自衛隊機の夜間飛行差し止め

[自衛隊機の夜間飛行差し止め 厚木基地の第4次騒音訴訟で初判断 横浜地裁](http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/140521/trl14052114480002-n1.htm)

近隣住民の一人として言わせてもらえば、
まったくなんの意味もない判決だ。
22:00から6:00まで戦闘機は今現在ほとんど飛んでいない。
少なくともうちの近所では。
自衛隊機だけで米軍機を差し止めないのでは意味がない。

二重の意味で意味がない。

P3Cみたいな静かな飛行機は別に飛んでも良い、と思う。
偵察機や対潜哨戒機なんてのはもともと静かなんだよな。
プロペラの音はのんきだし、ジェットエンジンでもすごいしずか。
輸送機は図体はでかいがプロペラで割と静か。
新聞社のヘリコプターのほうがずっと迷惑。
ファントムもまあ許す。
しかし、最近になって飛び始めたスーパーホーネット。
あれはキチガイだ。
次から次にうるさい戦闘機が開発されて、
どんどん騒音がエスカレートしていくのであれば、
そりゃだまされたと思うわな。
今でさえ引っ越したいのにもっとうるさい戦闘機が配備されたらどうしようって思うわ。

だから、戦闘機は飛ばしてもいいから、
ある一定の騒音の基準をきめて、それを越えないでほしい。
スーパーホーネットF18とか論外。
どんくらいうるさいかというのはなかなか比較できないんだが、
福岡で箱崎天満宮の上をジャンボが低空飛行するくらい、と言えばよいか。
しかし、
スーパーホーネットはほんとに常識外れにうるさいので、
民間機のジャンボと同じかどうか私にはよくわからん。
というかうまく比較できない。
箱崎ではさすがにうるせーなとは思った。
だが福岡空港の便利さを考えると仕方ないのかなとも思う。
こんな日本でも最も人口密度の高いところに米軍の飛行基地があること自体間違っている。
もし、この騒音がなくなったら、どれほどたくさんの人のQoLが向上し、
不動産の資産価値が上がると思ってるのか。
頭おかしい。
も少し国土を有効利用してもらえないだろうか。
日本は狭いようで広いんだからさ。
どんどん地方過疎化して人が全然住んでないところが増えてるのになんでいまだにこんな都心の近くで戦闘機飛ばすかね?
ともかくまず、マスコミは、
町田上空あたりをスーパーホーネットが飛ぶときの取材でもしてくれよと言いたい。
わざわざ沖縄いくより近場で取材費節約になるだろ(笑)。
あのうるささは実際体験してみないとわからん。

しかし今の訴訟のやり方には失望する。
何の問題提起にもなってない気がする。
マスコミも頓珍漢なこと言ってるし。
勝訴とか敗訴とか控訴とかどうとでもなれって感じ。
気がめいる。

海賊王ロジェールその2

続編の話ではなくて昨日書いたことの続き。
いつものことながら書いているうちに歴史を調べ地理を調べしてどんどんプロットが変わる。

日本人がほんわかと思っている西洋とかキリスト教に関するイメージをたたき壊すようなそんな作品になってしまった。
そういう意味ではハイジのイメージをぶちこわしにするデーテとかフローニと同じたぐいの作品になった。
なんか怒られそうで今から怖い。

ワンピースみたいな海賊冒険ものを想像して読んだ人も、唖然とするだろうと思う。
たぶん私の中には日本アニメに反逆してやろうという気持ちがあるね。
書いていてそう気づく。

ただまあ、ほんとに西洋やキリスト教を知っている人には、
逆に支持してもらえると、信じてるよ?
高校生の頃からしばらく完全に小室直樹の影響下にあったからな。
やっぱこういうふうになるわな。
宮崎市定とかもだな。

だいたいアルメニア人とかクルド人とかグルジア人とかアゼルバイジャン人とか良くわからんのだよね。
そういう意味では安彦良和はあんなに昔によく「クルドの星」を書いたと思うよ。

