新続古今集

21代勅撰集の最後、『新続古今集』の仮名序に

> しかるに前中納言定家卿はじめてたらちねのあとをつぎて、新勅撰集をしるしたてまつり、前大納言為家卿また三代につたへて続後撰をえらびつこうまつりしよりこのかた、あしがきのまぢかき世にいたるまで、ふぢ河のひとつながれにあひうけて家の風こゑ絶えず、

とあり、これは『虚構の歌人』でも指摘したのだが、
勅撰選者が三代世襲したのは承久の乱という非常事態があったためで、
定家はもっとも幕府寄りの歌人であったから、俊成を継いで独撰したのである。
また為家ももっとも幕府寄りの歌人であったから、定家を継いで独撰した。
このことが歌道を硬直させたのは極めてなげかわしい事態であったが、
むしろこのことによって、
歌道の家の世襲というものが初めておこり、
それこそが定家の最大の功績なのである。
定家の偶像は「血統」「家」というものを何よりも重視する中世人に必要とされたものだったのだ。
それは「天皇家」「摂関家」「将軍家」に続いて日本人が発明した「歌道の家」というものなのだった。
為家は歌はうまいが何か独創的な歌人というわけではなかった。それもまた世襲ということに都合がよかった。

これに反発した(というより分岐しようとした)のが為家の息子の京極為兼だったが、
彼は後継者を残すことに失敗した。そして血筋を残すことに成功した二条為世から二条派が残ったのだ。

今日の私たちから見れば馬鹿げてみえるが、
しかし現代人ですら定家崇拝者はたくさんいて、彼らは無意識のうちに血統というものをありがたがっている。

> そもそも参議雅経卿は新古今五人のえらびにくははれるうへ、この道にたづさひてもすでに七代にすぎ、その心をさとれる事もまた一筋ならざるにより、ことさらに御みことのりするむねは、まことに時いたりことわりかなへる事なるべし

これは新続古今集選者の飛鳥井雅世が雅経から七代目だと言いたいのだ。
飛鳥井家は為家と縁組みして二条家を創始した。
すなわち新勅撰集から新続古今集までは、二条家が勅撰ということを独占していたのであり、
そうでない場合にも為兼などの為家の子孫が選者となったのである。

応仁の乱によって勅撰が途絶したのはまさにこの二条家、二条派の責任だ。
彼らの歌道が完全に行き詰まってしまったからだ。
足利氏も疲弊しきっていた。
足利将軍家は和歌が大好きだったがこの頃にはもうお金が続かなくなっていた。
しかし足利氏がパトロンとなることもなく、二条家がいなくとも、
日本には元気な武家が生まれつつあった。
武士も良い歌を詠むということは『虚構の歌人』で泰時などの例を見てもらった通りだ。
しかし細川幽斎など(彼も足利氏だが)歌の才能があるにも関わらず、
いつまでも二条派に追随して古今伝授などにこだわったのはおろかとしか言いようがない。
太田道灌は良い歌人だった。
明智光秀や織田信長などは連歌をやっていたのだから、勅撰集くらい作っておかしくない。
後水尾天皇の時代になっても勅撰集が復活しなかった理由は、今もよくわからない。

ところで「ふぢ河」というのは関ヶ原を流れる川のことらしいのだが、なんで「ふぢ河」なのだろう。

> 美濃国 関のふち河 絶えずして 君につかへむ 万世までに

『古今集』あそび歌。まあ、単なる歌枕だわな。

> 行く水の あはれと思へ つかへこし 一つ流れの 関のふぢ河

『続後拾遺集』1125 入道前太政大臣。誰だよ(西園寺公経か?)。
意味は、歌道の家を一筋に守って仕えてきました、と言いたいわけだ。

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