[百人一首](/?p=14380)、
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[定家私撰集](/?p=14518)などの続きです。
定家の私撰集と百人一首を比較してみた結果を[表](http://tanaka0903.net/libroj/teika_private_selections.pdf)にしてみた。
間違いもあるかと思うがだいたいの傾向はつかめると思う。
ここで言えることは、小倉百人一首もしくは百人秀歌で定家による選と考えて問題ないものは、
天智天皇
> 秋の田の かりほのいほの とまをあらみ 我がころもでは 露にぬれつつ
柿本人麻呂
> あしひきの 山鳥のをの しだり尾の ながながし夜を 独りかもねむ
文屋朝康
> 白露に 風のふきしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける
在原行平
> たち別れ いなばの山の 嶺におふる 松としきかば 今帰りこむ
小野小町
> 花の色は うつりにけりな 徒らに 我が身世にふる ながめせしまに
壬生忠岑
> 有明の つれなく見えし 別れより あか月ばかり うきものはなし
紀友則
> ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花のちるらむ
恵慶
> 八重むぐら しげれる宿の さびしきに 人こそみえね 秋はきにけり
坂上是則
> 朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに 吉野のさとに 降れる白雪
清原元輔
> 契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 浪こさじとは
この程度である。
これに対して定家が選ぶ可能性がほとんどないのは、
藤原興風
> 誰をかも 知るひとにせむ たかさごの 松も昔の 友ならなくに
陽成院
> 筑波ねの 峰より落つる みなのがは 恋ぞ積もりて ふちとなりぬる
源融
> みちのくの しのぶもぢずり 誰ゆゑに みだれそめにし 我ならなくに
紫式部
> めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲隠れにし 夜半の月かな
源宗于
> 山里は 冬ぞ寂しさ まさりける 人目も草も かれぬと思へば
藤原敦忠
> あひみての のちの心に くらぶれば 昔はものを 思はざりけり
平兼盛
> しのぶれど 色に出でにけり 我が恋は ものゃ思ふと 人のとふまで
藤原朝忠
> あふことの たえてしなくば なかなかに 人をも身をも 恨みざらまし
藤原定子
> よもすがら 契りしことを 忘れずば 恋ひん涙の 色ぞゆかしき
三条院
> 心にも あらで憂き世に 長らえば 恋しかるべき 夜半の月かな
高階貴子
> 忘れじの ゆく末までは かたければ けふを限りの 命ともがな
藤原道綱母
> なげきつつ ひとり寝る夜の 明くるまは いかに久しき ものとかは知る
能因
> あらし吹く みむろの山の もみぢ葉は 竜田の川の 錦なりけり
壬生忠見
> 恋すてふ 我が名はまだき 立ちにけり 人知らずこそ 思ひそめしか
藤原定方
> 名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで 来るよしもがな
藤原兼輔
> みかの原 わきて流るる いづみ川 いつ見きとてか 恋ひしかるらむ
藤原定頼
> あさぼらけ 宇治の川霧 たえだえに あらはれわたる 瀬々の網代木
藤原実方
> かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを
清少納言
> 夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも よに逢坂の関は 許さじ
赤染衛門
> やすらはで 寝なましものを 小夜更けて かたぶくまでの 月を見しかな
大江匡房
> たかさごの をのへの桜 咲きにけり とやまのかすみ 立たずもあらなむ
藤原義孝
> 君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ひけるかな
待賢門院堀川
> 長からむ 心も知らず 黒髪の 乱れて今朝は ものをこそ思へ
