判断力批判

カントの「判断力批判」によれば、言語芸術は雄弁術と詩(文芸)に分かれ、
雄弁術とは悟性の仕事を構想力の自由な戯れであるかのように進める芸術、
詩とは構想力の自由な戯れを悟性の仕事であるかのように進める芸術、なのだそうだ。
わかるようなわからんような。

つまり弁論とは理性を感情に訴えること、
詩は感情を理性に訴えること、ということか。

しかしまあ、ドイツ人は詩をすごく大事にするよな。
そしてある意味弁論術をすごく過大に評価しているともいえる。
カントは詩人でも政治家でもなかったはずだが。
中国も昔は科挙は詩と八股文だったのにな。
詩で学力や文章力を見るのは悪くないが、客観評価にはむかないから、
官吏登用試験には不向きかもしれんね。
詩にしろ歴史にしろ試験にしてしまうとあっという間に訓詁学になってしまう。

埃吹く街

近藤芳美。
先入観を捨て、まじめに読んでみると良いものもある。

> 夕ぐれは 埃の如く 立つ霧に 駅より駅に 歩む労務者

> つらなりて あかり灯れる 陸橋を 歩める中に 義足踏む音

> 列つくる 地下食堂の かたはらに 扉ひらきて 映画がうつる

> 冷えびえと 設計室の かげり来て 靴より出づる 釘ひとり打つ

> 夜おそく 設計室に 来し妻と 床の電熱器 ともしてあたる

> 又何か 仕事もくろむ 弟の おそく帰りて 二階に上る

> つつましく 米残す妻 つきつめし 餓は吾らに 来じとぞ思ふ

> 生きて行くは 楽しと歌ひ 去りながら 幕下りたれば 湧く涙かも

> 手洗場に 入りたる妻を 待てる時 遊歩路の灯の 一つづつ消ゆ

> 耳のうら 接吻すれば 匂ひたる 少女なりしより 過ぎし十年

これらは秀歌と言って良いだろう。

> 鉄を截る 匂ひなまなまと 立つ夕べ 心疲れて 運河に出でぬ

惜しい。
上の句がよく、下の句の続き方も悪くないが、どうしても中折れな、羅列した感じ。
他にも

> 朝鮮に 産を失ひ 帰り来し 父と住み合ふ 冬を越すべく

> 意地きなき 老いし通訳 きらはれて 一人現場を よぎりて帰る

> 赤さびし 工作機械に やすりかけて 幾人もあらず 少年工のほか

> 赤きコート 又着る事も あらざりき 吾らに長き 戦ひのとき

> 枯草の 夕日に立てり 子を産まぬ 体の線の 何かさびしく

> さむざむと 白粉の浮く ほほをして 芝原を行き 帰らむとする

> 月青き 石だたみの上に 一人酔ふ ポケットに買ひし 栗こぼれつつ

> 上野駅の 夜の半ばごろ 浮浪児らは 踊る少女を かこみ集る

> みじめなる 思ひ重ねし はてにして 今かぎり無く 日本を愛す

> 興るべき 新しさとは 何ならむ なべて貧しく 生きしぬぐ日に

> 二人とも 傷つき易し 子が欲しと 言ひし事より 小さきいさかひ

> 舌を刺す 鰯を分けて 喰ふ夕餉 妻にたぬしき 事もなからむ

> 眼鏡割り 帰り来りし 弟は 部屋すみにして 早く寝むとす

> 一日を 炬燵に伏して 居し父の いたはる母に 声をあららぐ

> 諍ひし あとを互ひに 寝る家族 小さき地震を 弟は言ふ

> 仮面つけし 如き思ひに つとめつつ つく溜息を 人は聞きとむ

これらも捨てがたい。
全体に、乱調で数ばかり多い印象だが、中に光るものが混じる感じ。
それら雑多な歌は単なる散文の詞書きとして読めばよいのだろう。
ただのイデオロギーとか、そういう理屈や観念的なものではない、
日常の空気を歌という形で切り取ることができた、
目の前の実景を写し取ることができた人だ。
それはアートに属することであり、
新聞歌壇など見ていればわかるがそういうことができる人は滅多にいない。
良くも悪くも彼の存在は否定できない感じ。
少なくともこの処女作に関しては。