ユダヤ教とアルメニア教会は良く似ていると思った。
メジャーな一神教はキリスト教やイスラム教のようになるが、
マイナーな一神教はユダヤ教やアルメニア教会のようになるんだなあと思う。
そしてメジャーなようにみえて一神教の内部も宗派によってこまかく対立しているのだ。
その理由は主に、宗教が結婚というものを規定しているからだ。
家庭が相続というものを規定する以上、
いやいや相続が家庭や結婚というものを規定する以上、
相続とは宗教の教義よって決まる。
ある相続が有効か無効かは、宗教が結婚を有効と認めたかどうかで決まる。
ヨーロッパで王の相続とは国そのものであるから、
教会が結婚や相続の正統性を決め、王はそれを不服として継承戦争を起こす。
対立教皇をたてる。
対立宗派を創設する。
教会と無関係に勝手に結婚して勝手に相続すりゃいいじゃないかと、
まあ日本人なら思うわな。
だんだんそのへんのからくりをうまく説明できるような気がしてきた。

海賊王ロジェール

今書いている海賊王ロジェールは、
割と計算尽くで書いたものである。

いくつもキンドルで本出しているとだいたい傾向はわかってくる。

私の書いたものの中では、日本史ものよりも世界史ものの方が読まれる。
エウメネスだけでなくエウドキアもわりと読まれている。
これらに比べると日本史ものは全然読まれてないと言っても良い。
洋物でも、フローニとかデーテはあまり読まれてない。

世界史、特にギリシャ関係の話は、受けるらしいのである。
といってめちゃくちゃ売れているわけではないが、
どうも私はしばらくの間はギリシャものだけ書いて、
こつこつ読者を獲得していればいいんじゃないか、とすら思う。

世界史は複雑だ。
情報量が圧倒的に多い。
できるだけたくさん集めておいて、
ストーリーに直接絡まない部分を大胆に捨てる。
教科書的、ウィキペディア的な記述にならないように。
かといってディテイルを落とさないように。
正直難しいが、その分やりがいがある。

今回かなり作って書いている。ある程度技を覚えたともいえる。
も少し若い頃から書き始めていればよかったとも思える。
「紫峰軒」や「スース」「超ヒモ理論」「安藤レイ」なんかはわりとさらっと書いている。
普通の現代小説(でも、あまり読まれてない?)。
我ながら同じ作家の作品ではないなこりゃと思う。
言っちゃ悪いが新人賞に応募してもほとんどなんの反応もない。
パブーに公開しても、読者が何考えてるかよくわからん。
しかしKDPだとかなりわかる。
書いているうちになんとなく読者や編集者の気持ちまでわかるような気がするのだ。
逆にいうとこう書けばきっと読者は喜ぶに違いないなんて書き方をするようになった。
悪いことじゃないと思う。
今までは自由すぎて逆に書きにくかったともいえる。
自由に書いてまったく反応が無いでは書きようがない。
ともかくKDPはありがたい。

KDPは自分で作家や作品を選べるのが良いと思う。
普通の読者は、書店で本を買うような読者は、実は本を自分で選んで読んでいるのではない。
本屋で平積みになってたからとか宣伝してたからとかドラマ化されたからとか映画化されたからとか、
そんなんだ。
だからソニーリーダーみたいなビジネスモデルが成立する。
選択の余地はほとんどない。
ただ流行の本、推してる本を読まされるだけだ。
KDPはそうではない。
そうじゃないことに気がつく人はこれからますます増えるだろう。
私もそういう人に読んでもらえれば十分だ。
というかそういう人をターゲットにするしか読者を獲得する方法が私にはない。

とりあえずこの複雑なストーリーをなんとか読者に最後まで飽きずに読ませることが必要だ。
複雑さ、おもしろさで言えば「将軍家の仲人」も捨てたもんじゃない。
だけど、新井白石や徳川家宣では地味すぎて読者はなかなかついてきてくれない。
十字軍ならなんとかなるんじゃないかという一縷の望みがある。
「十字軍物語」とは全然違う。
塩野七生の書いたものは、たしかにローマ人の物語の、
ハンニバル戦記あたりは面白いし参考になる。
しかしやはり教科書的であって小説っぽくない。
もう少し書きようがあったんじゃないかと思えてしかたない。
今は英語版Wikipedia他を検索すると、かなり膨大な情報が得られるから、
そう思うだけかもしれんが。