大弐三位
> 有馬山 ゐなの笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする
周防内侍
> 春の夜の 夢ばかりなる たまくらに かひなくたたむ 名こそ惜しけれ
藤原顕輔
> 秋風に たなびく雲の 絶え間より もり出づる月の かげのさやけさ
道因
> 思ひわび さても命は あるものを うきにたえぬは 涙なりけり
源国信
> 春日野の したもえわたる 草の上に つれなく見ゆる 春のあは行き
藤原公任
> 滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ
俊恵
> よもすがら もの思ふころは あけやらぬ ねやのひまさへ つれなかりけり
徳大寺実定
> ほととぎす 鳴きつるかたを ながむれば ただ有明の 月ぞ残れる
皇嘉門院別当
> なにはえの あしのかりねの ひとよゆえ 身をつくしてや 恋わたるべき
藤原長方
> 紀の国の ゆらのみさきに 拾ふてふ たまさかにだに あひみてしがな
殷富門院大輔
> 見せばやな をじまのあまの 袖だにも 濡れにぞ濡れし 色はかはらず
後鳥羽院
> 人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに もの思ふ身は
順徳院
> ももしきや 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり
藤原家隆
> 風そよぐ 奈良の小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける
藤原定家
> 来ぬ人を まつほのうらの 夕凪ぎに 焼くやもしほの 身もこがれつつ
九条良経
> きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣かたしき ひとりかも寝む
式子内親王
> たまの緒よ たえなばたえね 長らへば しのぶることの 弱りもぞする
慈円
> おほけなく うきよの民に おほふかな 我が立つそまに 墨染めの袖
寂蓮
> むらさめの 露もまだひぬ まきの葉に 霧立ち昇る 秋の夕暮れ
二条院讃岐
> 我が袖は しほひに見えぬ 沖の石の 人こそ知らね 乾く間もなし
飛鳥井雅経
> みよしのの 山の秋風 小夜更けて ふるさと寒く 衣うつなり
源実朝
> 世の中は 常にもがもな 渚漕ぐ あまのをぶねの 綱手かなしも
西園寺公経
> 花誘ふ あらしの庭の 雪ならで ふりゆくものは 我が身なりけり
こんなにたくさんあるのである。
明月記によれば天智天皇と家隆と雅経の歌は採ったことが確実なのだが、
家隆の歌は定家の趣味で言えば
> あけば又 こゆべき山の 峯なれや 空行く月の すゑのしら雲
であった可能性が高い。
雅経の歌に至っては私撰集には一つも採っていないので、どれが好みかはわからない。
定家が小倉山の麓、嵯峨野の山荘で選んだ、
いわゆる小倉百人一首の原型ともいうべきものが、
定家の私撰集と全然違う傾向で選ばれた可能性は低いと思う。
私は、今小倉百人一首と呼ばれているものは、
定家の趣味からはかなり離れて、自由に選ばれたものじゃないかと思っている。
誰が選んだかは特定できないが、
でも誰かが選んだ可能性があるとすれば、
定家の子の為家ではなくて、
西園寺公経か、九条良経の子女のだれか、或いはその周辺の人で、
特に順徳天皇に近かった誰かではなかろうか。
公経、良経はどちらも太政大臣である。
為家の趣味ともかなり違っていると思う。
たとえば良経の娘立子は順徳皇后で仲哀天皇の生母である。
立子の関係者が順徳院や後鳥羽院の歌を小倉百人一首に入れた可能性はあるだろう。
或いは続後撰集に採るように為家に運動したかもしれない。
などと考え出すと話はとたんに歴史小説めいてくるわな(笑)。
慈円も怪しいなあ。
その辺を小説仕立てにして一本書けそうな気もするが、
かなり地味な話になりそうだわな。
新勅撰の西園寺公経の歌があまりにも唐突に採られているし、
順徳院や後鳥羽院の歌に雰囲気が似てるのだよね。
慈円の歌も意味深だし。
九条良経はよほどの歌好きだったわな。
たぶん定家のパトロンみたいな人。
悪くもないが、そんな優れた歌ではないが定家はたくさん私撰集に載せている。
パトロンへの表敬か。
