日の入りと、京都の日の出日の入りと、東京の日の出日の入りでは当然違ってくる。
緯度でも経度でも変わってくる。
日本で一番正確に天体観測されているのは明石であろう。
ならば、明石を基準にせざるを得ない。

緯度経度が変わると朔が変わる。中国と日本は経度がだいぶちがうんで、朔も違い、
従って春分やら元旦やら月の大小やら、閏月をどこに入れるかも変わってくる。
どこか基準を決めないわけにはいかないが、
日本で一番無難なのは明石であろう。
結局我ら民間人は理科年表かなんかを基準にせざるを得ない。

でまあ、
[旧暦2033年問題](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E6%9A%A62033%E5%B9%B4%E5%95%8F%E9%A1%8C)
というのがあり、
当面botのプログラミングにはなんら問題ないのだが、
20年後くらいにはそろそろ天保暦をそのまんま使い続けていてはまずいってことになる。
閏月をどこに入れるかなんてことは一意ではないから誰かがえいやっと基準を決めちゃえばいいんだが、
それは日本政府なのか民間なのかとかそのへんがややこしいことになる。
でも問題といってもただそれだけなんで、旧暦を使い続ける需要があれば自然と決まるだろう。

旧暦は使ってみると非常に便利なもんで、
特に和歌なんか調べたり自分でも詠んでたりするとどうしても旧暦じゃないと具合が悪い。
五月晴れとか五月雨とか端午の節句とか菖蒲湯とかそのへんの感覚も現代では完全に狂ってしまっている。
その気持ち悪さの解消にはなる。

[増上寺](http://www.youtube.com/watch?v=BpplZ6j8XgU)は朝と夕方の5時に6度撞くらしいね。

でまあ、日記や書簡なんかで昔どんな感じに日付を入れていたかなんだが、
私としては吾妻鏡にそろえたいところなんだけど、
干支日というのは間違えやすいもので、実際吾妻鏡も明らかに何箇所か間違えている。
間違えやすいとはいえ、逆にいえば干支日というのは60日周期できちんと大昔から決まっているものなのだから、
正確な日付を知りやすい。

一方で干支年なんてものは書いても書かなくてもどうでも良い気もするのだが、
年号は一年の途中で改元されたりするから、やっぱり干支年もあったほうが便利だろうというので、
結局両方入れたりした。

また、吾妻鏡には月の大小まで書いてあり、
当時の公家の日記なんかも読んでみたいところだが、そんなことまで必要かなと思いつつ、
入れてみた。
とにかくなんでも入れてみたのでごちゃごちゃしてしまった。