戦前、割とまともな古典文法と作歌法を学んだのではないか。
文語文として見て破綻が少ない(無いとは言ってない。むしろ大いにある)。人工的な感じが少ない。
30代なかば、働き盛りの、戦後まもなくの歌。
戦後、周囲に同調したり流されたりして、或いは捨てたりして、
いろんな雑多なものが混じり合っている。
たぶんもっとむちゃくちゃな労働歌を詠む連中が周りにいただろう。
戦前の伝統的な和歌を詠む連中もいたのだろう。
彼の立場が理解できぬでもない。
彼は単に自分の信じるままに良い歌を詠み続ければそれでよかったはずだ。
ただ名声や地位が上がるにつれて才能は枯渇し、
立場上駄作を濫造することになり、
周囲に惑わされ流されてしまった人ではないかと思えて仕方が無い。
戦後教育を受けた彼のシンパらはまともに文語文など習わなかっただろうし、
エスペラント運動などの影響で、勝手な新語を造るのが新しい時代だとして、
無闇に現代語と万葉語をキメラにしたような、変な言葉遣いを流行らしたとしても不思議では無い。

尚未

孫文の遺言だが、中文版ウィキペディアには、

> 現在革命尚未成功。凡我同志,务须依照余所著《建国方略》、《建国大纲》、《三民主义》及《第一次全国代表大会宣言》,继续努力,以求贯徹革命尚未成功、同志仍須努力

とあって日本語版には

> なお現在、革命は、未だ成功していない──。わが同志は、余の著した『建国方略』『建国大綱』『三民主義』および第一次全国代表大会宣言によって、引き続き努力し、その目的の貫徹に向け、誠心誠意努めていかねばならない。

とある。
ここで違和感があるのは「尚未」である。
「尚」「猶」は「未」と同時には使わないんじゃないかと思っていたのだが、
どうも口語では使うらしい。
口語で使うというより二字に続けた方が話し言葉としては分かりよいので、
それが慣例になったのかもしれない。

「未」には否定の意味があるが、「猶」「尚」には肯定の意味があるからだ。
「未」はいわゆる再読文字で「未だに・・・無い」だが、
「尚」は「いまでもなお」「いまも」の意味だからだ。
つまり「未」に「尚」をわざわざ付ける必要がない。
古典的漢文法ではきっと必ずそうではないか。

「尚猶」「猶尚」と書くこともあるらしい。

和文では「いまだ花咲けり」と普通に言うが、
「いまだ」に「未」を当てるのは不適当だ。
「なほ花咲けり」のほうが誤解がすくない。
例:

> 今朝来鳴き いまだ旅なる ほととぎす 花たちばなに 宿は借らなむ

> 鴬の 鳴けどもいまだ 降る雪に 杉の葉白き 逢坂の山

> やまもとの 木陰は夜と ながむれど 尾上はいまだ 夕暮れの色

いずれも「いまだ」を「なほ」と変えても意味は通る。
一つ目は古今の読人不知、
二つ目は新古今の後鳥羽院、
三つ目は玉葉の式部卿親王だが、
それぞれ時代を表していて良い歌だなあ。

フリーランスと業界

フリーランスとか自由業というのも完全に一人で仕事をしているわけではない。
フリーランスの多くは、専門学校を出て、いったんどこかに就職して、
固定給から年俸制になり、
よその会社の仕事もかけもちするために退社して独立するわけだ。
つまり会社に属していようが、
フリーで仕事してようが、
業界というものに寄生して生きていることには違いない。
作家もそうだ。
仕掛け人が必ずいる。
プロデューサーという人だ。
資本家から金をもらってきて自分の育てた作家を売り出して、
金を増やして資本家に戻し、自分も分け前をもらう。

松山千春も限りなくフリーランスだが、音楽業界というものは厳然としてあり、
そこから自由なわけではない。
会社に雇用されている形は取らないが業界に依存し、拘束されている。