塩野七生が売れているのはおそらく需要の割に供給が少ないからだろう。
なんでか知らんが日本人はああいうのが好きなのだろう。
そして実際書けるひとは少ない。
高校のときちゃんと世界史勉強してないからだ(笑)。
三国志とか信長とか秀吉とか龍馬とかばかり読んでいて脳がやられてる。
だから私が書いてやろう。

読んだことはないが(汗)トルコ人のノーベル賞作家が書いた『わたしの名は紅』に近いんじゃないか。
とにかく書いてて調べてて話がもうどろっどろで気持ち悪くなった。
まじでどろっどろな話なので気をつけてください。
だけどこういう陰謀物でメンヘラな話だと最後まで読める人が多いような気がするんだよな。

これも旧作のリメイクなんだけど、
もとの話は世界広すぎて一度に書けないから短編にばらして書くことにした。
ある意味「エウドキア」の後に続く十字軍をすっ飛ばしてその後の話を書いた。
十字軍も書くかなあ。
手垢の付いたネタは好きじゃない。
「ベタを恐れない勇気」とか言われてそうかなあとは思うが、
そこまでまだ作家に徹し切れてない。
いや、それ以前に、十字軍の話はつまらんよ、
神殿の中は床にくるぶしまで血がたまったとか。ばかばかしい。
キリスト教徒、とくにカトリック信者によるバイアスがかかりすぎている。
それをクリスチャンでもムスリムでもない視点で直すのが面白いと言えば面白いかな。
続編書くかどうかは反応しだいだな。

ロジェールだが、
英語だと Roger (ロジャー)。
イタリア語だと Ruggero (ルッジェーロ)。
だが古ノルド語では Hrod-Ger
であって、ノルマン人がシチリアにやってきたときは、
ロッゲール、と呼んでいた可能性が高いだろうと思う。
dg が[gy](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E5%A3%B0%E5%BE%8C%E9%83%A8%E6%AD%AF%E8%8C%8E%E6%91%A9%E6%93%A6%E9%9F%B3)になまってロッジェール、あるいはロジェールと呼んでいた可能性もなくもない。
フランス語だとロジェ。
ドイツ語だとロギーア(ロギエール)。Rutgers とも綴るらしい。
実際に Roger と書いてロジェールと読む名があるのはスペイン語かポルトガル語くらいらしいが、
結局ロジェールとした。
ロジャーとはしたくない。
ちなみにラテン語だとロゲリウス。

Baldwin は現代フランス語読みではボードゥワン、
Gottfried はゴドフロワなどと呼ぶが、十字軍のころ、
こんなすかした呼び方をしたはずがない。
Bald-win はすばやい、容易な勝利、という意味のゲルマン語であるし、
Gott-fried は神の平和という、やはりゲルマン語である。
Baudouin、Godefroy じゃ意味がわからん。

ロジェールはおそらくパレルモからほとんど動かなかった。
シチリアからメッシーナ海峡を渡りナポリまでも行かなかったらしい。
だが、[アブドゥル・ラーマン](https://en.wikipedia.org/wiki/Christodulus)や[ゲオルグ](https://en.wikipedia.org/wiki/George_of_Antioch)などの個性豊かな海賊が部下にいた。
だから「海賊王」なのである。
続編を書くとしたらゲオルグあたりが実際の主人公になると思う。
ていうかしないといけない。

「ベタを恐れない勇気」って誰が言った言葉かと思ったら、
[直木賞作家の辻村深月](http://d.hatena.ne.jp/hiro010301/20130207/p1)が言ってたわー。
> ベタを恐れない勇気というか、そういうものを、たぶん一番上質なお手本としてドラえもんや藤子先生や他の作品から教えてもらったんだと思います

ベタを恐れるっていうか。
ベタなの書くのが嫌いなんだよね。読むのも嫌い。
自分以外の誰かが書いて読めばいいと思う。

て居り

喜田貞吉[サンカ者名義考](http://www.aozora.gr.jp/cards/001344/files/49822_44667.html)
を読んでいると、平安朝末期の散木奇歌集に