慈円もそんな歌うまくない。九条家のつながりだと思う。
そうね。九条立子あたりをヒロインにして、その遺言で、定家の名で、
百人一首に仕立て、続後撰集に順徳院の歌を採るよう為家に運動したとかいう話にできなくもない。
でもたいへんだよ。調べなきゃいけないことたくさんあるからなあ。
百人一首だけじゃない。承久の乱の話書かなきゃ。
となると北条泰時も絶対書きたくなるし、ねえ。
でも誰も読みそうにないなあ。
続後撰集成立の頃の執権は北条時頼かあ。
泰時はいかにして時頼を育て教育したか。
しぶいねえ。
話がしぶすぎて泣ける。
書こうと思えば書けるが、たぶんものすごい長編になるし、
おそらくその十倍ぐらいの解説を書かないと読めない。
つまり読むことが不可能な小説になる。
定家は、父俊成の歌は別として、身内の歌は私撰集に採らない傾向がある。
雅経は門弟だし、
実朝はその友人、
式子内親王とも親しかったはずで、
自分の別荘か義理の弟の別荘かはしらんがそういう私的な家の障子に書く歌であるから、
身内の歌も採った可能性はある。
だが、どの歌を採ったかはまるでわからん。
雅経も実朝も式子内親王も定家はそれらの歌を選んだことがないからだ。
定家が天智天皇のあの凡庸な歌を貴ぶのは藤原氏であるからだ。
たぶん藤原一族の祭祀に用いられた歌なのではなかろうか、アレは。
藤原氏の権力はもとをたどれば大化の改新。
天智天皇と中臣鎌足で蘇我氏を滅ぼしたクーデターだ。
だから天智天皇は藤原氏にとっては特別な意味がある天皇。
古歌を適当に見繕ってわざと牧歌的な、いかにも帝王調な歌を作った。
> 高き屋に のぼりて見れば 煙立つ 民のかまどは 賑わいにけり
みたいな歌が欲しかったんだと思うよ。
天智天皇の真作である可能性はほとんどまったくない。
まあだから藤原氏でなくて例えば紀貫之だったら百人一首はあんな構成には絶対ならなかっただろう。
宇多天皇や村上天皇もどちらかと言えば藤原氏に冷淡だった。
醍醐天皇はまだ比較的許せたので定家は私撰集に採っているのかもしれんよ。
天智天皇に始まり順徳院に終わるこの小倉百人一首というものは、
順徳院縁故の藤原氏の誰かが作ったものであろうと考えて、
およそ当たっていると思う。
定家、為家、為氏、為世と続いたいわゆる歌道の家である二条派、
というよりも、より順徳院に近かった摂関家、つまり九条家か西園寺家であったろうと、
今は推定しておく。
百人一首には採られてないが、定家が好きな歌というのも興味ぶかいですよね。
柿本人麻呂
> さを鹿の 妻どふ山の 岡べなる わさ田はからじ 霜はおくとも
在原行平
> さがの山 みゆきたえにし せり河の ちよのふるみち あとはありけり
在原行平
> わくらばに とふ人あらば すまの浦に 藻塩たれつつ わぶと答へよ
伊勢
> 思ひ川 絶えず流るる 水のあわの うたかた人に あはで消えめや
元良親王
> 逢ふことは とほ山鳥の かり衣 きてはかひなき 音をのみぞなく
源経信
> きみが世は つきじとぞ思ふ 神風や みもすそ川の 澄まむかぎりは
源等
> 東路の さのの船橋 かけてのみ 思ひわたるを 知る人のなき
藤原道信
> 限りあれば けふぬぎ捨てつ 藤衣 はてなきものは 涙なりけり
和泉式部
> もろともに 苔の下には 朽ちずして うづもれぬ名を 見るぞかなしき
源俊頼
> 思ひ草 葉ずゑにむすぶ しら露の たまたま来ては 手にもたまらず
源俊頼
> なにはえの もにうづもるる たまがしは あらはれてだに 人をこひばや
西行
> 秋篠や 外山の里や 時雨るらむ 生駒の岳に 雲のかかれる
藤原俊成
> 如何にせむ むろの八島に 宿もがな 恋の烟は 空にまがへむ
> 立ち帰り 又も来てみむ 松島や 小島のとま屋 浪にあらすな
> 袖の露も あらぬ色こそ 消え帰る うつればかはる 歎きせしまに
> 桜さく 遠山鳥の しだりをの ながながし日も あかぬ色かな
読人不知
> 名取川 瀬々の埋もれ木 あらはれば 如何にせむとか あひみそめけむ
> 秋風に さそはれわたる 雁がねは ものおもふ人の やどをよかなむ
なんか、意外なんだよね。
定家の知らない側面を見たっていうか。
「ものおもふ人のやどをよかなむ」とか「たまたま来ては手にもたまらず」とか
「生駒の岳に雲のかかれる」とか。
えっ、定家って実はそういう素朴な剽軽な感じなのが好きなのかっていう。
小倉百人一首と全然違う。