業界とか人脈というのは明らかにある。
kdpだと業界というのは胴元のアマゾンくらいだが、
賭場を開いているだけで別に個別にプロデュースするわけじゃあない。
新たに出版社を立ち上げるとしても既存の出版社と競合するだけだわな。

つまり電子書籍というものができても、
業界というシステムは残った。
残ってしまった。
出版業界。流通業界。
個人が書いて個人に読んでもらうような形態には全然なってない。
プロデューサーという仲介業者が介在してくるほうがまだものは売れる、というわけだ。
仕方の無いことかもしれん。
個人にできることには限りがあり、
会社組織は個人事業主に出来ないことができる。
ただ昔に比べりゃ個人の裁量も少しは大きくなってきたかな。
でも昭和の頃のように個人商店街が飯を食えてた時代のほうが、
個人の裁量は大きかったかな。
今じゃなんでもモールだからな。

業界と個人と。
作家の質の問題ではないように思う。
出版業界の作家にも、すごい人と全然面白くない人がいる。
なんでこんな本が出版されちゃうのとか、
なんでこんな本がこんなに売れるのとか思う。
その直感はたぶん間違ってない。
もちろん選りすぐりのすばらしい作家もいるが、
同様に個人作家で埋もれている優れた作家もいるだろう。
ようは、お金を動かす力は、個人よりも業界のほうがはるかに勝っているのだ。

だめんず・うぉ~か~

auブックパスを解約しようかどうか悩む。
結局私は「日本外史」とか「新編国歌大観」とか「群書類従」とか「本居宣長全集」しか読まない人なのだ。
それに読み飽きたら「源氏物語」とか江戸時代の戯作とか読み始めるだろう。
その後は明治初期の尾崎紅葉とか二葉亭四迷を読み始めると思う。
今出版されているような本はファミレスで出される食事のようなもので、
完全にコストや味が計算されたものであり、うまいとかまずいとか以前のものだ。
そりゃくいものだから腹が減ってればうまいだろうが、
読書というのはもう少し高級だ、少なくとも自分にとっては。

私の外食というのはたいてい個人経営の立ち飲み屋か居酒屋だが
(さもなくば富士そばか吉野家かなか卯)、
それもまた計算されてない味というものがあるからだろう。
キンドル作家の書くものにも似たようなものがあると思う。
編集されず流通にも載ってないものの中から自分の好みの小説を探すのは楽しい。
(素人バンドやAKBなんかが流行るのも同じ理由だろうか)
まあそれと対極にあるのがテレビや雑誌などのマスメディア、
auブックパスもしょせんはその一種だ。
ただauブックパスにもたまに異様に素人くさい本が混じっていて、
それは最初から電子書籍として作られていて、
例えば「鎌倉何千寺巡り」とかそんな感じのもの。
うーん。
出版関係者がどさくさに紛れて書いているのかなあ。
その手のであまり良いのはない。

マンガも手塚治虫とか土山しげるとかラズウェル細木とかの読み放題を読み尽くすとあまり読むものがない。
だめんずウォーカーは面白かったが、だんだんマンネリ化しているので最初の一巻だけ見ればよかった。
雑誌は最初すごいなと思ったがすぐに飽きた。
ああいうものが図書館のロビーにあってもわざわざ読まないのと同じだわな。
携帯端末だからヒマなとき読むかと思ったが読まなかった。
そもそも三年くらいまえから通勤途中にマンガ雑誌読む習慣もやめて、
それと同時に自分で執筆するようになったから、
読書習慣そのものが、なんか潮目が変わったのだと思う。

だめんずなど読んでると思うが、これは私が書いたフローニとほとんど同じだ。
おおかみこどもの雨と雪とも同じだ。
細田守がなんであんな嫌がらせみたいなアニメ作ったかと不思議でならなかったが、
フローニを書いてだめんず読んだ後だと納得できる気がする。
思えば私が居酒屋巡りしたりたまにスナックや熟女パブなどに行ったときに出会う女性にも、
そういう人はたくさんいるのである。
興味ぶかいのでよく観察する。
そして生命保険の話などして盛り上がる。
キャバクラでは若すぎて全然話がつまらん。
ヨーロピアンパブやフィリピンパブはどうかと言われるとこれまたよくわからん。微妙だ。
別に取材に行くわけではないが、なんとなく最近は取材している気分になる。

