無名抄

鴨長明は歌がうまいんだかうまくないんだかよくわからない人だ。
確かに探すと良い歌もある。

> 時雨には つれなく見えし 松の色を 降りかへてけり 今朝の白雪

無名抄に載る。
これはもとは「つれなく漏れし」だったのを俊恵が「つれなく見えし」に直したのである。
「つれなく漏れし」ではひねりすぎていて意味がよくわからない。
「降りかへてけり」はこの軽さが良いってことにしておこう。

> 思ひやる 心やかねて ながむらむ まだ見ぬ花の 面影にたつ

悪くない。とくに「まだ見ぬ花の面影にたつ」がぐっとくる。
風雅集に採られただけのことはある。
だがそのぶん前半の「思ひやる心やかねてながむらむ」がすんなり来ない感じ。
いやこれはこれでいいんだろうけど、かなり理屈っぽい。
素直に

> まちわびて むなしき枝を ながむれば まだ見ぬ花の 面影にたつ

とかなんとか詠めばいいんじゃないかと思うのだが。どうかね。

> 吹きのぼる 木曾の御坂の 谷風に 梢もしらぬ 花を見るかな

続古今。これも悪くないがなんというか、作りすぎている感じがある。
特に「木曾の御坂の」のあたり。
深い谷間から舞い上がってくる花びら。
その梢は谷底に隠れていて見えない。
しかしこれ、長明がたまたま桜の咲く時期に木曽路を通って見た光景ではあるまい。
税所敦子の歌

> たが宿の こずゑはなれて 今日もまた 花無き庭に 花の散るらむ

と同じ趣きだが、敦子の方が自然で良くはないか。

鴨長明は後鳥羽院によって新古今和歌集の和歌所寄人の一人となったというが、
この寄人というのがよくわからん。
まず選者というのが、源通具・六条有家・藤原定家・藤原家隆・飛鳥井雅経・寂蓮の六人。
寄人というのはこの選者を含めて十四名いたというのだが、
その寄人には九条良経・源通親・藤原俊成がいて、
また源家長が開闔(かいこう)という出納係のような役についていたという。
良経は摂政太政大臣、通親は村上源氏の長者で正二位内大臣、俊成は言わずとしれた千載集の選者であり、
つまりこの三人は名誉職のようなものであったろう。
源家長はそんな官位は高くない。書記とかの雑務係だったか。
鴨長明もおそらく俊成の紹介で実務担当として名を連ねたものと思われる。

それである時、良経、慈円、定家、家隆、寂蓮、長明の六人がいたときに、
後鳥羽院が「春夏は太く大きに、秋冬は細く枯らび、恋旅は艶に優しく」歌を詠めと命じた。
長明は春夏の太く大き歌に

> 雲さそふ 天つ春風 薫るなり 高間の山の 花盛りかも

> うちはぶき 今も鳴かなむ 時鳥 卯の花月夜 さかり更けゆく

秋冬の細く枯らびた歌に

> 宵の間の 月の桂の 薄紅葉 照るとしもなき 初秋の空

> さびしさは なほ残りけり 跡絶ゆる 落ち葉が上に 今朝は初雪

艶に優しき歌に

> 忍ばずよ しぼりかねつと 語れ人 もの思ふ袖の 朽ち果てぬ間に

> 旅衣 たつ暁の 別れより しをれし果てや 宮城野の露

最後の歌だけが続後拾遺に採られている。
即興で詠んだから仕方ないのかもしれんが、わざわざ無名抄に載せたということは、
自信があるのだろう。
全体にちぐはぐで、主題をしぼりこめてないというか、
いろんな要素を一つの絵はがきの上にコラージュしたような印象だ。
パーツは良いんだが、全体としてみると、なんかおかしな感じがするんだよな。
後鳥羽院も苦笑いしたのじゃあるまいか。

「無名抄」は歌論書の中では割と古いんだよな。
「古来風体抄」くらい古いからかなり古い。
定家より古い。
「古来風体抄」はかなり怪しい。
俊成が晩年仏教に凝っていたのは確かであるらしいし、
そうとう長生きしたから、
「古来風体抄」のようなものをうだうだ書いた可能性もあるんだが、
やはり怪しい。
となると「無名抄」の古さが際立ってくる。
これより前には「俊頼髄脳」(「新選髄脳」のことか)とかなんとかとか、
あとは後拾遺集の序とか古今集の仮名序くらいしかないんじゃなかったっけ。
ここらへんきちんと体系化されているのかな。

で無名抄の中で俊頼髄脳に書かれている話というので、公任の息子定頼が父に紫式部と赤染衛門はどちらが優れているか、と尋ねたというのだが、
これはあやしい。
公任、赤染衛門、和泉式部は完全に同世代の人たちだが、
公任が選んだ三十六歌仙に赤染衛門と和泉式部は入ってない。
「金玉集」など調べてみないとわからんが、たぶん公任は赤染衛門や和泉式部のような同世代のとっぴな歌人には興味なかったと思う。
俊頼髄脳自体が公任より五十年も後の時代に書かれたもので、
その頃にはすで1086年成立「後拾遺集」も出ていて、
赤染衛門も和泉式部も勅撰集に載った歌人として有名になっていた。
公任の時代にはまだ歌人としてはほとんど無名だったと思うのだが。
藤原基俊や源俊頼などは「後拾遺集」より後の人で彼らが赤染衛門や和泉式部に親しかったのは当然だ。

疑いだすと切りがないのだが「拾遺集」も後世かなりいじってあるんじゃないかと思う。
「拾遺集」と「後拾遺集」の間がかなりあいていて、
公任の「拾遺抄」という紛らわしい歌集がある。
「後拾遺集」の序では花山院の勅撰ということになっていて花山院は1008年に没しているからその前に成立してないとまずいわけだが、実は公任の没後、1041年以後の産物なんじゃないのか。

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