柳田国男『故郷七十年』の続き。
「史学への反省」という文で
> 日本の史学が遅れてゐることの理由の一つは、漢字を憶えることが史学に入るための困難な関門になつてゐることであると思ふのである。漢字を憶えるために苦労をするため、やつと他人が書いたものを理解できる段階にまで至つた時には相当の年齢に達してをり、そこから自力で考へ、自分のものを創り出すところまでにはなかなか到達しないのである。漢字を制限してみても、この悪弊は打破できないのであつて、まして外国文献をそのままあてはめるくらゐのことで日本の史学の将来が解決するものとは思はない。
などと書いてあって、
柳田国男という人が、日本の古典というものに非常に同情的であると同時に、
これをなんとかしなければならないと考えていることがわかる。
しかし史学とか古典というものは漢字があろうとなかろうと、日本だろうと海外だろうと、
「他人が書いたものを理解できる段階にまで至」るまでには相当な年月がかかるものであり、
従って若者にはなかなか独自研究はできぬものである。
それが自然科学、とりわけ数学などとは違うところだ。
逆の言い方をすれば、かの早熟な柳田国男ですらそうなのであるから、
凡百の若者が、史学や古典などがわかったようなことを言うのは、ただの勘違いに過ぎないということだ。
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