母子家庭の母のほとんどはだめんずであろう。フローニであろう。
本人に落ち度なく母子家庭や家庭内暴力で困っている人もいるだろうが、
かなりの割合で、女性自身がダメな男を愛してしまい、子供を産んでしまうからだろうなと思う。
心理的・本能的に女性はそういう男を好きになってしまう性質を持っているのではなかろうか。
我が子を愛するようにできの悪い夫を愛してしまうとか。
よくわからない。
本能的に固い男を選ぶ女もいるようだが。
生物学的にいろんな戦略の女がいるほうがヒトという種全体としてうまくいくということだろうか。

フローニは未だに一冊も売れてない(無料配布も大したことなかった)。
読むに値する本だと思うのだが(笑)。
ただまあだめんずが単行本になり軌道に乗るまでにもずいぶん時間がかかったようだから、
いきなりほいほい売れるはずもない。
私が今仕事をして給料をもらえているのも就職して組織の一員となっているからだ。
私が組織に属さずいきなりネットで仕事を始めても客がつくはずもない。
いきなり小説書いてネットで売って売れるはずもないのだ。
ガチンコで仕事しているわけじゃあない。業界の中で泳いでるだけだ。

まあしかしヨハンナ・シュピリのああいうえぐい話をも少し翻訳して合冊にして再版したい気持ちはある。
あれはあれで書いてて面白い。

「酒場放浪記」もそうだが、ただ居酒屋巡りしてブログにかいてそれが秀逸ならば売れるのではない。
ちゃんとプロデュースする人がいてディレクターがいて、
マスメディアとして作り込み売り込んでいるからああいうものがある。
画面には吉田類一人しかスタッフは出てこないが。
そういう舞台裏を忘れさせるのが良いコンテンツなわけだが。

一番売れているのはエウメネス。
内容も自負してはいるが、売れている理由は単に古代ギリシャものというのと、
エウメネスを主人公にしたマンガがあるから。
割とギリシャものは反応が手堅い、ってことをエウドキア出して思った。
売ろうと思えばあんなにペルシャとかインドの話をうだうだ書かなかったと思う。
ギリシャファンの神経逆なでしてるわな。
ギリシャを描きつつ、
ギリシャやローマよりペルシャやインドの方が偉大だって作者は言いたいわけだから。
いや、私はギリシャやローマも好きですよ、好きじゃなきゃ書かないわけで。
しかし塩野七生とかそこから一歩も踏み出てない。
あきれて物も言えないくらい。
イタリアの中に埋まってそこから外の世界を見ている感じ。
イタリアからイェルサレムや神聖ローマ帝国を眺めている感じ。
そういうのを居心地良く感じる人は多いんだろうな、日本人にはなぜか。
ギリシャの良さの多くはペルシャやエジプトやシリアやメソポタミアに由来する、
ヘレニズム文化とアジアは切り離せないと言いたいわけで。
現代のギリシャとトルコが切り離せないように。
西洋人やその影響を受けた日本人はそこが不自然だよね。
安彦良和「クルドの星」とかおもろいよね、「アリオン」は駄作だったが。

あとたぶん売るためには百人一首の講評などを書くべきだろう。
その準備はしている。
ちゃんと魚のいるところに餌をまかなきゃダメだ。
魚のいないところでいくら釣り糸垂れてても無駄だ。
商売としてもそうだが読者がいないんじゃ仕方ない。

最後にどうでも良いことを書くが、
最近のKDP界隈で関係者どうしが絡んだ話をネタに小説に書く傾向というのはいかがなものかと思う。
まあ私はそんな若くないし。
二十代くらいにネットに投稿したり(fjというネットニュースね)、
ブログ書いたり(当時はウェブ日記といっていた)してたころはそういうインタラクションはあった。
だから今の人もやりたいのだろうと思い、遠くからながめている。
それで世界が広がるならやる価値はあるかもしれないが、
私小説とか暴露小説に毛の生えた程度で、
狭い世界で遊んでるだけならほかの努力をした方がいいわな。
fjもウェブ日記も結局閉じたコミュニティだった。
今も残っている2chとかアルファブロガーとかはも少し広い世界で創発的に生まれたものだと思う。