> うからめは うかれて宿も 定めぬか くぐつまはしは 廻り来て居り

という連歌があるという。
散木奇歌集とは何かというと、源俊頼の家集であるという。
どうみてもこれは連歌というよりは、一種の和歌だが、
私がびっくりしたのは「てをり」で、こんな現代短歌みたいな言い方が平安時代からあったのか。
慌てて検索してみるが、[和歌データベース](http://tois.nichibun.ac.jp/database/html2/waka/waka_kigo_search.html)にはこの一首のみらしい。
他にも変な歌がいくつかある。

> くひほそく いほししりして たちなほれ いなごまろびて みぞにおちるな

> たかうなと たかしはいはで もてまゐれ きしにおひたる たてきしたてて

> くろをとこ くろとのほとに おとすなり ひこのしろぬし ゆきたかかるい

源俊頼はごくまっとうな歌人である。
それが「傀儡回しは廻り来て居り」とか「イナゴまろびて溝に落ちるな」とか「もてまゐれ」などと歌に詠むだろうか。
信じられない。
これらは明らかに俗謡であろう。
俊頼が戯れに詠んだか。あるいは、民間の歌を収録したのか。
後拾遺集序に

> 又うるはしき花の集といひ、足引の山伏がしわざと名づけ、うゑ木のもとの集といひあつめて言の葉いやしく、姿だみたる物あり。これらの類は、誰がしわざともしらず。又歌のいでどころ詳ならず。たとへば山河の流を見て、水上ゆかしく、霧のうちの梢を望みて、いづれのうゑ木と知らざるが如し。

とあるが、民間の和歌を集めた歌集もあったと見えるが、
そういう歌が紛れ込んだ、或いは俊頼の歌集とごちゃまぜになったのではないか、とすら思える。

土佐日記に舟子舵取の歌とて

> 春の野にてぞねをばなく。わが薄にて手をきるきる、つんだる菜を、親やまほるらむ、姑やくふらむ。かへらや。よんべのうなゐもがな。ぜにこはむ。そらごとをして、おぎのりわざをして、ぜにももてこずおのれだにこず

とあり、
また梁塵秘抄のような俗謡(今様)もあるわけだが、
平安末期にはすでに「てをり」のような口語があって、
それが現代短歌にどういうルートをたどったか知らぬが復活したのかもしれぬ。
「ゐし」とか「たりし」などもそうだろうか。
おそろしいことである。

まいずれにしろ、
記録に残ってないだけで口語による俗謡のたぐいはずっとあったわけだ。
それが復権しただけかもしれんね。

> まことにや れむかをしては おともせぬ ひとはしもやとに すゑつけよかし

ははあ。
こんな歌もある。
「れむか」は連歌だわな。
『俊頼髄脳』にも連歌が採られているという。

> このみちに はうちやうたいふ ちやうしたり みれはみよしの すけるれうりも

意味はわからんが、かなり大胆に漢語を取り入れているようだ。
釈教歌以外で漢語が用いられることは珍しい。

してみると後拾遺集や金葉集の頃すでに連歌と呼ばれる(五七五・七七・五七五・七七・・・という形式の)俗謡が流行っていて、
俊頼はそれをある程度研究していた、ということだろうか。
そうするとどうも連歌というのは、少なくともその当初は、
上の句と下の句をつないでいく遊びというよりは、
むしろ、俗謡という意味に近かったのではなかろうか。

サンカ者名義考に戻ると、シサムというのはアイヌ語で和人のことだ。
サンカにシサムという語があったのだろうか。
なんとも言えぬ。
クグツとは単に人形のことだから、
クグツシサムは単に人形使いという意味ではなかろうか。
散木奇歌集には割と詳しい詞書がついているようだから、是非読んでみたい。
どうやったら読めるのだろう。
できれば活字で読みたい。

なみより出ででなみにこそ入れ

武蔵野の広漠とした風景をうまく表した歌

> むさしのは 月の入るべき 山もなし 草より出でて 草にこそ入れ

これは江戸時代の俗謡で元は、藤原通方という人の歌

> むさしのは 月の入るべき 峰もなし 尾花が末に かかる白雲

であるという。採られているのは続古今集。
しかし、土佐日記に出てくる歌

> 都にてやまのはに見し月なれどなみより出ででなみにこそ入れ

にも似ている。
合わせ技なのだろう。

藤原通方という人はよくわからんが、定家と同じ時代の人だったようだ。
通方の歌を指摘した人はいるようだが、
土佐日記に言及した人はいないように思う。