私はもっと本格的な小説が読みたい。
ラノベとかBLじみたものではなく。
しかし中年親父の蘊蓄歴史小説みたいなジャンルで書く人がいても良さそうなもんだが、
意外といないもんだなあ。
いたら多少うざくても読んでやってもいいのに。

助動詞「り」の謎

助動詞「り」は「あり」と同根であって「てあり」「たり」ともほぼ同義。
四段・サ変・カ変・上一段にしか接続しない。
「給へり」「せり」「来れり」「なれり」「着れり」など。
下二段だと「たり」しかつかない。
「経たり」「得たり」など。
ラ変は同語反復になるからそもそも接続しない。
已然形接続だとか命令形接続だとかなんとかかんとかという議論があるが、
岩波古語辞典によれば奈良時代以前に、
連用形接続が音便したものだという。その説明が非常にくどくど書かれている。
確かに「り」は文法的には複雑すぎる。
従って次第に「たり」に統一される傾向にある。
「給ひたり」「したり」「来たり」「なりたり」「着たり」など。

継続の意味には「たり」を使えばよい。
断定には「なり」を使えば良い。
完了には「つ」か「ぬ」を使い分ければよい。
過去には「き」か「けり」を使えばよい。
「り」は面倒なので、いっそのこと使わないのがよい。
だが、便利なのでいまだによく使われる。
和歌の詞書だと「春立ちたる日よめる」などの定型でよく使われる。
「よみたる」でも意味は同じだが、普通使わない。
「春立つこころをよみける」「春立ちたる日よみはべりける」はたまに見る。
源氏物語にはあまり使われないが皆無ではない。
和泉式部日記にもあまり使われてない(「たまへり」「のたまへり」など定型でわずかにある)。
宣長もあまり使わないがやはり皆無ではない。
状況によっては便利だからだろう。

大正時代に成立した文語体の聖書には「癒やせり」「来ませり」「迷へる子羊」など、頻繁に使われる傾向がある。
「癒やしたり」「癒やしぬ」「おはしましぬ」とは普通言わない。

内村鑑三なども当時の聖書を引用して
「我等は其の約束に因りて新しき天と新しき地を望み待てり」
「其の名を信ぜし者には権を賜いて之を神の子と為せり」
「窮乏くして難苦めり」
などと言っている。
内村鑑三は、間違いなく、文語訳聖書の文体に最も大きな影響を与えた一人であろう。

気になって森鴎外を読んでみると、

即興詩人:
「此書は印するに四號活字を以てせり。」
「その高さ數尺に及べり。」
「これを寫す手段に苦しめり。」
「われ等は屋根裏やねうらの小部屋に住めり。」
「我初めて詩人といふことあきらかにさとれり。」
「この幻まぼろしの境を照せり。」

舞姫:
「そが傍に少女は羞を帶びて立てり。」
「いち早く登りて梯の上に立てり。」

森鴎外の文語文は、宣長や秋成の擬古文とは全然違う。
「たり」を良く使う人で、そのついでに「り」も使うのだろう。
なぜだろうか。
ともかく、明治時代に欧文翻訳用の文語文に「り」が多用される傾向があったのは間違いないと思う。
なぜかはよくわからない。
もしかすると漢文訓読体なのかもしれん。
森鴎外もずっと文語文を書いてたのではなく、次第に口語体になっていったようだ。
ごく初期の文章だけ文語文。
徳富蘇峰も「り」を良く使っていたような気がする(現在まだ青空文庫にない)。

となるとやはり明治前半の二葉亭四迷とか尾崎紅葉あたりの文体だろうかと、
金色夜叉を見てみるとやはり多い:
「揉みに揉んで独り散々に騒げり。」
「葉巻の吸殻の捨てたるが赤く見えて煙れり。」
「車は驀直に走れり、」
「辛くも一条の道を開けり。」
「人顔も眩きまでに耀き遍れり。」
「渦巻きつつ立迷へり。」

どういうことだろうか。
つまりは井原西鶴とか滝沢馬琴あたりまでさかのぼれるということだろうか。
そこらへんにルーツがあるというのはあり得なくもない。

付記:文語訳聖書は漢訳聖書の文語文への直訳であることが知られている。

椰子油

昔銀座明治屋のナイル・ギーという油をわざわざ買って食べていた。
丸元淑夫という人の著書に影響を受けたからだが。
今調べてみるとナイルというのは
[G. M. ナイル](http://ja.wikipedia.org/wiki/G._M._%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%AB)
という人の名にちなむらしいが、
銀座のインド料理屋[ナイルレストラン](http://www.ginza-nair.co.jp/)やら、
[ナイル商会](http://www.nair.co.jp)というのも系列であるらしい。
そこが作っているので
[ナイル・ギー](http://www.nair.co.jp/ghee.html)
というのであろう。

それで普通のギーは牛乳から作るらしい(チビクロさんぼで虎がバターになったというのがギー)のだが、
ナイル・ギーは純植物性と書いてあり、
植物というのがなんだかよくわからない。
いろいろ検索してみるとこの植物油というのは椰子油であるらしい。
椰子油で一番メジャーなのは[パーム油](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%A0%E6%B2%B9)で、
これは[アブラヤシ](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%A4%E3%82%B7)という椰子から採れるらしいが、
ナイル・ギーもかなり高い確率でアブラヤシから採った油なのだろうと思うが、
確実かどうかはわからない。
アブラヤシはもともと南米とかアフリカ原産らしいが、
マレーシアにも大規模なプランテーションがあるらしく、
てことは東南アジアやインドの油もパーム油かもしれん。

で普通椰子油というのはココヤシから採れる[ココナツオイル](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%82%B7%E6%B2%B9)。
こちらの方がパーム油よりやや高級らしい。

Vegetable Ghee は Vanaspati Ghee、或いは Dalda などとも言うらしいのだが、
[Wikipedia Ghee](http://en.wikipedia.org/wiki/Ghee)によれば、

> Indian restaurants and some households may use partially hydrogenated vegetable oil (also known as vanaspati, dalda, or “vegetable ghee”) in place of ghee because of its lower cost. This vegetable ghee may contain trans fat.

などと書いてあって恐ろしい。
つまりインド製の安物の植物ギーにはトランス脂肪酸が含まれている可能性があるというのである。

そんでまあ、成城石井とかカルディなどいろんなところを見て回ったのだが、
最近「ブラウンシュガーファースト 有機 ココナッツ オイル」てのが流行ってるらしくて、
比較的入手しやすくて、
ちと割高なんだが
「乾燥果肉不使用。搾りたてのココナッツミルクを遠心分離にかけて抽出する、新鮮な製法です。」
「有機JAS」
「トランス脂肪酸フリー」
「無漂白」
「無精製」
などを謳っていて、まあ、安心して食べられるかなと。

しかしギーで検索すると、ギーから石鹸を作るっていう話ばかり出てくる。
ココナツオイルから石鹸を作るのが流行っているらしい。

うーん。
こっちの方が高い。

家康転封2

日本外史によれば、
家康は秀吉によって関八州に封じられたが、
実質は六州(武蔵・相模・伊豆・上総・下総・上野)に過ぎず、
下野には宇都宮氏、安房には里見氏(八犬伝の)があった。
そのほか、結城・佐野・皆川、北条氏の残党などが関東を割拠していた。
元の三河・駿河・遠江・信濃・甲斐の五州から八州に加増させたとみせて、
家康を「拒塞」した、とある。

漫吟集

契沖の「漫吟集」なんだが、
これ読むのはかなり骨が折れる。
たまに秀歌が混じるが他は凡作としかいいようがない。
数が多くてきちんと分類されているから、読んでいるとだれる。
全体的に退屈と言われても仕方ないと思う。

> 菅の根に 雪は降りつつ 消ぬがうへに 冬をしのぎて 春は来にけり

悪くない。
「菅の根の」が「長き」にかかる枕詞だと知っていればすんなりわかる。
古今集の

> 奥山の 菅の根しのぎ 降る雪の 消ぬとかいはむ 恋の繁きに

の本歌取りだわな。

> うぐひすも 鳴かぬかぎりの 年のうちに たが許してか 春は来ぬらむ

これもまあ、悪くない。
「たが許してか」が珍しい。

> 宿ごとに いとなみたてし 門松の まつにかならず 春は来にけり

どうやらこれも本歌取りらしい。藤原顕季

> 門松を いとなみたてる そのほどに 春あけがたに 夜やなりぬらむ

ときどきすごく良いのがある。

> ねや近き 葉広がしはに 音立てて あられし降れば 夢ぞやぶるる

「夢ぞやぶるる」が良く効いている。

> 軒ばなる 蛛のいがきは 知らねども 山の嵐に 夢ぞやふるる

なんとこの正徹の歌の本歌取りらしい。

> 踏めば消え 消ゆれば摘みて 春の野の 雪も若菜も 残らざりけり

少し面白い。

> 立ち出でて 涼むそともの 木陰より かへりもあへぬ 夕立の空

木陰で涼んでいたら夕立がふりそのまま雨宿りした。
なかなか良い歌。

> しづのをが 刈りにし跡の 日だに経ず 一つに茂る 野辺の夏草

「一つに茂る」が面白い。

> 池の上の 菱の浮き葉も わかぬまで 一つに茂る 庭のよもぎふ

この良経の歌の本歌取りか。

> おほかたの 常は水無き 山川も 石さへまろぶ 五月雨の頃

「石さへまろぶ」が斬新。

> 春雨は 今年のみやは 花散らす 昔をかけて 今日は恨めり

> 霜の上に 寝るここちして 夏の夜の 床に影しく 月ぞ涼しき

> なには潟 堀り江にのぼる ゆふ潮の 限り知らるる 朝氷かな

> 水のおもに 散りて浮かべる 木の葉より まさりて薄き 朝氷かな

> 諏訪の海の こなたかなたに あひおもふ あまもこほれば かちよりぞ行く

少し面白い。

無名抄

鴨長明は歌がうまいんだかうまくないんだかよくわからない人だ。
確かに探すと良い歌もある。

> 時雨には つれなく見えし 松の色を 降りかへてけり 今朝の白雪

無名抄に載る。
これはもとは「つれなく漏れし」だったのを俊恵が「つれなく見えし」に直したのである。
「つれなく漏れし」ではひねりすぎていて意味がよくわからない。
「降りかへてけり」はこの軽さが良いってことにしておこう。

> 思ひやる 心やかねて ながむらむ まだ見ぬ花の 面影にたつ

悪くない。とくに「まだ見ぬ花の面影にたつ」がぐっとくる。
風雅集に採られただけのことはある。
だがそのぶん前半の「思ひやる心やかねてながむらむ」がすんなり来ない感じ。
いやこれはこれでいいんだろうけど、かなり理屈っぽい。
素直に

> まちわびて むなしき枝を ながむれば まだ見ぬ花の 面影にたつ

とかなんとか詠めばいいんじゃないかと思うのだが。どうかね。

> 吹きのぼる 木曾の御坂の 谷風に 梢もしらぬ 花を見るかな

続古今。これも悪くないがなんというか、作りすぎている感じがある。
特に「木曾の御坂の」のあたり。
深い谷間から舞い上がってくる花びら。
その梢は谷底に隠れていて見えない。
しかしこれ、長明がたまたま桜の咲く時期に木曽路を通って見た光景ではあるまい。
税所敦子の歌

> たが宿の こずゑはなれて 今日もまた 花無き庭に 花の散るらむ

と同じ趣きだが、敦子の方が自然で良くはないか。

鴨長明は後鳥羽院によって新古今和歌集の和歌所寄人の一人となったというが、
この寄人というのがよくわからん。
まず選者というのが、源通具・六条有家・藤原定家・藤原家隆・飛鳥井雅経・寂蓮の六人。
寄人というのはこの選者を含めて十四名いたというのだが、
その寄人には九条良経・源通親・藤原俊成がいて、
また源家長が開闔(かいこう)という出納係のような役についていたという。
良経は摂政太政大臣、通親は村上源氏の長者で正二位内大臣、俊成は言わずとしれた千載集の選者であり、
つまりこの三人は名誉職のようなものであったろう。
源家長はそんな官位は高くない。書記とかの雑務係だったか。
鴨長明もおそらく俊成の紹介で実務担当として名を連ねたものと思われる。

それである時、良経、慈円、定家、家隆、寂蓮、長明の六人がいたときに、
後鳥羽院が「春夏は太く大きに、秋冬は細く枯らび、恋旅は艶に優しく」歌を詠めと命じた。
長明は春夏の太く大き歌に

> 雲さそふ 天つ春風 薫るなり 高間の山の 花盛りかも

> うちはぶき 今も鳴かなむ 時鳥 卯の花月夜 さかり更けゆく

秋冬の細く枯らびた歌に

> 宵の間の 月の桂の 薄紅葉 照るとしもなき 初秋の空

> さびしさは なほ残りけり 跡絶ゆる 落ち葉が上に 今朝は初雪

艶に優しき歌に

> 忍ばずよ しぼりかねつと 語れ人 もの思ふ袖の 朽ち果てぬ間に

> 旅衣 たつ暁の 別れより しをれし果てや 宮城野の露

最後の歌だけが続後拾遺に採られている。
即興で詠んだから仕方ないのかもしれんが、わざわざ無名抄に載せたということは、
自信があるのだろう。
全体にちぐはぐで、主題をしぼりこめてないというか、
いろんな要素を一つの絵はがきの上にコラージュしたような印象だ。
パーツは良いんだが、全体としてみると、なんかおかしな感じがするんだよな。
後鳥羽院も苦笑いしたのじゃあるまいか。

「無名抄」は歌論書の中では割と古いんだよな。
「古来風体抄」くらい古いからかなり古い。
定家より古い。
「古来風体抄」はかなり怪しい。
俊成が晩年仏教に凝っていたのは確かであるらしいし、
そうとう長生きしたから、
「古来風体抄」のようなものをうだうだ書いた可能性もあるんだが、
やはり怪しい。
となると「無名抄」の古さが際立ってくる。
これより前には「俊頼髄脳」(「新選髄脳」のことか)とかなんとかとか、
あとは後拾遺集の序とか古今集の仮名序くらいしかないんじゃなかったっけ。
ここらへんきちんと体系化されているのかな。

で無名抄の中で俊頼髄脳に書かれている話というので、公任の息子定頼が父に紫式部と赤染衛門はどちらが優れているか、と尋ねたというのだが、
これはあやしい。
公任、赤染衛門、和泉式部は完全に同世代の人たちだが、
公任が選んだ三十六歌仙に赤染衛門と和泉式部は入ってない。
「金玉集」など調べてみないとわからんが、たぶん公任は赤染衛門や和泉式部のような同世代のとっぴな歌人には興味なかったと思う。
俊頼髄脳自体が公任より五十年も後の時代に書かれたもので、
その頃にはすで1086年成立「後拾遺集」も出ていて、
赤染衛門も和泉式部も勅撰集に載った歌人として有名になっていた。
公任の時代にはまだ歌人としてはほとんど無名だったと思うのだが。
藤原基俊や源俊頼などは「後拾遺集」より後の人で彼らが赤染衛門や和泉式部に親しかったのは当然だ。

疑いだすと切りがないのだが「拾遺集」も後世かなりいじってあるんじゃないかと思う。
「拾遺集」と「後拾遺集」の間がかなりあいていて、
公任の「拾遺抄」という紛らわしい歌集がある。
「後拾遺集」の序では花山院の勅撰ということになっていて花山院は1008年に没しているからその前に成立してないとまずいわけだが、実は公任の没後、1041年以後の産物なんじゃないのか。